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三つに折れた髪飾りと変わらない使命と決意を握りしめ、ユカリは気持ちを切り替える。
もう一つ、モディーハンナに聞いておかなくてはならないことがある。防呪廊、呪い除けの結界の視線を放つ偶像に関してだ。
偶像の中に、グリュエーの知る護女ネガンヌによく似た姿のものがあったそうだ。不快な想像は避けられない。よほどの才に恵まれた彫刻家の手によるものでないならば、それはあまりにも真に迫ったまるで人をそのまま凍り付かせたような出来栄えの彫像だった。
ユカリが問いかける前に未知の現象を観察するようなモディーハンナの視線に気づく。グリュエーとグリュエーに変身したレモニカを見比べている。
「見違えましたね、レモニカさん」
「違いが分かりますの!?」とレモニカは声を裏返らせる。
「ええ、今の反応で」
レモニカの舌打ちをユカリは初めて聞いた気がした。舌打ちまで上品な音色な気がする。
モディーハンナはもう一人にも目を向ける。
「それに雰囲気が変わりましたね、エーミさん。寺院を抜け出してから、何かあったんですか?」
「色々あったよ。寺院を出た後も、入る前も」グリュエーは受け流し、そして率直に尋ねる。「それより聞きたいんだけど、あの偶像はモディーハンナが造ったの?」
「知り合いでも見つけましたか?」
ユカリの方がモディーハンナに掴みかかりたくなるが、堪えて二人の会話を見守る。最も不安に駆られているだろうグリュエーが冷静さを保っていたからだ。
「護女を素材に使ったの?」
「知りません」とモディーハンナはつれなく即答した。「あれらは何年も前から聖女アルメノンの直接の主導で計画され、指し示す氏を中心に研究が進められていたものだそうです。もちろんその力の概説は聞きました。今回の任務に必須の魔術ですからね。でも効果以外は私の目と手で検めたわけではありません」
「キーグッドって誰?」とユカリとグリュエーは声を揃える。
「たぶん私といるところを見かけたはずですよ。魔法使いのご老人がいたでしょう? たしかユカリさんの同郷の方ですよ」
ユカリは否む。「嘘。狭い村だから各家系はあらかた把握してる。キーグッドなんて聞いたことがないよ」
「ああ、すみません。ミーチオン都市群ということです」
「広すぎるよ……」
唐突な見当外れにユカリは思わず笑みを零してしまい、直ぐに真面目な表情に戻す。
モディーハンナもまた咳払いをして仕切り直す。
「そういうわけなので、防呪廊についてお知りになりたいなら、またビアーミナ市に戻った折にでも彼に尋ねてください。答えてくれるのかは分かりませんが」
「分かったよ」とグリュエーは素直に頷く。「こっちも疲れてるし、事を荒立てるのは今度にする」
「おっかないですね。ところで私からも聞いていいですか?」答えを待たずにモディーハンナは続けて問う。「この曇天はどなたの魔法ですか? いったい何のために?」
救済機構の中でも傑出した魔術の才能を有するモディーハンナにかかれば、少なくとも誰かの魔法の仕業だということは雲の様子を見ただけで分かるのだった。ユカリにはただの緑っぽい曇りにしか見えなかった。
「どこから話せばいいやら」とユカリは抑揚を欠いて呟く。
空から光の糸が降ってきて、それを浴びたメーグレアが変身したこと。空を雲で覆えばそれが止んだこと。それをグリュエーが成している、ということ。
「そもそも話す必要がありませんわ。光の糸も機構の仕業かもしれませんもの」レモニカは刺々しく言い放つ。
「それはないよ」とグリュエーが否定する。「こんなにしてやられてるんだから」
グリュエーの嵐が訪れる前から機構の僧侶たちはメーグレアの爪と牙と酸の血に襲われていた。それは『爛れ爪の邪計』によって祟り神と化したメーグレアだが、ベルニージュたち曰く、衣を纏ったメーグレアよりずっとましだったそうだ。メーグレアを制御できるのならば無用な犠牲だ。
「それに」とグリュエーは付け加える。「魔導書以外のことなら協力、情報共有くらいはできるかも」
その提案にユカリもレモニカも納得する。まだ魔導書ではないと決まったわけではないが、聖獣メーグレアの着せられた衣と装飾品の魔導書が生み出す衣とでは何かが違った。何よりメーグレアのように衣に突き動かされるなどということは今までなかった。
「ベルニージュさまの魔法で雲を呼び寄せたのですが……」とはったりから始めて、全てを見聞きしているレモニカが代表して事情を説明する。
「なるほど。光の糸ですか。確かに私たちの仕業ではありませんね」モディーハンナは空々しい口調で答える。「しかしそれほどの魔術となるとシシュミス教団には難しいでしょうし、大王国だとしても指折りの魔術師でしょうね」
ユカリは特に他意なく尋ねる。「モディーハンナは? 救済機構最大の魔法使いなんでしょ?」
救済機構、恩寵審査会総長はにやりと笑みを浮かべて答える。「私は所詮ただの天才ですので」
言っている意味はよく分からなかったが答えになっていないことは間違いない。
しばらくして神殿を囲む聖なる柱の向こう、檻の中の騒動は落ち着いたようだった。シシュミス教団の信徒たちは血みどろの獣の如き変身を解き、地に伏せてメーグレアに許しを乞うていた。ある者は謝罪の言葉を述べ、ある者は祈りの言葉を捧げている。それぞれが思い思いに言葉を吐き続けるので騒めきとなって神殿の敷地に広がっていた。メーグレアは芝の上に大きな体を横たえて、太い尻尾を揺らしながらあくびをし、仔を見守るように目を細めて信徒たちを眺めている。あるいは食事を前に品定めしているようにも見える。信徒の言葉に答えるわけではないが、騒めきが鎮まりかけると尻尾をぴしゃりと鞭のように撓らせ、すると信徒たちは再び言葉を紡ぎ出すのだった。
鉄格子の役割を持つ柱の向こうで、やはり神官長マイサがメーグレアに背を向けることを怯えながらも進み出て代表して答える。はたから見るとまるで檻の中の老婆を虐めているかのようであることに気づき、ユカリは居心地の悪さを感じる。しかししっかりと気を引き締める。マイサたちはあの禍々しい姿で一体何をしようとしたのか、考えるだに恐ろしい。
「確かにこの変身は教団の編み出した儀式によるものです。私たちはこれを克服の祝福と呼び、授かった者を克服者と呼んでいます」
「つまり呪いの克服者ってことですね?」とユカリは確認する。
マイサはそれがゴアメグの土地に古くから伝えられる礼儀作法であるかのように静かに深々と頷く。
果たしてあのような姿になることを呪いの克服と言えるのだろうか。ユカリには疑問だったが、ずっと呪いに怯える生活に比べれば、あるいはずっとましなのかもしれない。少なくとも呪いと無縁に生きてきた人間が軽々しく否定すべきではないだろう。
「それで、どうして私たちを襲おうとしたんですか? 誰かの命令ですか?」
あの変身がただの呪い除けならば、まんまと門を開いたユカリたちに危害を加えようとした理由は別にあるということだ。誰かの命令であったなら、それはハーミュラーしかいないのだが。
「分かりません」とただ一言でマイサは答えた。
ふざけた答えだとユカリは思ったが、マイサの真剣な面持ちと声色に嘘は無いようにも思え、当惑する。背後で骨の芯まで震えさせるような唸り声を漏らすメーグレアに怯えている者たちが嘘をつけるとも思えない。
「魔術の副作用じゃない?」とベルニージュが助け舟を出す。「加害衝動。あくまで仮説ね。お互いに襲わない辺り克服者以外に対して攻撃したくなるのかも。初めからそういう魔術って可能性もあるけどね」
「あるいは何者かに、つまりシシュミス教団の上層の……」まだるっこしい言い方にジニ自身が苦笑する。「まあ、要するにハーミュラーに操られていたんじゃないのかい?」
メーグレアの檻付き神官長マイサは肯定も否定もしない。分からないのだ。
「そうですね。分かりました。信じるわけではありませんが、この場で疑ったところで事実が分かるわけでもないですし、その話が本当なら無闇に責めようとも思えません」
ふと緑の光芒が差していることに気づく。レウモラク市に晴れ間が出始めた。
「ごめん、ユカリ」グリュエーが申し訳なさそうに事態を知らせる。「短時間ならともかく、分けた魂が近くにいるとすぐに戻ってきちゃうんだ。魂が戻って来たらまたすぐに送り込めるけど、ちょっと時間がかかるかも」
そうだった。ユカリもまた忘れていた。
「離れてください!」とマイサたちに指示する。「メーグレアが暴走する可能性があります! 早く遠くへ!」
訳も分からずにマイサたちが逃げていき、メーグレアは覚悟を決めた様子で天を仰ぎ、その時を待つ。しかししばらくしても光の糸は降ってこない。
雲が晴れていくにつれ、ユカリは別の異変に気づく。緑の太陽の光がいつもより強くなっている。それに今まで八つの太陽が各方向から光を差し込み、生み出される影によって描かれていた奇妙な風景の違和感が失われる。完全に雲が晴れ、再び呪われた緑の空が現れた時、その変化に気づく。緑の太陽は相変わらず八つあるが、その全てが中天に集まっていた。
と、同時にユカリは可聴域を越える悲鳴をあげ、空と自身の間を隔てようと身を守るように反射的に両腕をかざす。
ベルニージュが光から隠すように、ユカリを庇うように立つ。しかし今見た光景がユカリの目の奥に焼き付いていた。
空に巨大な、視界を覆わんばかりの蜘蛛が張り付いていた。空よりも遠く、星々の世界にありながら、あまりにも大きく、距離感が掴めず、まるで目の前に存在しているかのように見えた。黒々とした胴体は空に穿たれた巨大な穴のようで、八つの長い脚は銀河の如く八方に伸びている。そして八つの緑の太陽だった巨大な蜘蛛の目玉がじっとユカリを見下ろしていた。