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第17話 氷と情念の交錯
翠蓮宮の空気は、今日も静謐な蓮の香りに満ちていた。
案内された客間で、私は薄茶色の水面を見つめる。
対面に座る翠蓮様は、完璧な「白百合の微笑み」を浮かべていた。
「――それは出来ないわ」
鈴を転がすような、涼やかな声。
彼女は私が持ちかけた紅玉様への協力要請を、優雅にお茶を勧めながら切り捨てた。
「私が彼女を助ける理由はないもの。今そうしてしまうと、後宮の均衡(バランス)を大きく崩してしまうわ」
極めて論理的。一切の隙がない。
その大人の女性としての完璧さは、分厚い氷の壁のように私を弾き返した。
だが、私は引き下がるわけにはいかない。
私は出された茶には口をつけず、淡々と事実を突きつけた。
「紅玉様は意識を失う直前、陛下ではなく、翠蓮様の名を口にしました」
ピクリ。
翠蓮様の、茶器を持つ白い指先が止まった。
「これを陛下に報告すれば、あなたに真っ先に疑いの目が向くでしょう」
「……」
沈黙。
私はさらに踏み込む。死化粧をするときの、解剖用のメスを突き立てるように。
「それに。もしこのまま亡くなれば、遺体を隅々まで調べ、清拭するのは私になります」
翠蓮様の聖女のような笑顔が、ほんのわずかに歪む。
「紅玉様が口にしなかった『あなたに対する痕跡』――臓腑の欠片か、あるいは肌に刻まれた秘密か知りませんが。それらを私が暴いて上に報告してもよろしいのですか?」
私は墨色の瞳で、目の前の完璧な女を射抜いた。
「死体になれば、隠し事はできません。もし隠したい真実があるのでしたら、手を貸してください」
カチャッ。
白磁の茶器が、乱暴に受け皿に置かれた。
室内の空気が、凍りつく。
完璧だった白百合の微笑みが、スッと消え失せた。
蓮の香りが薄れ、代わりに、重く冷たい情念のような気配が肌を撫でる。
肌が粟立つほどの、凍てついた眼差し。
「……暴いたところで」
地を這うような、静謐な声。
いつもの聖母のような温もりは微塵もない。
「あなたに、あの子の何が分かるというのかしら」
底知れない冷たさ。
同時に、得体のしれない切実で、重すぎる痛みの波。
私は息を呑んだ。彼女の瞳の奥に、昏く渦巻く重圧に当てられたからだ。
(これが、この人の本性)
ただの政治的な対立ではない。理屈を超えた、血を吐いてるかのような執着の残滓。
「……恐ろしい人ね、あなた」
氷のような視線が、私を頭から爪先まで値踏みする。
「でも、なぜそこまでして彼女を救おうとするのかしら?」
「……」
「皇帝の寵愛を受けるあなたにとって、筆頭側室の死は喜ばしいことのはずでしょう?」
当然の疑問だ。後宮の女なら、誰かの死は己の利益になる。
だが、私は後宮の女ではない。しがない死化粧師だ。
「死体は静かで美しいですが、生者は生きていてこその『見込み客』です」
「は?」
「現在、私の職場は満床でして。お客様の受け入れは困難です」
私は一切の嘘偽りなく、極めて実務的なトーンで答えた。
「無能な医官のせいで、これ以上不要な遺体を増やされるのは、実務上非常に迷惑なのです」
私の回答に、翠蓮様は完全に虚を突かれたように瞬きをした。
(防腐剤もタダではない。処理の手間もかかる。ましてや殺人などという不本意な死ならなおさら御免だ)
職人としての、心の底からのクレームだ。
「……くっ」
ふいに、翠蓮様の肩が震えた。
「ふふっ、あはははっ!」
彼女は顔を覆い、先ほどの冷たさが嘘のように、腹の底から笑い出した。
ひとしきり笑った後、彼女は目尻の涙を指先で拭った。
「……貴方のことが、少しわかった気がするわ」
その声には、微かな親愛の情が混じっていた。
どうやら、私の職人としての確固たる信念を嗅ぎ取ってくれたようだ。
だが。
「それでも、協力はできない」
翠蓮様の表情が、再び静謐な白百合に戻る。
「私には、私の守り方があるの」
今の揺さぶりでも動かせない。
交わらない道を見据えながら、私は静かに息をついた。
(……厄介ですね。生きている人間は、死体よりもずっと)
コメント
1件
翠蓮様の「白百合の微笑み」が剥がれて、初めて見えた凍てついた瞳の奥の情念、すごく印象的でした。綺麗なものの裏に重たい痛みを抱えてる感じがひしひしと伝わってきて……。主人公の「死体になれば隠し事はできません」って台詞も、職人としての矜持と実務的な冷静さが混ざってて痺れました。氷と情念が交錯するこの空気感、大好きです。続きが気になります🤍