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タイトル:境界まで百二十歩
村の中心にある給水塔から、ハルの家までは二百三十七歩だった。
学校までは百八十四歩。畑の端に立つ大きなイチジクの木までは三百十一歩。
そして、家の裏手から北へまっすぐ歩けば――境界までは、百二十歩。
「また数えてる」
後ろからミオの声がして、ハルは九十六歩目で振り返った。
「今、話しかけるなよ」
「なんで?」
「分かんなくなるだろ」
「何が?」
「歩数」
ミオは呆れたように眉を上げた。肩にかけた布袋から、採れたばかりの豆の葉が一本のぞいている。学校が終わったあと、二人は共同畑の手伝いをしていた。今日の仕事は支柱に伸びたつるを結び直すこと。先に終わったハルが、帰り道を少しだけ遠回りしたのだ。
「昨日も数えてなかった?」
「昨日は百二十一だった」
「じゃあ今日は道が縮んだら大発見だね」
「そういうことじゃない」
言いながら、ハルは元の場所へ戻った。
「九十六……九十七……」
「そこから続けるんだ」
「ミオが邪魔したから一歩戻った」
「細かい」
百を越えるころ、家々の屋根が背後に低くなった。
村の北側は畑が少ない。地面には短い草が広がり、その先に灰色の壁と金属の柵が延びている。柵の向こう側にも草木は見えたが、手入れされていないせいか、村の中よりずっと背が高かった。
百十七。
百十八。
百十九。
「百二十」
ハルは止まった。
目の前に境界があった。
見上げれば、柵は大人の背丈の倍以上ある。ところどころ蔓が絡み、上の方には錆びた細い線が何本も走っていた。
昔からそこにある。
だから、ハルにとっては給水塔や学校と同じ、村の景色の一つだった。
ただ一つ違うのは、誰も向こうへ行かないことだ。
「ほら。今日は百二十」
「昨日の一歩は何だったの?」
「歩幅じゃない?」
「それじゃ数えてる意味なくない?」
ミオが笑った。
ハルも笑い返しながら、柵へ近づいた。
境界のすぐ手前に、腰ほどの高さの古い柱が立っている。表面の塗装はほとんど剥げていた。ハルは前から、その柱に薄く残っている傷のようなものが気になっていた。
指で土をこする。
「何してるの?」
「これ」
汚れの下から、数字が現れた。
17。
「十七?」
ミオが横からのぞき込む。
「何の数字だと思う?」
「知らない」
「十七番目とか?」
「何の?」
「それが分からないから聞いてる」
「私に聞かれても」
ミオはしゃがんだまま柱を見たが、すぐ立ち上がった。
「帰ろ。遅くなるよ」
「ちょっと待って」
ハルはさらに一歩、柵へ近づいた。
向こうには道らしきものはない。草と低い木、その奥にもっと高い木々。空だけは村の上からそのまま続いている。
外には何があるのだろう。
そう思ったのは初めてではなかった。
けれど、真剣に考えたこともなかった。
外は危険だ。
村の外へ行ってはいけない。
物心ついたころからそう聞かされてきたし、わざわざ確かめようとする人もいなかった。
「ハル!」
突然、大きな声が飛んできた。
肩が跳ねた。
振り向くと、父のトウマがこちらへ歩いてくる。仕事用の灰色の上着を着て、腰には工具袋を下げていた。
「何してる」
怒鳴ってはいない。
それなのに、ハルはなぜか叱られたときより居心地が悪くなった。
「別に。歩数を数えてただけ」
トウマは二人ではなく、その背後の境界を見た。
「ここで遊ぶなと言ってあるだろ」
「遊んでないよ」
「同じだ。戻れ」
「でも、触ってもないし」
トウマの視線がハルの手元へ落ちた。
柱の「17」が露出している。
ほんの一瞬だけ、父の顔が固まった気がした。
「父さん、これ何?」
ハルが指差す。
「何が」
「十七。ここに書いてある」
「古い設備の番号だろ」
答えはすぐ返ってきた。
「何の設備?」
「知らん」
「父さん、設備の仕事してるじゃん」
トウマは息を吐いた。
「全部知ってるわけじゃない。いいから帰れ」
腰の工具袋が揺れた。その横で、金属が小さく鳴った。
鍵だった。
今使っている家の鍵とは違う。黒ずんだ大きな鍵が、細い輪に二本ついている。
ハルが見ていることに気づいたのか、トウマは工具袋を手で押さえた。
「ミオも。暗くなる前に帰りなさい」
「はい」
ミオは素直に返事をした。
ハルだけが境界を振り返った。
数字はもう土に隠れていなかった。
17。
たった二文字なのに、さっきまでより目立って見えた。
夕食は豆と根菜の煮込みだった。
ユイが診療所から持ち帰った乾燥薬草の匂いが服に残っていて、向かいに座ったナナが鼻をつまんでいる。
「お母さん、今日くさい」
「ナナの薬を作ってる人にも同じこと言える?」
「言わない」
「じゃあ、お母さんにも言わない」
ナナは口を尖らせた。
ハルは煮込みを口に運びながら、父を見た。
トウマはいつも通りだった。
トウマはナナに野菜を残すなと言い、ユイと明日の仕事の話をしている。
昼間のことなど気にしていないように見える。
だから余計に、ハルは聞きたくなった。
「父さん」
「ん?」
「境界の外って、何があるの?」
トウマの箸が止まった。
ほんの一瞬だった。
「急にどうしたの?」
ユイが尋ねる。
「今日、境界まで行ったから」
「また?」
「またって何だよ」
「この前も近くまで行ってたでしょ」
トウマは煮込みを飲み込んだ。
「何もない」
「何もないって?」
「何もないは何もないだ」
「草とか木は見えるよ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「ハル」
ユイの声が少しだけ低くなる。
食卓の空気が変わったことはナナにも分かったらしい。煮込みをすくう手を止め、父と兄を交互に見ている。
トウマは怒らなかった。
「村の外は危険だ。学校でも習ってるだろ」
「何が危険なの?」
「外は外だ。行く必要はない」
答えになっていない。
ハルはそう思ったが、それ以上は聞かなかった。
父の顔が、境界で「17」を見つけたときと同じに見えたからだ。
食後、ハルは共同水場から戻る途中でミオを見つけた。
ミオは家の前で母親と豆を選別していた。
「百二十歩くん」
「その呼び方やめろ」
「何?」
「父さんに聞いた。十七のこと」
ミオの手が止まる。
「何だって?」
「古い設備の番号だって」
「じゃあ解決したじゃん」
「父さん、知らないって」
「設備の人でも全部は知らないでしょ」
「でもさ」
ハルは少し声を落とした。
「俺が十七を見せたとき、父さん、変だった」
ミオは豆を一つ籠へ落とした。
「変って?」
「なんか……知ってるのに知らないって言ったみたいな」
「それ、ハルがそう思っただけじゃない?」
「たぶん」
「じゃあ証拠なし」
あっさり言われ、ハルはむっとした。
「ミオは気にならないの?」
「十七はちょっと気になる。でも、ハルのお父さんが嘘ついたかどうかは別」
ミオらしい答えだった。
「じゃあ、何だったら証拠になる?」
「知らない。もう一個同じ数字を見つけるとか?」
「もう一個?」
「設備番号なら、同じ番号ばっかりあるの変でしょ」
ハルは昼間の柱を思い出した。
境界は長い。
あの柱以外にも何かあるかもしれない。
「明日――」
「行かないよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
ミオの母親が「ミオ」と呼んだ。
「はーい」
ミオは返事をしてから、ハルを見る。
「境界まで行くなら私は知らないからね」
「分かった」
「絶対分かってない」
家に戻ると、ナナが床に腹ばいになって絵を描いていた。
村の絵だった。
四角い家。
畑。
給水塔。
その上に大きな青い空。
紙の端には灰色の線が引かれている。
「これ境界?」
「うん」
「こっちは?」
ハルが線の向こう側を指差す。
ナナは首を傾げた。
紙の外側には何も描かれていない。
「外」
「外に何がある?」
「知らない」
ナナは少し考えてから聞いた。
「ねえ、お兄ちゃん。外って名前あるの?」
「名前?」
「村は村でしょ。外は?」
ハルは笑った。
「外は外だろ」
「変なの」
「何が?」
「だって、いっぱいあるかもしれないじゃん」
ナナはそう言って、紙の端に小さな丸を描き始めた。
ハルは返事をしなかった。
窓から北を見る。
家から境界までは百二十歩。
たったそれだけしか離れていないのに、その向こうに何があるのか、自分は一つも知らない。
知らなくても、これまでは困らなかった。
その夜、ハルはなかなか眠れなかった。
原因は「17」だと思った。
目を閉じると、土の下から現れた数字が浮かぶ。
古い設備番号。
父はそう言った。
それだけのことなら、なぜあんな顔をしたのだろう。
しばらくして、ハルはいつの間にか眠った。
そして夜中。
小さな金属音で目を覚ました。
カチャ。
ハルは布団の中で目を開けた。
家の中は暗い。
隣の部屋からナナの寝息が聞こえる。
もう一度。
カチャ。
玄関だ。
ハルは起き上がり、窓の隙間から外を見た。
月明かりの下を一人の男が歩いていた。
父だった。
仕事着を着ている。
腰には昼間に見た工具袋。
そして、黒ずんだ二本の鍵。
こんな時間にどこへ行くんだ。
声をかけようとして、やめた。
トウマが向かっている方向に気づいたからだ。
北。
昼間、ハルとミオが歩いた道。
百二十歩の先。
境界。
ハルは窓枠に手をかけた。
父の背中が暗闇の中へ小さくなっていく。
昼間、父は言った。
ここで遊ぶな。
近づくな。
外は危険だ。
なのに。
「なんで父さんは行くんだよ」
誰にも聞こえない声で、ハルは呟いた。
遠くで、金属が擦れるような音がした。
境界の方角からだった。
コメント
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asahinさん、第1話読みました! ハルが歩数を数えながら境界へ向かうシーン、すごく静かな緊張感があって惹き込まれました。特に柱に刻まれた「17」と、それを見たお父さんの反応の違和感…。夜中に鍵を持って境界へ向かうラスト、ゾクっとしました。この村の秘密、すごく気になります。続き楽しみにしてます!