テラーノベル
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朝、目を覚ましたとき、父はもう家にいた。
昨夜のことが夢だったように、トウマは食卓で湯気の立つ麦粥を食べている。
「おはよう」
ユイが言った。
「……おはよう」
ハルは父の腰を見た。
工具袋はない。
黒ずんだ鍵も見えない。
「何だ?」
トウマが気づいた。
「別に」
ハルは席についた。
聞こうと思えば聞けた。
昨日の夜、どこへ行ったのか。
境界で何をしていたのか。
けれど、父が先に口を開いた。
「今日は北側へ行くなよ」
ハルの手が止まった。
「なんで?」
「点検がある」
「何の?」
「設備だ」
「十七の?」
トウマがハルを見る。
ユイも二人を見た。
一拍遅れて、ナナだけが麦粥をすすった。
「昨日も言っただろ。古い設備の番号なんて、いちいち覚えてない」
「じゃあ、何の点検?」
「ハル」
今度はユイが止めた。
「朝から質問ばっかりしないの」
「聞いてるだけじゃん」
トウマは怒らず、器を置いた。
「北側の循環設備だ。水と電気に関係する。作業中に子供が近くにいたら危ない。それでいいか?」
循環設備。
ハルはその言葉を頭の中で繰り返した。
学校でも「循環」という言葉は習う。村では水を何度も浄化して使い、畑から出たものもできるだけ無駄にしない。
でも、なぜそれが境界にあるのだろう。
「分かった」
そう答えると、トウマはそれ以上何も言わなかった。
学校へ向かう途中、ハルはミオを待ち伏せした。
「昨日、父さんが境界に行った」
開口一番そう言うと、ミオは立ち止まった。
「いつ?」
「夜中」
「見たの?」
「見た」
「何時?」
「知らない」
「誰か一緒だった?」
「父さんが家を出たときは一人」
「境界までついて行った?」
「行ってない」
ミオは少し考えた。
「じゃあ、お父さんが境界に行ったとは限らない」
「北に行ったんだぞ」
「北には貯水槽も資材庫もある」
「金属の音もした」
「遠くから?」
「うん」
「それも境界かどうか分からない」
ハルは顔をしかめた。
「なんでそんなに否定するんだよ」
「否定してない。分かってることと、ハルが思ってることを分けてるだけ」
ミオは歩き出した。
ハルも隣に並ぶ。
「今日、北側で点検があるって」
「何の?」
「循環設備」
今度はミオが少しだけ反応した。
「境界で?」
「そこまでは言ってない」
「じゃあ、まだ分かんない」
「でも気になるだろ?」
「……ちょっとだけ」
ハルは笑った。
「何?」
「昨日は行かないって言ってたのに」
「行くとは言ってない」
「顔に書いてある」
昨日言われた言葉を返すと、ミオは肘でハルの腕を小さく突いた。
午前の授業は資源管理だった。
先生が黒板に大きな円を描き、その中に「水」「畑」「生活」「浄化」と書いて矢印でつないでいく。
「村で使えるものには限りがあります。だから、できるだけ村の中で循環させる。これは昔から続いている大切な仕組みです」
ハルは手を挙げた。
先生が嫌そうな顔をした気がしたのは、たぶん気のせいだ。
「どうした、ハル」
「循環設備って、どこにあるんですか?」
「いくつかあるよ。浄水設備、廃棄物の処理設備、発電設備……」
「北側にもありますか?」
教室の何人かが振り返った。
「ある」
「境界の近く?」
先生はチョークを置いた。
「設備の場所を覚える授業じゃないぞ」
教室に小さな笑いが起きた。
ハルも笑ったふりをした。
「ただ気になっただけです」
「北側には古い設備も多い。危険だから、許可なく入らないこと。いいな?」
「はい」
先生は授業へ戻った。
隣の席から、小さく紙が滑ってきた。
ミオの字だった。
『北側にあるのは本当』
ハルはその下に書いた。
『見に行く?』
紙を戻す。
しばらくして返ってきた。
『点検が終わってから』
ハルは思わずミオを見た。
ミオは黒板を見たまま、口元だけ少し笑っていた。
放課後、二人はすぐには北へ行かなかった。
共同畑の作業を終え、日が傾き始めるまで待った。
点検中に見つかれば、ただ怒られて終わる。
「見るだけだからね」
ミオが念を押す。
「分かってる」
「境界には近づかない」
「分かってる」
「設備の中にも入らない」
「分かってるって」
「ハルの『分かった』は信用できない」
二人は北側の資材庫の裏を通った。
昨日歩いたまっすぐな道ではない。畑と貯水槽の間を抜ける細い作業路だ。
境界が見える少し手前で、ミオがハルの袖を引いた。
「いる」
しゃがんで、積まれた古い配管の陰からのぞく。
大人が四人いた。
トウマもいる。
他の三人も、村で何度も見た顔だった。発電設備を担当する男。資材庫で働く女性。それから、学校の裏に住む年配の男。
誰も武器など持っていない。
全員、工具を持っていた。
「本当に点検じゃん」
ミオが囁いた。
「だから言っただろ」
「ハルは疑ってたでしょ」
「何か隠してるとは思ってる」
大人たちは境界の手前にある低い建物へ向かった。
ハルは昨日まで、そこをただの倉庫だと思っていた。
トウマが腰から鍵を出す。
黒ずんだ鍵。
昨日見たものだ。
扉が開いた。
「やっぱりあの鍵だ」
ハルが言う。
「静かに」
四人が建物へ入る。
扉は閉まらず、少しだけ開いたままになった。
「もう帰ろ」
ミオが言った。
「まだ何も分かってない」
「点検してるのは分かった」
「夜中にもやってた」
「夜じゃないとできない点検もあるかもしれないでしょ」
「何の?」
「知らないよ」
そのとき、建物の中から声がした。
二人は同時に黙った。
「北側、圧が落ちてる」
知らない大人の声。
続いてトウマ。
「昨日より下がってるか?」
「少し。循環そのものは止まってない」
「予備に切り替える?」
女性の声。
「まだ早い。予備は残したい」
「でも、このまま落ちたら――」
声が途切れた。
ハルはもっと聞こうと、配管の陰から身を乗り出した。
ミオが服を引っ張る。
「見つかる」
「ちょっとだけ」
「帰るよ」
その瞬間、建物の中から別の言葉が聞こえた。
「境界側は?」
ハルとミオの動きが止まった。
「異常なし」
「北側のロックも?」
「確認した。問題ない」
ロック。
ハルはミオを見る。
ミオもこちらを見ていた。
ただの水や電気の点検なら、なぜ境界のロックを確認するのか。
足音がした。
二人は慌てて頭を引っ込めた。
扉が開く。
トウマたちが出てきた。
「今日はここまでにしよう」
「夜の確認は?」
「俺がやる」
トウマが答えた。
「一人で?」
「見るだけだ。圧がまた落ちてたら呼ぶ」
四人は扉を閉めた。
鍵を回す音。
カチャン。
昨日、ハルを起こした音に似ていた。
大人たちが離れていくまで、二人は動かなかった。
やがてミオが立ち上がる。
「帰ろう」
「待って」
「もう誰もいないよ」
「だから」
ハルは低い建物へ歩き出した。
「入らないって言った」
「入らない。見るだけ」
扉には鍵がかかっている。
窓もない。
外壁には剥げた文字が残っていたが、ほとんど読めなかった。
ミオが指で表面の汚れを払う。
「……北、かな」
「その下は?」
「読めない」
ハルは建物の裏へ回った。
そこはすぐ境界だった。
灰色の壁の下から太い配管が何本も建物へ伸びている。
地面には金属製の蓋があり、その脇に小さな計器箱があった。
「ハル」
「何?」
「これ」
ミオが計器箱を指した。
表面に薄い文字が刻まれている。
泥を払う。
『北側循環系統』
その下に、小さな数字。
17。
二人は黙った。
昨日の柱と同じ数字だった。
「同じだ」
ハルが言う。
ミオはすぐには答えなかった。
「設備番号なら、同じ番号ばっかりあるの変って言ったよな」
「言った」
「これで二つ目」
「うん」
初めて、ミオの声から軽さが消えた。
ハルは境界を見上げた。
そのときだった。
低い音がした。
ゴウン。
二人とも動きを止める。
「今の何?」
「設備じゃない?」
ゴウン……。
もう一度。
音は建物の中からではなかった。
もっと低い。
足元から響いているように感じた。
ハルはしゃがみ、地面の金属蓋へ耳を近づけた。
「やめなよ」
「聞こえる」
「何が?」
「下」
ミオも少し離れた場所でしゃがんだ。
ゴウン……。
規則的ではない。
遠くで巨大な何かが動いているような、低く鈍い振動。
ハルは地面に手をついた。
わずかに震えている。
「これ、循環設備の音かな」
「たぶん」
ミオはそう答えたが、確信のある声ではなかった。
「でもさ」
ハルは顔を上げた。
「この配管、境界の下に入ってる」
太い管は壁の根元で消えている。
村の内側だけを循環しているなら、なぜ境界の下へ続いているのか。
「向こうまで続いてるのかな」
「分からない」
「外に何かあるとか?」
「分からないって」
ミオは強めに言った。
それから、少し声を落とす。
「でも……調べた方がいいかもしれない」
ハルは笑いそうになった。
「何」
「いや」
「笑ったでしょ」
「昨日は証拠なしって言ってたのに」
「だから、今は一個増えたから」
「二個だろ。十七と音」
「音はまだ証拠じゃない」
「細かいな」
「ハルに言われたくない」
二人はもう一度、金属蓋を見た。
その下から、低い音が続いている。
やがて遠くから誰かの声が聞こえ、二人は立ち上がった。
「今度こそ帰るよ」
「分かった」
「本当に?」
「今日は」
「今日は、って言った」
帰り道、ハルは何度も振り返った。
境界はいつもと同じだった。
高い柵。
灰色の壁。
その向こうの草木。
昨日までなら、それだけだった。
けれど今は、その下に何かがある。
父たちが夜に確認する設備。
境界のロック。
二つ目の「17」。
そして、地面の下から聞こえる音。
家へ戻るころには、日はほとんど沈んでいた。
夕食のあと、トウマはいつも通りナナの宿題を見ていた。
ハルは父の横顔を見ながら考えた。
父は嘘をついているのだろうか。
それとも、自分が知らないだけで、全部当たり前のことなのだろうか。
まだ分からない。
ミオならそう言う。
だからハルも、今は決めないことにした。
ただ、一つだけ確かなことがある。
夜になると、父はまた境界へ行く。
そして境界の下では、何かが動いている。
その夜、布団に入ってしばらくしたころ。
遠くから、低い音が聞こえた。
ゴウン……。
昨日は気づかなかった音。
いや、これまでも鳴っていたのかもしれない。
知らなかったから、聞こうとしなかっただけで。
ハルは暗闇の中で目を開けた。
ゴウン……。
音は、村の外からではない。
境界の下から聞こえていた。
コメント
1件
第2話お疲れさま! ハルとミオ、めっちゃいいコンビじゃん。ミオの「分かってることと、思ってることを分けてるだけ」って台詞、クールすぎる。それに「17」が二つ目出てきて、地下からゴウン…って音。一気にミステリー度上がったな。父さんの夜の行動と循環設備の関係、すごく気になる。この解像度の高さ、好きだわ。次話も楽しみにしてる🔥