――シルヴィエはどうしているだろうか。
難しい本を手にした時、庭の花を眺める時、思い浮かぶのはシルヴィエの姿だった。
幼い頃から、隔離されて生きてきたからか、皇宮内のどろどろした汚さや人の醜さを知らず、他の者たちにはない清らかさを感じる。
その清らかさが消えた皇宮は、腐敗し淀みだけが残っていた。
――父上の考えていることがわからない。
ロザリエが皇位継承者として指名されたという噂が広がると、媚びる者が増えた。
しかし、帝国の領土を守る貴族たちは違っていた。
『帝国を治めるだけの知識と資質をお持ちでないロザリエ様に従えない』
そう伝えてきたのである。
父がその声を無視しているせいで、貴族たちとの間に溝ができていた。
そして、ロザリエの結婚相手に誰も名乗りを上げなかった。
ロザリエはそれが気に入らないようで、毎日イライラし、周りに当たり散らしている。
「ラドヴァンお兄様。車椅子を押してちょうだい」
「侍女にやらせればいいだろう?」
「私が押してと言っているの。お父様にお兄様の態度について、注意してもらおうかしら」
「あらあら。困ったこと。ロザリエは帝国を治める立場になるのだから、皇子といえど、従ってもらわないと」
――父上とロザリエの権力がなければ、なにもできない皇妃め。
俺の元には、皇妃に嫌がらせを受けた侍女や兵士などが集まり、皇宮から解放するには、理由をつけて解雇するしかない状況だ。
「そういえば、私が気に入っていた侍女がいないのだけど?」
「ロザリエが嫌だと言ったから、解雇したんだが、本当は気に入っていたのか?」
「役に立たない侍女だったから、いらないわ」
これが、シルヴィエであったら違っていただろう。
実際、世話をするのは、老いた侍女一人だけだったが、シルヴィエは文句ひとつ口にせず、侍女を労り、礼を言っていた。
「シルヴィエだったなら……」
風の音に紛れ、小さく呟いた。
「お兄様? 今、なにか?」
「いや、なにも言ってない」
「そう。ねえ、お兄様。お父様から、ドルトルージェ王国に旅行しても構わないっていう、お許しが出たの」
「旅行?」
俺がドルトルージェ王国へ行けと命じられたのは、遊びや旅行のためではない。
前回の失敗を取り戻すためだ。
アレシュの暗殺を成功させなければならないとわかっている。
だが、成功させたところで、父上は本当に俺を次期皇位継承者に戻すつもりがあるのだろうか。
――自分の子供の中で、父上はロザリエのみを愛している。
ロザリエが健康であるアピールをするため、ドルトルージェ王国へ行かせるつもりなのだ。
貴族たちが反対する大きな理由のひとつが、ロザリエの体の弱さだ。
「ロザリエはドルトルージェ王国に行って、どうするつもりだ?」
「決まっているでしょ。お姉様の惨めな姿を見たいの。噂では、アレシュ様と仲良く新婚旅行に行ってるって聞いたわ」
それは俺も聞いた。
聞き間違いではないかと思ったが、ドルトルージェ王宮に、スパイとして送り込んだハヴェルも同じことを言っていた。
「お姉様が私の体をこんなふうにしたのって、ドルトルージェ王宮で言ったら、どうなると思う?」
「恐ろしい人間だと思われ、帝国へ戻されるだろうな」
「そうでしょう? 結婚して新婚旅行までしたのに離縁されて、お姉様は帝国へ帰るの。二度と求婚者なんて現れないわ」
ロザリエはなにが可笑しいのか、ずっと笑っていた。
俺は笑えなかった。
心から、シルヴィエに戻ってきてほしいと思っているのは、きっと俺だけだ。
ここに戻ってもシルヴィエは不幸になるだけで、父上たちは以前より厳しい境遇に置くだろう。
「ねえ。ラドヴァンお兄様。一日一回はこうして散歩してほしいの」
「ああ」
「それから、夕食は一緒のテーブルで食べるのよ」
「わかった」
適当に返事をする。
俺が自分の思いどおりになるのが、よほど嬉しいのか、ロザリエは満足そうだった。
妹に気を遣い、妃の嫌みに耐える毎日。
父上は自分を『父』と呼ぶことを禁じ、声すらかけない。
「ロザリエ。散歩の時間は終わりですよ。部屋へ戻って休みましょう」
皇妃がロザリエを呼び、がっかりした顔をしていたが、体調のほうは、あまりよくないのか、素直に戻ることにしたようだ。
「じゃあ、お兄様。夕食の時にね。ドルトルージェ王国へ旅行に行くのを楽しみにしているわ」
「本気で一緒に行くつもりか?」
「もちろんよ。ねえ、お兄様」
ロザリエはゾッとするような悪い顔で微笑んだ。
その笑みを見た時、その先の言葉を聞いてはいけないような気がした。
だが、ロザリエは俺を逃がしはしなかった。
「お兄様はご自分が、お父様から愛されない理由をご存じ?」
「愛されない理由?」
「ロザリエ。秘密だと言ったでしょう?」
「でも、お母様。教えてあげないと、お兄様は皇帝になろうとするかもしれないわ。お父様の子供でもないくせに」
――父上の子ではない?
風が強くなり、ざわざわと木が揺れた。
雨が降るのか、風は湿気を含み、肌にまとわりつくような空気が、気分を不快にさせる。
ドレスの裾がはためき、ロザリエの父によく似た金髪が、目の前になびいていた。
「それは、皇妃の嘘だ。俺の母上が死んで、なにも話せないからといって、嘘を本当のように言われるのは困る」
「本当に愛し合っていたのは私だけ。 身に覚えのない子を授かった陛下は、誰に対しても疑い深くなってしまわれたのよ。なんてお可哀想な陛下!」
足元で木の影が揺れている。
俺が父上の子でないのなら、あの冷たい態度にも納得がいく。
皇帝としての『仕事』として、俺に接し、ロザリエの前では親の顔だったのだ。
「これでわかったでしょう? あなたに皇帝になる資格はないのよ。父親が誰なのかさえ、
わからないのに」
「でも、安心して。お兄様を皇宮から追い出さないでいてあげる。私にずっーと従ってくれたらね!」
「ラドヴァン。よかったわねぇ」
あまりの衝撃に、なにも言えなくなった俺の横を二人は笑いながら去っていった。
――なぜ、父上は母上の不貞を教えてくれなかったのか。
皇子であるのに、冷遇されていた理由を知ったが、そうだったのかと納得する自分がいた。
どんなに頑張っても褒めることのなかった父上。
俺とロザリエの待遇の差。
――俺は誰の子だ。
暗い影が落ちる回廊を歩き、部屋へ向かう。
部屋へ向かう途中で、シルヴィエのところにいた老いた侍女とすれ違った。
「待て。聞きたいことがある」
侍女が足を止めると、誰もいない回廊はしんっと静まり返った。
雨が降り始めて、緑の葉を叩く。
「お前が以前、言っていた自分の罪とは、俺に関することか」
侍女は床に手をつけ、顔を伏せ、怯えたように身を震わせた。
俺が父上の子でないとするなら、知っているのは、ごくわずかな人間だけだろう。
母の世話をしていた侍女たちは、年老いて皇宮から去ってしまい、誰もいなかった。
シルヴィエの世話を任されていた老いた侍女だけは――
「教えてほしい。俺に真実を伝えるために、皇宮に残ったのだろう?」
侍女は黙ったまま、なにも話さない。
このまま、話さないつもりでいるのだろうか。
――俺の母上は。
まさかとは思った。
だが、俺は『死んだ母親の遺体を目にしていない』のだ。
ただ、父上から死んだと聞かされただけだった。
「母上」
肩が震え、弱々しい声で侍女――母上は顔をあげた。
美しかった顔は、今までの苦労からか、実際の年齢よりずっと老いて見えた。
『ラドヴァンが皇帝になれば、わたくしは陛下に復讐できる……!』
その言葉を母上が口にした時、すでに父上の愛情は消え、血の繋がらない俺を皇帝にしてやろうと考えたのだろう。
それを暴かれたか、疑惑をかけられたかで、皇宮から追い出された。
皇帝の子か誰の子かわからない皇子と知った実家が、母上に手を差しのべることはなかった――
行き場のない母上は、ここで侍女として生きるしかなかったのだ。
「母上。俺は皇帝にはなれそうにない。約束を守れない息子を赦してほしい」
俺が皇帝を目指したのは、母上のためだった。
死んだ母上が生きていて、それを望まないのなら、俺が皇帝になる意味はなくなる。
「皇帝になってはいけません」
その一言が、すべてに対する答えだった。
――やはり、俺は父上の子ではなかったのだ。
「そして、私は母と呼ばれる価値はないのです。陛下の愛情を失い、冷遇されたとはいえ、皇妃として扱われていた。シルヴィエ様の暮らしを見て、自分がいかに恵まれていたか、思い知ったのです」
なにもかも欲しがりすぎていたのだと、泣いていた。
「庭師の子が皇帝になってはいけません」
庭師と聞いて、すぐに思う浮かんだのは一人の男だった。
黒髪に青い瞳を持つ男は一人だけ――ハヴェルを思い出した。
ドルトルージェ王国へ送り込んだのが、まさか自分の父親だとは考えもしなかった。
「ラドヴァン。どちらの子なのか、わからないのです。ごめんなさい……ごめんなさい……」
何度も謝る声が、雨音に重なって、ずっと耳に残った。
――不貞の子。
皇帝の子でもない俺が、皇女であるシルヴィエを裏切り、苦しめる権利があったのか。
そして、敵国に置き去りにした。
皇宮にいる資格がないのは、シルヴィエではない。
――俺だ。
雨はよりいっそう強くなり、暗い回廊の床に落ちた涙を隠した。
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