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第三十一話 紙切れ
床に落ちた小さな紙を、彼はしばらく見つめていた。
いつからそこに挟まっていたのか分からない。
紙は古く、何度も折りたたまれた跡がある。
昨日まで、こんなものがあることすら知らなかった。
拾い上げて、そっと開く。
そこには短い文章が書かれていた。
けれど、文字が薄くなっていて、全部は読めない。
残っているのは、ほんの数文字。
「……を忘れても」
その下は、ほとんど消えている。
「何だよ、これ……」
続きを知りたくて、何度も紙を傾ける。
けれど、見えるのはそこまでだった。
紙の端には、小さな日付が書かれていた。
それを見た瞬間、彼の表情が変わる。
昨日まで見ていた写真より、ずっと前の日付だった。
昔の自分。
昔の記憶。
そして、今の自分が知らない誰か。
その夜。
サイトを開く。
彼女からメッセージが届いていた。
『今日も写真見てた』
『俺も』
『何か見つかった?』
彼は少し迷った。
そして、紙の写真を撮って送った。
『これ』
『何それ?』
『さっき見つけた』
彼女はしばらく返事をしなかった。
『……「忘れても」って書いてある?』
『うん』
『何のことだろう』
『分からない』
『続きは?』
『消えてる』
彼女は写真を拡大して見る。
『これ、誰かに向けて書いたんだよね』
『たぶん』
『じゃあ、その人に何か伝えようとしてたのかな』
『そうかもしれない』
しばらく沈黙が続いた。
彼は紙を見つめながら、ふと思った。
この文章を見たときから、胸の奥が落ち着かない。
なぜか知っている気がする。
でも、思い出せない。
『ねえ』
『うん』
『もし、俺が何か大事なことを忘れてたら』
彼女はすぐには返さなかった。
『それでも、今のあなたは今のあなたでしょ』
その言葉に、彼は少し驚いた。
『……そうだね』
『だから、全部思い出せなくてもいいと思う』
『ありがとう』
それから二人は、しばらく他愛のない話をした。
学校のこと。
最近見たもの。
会ったときに食べたいもの。
いつの間にか、さっきまでの重い空気は消えていた。
けれど、彼女はふと気づく。
さっき送られてきた紙の写真。
そこに書かれた文字。
「……を忘れても」
なぜか、その続きを自分も知っている気がした。
思い出せない。
けれど、胸の奥に一つだけ言葉が浮かぶ。
「大丈夫」。
彼女は首を横に振った。
そんなはずない。
知らない文章なのだから。
その頃、彼は紙をもう一度折りたたんだ。
そして、裏側を見た。
そこには、
今まで気づかなかった小さな文字があった。
一文字だけ。
「約」
彼は息を止めた。
「……約束?」
声に出した瞬間。
遠い記憶の中で、誰かが笑った気がした。
コメント
1件
読み終わりました……!一枚の古い紙切れから始まる、この静かな距離感、すごく好きです。特に「忘れても」という言葉が、二人それぞれの胸に同じように引っかかっている感じが切なくて。最後の「約」の一文字で、一気に物語が深くなった気がしました。続き、すごく気になります……!
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