──俺のお袋は、可哀想な奴だった。
金と酒と男が好きで、毎晩夜遅くまでオッサンと酒飲んでは、朝までおせっせしておっさんの財布から金だけむしり取って帰ってくる。
でも、まあ優しい奴で、女に暴力することだけが趣味なヤクザのオッサンに殴られ孕まされ、仕方なく産んだ俺にも、良く接してくれた。
いつも朝早くから、お袋は俺を保育園に預けた。
夜遅くまで迎えに来ない。だけど保育士たちが心配していた、俺を置き去りにするような行為は一度もなかった。それどころか母は、遅くなったことをいつも俺に謝った。
お袋は強い人で、遊んではいたけれど、俺と接する時にはいつも「母親の顔」をしていた。
そこに愛があったのかはわからない。もっとも、好きでもないヤクザに孕まされ、やっとの思いで出産したかと思えばなんか角はえてるし、金もかかるし暴れまわるしで大変だ。子供に対する愛がなくても、仕方がないことのように思える。
ただ、俺はお袋のことが好き”だった”。これだけは嘘じゃない。
当時の俺はまだガキで、ガキにとってお袋ってのはクソ特別な存在で、多少突き放されても嫌いになることはない。親父も友達もいないから、寄っ掛かる相手がお袋しかいなかったんだ。
そんな中、俺に妹ができた。
俺が四歳くらいの時だった。また同じ奴にやられたって、それでも俺を産んでしまった以上殺すことはできなくて、なんで、なんでって泣きながら、お袋はチェリーを産んだ。
チェリーは可愛かった。俺と同じ色の髪なはずなのに、名前のせいか顔のせいかよく似合っていて、俺よりよっぽど美人だった。
今思えばチェリーの顔は、お袋によく似ている。対して俺の顔は、ドメスティックバイオレンスクソ親父によく似ていた。
チェリーが産まれてから、お袋はおかしくなった。
いや…………望みもしない出産を二度も経験してから、お袋はおかしくなった。
お袋は俺に、家事を教えた。俺は要領がよかったのか才能があったのか、すぐに覚えた。俺が覚えた家事からかたっぱしに、お袋は全部の家事を俺に押し付けた。
育児に疲れているだけだと思っていた。ただお袋の目的を知った今、あのときのことを思い出したら鳥肌が立つ。
───お袋が俺に家事を押し付けた本当の目的は、俺たちを自立させるためだった。
俺が小学校中学年ほどになったある日、お袋は昼になっても遊びに行かなかった。
俺たち二人に晩飯を食わせたあと、金だけ置いて…………お袋は「ごめん」と言って、家を出た。
どれだけ待っても、お袋は帰ってこなかった。あの人は、母としての責任を放棄したんだ。
今まで大事に抱えていたお袋への尊敬や感謝の気持ちが、一夜にして、すべて捨て去られたような気持ちになった。浮いてくる疑問と不安感で、肺が押し潰されたような気持ち悪さは今でも忘れない。
俺はチェリーを養った。
チェリーは年を増すにつれ、お袋に似た。でも男好きになることは全然なくて、むしろ内気で、色恋なんかには興味のない真面目な子に育った。
自分達が成長していくにつれ一番最初に困ったのは、金だ。あまりにも金がない。
仕方がないので、俺は身体を売った…………所謂、パパ活だ。そういう、不真面目ところはお袋に似たのかもしれない。
普段は分厚い眼鏡の中学生、家では四歳下の妹がいるお兄ちゃん、夜には性癖曲がったオッサンの相手するクソビッチ。自分で言うのもなんだが、なかなかに気持ち悪い。
人によってはSMだかなんだか知らんが、殴ることも殴られることもあった。いい趣味してんな、死ね。
ただ、こういうのは一部に需要があるようで、俺とチェリーはそれで飯を食ってる。ゴミみたいな話だ。
もしチェリーが生まれてこなければ、お袋が逃げることもなく、俺は幸せだったかもしれない…………なんて考えるはずもなく、俺はただただ、チェリーを危険にさらしたお袋と親父を恨んでいた。
俺たちは世の中にとって、生まれてこないほうがよかった存在だ。でもそれはきっと、そんな存在である俺たちを産んでしまったお袋に全部の責任があって、真に生まれてこないほうがよかったのはお袋と親父だ。
俺たちは何も悪くない。金に余裕のある、人生に恵まれたオッサンたちの財布から少し金をもらうくらい、別にいいじゃないか。
チェリー自身の安全とその先の人生は、今の俺に全部かかってるんだ。
お袋とは違う。俺はチェリーを、生涯かけて守り抜く。
チェリーはきっと、学校でいじめられている。
初めて気がついたのは、チェリーが連日、怪我をしたり物を壊したりして帰ってきた時だ。チェリーは人一倍警戒心が強くて頭もいいから、コロコロこけたり物を破壊したりはしないはずなんだ。
俺が「何があった」と訊いても、返ってくる答えはいつも「転んだ」の一言だった。
チェリーの性格上、隠すのは当たり前だ。こいつはいつも、俺に迷惑をかけない方法だけを考える。
「チェリー。服が破れたり、怪我をしたりしたら、俺に言え」
言いたくないなら、言い出すまで待てばいい……そんなことを考えた、俺が馬鹿だった。
チェリーに、親父とお袋について訊かれた。
そうか、覚えていないのか…………本当のことを教えるか迷ったけど、教えないことにした。
「海外にいる。海を越えた、向こうの、アメリカってとこだ」
「帰ってくるの?」
「いや。もう、きっと、帰ってこない」
曇りのない純粋な顔は、俺の真っ黒なまつげ越しにも、ひどく輝いて見えた。
それが本当に眩しくて………笑ってしまう。
それから少し会話をしたあとに、チェリーは小さな声で言った。
「私は……兄さんがいれば、それでいい」
温厚で内気なチェリーから発せられるその言葉には、妙な気持ち悪さがへばりついていた。
この時嘘をつかなければ、チェリーの呟きに返答をしていれば、なにかが違ったかもしれない……当然、そのときの俺にはわかるはずもなく、チェリーの言葉も聞こえないふりをした。
ある日、家に帰ると、チェリーの姿が見当たらなかった。
中学校より小学校のほうが早く終わるはずなので、いないのはおかしい。家中をくまなく探したが、チェリーはいなかった。
背中に変な汗が流れた。
俺は学ランを脱いでから、スマホで今日会う予定だったオッサンたち全員に予定をずらしてほしいと連絡をした。チェリーがいないなら、俺は家を出ることができない。
もっとも、彼らは俺のことが好きなので、すぐに了承された。
学校でなにかあったのか。それとも友達ができて、どこかへ遊びに行ったのか。俺はリビングに座って、チェリーの帰宅を待った。
もしこのまま、帰ってこなかったら…………チェリーの顔を思い出す度、脳内にチラつく母親の顔。
二の舞になってしまうのか。俺は何も守れないのか。
妙に長い時間だった。
玄関のドアが開く音を聞くと、夏の嫌な蒸し暑さが、冷房もない部屋から少しだけ逃げていくような気がした。空はもう暗くなっていて、帰ってきたときのような日の光がないせいか、背中にへばりつく部屋着が余計に気持ち悪く感じられる。
階段をのぼる足音が聞こえた。俺だからわかる、間違いなくチェリーのものだ。
階段からこちらを覗くチェリーを見ると、不自然なほどに俺の心臓が鳴った。
「……チェリー………!」
────は?
「兄、さん…………」
チェリーの泣き顔を見ると、脳内に、お袋の泣き声が響いた。
あぁ…………お前はつくづく、お袋にそっくりだ。
「…………誰に、やられた」
「……クラスの………………黒沢さんと、金子さんと、安藤さんと、百瀬さんと、楠見さん」
聞いたことがある。俺の中学でも、問題児で有名なクソ餓鬼5人組だ。
「……そうか、そうか。チェリー……ごめんな、兄ちゃん、」
……気付いていたのに、上手く言葉をかけられなくて。
俺は上着を羽織って、眼鏡を外した。
「兄さん…………どこか、行くの?」
「ああ。すぐ、帰ってくるよ」
ごめんなチェリー、だめな兄ちゃんで。
お前を失望させたくなくて、お前に失望されたくなくて、嘘とか隠し事とかばっかりで。
お前の気持ちなんか考えてられないくらい、自分の気持ちの整理でいっぱいだったんだ。
待ってろ、チェリー。兄ちゃんが必ず、お前を……………………
遠くに響くパトカーのサイレンに、俺は自分の拳を、もう片方の手で撫でた。
人間の頭って、固いんだな…………今までに見たことないくらいに真っ赤だ。
地面に落ちている5枚の学生証を拾った。全員、性格に負けないくらい不細工だ。
ただ、今のこいつらは、こんな綺麗な顔じゃない…………5人を見ると、涙と鼻水と汗と血液で顔がぐちゃぐちゃになっている。
「お…………おぃ、何なんだよお前……誰だよ」
「そうだ……!急にこんな…………」
はぁ……俺は5人と視線を合わせるためにしゃがみこんでから、自分の角を指さす。
「………………これがなにか、わかるか?」
途端に、5人の表情が変わる。
その顔を見ると、妙に苛ついた。
「……これは、お前らが、俺の可愛い可愛い妹奪ったもんだ。どう落とし前つけんだよ」
怖がらせてやろうと思った。ラッキーなことに、俺は笑うと犯罪者みたいな顔になる。
陰キャ女を虐めてたら、兄を名乗る中学生にボッコボコに殴られた……自業自得だ。
俺は拳を振りあげた。ここに来た目的は、こいつらを殺すことだ。
死んでくれ…………そう思えば思うほど、怯えるこいつらの顔に興奮する。
殺したら、どんな気持ちになるんだろう………あげた拳を振り下ろそうとしたその瞬間、背後から声が聞こえた。
「お、イケメンなお兄さん発見。君たちは、こんなところで何してんの?」
振り返ると、女がいた。綺麗な金髪は、血にまみれた路地にはだいぶ不似合いだ。
「たっ…………助けてくれっ!」
1人が声をあげた。
「あら?君、暴力してるんだ。その子達、なんか悪いことしたの?」
能天気な笑顔に、鈴のような高い声。
今にも崩れそうだけど、なぜか耳には残る、印象的な声だった。
「…………こいつらは……俺から、大事なもんを奪った」
「ふぅん」
そちらから訊いてきたのに、また随分と興味のなさそうな返事だ。
女はこちらに向き直ると、俺に手を差し伸べる。
「…………ねえ、ルナ。俺と、友達になろう」
大通りの車の光が、女が着ている黒い服に、淡く反射していた。
「奪われたなら、奪い返せばいい。失くしたなら、他のもので、その分を埋めればいい」
女は笑う。
わかっていたのに。俺は…………差し伸べられた手を、どうしても拒めなかった。
黙ったままのユヅルに、ルナは畳み掛けた。
「ボスが、手を差し伸べてくれたから…………だから俺は、お前についていったんだろぉが!」
───洗脳なんて、してないんだろ。なぁ、ボス…………
信じられない、信じたくない。
「…………なんか、言えって──」
見ていたチェリーが、声をあげた。
「……兄さん。あなたは、何を夢見ていたの?」
今までユヅルに向いていた視線が、ぐっとチェリーに向く。
それでもチェリーは怯まずに、続けた。
「兄さんは、その男に何を期待していたの?…………兄さんはずっと、私のことが大切だったはず。大変な思いでお金を稼いで、私を養ってくれていた……そいつはそんな兄さんを、私から、強引に引き剥がした」
「………………」
「しているはずないとは思っていたけど、していても不思議じゃない。なんせその男は…………今まで自作自演で多くの子供を騙して、自分を守るための捨て駒として、私たちにぶつけてきたのだから」
「そんなこと………」
ルナがなにかを言いかけた、その時。
「チェリーちゃん…………っ!!大丈夫!?!?」
ドアが物凄い勢いでゴーン!!と開いて、ツキミが飛び出してきた。
「おいツキミ、お前急ぎすぎ…………」
「ツキミさん待って、その怪我で突っ込んで行くなんて…………」
ほぼ同時に、カエデとソーユまで走ってくる。
「ツキミ……カエデに、ソーユも…………!」
三人に遅れて、ユズキも部屋に入ってきた。
「…………赤座さん。ご無事で何よりです」
「ユズキまで。みんなも、無事でよかった」
「少々苦戦してしまい……遅くなって、申し訳ございません」
今までのピリついていた空気は、ツキミの爆音ボイスで完全に払拭されてしまった。
目の前の敵に、5人は向き直る。
「……あれ。まだ戦ってないん?」
ツキミは能天気に呟くと、ルナを見て「おぉ~っ」と声をあげた。
「こりゃまた、えらいべっぴんさんですなぁ」
「……は?」
「はぁやないで。ええやん、こんなとこおらんで、ホストとか儲かるんちゃう?」
「あ、あぁ……?そりゃ、どうも」
ユヅルへの苛つきとツキミへの困惑で、ルナは言葉を失った。
「……ちょっとツキミさん。ルナ、引いてるよ」
「あぁ、知ってる。せやけどそれは問題やない、関係あらへんわ」
まだまだ続きそうなツキミの言葉を、チェリーが一回コホンと咳をして制止する。
「………………兄さん。考え直してみたら、どうかな」
「え、何のはなs───」
言いかけたツキミの口を、ソーユが塞ぐ。
「兄さんのいるべき場所は、ここじゃ……」
「…………うるせぇ。黙れ」
「いいえ、黙らない。……あの頃には戻れないけど、私はあの頃のように、兄さんと暮らしたい」
チェリーはルナをしっかり見て、言った。
「兄さんは、ユヅルに騙されている」
するとその時。
「………………あぁ、うるっさい!!」
今までに聞いたことがないほど甲高い声をあげて、ユヅルが叫んだ。
「そうだよ、俺はルナを洗脳したよ!!俺が全部やったの、でも全部ルナのためなの!!!!ルナならわかってくれるでしょ、俺はルナのためを思ってやってるの!!!!お前らには理解できなくても、ルナは俺のことが好きだから、全部受け止めてくれるの!!!!ルナは俺のこと許してくれる、絶対に!!!!ねえ、そうでしょ、ルナ…………っ!!!!!!」
チェリーも、ツキミも、みんな黙り込む。
もちろん、ルナも…………それでもユヅルはお構いなしに、ルナに言った。
「洗脳なんて関係ないよね、ルナ……もちろん、俺のこと、好きだよね?」
その場の全員が察する…………こいつ、正気じゃない。
「…………自分から洗脳しておいて、俺の気持ちに洗脳は関係ないだぁ?」
ルナはもう、ユヅルと目を合わせなかった。
「矛盾にも、程度ってもんがあるだろぉが」
そんなルナを見て、ユヅルは泣き出す。
「矛盾なんてしてない!!!!なんでいつもルナはそうやって、俺のこといじめるの…………あああああぁ………………」
そして自分の耳を塞いで、叫んだ。
「助けて、ぽんちゃあああああん!!!!!!」
ユズキとカエデが、ビクッと反応する。
「ぽんちゃん…………!?キビアイの、No.2…………」
ついに見れるんだ……ツキミは興奮で少し頬を赤らめ、ソーユは緊張で自分の服の袖を掴んだ。
やがて部屋の奥の扉から、大きな影がすっと現れる。
「はぁ…………なに、ユヅル。なんか今日はうるさいね」
その姿を見た途端、ツキミの顔色が変わった。
「……………………え?」
ソーユとチェリーは固まり、カエデとユズキは下を向く。
「ねえぽんちゃん、あいつら、殺して」
「ん?あいつら?───」
今気がついたのか、男はタヨキミメンバーに顔を向ける。
「…………あ。やべ、やっちゃった」
タヨキミメンバーの、顔を見て…………男は、恥ずかしそうに少し笑った。
「なんで、こんなとこにいんの?……ソーユ。おれ、動くなって言ったよね」
「あ────」
「……それは、こっちの台詞や。お前こそ、なんでここにおんねん」
もうわかったような、いや、わかってしまったような口振りで、ツキミは男に訊き返す。
男は答えない。代わりに、ソーユが口を開けた。
「…………おかしいと思っていたんだ。妙に早く正確な情報収集……目眩ましが上手いキビアイの情報を、あんな短時間で、あんな正確に、警察や政府が把握できるはずがない。情報収集には、てっきり警察署に行ってたと思ってたけど、そんなものよりもよっぽど早く、より正確に、情報を収集することができるうってつけの場所が…………ここに、あるじゃないか。そりゃあ、僕らの情報も筒抜けな訳だ」
みんな信じていた。この人だけは絶対に自分達の見方でいてくれるって、本気で信じていた。
積み上げてきた信頼。それを彼はいとも簡単に、自分の手で崩したんだ。
「ダブルスパイは、お前だったんだね───金栗、アキト」
それでも、まだ、信じていたい。彼の行動にはきっと、理由があるって。
ソーユの言葉を聞いたアキトは、面白そうに微笑んだ。
続く
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