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漆黒の帯に散らばる無数の星々。その中で一際輝く、ただ一つの存在。羨望の的、神秘の象徴。満ち欠けによって変える表情を見ることはできるのに、その距離は酷く遠い。誰にも掴むことができない遥か彼方で輝き、女神は平等に微笑むのだ。だがもし、それを撃ち墜とすことができたならば。翼を折り、絹を引き裂いて。誰のものにもならないその笑みを崩し、罅割れるまで手中に収めておきたい。
空を駆ける翼。大海を泳ぐ鰭。舞台は違えど彼らは皆自由に舞う権能を持つ。人は大地を踏み締める足はあれど飛ぶための器官を有していなかった。地に縛られた生き物は空に憧れを抱くことしかできない。そんな人間を哀れに思ったのだろうか。せめてもと神は彼らに祝福を授けた。それが第二性───天より賜りし寵愛だった。
夜、星、そして月。人は大抵このいずれかの性に分けられる。
星。恒星の一種にして太陽と並ぶ存在。眩い光は何時の時代も万物の道標となり未来を照らしていた。星を冠する彼らは様々な能力に秀でた者が多かった。星に選ばれることで能力に目覚めるのか、はたまた人が星を呼び寄せるのか。科学的に解明されてはいないが、彼らは皆その身に星を降り落とす。身体の何処かに浮かび上がる紋様は紛れもなく星からの寵愛の証だった。
第二性と言っても星のように特別な存在はごく僅かであり、大多数は夜の性を持つ。これといった特徴もなく、それ以上語られることもない。
そして、星と対となる存在が月だ。透き通る肌を持ち基本的な能力に夜と差異はないものの、その特異な性質───月の満ち欠けに影響を受ける体質───が最大の特徴と言えるだろう。輝く満月に昂り無の新月は沈む。新月の日は仮死状態となり、三日月を迎えるその日まで決して目覚めることはない。一方で満月周辺の期間は発情期と呼ばれ、あらゆる星を誘う匂いを発するようになる。稀有な才能を継がせるための器として番を見つけ出すのだ。
この厄介な性質から月は狙われることが多く、凄惨な事件も後を絶たない。彼らの胎を狙い大金をばら撒けば、蛆の如く集まる連中がいるからだ。特に仮死状態の月を攫う事例はどれも碌な最後を迎えていない。故に月に生まれた者は自身の性を疎み、隠す者がほとんどだった。闇を照らす鮮烈な輝きに見つからないように、月を狙う目から逃れるために。
千鉱は幼少期から月に魅入られていた。否、呼ばれていたと言った方が正しいだろうか。山奥に佇む家屋は不自由さと引き換えに街中よりもずっと自然との距離が近かった。縁側に腰掛け夜空を見上げれば、見事な満月と輝く星々が此方を見下ろしていたのだ。
それは初夏の訪れを感じ始める日だった。家事との格闘を終えた六平が寝室に入ると、先に寝かせた筈の千鉱が忽然と消えていた。慌てて探し回った末にその小さな姿を見つけたのは縁側だった。閉め切った筈の障子は大きく開け放たれ、滑らかな桧の縁甲板が張られた廊下にちょこんと座っている。バタバタと大きな足音を立てて来た六平には目もくれず、じっと星空を見上げていた。いつから此処にいたのかは分からないが、このままでは風邪を引いてしまうとひんやりとした床が告げている。チヒロ、と呼び掛けた六平の声は果たして形になっていただろうか。瞬きさえもしないその姿に第六感が何かを感じ取り、気付けば軽い体を抱き上げていた。漸く此方を向いた赤い瞳に焦った表情が映り込んでいる。
「…おとうさん?」
きょとりとした無垢な瞳はたった今父の存在に気付いたことを言外に告げていた。不思議そうに首を傾げる千鉱に安堵の息が漏れる。
「チヒロ、何見てたんだ?」
「おつきさま」
千鉱に釣られて見上げた先には大きな金色が一つ。そういえば今日は満月だったか。
「そっかぁ。でももうおねむの時間だろ?目が覚めちゃったのか?」
「おつきさまがよんでたの」
「…え?」
ふくふくとした紅葉の手は到底届く筈もないが、一心に見詰める横顔に先程までの危なげな感じは見えない。優しく降り注ぐ月光を受けた肌はこんなにも透き通っていただろうか。
「…チヒロはお月様の所に行きたいのか?」
思わず漏れ出た言葉は自分でも驚く程感情が籠っていなかった。昔話に出てくる姫君のようにいつか月に攫われてしまうのではないかと、この時は本気で思ってしまったのだ。
「ううん。おとうさんといっしょがいい」
そんな父の不安を感じ取ったのだろうか。ぱちりと瞬いた瞳はそれがいいのだと雄弁に語っていて。ぎゅっと愛おしい存在を抱き締めた。安心する父の温もりに包まれ眠気が襲って来たのだろう。ふわ、と一つ欠伸を溢した千鉱は肩に凭れて眠ってしまった。力が抜けて全体重を預ける息子の体はまだまだ軽い。自身の予感が外れなければ、神とやらは随分と酷な試練を授けようとしている。こんなにも幼い命に既にその一瞥をくれ、金色の運命に手招きしているのだ。人生の岐路で役立ってきた自身の直感がこの時ばかりは恨めしい。避けられない時を迎えるまで、どうか見つけてくれるなと願うしかなかった。
千鉱は父と共に、そして月と共に成長していった。昔のように一心に見詰めることはないものの、やはり惹かれるのか満月が近付くと夜は決まって縁側で空を見上げている。対して新月の日は眠っている時間が長く、太陽が高く昇る頃漸く目を覚ますのだった。背丈が伸びても日焼け知らずの白い肌は変わらない。思春期前の検査はその結果に確実性がないため推奨されておらず、千鉱もまだ受けてはいない。しかしそれらは疑いようもない月の兆候であった。
六平の第二性は星。アンタレスに愛されしその証は、赤星の名に恥じぬ赤色の紋様を背に刻んでいた。
そして彼の旧友二人も星だった。千鉱の周りにいられる大人は彼らだけだというのに、あろうことか希少な性が集うとは。星の比率の少なさは、すなわち他人と一線を画すその能力の高さに直結する。一人は不可能と言われた雫天石の安定化に成功し、妖刀を生み出した唯一の存在。残る二人は六平家を守護する要の柴登吾、かたや神奈備上層部に昇り詰めた処刑人、薊奏士郎。戦争経験者の中で彼らの名を知らぬ者はいないだろう。
必然と言うべき集いに囲われた千鉱。親子の愛と遺伝子に刻まれた性。月として目覚めた時果たして天秤はどちらに傾くのか。
『おとうさんといっしょがいい』
それが当たり前なのだと、この先もずっと一緒にいられるのだと信じている瞳。本能的に抗えない欲望を知らぬ無垢な存在に、引き離される可能性をどうして伝えることができようか。声変わりを迎えるずっと前の、子ども特有の高い声が耳元で蘇った。
彼の運命の日。繰り返す悪夢に囚われても時間は無情に過ぎていく。断続的な浅い眠りに当然体は休まらず、それでも復讐に駆られ満身創痍で動こうとする薄い体を柴はただ抱き締めることしかできなかった。
時計の短針がしっかり回った深夜。厳重に張り巡らされた結界が僅かに揺らぎ、次の瞬間には柴の姿があった。千鉱を連れて身を隠しているこの拠点は昔確保した住居の内の一つだ。扉の開閉音、廊下の軋む音。日常の些細な音さえ千鉱の浅い眠りを妨げる要因になることを危惧し、柴はいつも妖術で直接室内へ飛ぶようにしていた。
そっと部屋へ入り込む。外出前と変わらずベッドの上に小さな影が収まっていることを確認し、音を殺して近寄った。苦しげな色の見当たらない顔に安堵するも痩せた輪郭が目立つ。食事も対話も受け付けない千鉱は少しずつ弱り、こうして静かに眠っていると悪い想像をしてしまいそうだった。包帯に包まれた肌は同じくらい白く、寝息さえ聞こえなくて───。
ばっと布団を捲り細い手首を掴む。圧し当てた指は脈を探すも何も見つけられない。薄い胸板は上下しておらず、当てた耳は鼓動を感じ取ることはできなかった。
「嘘やろ、チヒロ君…!」
弾かれるように顔を上げ蘇生しようとした時、ばさりと大きな音が届いた。ベランダに続く窓に付けられたカーテンが揺れている。硝子窓は大きく開け放たれ網戸を通り抜けた風が柴の前髪を遊ばせた。いつの間に開いていたのだろう。なびくカーテンに導かれた視線の先には雲一つない夜空。広げられた黒い帯に点在する星々の中、そこに優しい金色の姿はなかった。
突き動かされるようにもう一度、今度は逸る心臓を抑えつけて首の側面に指を当てる。聞き逃しはしまいと、自身の息さえ殺して目の前の子どもの命の音に耳を傾ける。永遠にも思われる静寂の中、圧し当てた指を打ち返す微かな拍動。────生きている。
はああ、と大きく息を吐いた体が脱力しベッドの淵へ崩れ落ちた。
「よかった…」
月としての宿命の一つ、仮死状態でほぼ間違いないだろう。学校に通っていれば第二性の検査を受け始める年頃であり、何より千鉱には昔からその兆候があった。子どもにとって多様な変化を迎えるこの時期は個々によって程度や発現に差が出やすい。況してや肉親を喪うという大きなストレスに心身が晒されたのだ。その開花を早めたとしても何らおかしい話ではない。むしろ千鉱にとって狂ったのは世界の方だろう。
手を握る。先程まで冷たく感じていた体温も生きていると実感した途端温もりを感じられるから不思議だ。
もう一度夜空を見上げる。遥か遠くで輝く星々が此方を見下ろしている。否、地上に隠れていた月チヒロを狙い澄ましているようにしか見えなかった。シャッと、その強い視線から隔てるようにカーテンを勢いよく引いた。月として目覚めた以上、この先厄介な特性と付き合っていかなくてはならない。何故この子にはこうも困難が降りかかるのだろう。ただ彼ら親子は静かに暮らしていただけなのに。互いにそれ以上、何も望んでいなかっただろうに。
そっと白い頬に触れる。まだ幼さの残る柔らかな輪郭もいずれはなくなってしまうのだろう。それが少し惜しい。指を滑らせ目尻を撫でると、ぴくりと瞼が揺れた気がした。夢でも見ているのだろうか。凍りついたように目を閉じる様から窺うことはできないが、魘されもせず苦しげな表情を浮かべてもいない。仮死状態なのだから表に出すことはできないのだが、せめて目覚めた時に覚えていないといい。深い眠りに沈む子が今だけは穏やかに休めていることを祈るしかなかった。
ぴちゃり。滑らかに艶の走る黒い革靴が水溜りを踏む。丁寧に手入れされているであろうその身を跳ねた水滴が汚しても、歩みが止まることはない。淀みのない足取りからして持ち主は気にも留めていないようだ。
ギシ、と床を踏み締める音がやけに大きく響く。畳床まで深く染み込んだ赤色は芳しい藺草の香りを掻き消し、眉を顰める程の鉄錆の臭いが立ち籠めていた。土足で上がりこむ男の周囲に人影はあれど咎める声は一つもない。異質な雰囲気を漂わせる存在に恐れて口を開かないのではない。息をしている者が誰もいなかったからだ。───ただ一人を除いて。
男の足が漸く止まる。血溜まりと死体が散乱する室内で生き残った一人の女がいた。
「あ、あんたが”黄昏”…?」
黒いスーツに身を包んだ長身と、独特の紋様を刻む整った顔立ち。優れた容姿と圧倒的な強者の佇まいは、事前に情報を得ていなければ間違いなく星と認識していただろう。
女が口にした呼称に肯定を返した男の此方を見下ろす昏い瞳に温度は無く、女は喉元に不可視の刃を突きつけられているような恐怖心を覚えていた。しかし怯むわけにはいかない。女には引けない理由があった。
「依頼した通りよ…私の番関係を解消して!」
女はある極道の組長の番だった。月の性を隠して生きていた女の平穏はこの男に目を付けられたことによって終わりを告げた。無理矢理連れて来られた先で体を暴かれ、この屋敷に身を置いていた。男は星としての自尊心が高く、自身の優秀な遺伝子を残すため月を攫っては食い荒らしていた。軽く言い放った、もう何番目かも分からない番という言葉は女に憎しみを抱かせるのに十分だった。幸い男にまだその気がないのが救いだったが猶予はない。憎い男の子を孕むなど冗談ではない。焦りを募らせる女がその噂を耳にしたのは、そんな時だった。
曰く、”番関係を解消する存在がいる”と。
その名は黄昏。女が知っている知識通りならば、一握りの星よりもさらに少ない幻の性。強く刻まれた番関係を解消する力を持つ、唯一の存在。歴史と共に最早存在自体を疑われる性だが、もし真実ならば女の願いは叶う。幸い女はある程度であれば単独行動を許されていた。藁にも縋る思いで伝手を辿った女の前に立つ男の存在を以って、願いは届けられたことを知る。
「いいだろう」
「……あは、あはは!やったわ、遂に…!」
冷酷な眼差しとは対照的に案外あっさりと承諾した黄昏の返答に、念願叶った女の口から興奮した笑い声が漏れる。男を抱き締める腕に力が込められた。
女が番関係の解消を強く求める理由がもう一つ。腕に抱えるこの男と共に逃げるためだ。極道自体に憎しみを覚えていた女だったが、男だけは違った。女の監視兼護衛の役目を担っていた幹部であるこの男と互いに恋に落ちたのだ。星として優秀な男と共に立てた”ある計画”は失敗に終わったものの、黄昏の存在を知り別の策を実行する。敵対する組織へと内部情報を流し潰し合いを仕向けた。抗争の混乱に乗じて逃げるつもりだったが男は負傷し、身動きが取れなくなっていた所で今に至る。意識を失っているが幸い息はあり医者に駆け込めば間に合うだろう。計画は異様な程上手くいき構成員は全員死んだ。死を以ってしても未だ濃く残る番関係を解消すれば呪縛から解放される。女が渇望していた自由はすぐそこまで来ていた。
「代償を貰おうか」
「え?」
高揚していた女の耳に黄昏の声が入り込み、思わず目を瞬かせた。
「依頼の報酬だ。お前は何を差し出す?」
「あ、えぇ…」
夢ばかり見て忘れていたが、情報屋から話を聞いた時の記憶を引っ張り出す。番の解消。その条件として何か一つ代償として差し出さなければならない、と。
「何でも出すわ。金でも、私の髪でも。あんたが望むものなら何でも」
女は自身の髪に触れる。手入れを怠らないさらりとした黒髪は白い肌に映えていて、女の自慢の一つだった。番の男も一等気に入っていた代物だ。果たして黄昏が満足するかは分からないが、金なら此処の金庫からいくらでも渡せばいい。
長い指を顎に添え、思考に沈むその流れるような所作に目を惹かれる。人間味の感じられない姿はまるで彫刻のような美しさを伴っていた。
「記憶を貰おう」
男が示したのは予想外のものだった。抽象的な報酬に女が困惑していると男の手が向けられる。糸で引かれているように視線が固定され逸らせなくなる。ゆらゆらと、蜃気楼のように視界が揺らぎ始め発熱したように頭が重い。ずるりと、脳から何かを引き摺り出されているような名状し難い感覚に襲われた。ぼんやりとした女の様子に目もくれず何かを視ていた男の切れ長の瞳が微かに開かれた。
「…成程」
この世界に大して価値を見出せない男の今の関心はある目的に向けられていた。固く閉じられた箱を開けるため全てを費やす傍らで、男は自身の能力を使い気紛れに闊歩する。金にも物にも興味はない。記憶を媒介として他人の視界に映る世界を見れば、少しは退屈凌ぎになるだろうか。所詮ただの暇潰し。大して面白味のない映画を流し観る程度にしか感じていなかったが。
「そこにいたのか」
男の視界を占めるのは一人の青年の姿だった。透き通る赤い瞳と左頬に大きな傷痕を残す、少年と青年の狭間にいる男。雲に隠れ闇に溶け込んでいた月が、そこにはあった。
黒いスーツに身を包み此方に背を向ける男が入り込んでくる。何やら会話をしているようだが青年の表情に警戒心は消えていない。表面上穏やかに見えた問答は男が青年の腕を掴んだことで終わりを告げた。驚いた表情をした青年だったが次いで苦しげにその顔貌を歪めた。息を乱し膝を着きそうになった細い身体は、突如現れた金髪の男によって抱き留められる。殺意を乗せた鋭い瞳が此方を、スクリーン越しに男を睨め付ける。女が怯えたのか視界が揺れたところでぷつりと映像は途絶えた。
「思わぬ収穫が得られたな」
記憶の中の二人の男のことはよく知っている。計画を遂行するにあたり、出し抜くのにかなり苦労を掛けさせられた男。そしていずれ刃を合わせることになるであろう青年。あの頃より大人びた姿。蒔いた種は順調に芽吹き、仄暗い喜びに男の口角が上がる。輝きを増し始めた月を、男は遂に見つけてしまった。
「う…っ」
愉しみを見つけた男の耳に呻き声が入る。そこで漸く忘れかけていた女の存在を思い出した。頭を抑え、混濁した意識を何とか繋ぎ合わせた女が此方を見上げてくる。
「もう、いいわよね…早く、番を解消して!」
脳を掻き乱されたような不快感を振り払うように女が金切り声を上げる。常人ならば人体の中枢に干渉されすぐに動けないものだが、どうやら目の前の女は随分と肝が据わっているらしい。場違いな感心を抱きながら男は薄い笑みを浮かべた。
「ああ、お前を解放してやろう」
男の掌が差し出される。自由に飛び立つための最後の鍵を得ようと伸ばした女の手は、しかし届くことはなかった。
「え、?」
ドッ、と体に重い衝撃が与えられる。訳も分からず間の抜けた声を上げた女の口から液体が流れ落ちる。錆びついた機械のように重い頭を下げると、腹部から何かが飛び出していた。赤い。それだけが最期に分かったことだった。
俯いたまま絶命した女を冷たく見遣り、差し出していた掌を仕舞う。男の身長を優に超える松の樹が見事な体躯を広げていた。幹と枝の力強いうねりと豊かな葉は優雅で美しい。その腕に吊り下げた男女の死体を除いて。
「永劫の逢瀬を楽しむといい」
しがらみから解放された彼方の方が余程自由を謳歌できるだろう。最悪の形で女の願いを叶えた男は一瞥することなく背を向け歩き始める。男の関心は既にそこにはない。子どもが信じる月の伝承に準えて、金色に住む兎を撃ち墜とすための策を講じ始めていた。あの鮮烈な赤を此方だけに向かせられたなら。くつりと、無意識に歪んだ口元を覆い隠す。
その手の甲には、炎のような紋章が刻まれていた。
連日続いていた雨は漸く鳴りを潜め、顔を出した太陽を待ち望んでいた人々が群を成している。雨に洗われた太陽は痛いほどの光を降り注ぎ、アスファルトから反射した熱気が街中を漂う。緩めた首元の隙間から籠る熱を逃した千鉱は一つ息を吐いた。
毘灼と妖刀の行方を求め見えない影を追う日々。些細な噂話から後ろ暗い情報まで、たとえ信憑性の低いものであっても足を運んだ。存在を秘匿され、剰え記録にない七本目の妖刀を保持する千鉱には足りないものが圧倒的に多い。水面下で動くことしか許されない身なのだ。
ふう、と今度は溜息を吐く。重怠い体はじわりとした暑さのせいだけではないだろう。見上げた先の空には欠けた白い月が薄らと浮かんでいる。
(そういえば、もうすぐ新月だったか)
空を飾る天体は千鉱にとって単なる観賞物ではない。あの襲撃から何とか立て直し復讐のため玄力の扱い方から教わり始めた頃、柴に連れられ病院で第二性の検査を受けた。告げられたのは月。薄々予想はついていた結果にどこか納得しながら、神妙な顔をした医師の説明を他人事のように聞いていた。
幼い頃から月を見るのが好きだった。否、惹かれていたと言うのが正しいだろうか。今は懐かしい、あの優しい夜風が吹く縁側で満月を見上げるのが習慣となっていた。だから月として目覚めて以降、初めてその存在を厭うようになった。満ち欠けの周期に体調が左右されるのは煩わしく、特に発情期が厄介以外の何物でもなかった。抑制剤で症状を緩和し、動ける範囲まで抑えることができたのは不幸中の幸いだろう。とはいえ柴に無理を通して手に入れてもらったこれは、通常より強い効能の分体に負担を掛けていることに変わりはない。長く続くであろう復讐の道を歩む千鉱にはあまりにも邪魔なものだった。しかし唾棄すべきものに成り下がっても、父と並んで見上げた夜空の記憶は鮮明に残っていて。完全に忌み嫌うことはできない自分がいた。
情報を頼りに朝から動いていた千鉱は収穫もないまま帰路を辿っていた。思うように進まない現状に焦りを覚える時期はとうに過ぎている。時刻は昼に差しかかる頃合いだ。今から昼食を作り始めても恐らく柴が帰ってくるまでには間に合うだろう。さっぱりした素麺なら体も冷やせて食べやすい。冷蔵庫の中身を思い出しながら献立を考え始めた、その時だった。
「ねぇ、そこのあなた!」
背後から飛んできた女性の高い声。一瞬意識を向けるも声の主とは距離があり、何より知らない声だ。即座に対象から自分を外し再び思考に沈む千鉱だったが。
「ちょっと!待ってよ!黒いコートのあんただよ!」
先程よりも語気を強めた女の声が耳に届く。カツカツと此方に真っ直ぐ近づいてくる足音。自分以外に当てはまらないであろう服装を指された千鉱は、軽い溜息を吐いて後ろを振り返った。
「はあ、はぁっ…歩くの速いわよ、あんた…」
「……俺に何か?」
息を乱しながら文句を垂れる一人の女が追いつく。目尻の上がった大きな目は意思の強さを窺わせるが、化粧を施した顔立ちは素直に綺麗だと感じた。肩で揺れる豊かな黒髪は艶を放ち、透き通る白肌が殊更映えている。高いヒールを履いても千鉱より背丈の低い女は世間一般的に美しいと評されるのだろう。しかしその姿を見ても千鉱に心当たりはなかった。
「あんた、あの情報屋の所に時々来る子でしょ。私もあそこに行くから知ってるのよ。目立つ特徴もあるし」
「…それであなたは?俺に何か用でも?」
女が千鉱の顔を、頬に刻まれた大きな傷痕を見上げる。復讐の誓いとして、憎しみの呼び水として消さないことを選んだがどうしても人の記憶に残りやすい。情報屋を指すあたり女も裏社会に通ずる者なのだろうか。
「刀も持ってることだし相当腕が立つんでしょう。困ってることがあるの。似た者同士力を貸してくれない?言い値で払うわ」
「悪いが他を当たってください。俺は関わるつもりはない」
厄介事の気配に無意識に眉が寄る。死ぬべき屑を斬り捨ててはきたが自ら進んで関わる気は更々ない。踵を返そうとした千鉱だったがその腕を女が強く引いた。
「待ってったら!そんなこと言わないで。…あんたも月なんでしょ?」
表情に出したつもりはなかったが、内心に僅かに走った動揺を気取られたのだろうか。女の笑みが深くなっていく。
「隠さなくていいわ、私には分かるのよ。私達は同じ仲間なんだから」
千鉱の腕を離した女が長袖の裾を捲り上げる。現れた白い手首には小さな三日月の紋様が浮かんでいた。
「それにね、あなたが求めてるものも知ってる。手の甲に炎の紋章のある人を探してるんでしょう?」
(この人、どこまで…)
千鉱の第二性を言い当て、毘灼と思われる人物像に最も近い情報を持つ女。少なくとも今ここで別れて野放しにするのは些か危険だった。
「言ったでしょ?言い値で払うって」
千鉱の剥がれかけた仮面を見て女が妖艶に微笑んだ。自身の魅せ方を知っている笑みだった。月という弱い立場にありながら持てる術と武器を使いこなしている。
歩き出した女の背を見ながら携帯電話を取り出す。二人しか登録されていない電話帳を開いた指は、しかしそれ以上動くことはなかった。柴は今、その妖術を使って遠方まで足を運んでくれている。彼を邪魔するわけにはいかないし、まだ女の情報源が正しいと決まったわけではない。
ぱたりと画面を閉じてコートへ仕舞い込む。華奢な後ろ姿を追うように千鉱も歩き出した。女が寄ってきた際に移った香水の香りがいつまでも纏わりついていた。
人通りの多い昼間でも中心部から遠のいた街外れは閑散としている。倒れたゴミ箱を漁っていた一羽の鴉が此方を向いた。人慣れしているのか黒々とした目でじっと見詰めてくるだけで飛び去る気配はない。千鉱が警戒範囲を広げたと同時に女が立ち止まった。
「相変わらずこの辺りは静かすぎて嫌になるわね。私達みたいな月が隠れるにはうってつけの場所。そうは思わない?」
「無駄話はいい。あなたが言っていた人は何処に?」
「焦らないでよ。私の言うことを聞いてもらうのが先」
くるりと振り返った女は何処か得意げに微笑んでいる。帯刀した男を前に楽に笑う表情は余裕があることの表れで、この交渉で自分が優位であることを疑っていないのだ。
「あなたにはある男に会ってもらいたいの」
「それだけですか」
「ええ、それだけでいいの。ただ会うだけでいい」
「……?」
てっきりその人を斬ることを依頼されるのかと思いきや女は会うだけでいいと言う。先の見えない話に内心首を傾げながら、簡単だからこそ怪しい依頼に眉を寄せる。口を開きかけた千鉱だったが近づいてくる一つの気配へ視線を向けた。
現れたのは一人のスーツを着た男だった。見る限り武器を所持していない、和やかな表情を浮かべる男。だが妖術師の線が消えたわけではなく警戒を怠らないまま男を見据える。
「私の仲間よ。彼に案内してもらうわ」
「…何が狙いだ。先の見えない話に付き合うつもりはない」
いよいよ雲行きが怪しくなってきた展開に千鉱が刀の柄に手を掛けようとした時だった。
瞬時に距離を詰め千鉱の腕を掴んだ男からぶわりと何かが放たれる。強い匂いを嗅ぎ取ったときには既に遅く、不可視の衝撃に体が貫かれていた。
「っ、あ」
どくりと心臓が嫌な音を立てる。不自然に熱を帯び始めた体から力が抜けていく。折れそうな膝を叱責し何とか堪える千鉱の米神から一筋の汗が流れ落ちた。
「その顔…初めてかい?星のフェロモンを浴びるのは」
見上げた男は変わらず暴挙に似合わぬ笑みを浮かべている。茹るような熱に脳を焼かれながらも、辛うじて耳にした言葉に目の前の男が星であることを知った。
コートの中で携帯が振動する。一度、二度、そして三度揺れて呆気なく切れた。覚えのある振動だったが、今の千鉱はばらばらになりそうな意識を繋ぎ合わせることで精一杯だった。
「私でも分かる。あんた、月の中でも強い性質でしょ。それもとびきりの。どうして今まで見つかってなかったのか不思議なくらいだわ」
「その割にはフェロモンが薄い。余程強い抑制剤を使っているのか?それともまだ目覚めて間もないのか」
頭上で交わされる男女の会話は聞こえているのに半分も理解できない。言葉はただの音となり通り抜けるだけ。千鉱は内側に籠る熱がだんだんと大きくなっているのを感じた。女が憐れみの視線を送った。
「苦しいわよね、辛いわよね。私達が助けてあげる。あの男に差し出せば私なんか捨てて飛びつくでしょう」
「君との番の解消を持ち掛けてもこれなら十分釣りがくるだろう」
「っは…ぁ、う」
男の指が千鉱の傷痕を一撫でする。その僅かな接触さえ過敏になった千鉱には苦痛を齎し、何より自分が穢されるような嫌悪感を抱いた。
整わない息に酸素不足となった体がついに崩れ落ちる。固いアスファルトに打ち付けられる筈の体には、しかし痛みも何も襲ってこなかった。
(……、?)
暗くなった視界を補うように他の器官が鋭敏となる。不思議なことに聴覚は鈍く、くぐもった音しか聞こえない。体を抱き留める腕の温もり。そして嗅覚が嗅ぎ慣れた香りを拾い上げる。微かに煙草の混じる、昔から千鉱の好きな香り。泣きたいような安心感が込み上げ重い瞼を開いた。
「しば、さ」
消え入りそうな千鉱の声を腕の主───柴はしっかりと拾ってくれた。支える腕に力が込もり体がより密着する。ぼんやりとした意識の中でも胸元に押し付けられた耳が心臓の鼓動を聞き取る。その拍動に合わせて呼吸をするとやっと息が整い始めた。
「な、何だお前は…!」
突如目の前に現れた乱入者に動揺する男女。餌を使って誘い出した青年を捕らえる計画はこの時まで上手くいく筈だったのだ。
「失せろ」
黒い瞳に確かな炎を携え射殺さんばかりに睨め付ける柴。彼の怒りを体現するように太陽の光を浴びた金髪が輝き靡いている。
「失せろや。今なら見逃したる。この子の前に、二度とその汚い面見せんな」
重たい殺意と威圧感に押し潰され、男は思わず膝を着きそうになる。女は怯え高いヒール音を鳴らしながら後退りした。妖術師の天井を叩き星として上位の力を持つ金色の男は狼のように牙を剥き出しにしていた。
けたたましい足音を鳴らしながら男女が転がるように立ち去っていく。柴の意識は最初から腕の中の愛しい子にしか向けられていなかった。体内の熱を逃せず苦しむ千鉱がぎゅう、と柴のシャツを握る。
「しばさん、」
「チヒロ君、遅なってごめんな。もう大丈夫や。俺らの家に帰ろ」
柴が手印を結ぶと慣れた浮遊感と共に瞬く間に見慣れた景色へ早変わりする。拠点へと飛んだ二人の体はリビングのソファに受け止められた。
「柴さん、おれ…」
はあ、と千鉱の熱い吐息が首元にかかる。芯の強さを纏い透き通るいつもの色はそこにはなく、潤んだ瞳が此方を見上げていた。柘榴のようにみずみずしい赤、ガーネットの深い紅。今にも溢れ落ちそうな涙を舌で掬い味わったなら、一体どんな味がするのだろう────。変な方向へ傾きかけた思考を慌てて振り払う。落ち着けるように吐いた息もいつからか熱を帯びていた。発情を誘発された千鉱から香るフェロモンに、どうやら自分も相当参ってるらしい。
「チヒロ君、辛いやろうけどちょっと待っててな。今抑制剤と病院に、」
「嫌です。だめ、いかないで」
立ち上がりかけた柴の首元に両腕を回してすぐさま引き寄せる。離れることは許さないと、何処に残っていたのか強い力で再び体を密着させる。ん、んっと悩ましい吐息を漏らしながら熱い体を擦り付ける。”そういうこと”に触れてこなかった筈の、柴の中でいつまでも小さいままの少年が放つ凄まじい色香に柴は必死に己を律する。
「チヒロ君、ちょお待って。あかん。あかんて、」
子猫のようにあえやかな声を上げて甘える姿は大変いじらしい。やっていることは可愛らしいでは済まされないが。互いに番のいない星と月同士。今千鉱を救える最適な存在が自分であることは分かっている。だがそれ以前に千鉱は一回り以上歳の離れた、幼い頃から見守ってきた友人の子で。自分達の関係性と現状が柴の常識と理性に歯止めを掛ける。熱に浮かされた千鉱自身もきっと何をしているか分かっていないだろうに。
いつまで経っても動かない柴に焦れたのだろう。む、と唇を閉じて決壊寸前の潤んだ瞳を細める。緩慢な動きで柴の膝に乗り上げ耳元へと唇を寄せた。
「ほしい。しばさんが、ほしいです」
かじ、と控えめに耳に齧り付き、労わるように小さな舌で舐め上げる。瞬間、千鉱の体は宙に浮きソファの座面へと押し付けられた。
「んぅ…っ!」
キスなんて優しいものではない。噛み付かんと唇を覆われ、無防備に開いていた隙間から柴の舌が侵入する。歯列をなぞられ、敏感な上顎を擦られる度ぞわりとした感覚に襲われる。奥に縮こまっていた千鉱の舌は男らしい肉厚な舌によって引き摺り出された。混ざり合った唾液が水音を響かせながら溶け合い、一つとなる。飲み込みきれなかった透明な雫が千鉱の口端から溢れ落ちた。
「ん、ん…っ、はあ、ぁ…っ」
「っは…どこでそんな誘い方覚えてきたん?」
漸く唇が解放されるも、口付けの余韻を追う千鉱の体はぴくぴくと小さく痙攣している。とろりと溶けた赤色を美味しそうだと思ったのはやはり気のせいではなかったのだ。垂れた前髪の一房を掻き上げ、柴は熱い吐息を一つ漏らす。完成された体躯を持つ雄が目を鋭く光らせていた。
「ええよ、君が望むならいくらでもあげたる」
ぶわりと解放された柴のフェロモンが空間を支配する。心地の良い香りを伴い波のように押し寄せたそれに千鉱は陶酔していた。覆い被さる広い背中に両腕を回し、再び近づいてくる唇を迎え入れた。
千鉱のフェロモンは清らかな水を感じさせる。みずみずしくて透明感のある淡い香り。かつての親子の住処への道中、樹々のトンネル内。ちらちらと覗く木漏れ日を浴びながら嗅いだ、優しく清涼な香りに似ていた。
その中で一等惹かれる微かな甘い香りが鼻腔を擽る。控えめに漂う様は宙を優雅に泳ぐ淵天の金魚を彷彿とさせた。
互いのフェロモンが混ざり合い、一つに溶け合う。
正直なところ、それを好ましいと思っていた時点で。柴は既に白旗を上げていたのだ。
そうして千鉱と柴は番となった。狭いベッド上の、二人だけの熱帯夜。燃え上がる熱と心地よい香りに溺れながら必死に柴へ縋った。どのくらいそうしていたのか分からない。体の疼きと熱を宥められ漸く収まったと同時に意識を失った。
頭を撫でる優しい感触に誘われて薄く目を開いた先。肘をついて隣に寝転び優しく微笑む柴がいた。常なら後ろに流した前髪は乱れたまま、カーテンの隙間から差し込んだ陽光を反射している。その柔らかな金色を纏い、愛おしさを隠せていない眼差しで笑む姿がとても綺麗だったのを、千鉱は生涯忘れないだろう。
番を得て安定し始めた千鉱だったが、元は仮死状態を迎える期間での強引な発情の誘発。再び訪れた病院で検査を受け無事異常はなかったものの、もう一つ懸念点が残っていた。むしろ此方の方が難関だと言えるだろう。柴が連絡した相手は多忙で本来滅多に会えない筈なのだが、一日と経たずすぐさま飛んで来た。千鉱のもう一人の保護者的存在である薊だ。その時の彼の表情は形容し難いもので、色々な感情が綯い交ぜになった末のものだった。しかし薊も分かっているのだ。公にできない身の上と第二性を持つ千鉱を守れるのはもう彼らしかいないのだと。常に千鉱の傍にいれる身と星の中でも上澄みに当たる、信頼できる友なのだが。
「それでも一回りも下の子に手を出すなんて…!」
「六平にはもう詫びた。俺は本気なんですぅ!」
「薊さん、もうだめです。仕舞ってください」
震えた拳で見舞った一発はかなり抑えたものだったと後に柴は語る。赤くなった頬で戻ってきた柴を見て驚き悟った千鉱に淡々と詰められる薊の姿もあった。
「柴さん、起きてください」
足音をもう殺す必要のない床板を微かに軋ませながら近づいて来る気配。凛とした声が布越しに掛けられる。
「朝ご飯できましたよ」
「……ぅん」
「昨日遅かったんでしょう。朝はちゃんと食べてください」
「………ん」
「卵焼き作りました。…柴さんが食べたいって言ってたでしょ」
「…そらあかんわ、早よせなチヒロ君の卵焼き冷めてまう」
むくりと起き上がり、大きな欠伸を一つ。碌に開いていない瞼のまま千鉱の腰に両腕を回して引き寄せる。まだまだ腕の余る細い体を抱き締め腹へと顔を埋めた。衣服に遮られた千鉱の腹部には月の紋様が刻まれている。そして今は、番の証明として柴の星の紋様───金色に輝くシリウスの証───が寄り添うように加わっている。番を守る狼の象徴だ。
「おはようございます、柴さん」
「おはよぉ、チヒロ君」
大きい子どものような振る舞いにふっと溶けるような笑みを浮かべた千鉱は、目の前の金髪を手櫛で解いていく。柔らかな手触りの髪は寝癖でぴょこぴょこと跳ねている。整髪剤で整えられる前の、寝起き以外では決して目にすることのない姿。自分だけに見せる最も無防備な瞬間を密かに愛おしく思う。復讐譚の狭間に芽を出した柔らかな感情に、千鉱は徐々に惹かれていった。
その日は千鉱と柴の二人でとある組織に乗り込んでいた。人身売買を主とした取引で裏社会で名を馳せる屑共。変わらず毘灼を追う中で偶然得た情報だったが、関係ないからといって切り捨てる彼らではなかった。
正面から堂々と侵入するたかが鼠に、されど油断するなかれ。数の暴力で駆除できる筈のたった二匹の獣に食い荒らされる運命をこの時はまだ知らなかったのだ。
屑共が漸く沈黙した頃、最奥で待ち受けていたのは一つの扉だった。壁と同調するように設計されていた素材と色味はいかにも何かを隠していると言わんばかりだ。千鉱の類稀なる眼がなければその存在を認知することさえできなかっただろう。地下へと続く階段の先、広く薄暗い室内には檻に入れられた複数の子どもの姿があった。
「この子ら全員、」
月か、と声にならない音で柴が呟く。まだ思春期前に至らない幼い子どもだ。スン、と鼻を鳴らしても当然月のフェロモンの香りはなく、埃っぽい匂いしか感じられない。だが彼女達は皆白く透き通る肌を持っていた。その外見的な特徴で目を付けられたのだろう。優秀な星の遺伝子を残す器として月を欲しがる人間は多い。特に年端のいかない子どもは、そういう趣味を持つ奴らの餌食となりやすいのだ。
檻の前に蹲み込んだ千鉱が扉に手を掛けるとキイ、と錆びついた音を鳴らしながら簡単に開いた。鉄格子にぐったりと凭れ虚空を見つめる子どもの反応は薄い。恐らく商品としての価値を損なわぬよう、薬物を投入されているのだろう。抵抗する意思さえ奪われた白い肌に傷は見られない。最初から鍵など必要なかったのだ。
「…急ぎましょう」
父達に守られていなければ、自分も同じ境遇を辿っていたかもしれない。先日遭遇した女の顔が脳裏を過り、一度目を瞑る。今優先すべきは子どもの救出だ。浮かび上がった嫌な思考は正体不明の音によって消え失せた。
天井から伝わってくる振動に嫌な予感を覚え、咄嗟に立ち上がり抜刀する千鉱。頭上で蠢く何かが明らかに此方に向かってきている。一瞬訪れた静寂は、大きな破壊音と共に天井を割ったそれらによって破られた。樹だ。無数の樹の幹が根を広げるように襲いかかってきた。
「チヒロ君!」
「俺より先に、その子達の救出を!」
襲い来る猛威を鋭い刃で斬り捨てながら半ば叫ぶように応える。妖術師の仕業であろうそれらに対処できない千鉱ではないし、柴の妖術なら誰一人傷付けることなく救出できる。彼も分かっているのか、眉を顰めたその姿が消え去った。
避けて、斬りつけ、躱して裂いて。見た目に反して鞭のように蛇行する幹をひたすら斬り捨てていく。涅で一息に処理したいところだが、パラパラと降り落ちる砂塵がそれを許してくれない。僅かに気の逸れた隙を好機と捉えたのか、迫り来る幹に千鉱の反応が遅れてしまった。
「!」
軸足を払われバランスを崩した千鉱の体に太い幹が巻き付く。ぐん、と重力に逆らう強い力に勢いよく体を引っ張られる。
「くっ…!」
背後を振り返り元凶を辿るとその根本が不自然に切れている。亀裂の向こうに広がる不透明な景色は水面のように揺らめいていて、明らかに別の空間へと繋がっていた。
「チヒロ君っ!」
「っしばさ、」
飛んできた柴が手を伸ばしている。その表情は常の悠々としたものとは正反対で、彼の焦る姿を早々見たことはなかった。限界まで伸ばした指先は触れ合うことなく、千鉱の姿は鏡面へと吸い込まれるように消えていった。
ダン、と壁に殴りつけた拳が反響する。蹂躙した樹々は破壊の爪痕だけを残して跡形もなく消えていった。
「くそッ!チヒロ君…!」
狼の唸り声は目の前で奪われた愛しい子へ届くことなく、不気味な静けさだけが漂っていた。
目を開くとぼんやりとした輪郭で構成された視界が広がる。何度か瞬きをして焦点が合うと、垂れ下がっていた重い頭をゆっくりと持ち上げた。最低限に絞られた照明が黒漆喰の壁をぼんやりと照らしている。ひっそりと息を潜める調度品もその全容を見ることは叶わない。痛い程の静寂に包まれた室内には千鉱が身動ぐ音しかない。頭上で纏め上げられた両腕と宙に浮いた体に自由はなく、罪人のように磔にされていた。どのくらい時間が経った。子ども達は、柴は無事なのか。
(くそ…っ!)
淵天の姿は何処にも見当たらず、固定された腕もびくともしない。ずり、と樹皮と肌が擦れて痛みを生んだ。
「やめておけ。傷になるぞ」
突如掛けられた低い声にはっ、と息が詰まる。気配も何も感じなかったというのにその声は存外近くから発せられた。自身を此処へ攫った元凶。千鉱が目を凝らすと同時に照明の角度も変わった気がした。闇に溶け込んでいたこの空間の主が姿を現す。
ソファに腰掛ける一人の男。長い足を優雅に組み、一振りの刀を鑑賞している。白銀の刀身を走る滑らかな輝きを追いかけるように、男の爪先がゆっくりと撫で上げる。およそ物に対する触れ方ではなく、柔らかな肢体を舐め上げるような手付きだった。それが淵天なのだと遅れて認識した瞬間、千鉱の中を凄まじい嫌悪感が走り抜けた。満足したのか、はたまた視線に気付いたのか、立ち上がった男がゆっくりと近付いてくる。その手に携えた淵天へと向けた瞳がある部分に固定された。
「お、まえ」
知らない顔、覚えのない声。千鉱の中に存在しない男が、その手の甲に刻まれた紋章を以ってあの日の記憶を呼び覚ます。
「お前は、毘灼…ッ!!」
父を直接手にかけた襲撃犯にはいなかった、しかしこの世の何よりも憎い仇が目の前にいる。食い縛った奥歯がギリ、と音を立てた。
「威勢がいいな。そんなにも俺に焦がれていたのか?」
「黙れ!」
目にたっぷりの殺意を乗せて睨み付ける様は毛を逆立てて必死に威嚇する子猫そのもの。噛み付くように叫ぶ姿が更に男の嗜虐心を擽ることを千鉱は知らない。
「縁とは不思議なものだな。暗雲に紛れ息を潜めていれば見逃せたというのに。何処にいようと俺はお前を見つけてしまう」
弓なりにしなる男の瞳に見つめられ、ぞわりと肌が粟立った。くるりと手の中で淵天を遊ばせた後、男自ら千鉱の帯刀ベルトに納刀した。
「…何のつもりだ」
淵天が目的ではないのか。父を殺してまで妖刀を奪っていった主犯だというのに。男の行動に意味を見出せず気味の悪さが胸中に広がっていく。
「これはお前に相応しいものだ。奪うなどしたら興醒めだろう?俺の興味はいつだってお前自身にある」
するりと長い指先で千鉱の輪郭を辿り、顎に指を掛けられ男の昏い瞳と視線が合う。
「美しい月。お前の輝きは何物にも損なうことはできない。そうだろう?六平千鉱」
不気味な違和感は形となって今度こそ千鉱の動揺を誘った。何故それを知っている。この男は一体どこまで。スン、と千鉱の首元に顔を寄せた男が嗤う。
「狼に先を越されてしまったか。だが、手に入れ難いものを奪うのもまた一興。獣の臭いくらいどうとでもなる」
水面に一滴、赤色のインクが落ちる。解けて滲み、奥底に隠していた狂気が顔を出す。形容し難い不思議な色を持つ虹彩が燃えるような朱色に染まった。
番を得た月に手を出すなど以ての外。星の逆鱗に触れるような愚かな真似を好む者はいない。そもそも互いを結ぶ血よりも強い縁を断ち切ることなどできやしないのだ。───ある例外を除いて。
「お前…っまさか、」
その者は朱く燃え上がるような瞳を持つ。特異な能力故に恐れられ、渇望される存在。妖しい朱色を纏う黄昏が目の前にいた。
「っ、柴さ」
「妬けるな」
脳内で警鐘が鳴り響き、本能的に逃れようとした千鉱だったが頬を掴む強い力が許さない。強制的に向き合う男の瞳に千鉱の怯えた表情が映り込んだ。
「…ぁ」
異なるあかいろは絡み合い、やがて一つとなる。
縫い留められた瞳は瞬きすら許されず、思考は止まり指先さえ動かすことができなくなった。しゅるりと幹の拘束が緩んだ体に抵抗の素振りは一切見られない。男の手が千鉱の服の裾を捲り上げ、白い肌が露になる。闇夜に隠された天よりも美しい金色がそこには輝いていた。
「お前の目に映るのは俺だけでいい」
男の大きな掌が三日月の紋様に重ねられ、何かが内側に侵入していく。分厚く黒い雲に呑み込まれた月は溺れるしかない。
「あっ…ゃ、やめ、ぁあっ、い…ぁ───っ!」
どくりと心臓が大きく跳ね、紋様を起点として焼けるような熱が全身を駆け巡る。覚えのある疼きに襲われ、びくびくと小刻みに震える体を止める術を千鉱は持っていない。頬を染め固く目を閉じて耐える様はまるで発情期の訪れだった。びくりと大きく体が揺れる。金の輝きを失い朱色に染まった時には、月を守るように刻まれていた柴の星の紋様も炎に呑まれ消滅していた。
「ぁあ、あ、ん…っ」
番を断ち切られ大きな喪失に襲われる哀れな月。朱色に輝く唯一の月を手に入れた男はうっそりと微笑み、小さな唇に口付ける。
「んっ…、ふっ、ぅん、ん、ん…っ」
薄く開かれていた唇は抵抗なく男の舌を迎え入れた。小さな歯を一つ一つ愉しむように歯列をなぞった蛇は千鉱の弱い口蓋を擽る。くたりと力の抜けた舌を掬い取り巻き付け、唾液を絡ませ合う。男の大きな手が千鉱の耳に移動し、塞がれ籠った耳が過敏なまでに水音を拾い上げた。口内を、聴覚を犯され続ける千鉱の体から既に拘束は消え失せている。流れるように両腕を男の首元に誘導され、男に縋る様はまるで番を求める月そのものだった。
「っは、はあ、ん…っぁ」
漸く解放された千鉱の唇と男を繋ぐ銀糸が名残惜しげにぷつりと切れる。呑み込み切れなかった唾液が口端から流れ落ちた。膝裏に腕を差し込み千鉱の体を抱き上げた男と視線が交わる。熱に浮かされ耐え難い疼きに支配された体はいつも彼に収めてもらっていた。それは一体、
(だれ、だっけ)
涙で滲む視界で目の前の男をぼんやりと見つめる。番の上書きという暴挙に襲われた体と心がばらばらに散ってしまっていた。
(いいにおい…)
鼻腔を擽る、惹かれる匂い。欲に翻弄され我を失った千鉱の体が悲鳴を上げていた。本能が訴える。手を伸ばして全てを委ねろと。
目の前の男は動かない。薄く笑う口元に吸い寄せられるように、千鉱自ら唇を重ねた。
主のいなくなったソファから熱が失われ、役目を失った置物と化した頃。冷たい雰囲気を漂わせる空間には何かが軋む音と声がよく通る。薄暗闇を掻き分けた最奥、設えられた寝台の上に墜ちた、一つの月が在った。
「あっ、ぁん…んっ、あっ、あ」
男の膝に跨り、白く透き通る肢体を震わせる千鉱。剥ぎ取られた衣服はぐしゃりと床下に捨てられ、冷たく息絶えていた。帯刀ベルトに絡まった淵天だけが形を失わず辛うじて息をしている。
緩く勃ち上がった陰茎に、既に生じていた先走りを塗り付けながら上下に擦られる度勝手に腰が動く。時折指が裏筋を掠めると、比にならない程の快感が背筋を走り抜け高い声が漏れた。男の首に回した両腕で必死にしがみ付き、身悶える千鉱の胸飾りが揺れている。男は誘われるまま目の前の赤い実を口に含んだ。
「ひぅ…!?」
先程まで口内を蹂躙していた舌が突起を嬲っている。にゅるりと蠢く舌で転がし歯を立てながら、もう一方の突起を指先で摘み上げる。
「んッ、く……ぅ、っん…!」
恥じているのか頬を赤くし、唇を噛み締め与えられる刺激に耐える千鉱。固く眉を寄せるその表情を見上げながら、男は攻めの手を緩める様子はない。
「ん…ぅ、ひぁッ!」
じゅっと強く吸い付かれ、突き抜けるような刺激に噛み締めていた唇が遂に緩んで高く啼いた。唇を離した突起はぷくりと一層赤く腫れ上がり、みずみずしく熟れていた。くたりと力の抜けた千鉱の体が男へ凭れ掛かる。
「感度が良いようで何より。あの男の手腕か、それとも此方に才があったのか?」
「ふっ、ぅ……」
「まだ休むなよ。腰を上げろ」
「んっ…」
千鉱の米神に口付けを落とし、宥めるように後ろ髪を梳く男の手付きは酷く優しい。脳までも蝕む熱は正気を取り戻させるにはまだ遠い。番の命令に従い千鉱はのろのろと腰を上げた。サイドチェストに腕を伸ばした男は手にしたパックを歯で破り、溢れ出したローションを指へと纏わせる。太腿に手を這わせ左右に割り開いた先を突いてやると頭上で息を呑む気配が伝わってきたが、構わず秘された蕾の入り口からゆっくりと中指を侵入させた。
「ぁ、ん……っ」
忌まわしい紋章を刻んだ手指はすんなりと潜り、馴染ませるように入り口を解す。ぐちゅぐちゅと卑猥な音を響かせて内側の深い所へ進んでいく。
「───ぁあッ!?」
ある一点を押し上げた瞬間、千鉱が悲鳴を上げた。思わず逃げを打った腰を抑え込み、前立腺を探り当てた男が淡々とそこだけを狙い突けば、嬌声へと変わるのにそう時間はかからなかった。いつの間にか三本へと増えていた指が内側でばらばらに蠢き中を広げ、千鉱を悦楽の沼へと叩き落とした。
「ふッ、あ、んぁっ、ぁああ!」
喉を晒して一際大きく震えた千鉱の性器からびゅくりと白濁が吐き出される。ふっ、ふっと小さく呼吸を乱しながらぐったりと男へ凭れ掛かる。ぴくぴくと痙攣する体はまだ絶頂の余韻を味わっているようだ。
上質なシーツの上に千鉱を横たえ足を広げさせ、男がその細い体を見下ろしながら前立てだけを寛げると、そそり立った剛直が現れた。涼しい顔で千鉱の香りを堪能しながら扱き、亀頭をひくつく後孔へと押し当てる。何よりも待ち望んでいた体が燃えるように熱くなり、開いた蕾が雄を呑み込んだ。
「ひぁ…っ、う、ぅんっ…!」
詰まった内側の肉を押し上げながら、焦らすようにゆっくりと侵入していく。耐えるように固く閉じられたせいであの赤い瞳が見えていない。半ばまで挿入してから一度動きを止めた男に、千鉱が詰めていた息を微かに緩めた瞬間、一気に最奥まで貫いた。
「んぁああッ───!」
「っ、は」
搾り取るように蠢く肉壁に、男が片目を窄めて嗤う。達しそうになるのを抑え、ローションを馴染ませるように腰を穿つ。ぐちゅ、ずぷ、と聞くに絶えない卑猥な音を鳴らしながら段々と穿つ速度が早くなっていく。
「あッ、やぁ!んぁ、い、ぁあ!」
ギシギシと寝台を軋ませる音が性交の激しさを物語る。抉るようなストロークに、シーツを固く握り締める千鉱の手に男の指先が絡みつく。
「おく、やっ…ぃく、ぁあ!あっ、あ」
「千鉱」
限界を訴え半ば焦点の合わない千鉱の瞳を覗き込む。赤と朱が混ざり合い、揺れていた視界に唯一の男が映し出された。
「幽だ」
「ゅ、ら…?ぁあっ、だめ、ゆら…っ、イく、ぃあ───ッ!」
絶頂を迎えた千鉱の体が張り詰めた弓のように反り、深い快楽に浸る。びゅる、と勢いよく千鉱の陰茎から吐き出された行き場のない白濁が宙へ舞った。くたりとシーツに崩れ落ちた千鉱の白い体は赤く染まり、必死に呼吸する薄い胸板が上下している。はくはくと開く唇へ幽が覆い被さり、舌を絡ませながら月の紋様を撫でる。性感帯になっているのかぴくりと震える朱色の月に白濁を塗り込んだ。
体を蝕む熱が少し収まってきたのだろう。とろりと溶けていた赤い瞳が徐々に光を帯び始める。醒めない悪夢はなく、千鉱にとって耐え難い現実へ挨拶を告げる時だ。
がり、と舌に噛み付かれた幽が顔を上げる。見下ろした千鉱に陶酔の名残はなく、零れ落ちそうな程目を見開いて此方を見ていた。
「ぁ、なに…なん、で」
「何故?他でもないお前が望んだことだろう?」
唇の端から血を溢したまま、うっそりと嗤う幽。可哀想で可愛い、地に引き摺り墜とされた美しい月。愉しくて口元が歪んでいくのを抑えられず、こんなにも感情が表出するのは珍しいことだと幽は他人事のように思った。
「俺を求めて啼きながら腰を振る表情かおも中々唆られる」
「黙れ!ふざけ…んあァッ!」
ずるりと肉襞を抉りながら太い性器が抜けていき、千鉱から嬌声が溢れる。正気に戻った状態で初めて感じる快楽に大袈裟なまでに体が跳ねた。何が起こったのか理解しきれない千鉱が目を白黒させている隙を見逃さず、軽々とうつ伏せにさせられる。
「ひ、ッ」
がっしりとした腕を腹に回され、腰だけ高く上げた状態に固定される。ぴとりと熱い杭が後孔へ当てられ、千鉱の体から血の気が一気に引いていく。
「しっかり味わうといい。すぐに善くなる」
「やめ、待っ…!あ、やぁあッ!!」
どちゅん、と一気に貫かれた衝撃が千鉱を襲う。敏感な体はあっという間に高みへ昇り、一瞬白く散った意識はすぐに呼び戻され沸騰した血液が全身を巡る。
「あっ!ンあ!ぁあん!やぁ!」
がつがつと自分本位に貪られ、閉じることを忘れた口から嬌声を出すことしかできない。
「いい声だ、存分に啼けよ」
「ちが、ぁん!抜け…っ、ぬ、ゃあッ!」
前立腺を集中して攻め立てられ、快楽の濁流に飲み込まれて訳が分からなくなる。壊される、と本能的な恐怖を感じた次の瞬間、視界に真っ白な火花が散った。
「ひ、ァ────ッ!!」
強い電流が駆け巡った体が跳ね上がり息が止まった。千鉱の陰茎からは何も出ず、吐き出せなかった精は全て快楽へと変換され体内を巡り続ける。今までで最も深い絶頂の沼に沈められ、抜け出すことができない。息を詰めた幽が剛直を抜き、華奢な背中へと白濁を吐き出した。とさりとシーツに沈んだ千鉱を仰向けにし、浅い呼吸を繰り返す唇に一つ口付けを落とした。
「はぅ…っ、ぁ、あぁ…」
「後ろでイくほど気持ちよかったのか?淫乱め」
嘲笑う声に噛み付く気力など千鉱に残っていなかった。天より撃ち墜とした兎は穢れた地へと沈み、二度と手中から逃れることはできない。
「名残惜しいが今日の記憶は預かろう。いずれ共に上がる舞台で邂逅する、その時まで」
千鉱には憎悪の花を育て上げてもらわなければならない。本懐を遂げるための刃が鈍ることなど以ての外。今日の熱帯夜を忘れてしまうのは勿体無いが、この先ずっと透明な番に思いを馳せ続けるに違いない。
「お前は永遠に俺のものだ」
逃げられると思うなよ。
千鉱が意識を失うその時まで、朱く妖しい光がいつまでも此方を見ていた。