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昼が過ぎた時、父上の執務室に呼ばれた。ソファにはキャスリンが座り空色の生地に針を刺している。それを見つけ駆け寄り膝をついて空色の瞳を見つめる。
「キャスリン!体は?つらくないか?」
空色の瞳が僕を捉え微笑んでくれる。
「カイラン、聞いた?身籠ったの」
刺繍枠を脇に置いてまだ平らな腹を撫でている。
「うん。家族が増える」
「ええ、楽しみね」
父上は執務机で書類を捲り、こちらなど気にしていないようだ。
「会いたいと聞いたわ、何かあったの?」
理由がなければ会えないのか。
「会いたかった」
そう言ってもキャスリンは微笑みを崩さず僕を見ている。
「悪阻だろ?食堂で会えないから、笑顔が見たかったんだ」
「そうなの?用は済んだ?」
キャスリン…頼むから僕を見てくれ。父上を気にせず話したい。また腹に触れたいんだ。
「また会いに来る。いい?」
「来るな」
「父上…手も髪も触れない。それならいいだろ」
こんなに早く二人目を授かるとは思わなかったろ。父上の機嫌が悪くならないように我慢してるんだ、会うくらい許せよ。
父上は椅子から立ち上がりキャスリンの座るソファの後ろに回り、彼女の脇に手を差し込んで持ち上げ僕から離す。
「触れていい」
父上はキャスリンを腕に抱き僕に告げる。
この状態なら触れていいってことなのか…どういう姿だよ。キャスリンからため息が聞こえる。
「カイラン、立って」
キャスリンの言葉に立ち上がると小さな手を僕の頭に乗せ撫でた。
「よくわからないけど、手で髪に触れたわよ」
キャスリン…そうじゃないんだ。
「約束は果たしたな」
「父上!」
「俺の名を勝手に使ったろ?」
それは!王太子を呼ぶために仕方なく借りたんだ。気にしていないかと思ったが、それを理由に反故にする気だったのか。ゾルダークのためじゃないか!
「もういい。キャスリン、悪阻が終わったら食堂に顔を出してくれ」
父上の腕に抱かれながら頷いた。手に触れて髪に口を落としたかっただけだろ。なんて狭量なんだ。
「父上、約束は守れよ、落ち着いたらまた来る」
まだ顔色はよかった。レオンのときは一月近くつらそうにしてた…
そろそろ奴に女を宛てがうか。だがこの邸に忍ばせるのも面倒だな…倶楽部の帰りか。どう反応するか…
「閣下、気分がいいの、歩きたいわ」
抱き抱えた空色が思考する俺の意識を戻す。そのまま花園へ向かう。日傘を差して空色を立たせ曲がりくねった歩道を二人で歩く。
「奴に女を与えていいか?」
「面倒な人は嫌だわ」
だよな、やはり金で買った女がいいが、それでも奴を見て欲を出せば始末しなくてはならなくなる。娼婦を一人買うか。金毛を探せばいるだろ。
繋いだ手が離される。空色はしゃがみこみ歩道に向かってえずく。小さな背を撫で治まるのを隣で屈んで待つ。
「…横になりたいわ」
日傘は置いて空色を抱いて持ち上げる。体からは力がなくなり俺の胸に頭を預け目蓋を閉じている。この時期だけは俺もつらくなる。
やることは沢山ある。貴族院からあがる書類や領地の問題、収益、支出、邸の管理。領地のものは奴にかなり回したが最終確認は俺がしなければならない。ソーマは溜まるばかりの書類にいら立つだろうが、今は空色が優先だ。窓に布を掛け遮光した寝室に横になる。
「ハンク…お仕事」
「ああ」
薄い茶の頭を腕に乗せ向かい合って寝台に横たわり腕の中の愛しい存在を堪能する。離れたくないがこれが気にしてしまうな。眠る時間を削るか…長く邸を空けたからな。
「俺は隣にいるからな、メイドを呼ぶか?」
薄い茶の頭が頷く。それに口を落とし撫で、布を掛けてから執務室に向かう。ベルを鳴らすとソーマが入る。メイドに寝室へ行くよう命じて椅子に座り書類を捲る。
「奴に娼婦を与える」
「カイラン様は嫌がりますよ」
「奴は邪魔だ」
あれに会いたいなど、まだ言っているからな。好みの女を近づかせれば満足するかもしれん。
「ハロルドに探させろ、次の倶楽部の帰りに仕込め」
抱けるようなら、あの秘薬を飲ませるか。奴の種などもう不要だ。
この時期の私が近くにいるとハンクの仕事が滞ると思っていた。日中は私の散歩に付き合ってくれたり、眠るまで側にいてくれたり世話をしてくれるけど、ソーマに聞いても仕事が溜まっているでもなくて意外だった。ハンクが食堂で夕食をとる間に寝室でスープを食べて待つ日が続く。
王都の邸に戻って数週間が経ち、ある真夜中に目を覚ますと隣に大きな温もりがいないことに気づいた。寝室は月明かりだけの暗闇。手を伸ばしても見つからない。周りを見回すと床に光の筋がある。執務室へ続く扉が少し開いていた。耳を澄ますと話し声が私に届く。ガウンを羽織り扉に近づくとハンクとハロルドが仕事の話をしている。私が寝付いたのが夜更け、数刻は経っている…話の感じから急な用ではない。そこで思い至る。ハンクは夜中に仕事をしている。共にいる私が気にしないよう仕事を溜めないのね。無理はしてほしくないけど、私が言っても聞かないわね。
私はハンクに気付かれないよう寝台に戻る。邪魔をするべきじゃない。ハンクが私といるためにこうすると決めたのなら何も言わない。私のために動いてくれてる。私に向けるハンクの想いは深い。レオンの邪魔になると言えばカイランさえ消してしまいそう。私の願いは全て叶えようとするのがわかる。カイランと婚姻した日、外れくじを引いた気持ちがした。お父様に文句を言いたいと思ったくらい。それが今は生きてきて一番満たされてると感じてる。私は幸福な人生を生きてるわね。望む人から望まれてる。貴族に生まれたのに私は出会えた。
掛け布にくるまり目を閉じる。早くこの時期を終わらせたい。
「無理ですよ」
「苦労して探したんだ」
高級娼婦の中でも未熟でもなく熟練でもない、借金代わりに娼婦になった元貴族令嬢など少ないのに見つけた。旦那様からの命令通り髪も金毛に近い娘だ。俺からカイラン様に効くだろう台詞も覚えさせた。
「元令嬢が弱々しく助けを求めたら落ちるだろ?」
仕事をしなければ折檻にあう、一刻だけでも…と泣きつかれれば絆されるんじゃないかと思うが。倶楽部から邸へ戻ろうと馬車に乗り込んだら美しい娘が抱きつき…上手くいかなければ、そろそろお帰りだな。何処かに連れ込んでいたら騎士が報せに来る。
「馬車か騎士か。賭けるかトニー」
「馬車に金貨一枚です」
高額だな、自信がありそうだ。カイラン様はお若い。目の前で女が脱いだら耐えられないだろ。
「騎士団と使用人に若い者を何名か預けたとか…」
「ああ、上手く育てばいいが」
金がなく学園に通えない貴族の三男に孤児院を巡り目をつけた敏い子供、辺境から連れてきた少年など素質を見抜くためにも過酷な環境に置き逐一様子を聞いている。数年で何人残るか…
「ハロルドさん…戻りましたよ」
扉の前で待っているとゾルダークの馬車が近づいてきた。
金貨一枚取られた。駄目か、好みだと思ったがな。停まった馬車の扉が中から開き憤怒の顔でカイラン様が下りてくる。
「トニー!お前!知っていたのか!?」
カイラン様は文字通り、トニーに掴みかかった。襟首を掴まれたトニーは俺を睨み、なんとかしろと目が言っている。
「お気に召しませんでしたか」
俺の言葉に険しい顔を向け、掴んだ襟首から手を離し詰め寄ってくる。
「ハロルド…貴様…父上か」
ここまで怒ると旦那様に見えてくるな。
「私が人選を間違えました」
「やめろ、二度と近づけるな」
旦那様の命令ならばまた探さなければならない、諦めて遊んでくれないだろうか。
「素人の方が好みですか?」
素人は後始末が面倒なんだが、好みならば仕方ない。
「僕がキャスリンに会いたいと言ったせいだな…違うか?」
その通りなのだが答えられない。
「女はいらない。用意しなくていい。欲しければ自分で見つける」
それが無理そうだから仕込んだのに…
「父上に伝えろ、会いたいなど言わないから女を仕込むなと」
顎に赤い紅をつけて怒る顔に向け頷く。報告のとき伝えるか。
「カイラン様、女に手荒な真似は?」
「抱きついてきたぞ!馬車から蹴り落とした!」
高い金を払っているから文句は言わないだろうが女性を乱暴に扱うとは意外だったな。
「カイラン様…顎に紅が…」
トニーの言葉に顔は嫌悪感を滲ませ、袖で顎を擦る。これは、女に対して興味がないとか初でもなく悪感情を持っているか。スノー男爵夫人のせいか、ならば金毛は失敗だ。薄い茶の髪を探すべきだった。
「カイラン様、女性は苦手ですか?」
俺の質問に険しい顔を向ける。
「…ああ、裏を読んでしまう」
カイラン様は愚かだが頭は悪くない。スノー夫人で学んだことが活かされてしまったか。女を送り続ければ思い詰めてキャスリン様を連れて他国にでも行こうとするかもしれない。暫く放っておくか。
「旦那様には伝えます」
カイラン様は一瞥して足早に上階へと向かっていった。
キャスリン様に裏などないからな。貴族の令嬢に生まれながら驚くほど欲がない。あの方と比べたら欲丸出しの娼婦は受け付けないか。困ったな、そんな女は他にいない。