テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
23,881
764
27,873
日の暮れた小塚原には、何とも不気味な雰囲気が漂っていた。
ありとあらゆる場所から雨が吹き出していて、ありとあらゆる物に雨が宿っている。
おなつが、どうしてもついて行くと言ったが、置いて来て正解だった。
養生所で借り受けた、四つの弓張提灯が淡い光を投げ掛けているが、周囲を照らし出すほどの明るさはない。
暗闇の中で、人の気配を察知したのか野生の獣が逃げ惑う気配を感じる。
罪人の屍肉を漁っていたのだろう。
そんな混沌とした刑場を、無闇に歩き回ってしまったが、やっと目的の場所に辿り着いた。
弓張提灯の淡い灯りに、炭化した柱に貼り付くように真っ黒な遺体が佇んでいる。
遺体の横に掲げられた捨札には、無宿者、真秀(しんしゅう)と書かれていたが、捨札を確認するまでもなく火罪の晒し者など、そう多くはないのだ。
弓張提灯を真秀の顔近くに持っていくと、不思議なことに気付いた。
鼻の辺りに、止め焼きの痕が生々しく残っている以外は、綺麗な姿を保っているのだ。
止め焼きとは、罪人が絶命したことを確認するために、最後に鼻を焼くのだが、真秀の遺体は、俯き加減で口もちゃんと閉じていた。
通常、火罪の遺体は天を仰ぐように上を向き、必死に空気を取り込もうとするから、口は大きく開かれている。
更に、凄い力でもがき苦しむから泥縄が緩んで、膝から崩れ落ちるのが常なのだ。
しかし、真秀の遺体は、焼け焦げていることを除けば、まるで眠っているように穏やかな姿だった。
苦しまずに亡くなって、焼かれる時は、すでに死人(しびと)だったのだろう。
それでも、隣に立つ亀井を見れば、炎に焼かれた無惨な息子の姿に言葉を失っていた。
弓張提灯を取り落とすと膝を突くように崩れ落ち、真秀の足に縋り付いて泣き始める。
私は、父親である亀井の心情を慮って、啜り泣きが止むのを待ってから声を掛けた。
「亀井様、そろそろ始めたいと思いますが、大丈夫でしょうか?」
この声に、涙を拭いながら何度も頷いた亀井が、ようやく立ち上がってくる。
私達は、提灯を持って真秀を取り囲む位置に移動した。
私は、提灯を取り落としてしまった亀井に、自分の提灯を渡しながら、これから行う雨供養の説明を始める。
「最初にお断りしておきますが、これから真秀様に施す雨供養は初めての試みなのです。
以前、小塚原で腑分けに参加したのも、人間の遺体に雨供養が施せるのかを試すためでした。
しかし、あの折は樋口さんに雨が宿ってしまい、試すことが出来なかったのです」
こう言うと、三好が不思議そうに聞いてきた。
「しかし、白川さんは物にも雨供養を施しておられるではありませんか。
物と遺体であれば、遺体の方が易いように感じるのですが、そうではないのでしょうか?」
「いや。易いとか、易くないとかという問題ではなく、試したことがないので、どうなるか分からないのです」
三好は「なるほど…」と頷いている。
「一応、手順通りに試してはみますが、真秀様は、それでなくても邪気をほとんど宿しておられませんでした。
そこで、今回は邪気だけでなく、聖気や思念なども合わせて取り込みたいと思います」
こう言って、雨香(うこう)を焚き始めると、雨香の香りが辺り一帯に漂い、夜の小塚原は更に怪しさを増す。
そして、懐から雨(う)を取り出して真秀の遺体に差し込むと、雨祓いの時とは別の呪い詞(まじないことば)を唱え始めた。
すると、雨(う)の尻、雨柄(うへい)から微かな煙が流れ出てくる。
そのキラキラと光る蜘蛛の糸のような煙は、一旦、真っ直ぐ天に昇ると、空中をくるくると漂い始めた。
私は、その儚い煙を深呼吸する要領で吸い込んでいく。
全てを吸い込み終えて、最初に感じたことは「甘い」ということだ。
通常の邪気(雨)なら、憎しみの味は辛く、悔やみの味は苦い、そして、悲しみの味は酸っぱく感じるのだが、甘いというのは初めての経験だった。
多分、邪気(雨)が含まれる割合が極端に少なく、聖気(晴)の割合が極端に多いからこんな味になるのだろう。
そして、驚いたことに、雨をこの身に取り込んだにも関わらず、何の痛みも感じていない。
むしろ、陽だまりの中に居るような心地良さを感じている。
更に、いつもは雨の声を聞くだけなのに、今回は、まるで真秀と同化したような感覚に陥っていた。
そんな不思議な感覚に浸っていると、微かな雑音と共に女童の元気な声が聞こえてくる。
「おっ師さん、門前に女の人がいておっ師さんを呼んでるよ。
真秀っていう、お坊様を呼んでおくれって言われたんだ」
手習所が終わり、さっき送り出したばかりの筆子が戻って来て、私を呼んでいる。
きっと筆子の親からの相談だろう。
最近は、親からの相談も多くなっていた。
その筆子と一緒に門前に行くと、隠れるように一人の女性(にょしょう)が立っているのだが、その顔に全く見覚えがない。
どうやら武家奉公のお女中のようだが、誰だろう?
「私が真秀ですが、どちら様でしょう?」
そう問い掛けると、お女中は初対面にも関わらず挨拶抜きで、用件だけを捲し立ててきた。
「さるお武家の奥様が、真秀様に折り入ってご相談が有ると申しておられます。
こちらのお寺で、どこか内密にお話の出来る場所を設けてもらえないでしょうか?」
「檀家のご相談でしたら和尚様がお出掛けなので、戻られてから…」
そこまで言うと、お女中が話を遮ぎるように喋り始める。
よほど急いでいるのだろう。
「いえ。和尚様ではなく真秀様にご用があるのです」
私は、お女中の切迫した雰囲気に押されて、とりあえず話を聞いてみることにした。
お寺には、様々な問題を抱えた人が訪ねて来る。
その中には、こうして内密の相談事を持ち掛けてくる人も多いのだ。
特に、武家のご妻女となれば尚更であろう。
「では、今の刻限でしたら本堂には誰も立ち入り来ませんので、そちらでお話を伺います。
その奥様は、どちらでお待ちなのですか?」
奥様と呼ぶからには、旗本のご妻女なのだろう。
武家のご妻女の呼び方は、厳密に区別されている。
大名の妻は奥方様、旗本は奥様、御家人ならばご新造様なのだ。
これを間違えて、町人のご妻女と同じように「おかみさん」などと呼んでしまうと、「無礼者」と怒鳴られてしまう。
「お隣の明王院の庫裏でお待ちなのです」
「明王院とは、裏口が繋がっておりますので、そこまでご案内します」
私は、お女中と連れ立って境内を歩きながら、本堂の入口と明王院を繋げる裏口を教えた。
「私は、本堂の中でお待ちしております」
こう言うと、頭を下げたお女中が奥様を呼びに行く。
私が、百目蝋燭が灯るだけの薄暗い本堂で待っていると、最初にお女中が、次に奥様が入って来た。
奥様は、年の頃は二十代後半の大年増だったが、その気の強そうな顔に全く見覚えがない。
しかし、顔色が青白く思い詰めた表情をしていることから、大きな悩みを抱えておられるのだろう。
奥様は、私の前に座るなり挨拶も無しにこう言った。
「あなたが真秀ですか?」
相談と言う割には、最初から高飛車な態度だ。
私が、頭を下げながら「はい」と丁寧な返事を返すと、振り返って、「あなたは、明王院の庫裏で待っていなさい」とお女中を下がらせる。
「あなたは、私のことを知らないと思いますが、私は、あなたの義理の母親で亀井多江と申します」
私は、突然の告白に驚いてしまい、次の言葉が出てこない。
しかし、気を取り直して「父上がお世話になっております」と頭を下げると、「そのような挨拶は無用です」と吐き捨ててから、私を詰るようにこう言った。
「あなたは、亀井家に戻してやるという温情を無下にして、戻らないと申したそうですね。
どういうつもりですか?」
私は、困り顔を多江に向けて、「どういうつもりだと申されましても…」と戸惑いながら、「今の暮らしが、私には合っているのです」と正直に打ち明ける。
この答えに、奥歯で怒りを噛み潰した多江が、吐き捨てるようにこう言った。
「こんな暮らしのどこが良いのです?
身分も無く、人に蔑まれて生きるよりも、多くの人に傅かれて生きる方が幸せに決まっているではありませんか。
あなたは、旗本に戻りたくはないのですか?」
私は、両手をついて頭を床板に擦り付けてから、「申し訳ありません」と詫びを入れる。
「義母上は、こんな暮らしと申されますが、私には、武家の暮らしの方が性に合いません。
それよりも、ここで己れと向き合いながら修行に励み、手習所で幼子達に読み書きを教えている方が幸せなのです」
すると、堪えていた多江の怒りが爆発する。
「あなたは、何と我が儘で恥知らずな人間なのです!
あなたは己れさえ良ければ、お家がどうなろうと構わないと言うのですか!」
私は、多江の怒りが収まるのを待ってから、再び床板に頭を擦り付けた。
「お許しください。しかし、亀井家に戻ることは出来ません」と、きっぱりとお断りする。
しかし、この言葉に恥をかかされたと思い込んだ多江は、その怒りを別の次元へと昇華させてしまった。
怒りで醜く歪んだ顔から、全ての感情が抜け落ちて、能面のような顔でスッと立ち上がると、ご本尊が祀られている内陣に向かう。
そして、私に背を向けながら微かに震える声でこう言い放ったのだ。
「そうですか…
では、致し方ありませんね。
この寺がある限り、あなたが戻らないと言うのであれば、この寺がなくなれば良いのです。
簡単な話ではありませんか…」
こう呟いた多江は、ご本尊の両脇に立てられている百目蝋燭を手にした。
そして、百目蝋燭を手に不気味な笑顔で振り返ると、内陣と外陣を仕切っていた御簾(おみす)に火を放ったのだ。
驚いた私は、「何をするのです!」と大声で叫んだが、紅蓮の炎は御簾を舐めるように本堂の天井へと勢い良く駆け上がって行った。
コメント
2件
