不思議な静寂が
結界の内側を包んでいた。
水面のように揺れる壁に囲まれながらも
そこに籠るのは不穏な気配ではなかった。
むしろ
結界の中はどこか陽だまりのように暖かく
風に揺れる葉擦れの音が
外から微かに響いていた。
青龍は膝の上に丸くなった猫の
柔らかな毛並みに指を滑らせながら
ふぅ、と息を吐く。
「不思議な猫だが⋯⋯
まぁ、たまにはこんな時間も良かろう」
幼子の姿の青龍にとって
その柔らかな温もりは
ほんの僅かな慰めのようでもあった。
だが
その油断の下にあるのは
明確な警戒心と計算された判断力。
(結界術を使う猫⋯⋯
必ずや
時也様にはお見せせねばなるまいな)
(今は、機嫌を損ねて逃げぬよう⋯⋯
好きにさせておくのが得策か)
そんな思考を巡らせながら
猫の背を優しく撫でていたその時──
「⋯⋯玄関傍のあれ⋯⋯なんだろ?」
「⋯⋯俺が行く。
お前は下がってろ。
ハンターの罠かもしれねぇからな」
ぼんやりと、しかし確かに
聞き慣れた二つの声が
風のように結界内に届いた。
青龍はゆっくりと視線を上げる。
水面のように揺れる壁の向こう──
一人の男の影が近付いてきた。
そして、次の瞬間。
ゆらりと揺れる結界越しに
ソーレンのぶっきらぼうな顔が現れた。
「は?
何やってんだ、おめぇ⋯⋯
クソ警戒したろうが」
眉を顰めて結界を覗き込みながら
ソーレンは一歩踏み出しかけたが
足を止める。
結界に阻まれるように
その輪郭は微かに滲んで見えた。
「私とて
好きでこのような状況下にある訳では無い」
膝に乗った猫を撫でながら
青龍は顔だけをソーレンへ向けた。
目元に僅かな苛立ちを滲ませながらも
口調は変わらず威厳に満ちていた。
「時也様を呼んできてくれんか?
その方が、話が早い」
ソーレンはしばし唖然としたように
青龍と猫を見比べたが──
やがて呆れたように溜め息を吐き
踵を返す。
「やれやれ⋯⋯
朝から面倒ごとばっかりだな」
その背が去っていくと
再び結界内は静寂に包まれた。
青龍は膝上の猫に目を落とし
ぼそりと呟いた。
「⋯⋯さて、お前は何者だ?
まさか、主を弄ぶような真似⋯するまいな」
猫は応えることもなく
ただしっぽをふわりと揺らして
喉を小さく鳴らした。
「可愛い猫ね!
この猫が、こんな事してるの?」
レイチェルが
結界越しに膝の上の猫を見て
ぱっと目を輝かせた。
レイチェルの良く通る声に
猫は一瞬だけ目を開けた。
長く柔らかな毛並みに
まるで宝石のように透き通った蒼の瞳。
その神秘的な雰囲気に
彼女の好奇心が一気に弾ける。
「そのようでございます。
故に、時也様に一度見て頂こうと
留めておきました」
青龍は相変わらず膝に猫を乗せたまま
静かに応える。
しかし
レイチェルは呆れ顔で肩を竦めた。
「留めて⋯⋯っていうより
青龍が留められてるけどね?」
「それを言わんでくだされ⋯⋯」
青龍がぐぬぬと小さく唸ったその時
奥の通路から足音が聞こえた。
ソーレンと時也が、並んで姿を現す。
「おやおや、青龍。
猫と戯れて
戻ってこないのかと思ってましたが⋯⋯
妙な事に巻き込まれてますね?」
柔らかな笑みを浮かべながら
時也は結界の外側から青龍と猫を見下ろす。
その隣でソーレンは
やれやれといった表情をしていた。
「掃除の途中で、申し訳ございません」
いつもの口調ながら
青龍の顔には一抹の恥が浮かんでいた。
時也とソーレンが
並んで結界に手を伸ばしてみる。
水面のように柔らかく揺れるが
濡れることも押し返されることもなく──
まるで向こう側が
別の世界であるかのように
手は中へ通らなかった。
「⋯⋯ふむ。
少し衝撃を与えてみましょうか」
時也が近くの桜に目を向けると
ひとひら、ふたひらと花弁が風に舞い──
やがて彼の周囲に渦を巻くように集まり出す。
一瞬で鋭い刃となった花弁が
結界に向かって放たれた。
キィン──⋯
水面のように揺れただけで
結界に傷はつかず、空気すら振動しない。
「全員、離れろ。俺がやる。
青龍⋯⋯潰されても、文句言うなよ?」
「ふん。
結界が解ければ
直ぐに出れば良いだけの事だ。
構わぬ、やれ」
不敵に返す青龍の言葉に
ソーレンの口角が僅かに吊り上がる。
時也とレイチェルが
後ろに下がったのを確認すると
ソーレンは腕を振り下ろすように
重力を結界に集中させた。
大気が唸り、地面が軋む。
ゴッ⋯⋯ッ!
結界の外周を囲む石畳が沈み込み
ひび割れ
足元の土が押し潰されて沈下する。
しかし
結界そのものと、その中の空間には──
何の変化も無い。
「⋯⋯はぁ。
情けないな、その程度の力とは」
膝の上の猫を撫でながら
青龍がわざとらしく大きな溜め息をついた。
その一言に
ソーレンの眉間がピクリと動く。
「閉じ込められてる奴と
猫如きにバカにされてる気分だわ⋯⋯」
さらに力を込めて
加圧を高めていくソーレン。
地鳴りが激しさを増し
桜の枝すら微かに揺れる。
しかし──
結界の内側は
変わらぬ静寂に包まれたままだった。
「⋯⋯ソーレンさん、落ち着いてください。
庭が崩壊します」
時也の落ち着いた声に
ようやくソーレンは
舌打ちして腕を下ろした。
「⋯⋯恐らくですが
この結界内は異空間なのでしょう」
時也が再び、掌を結界に添えながら言った。
「全ての事象が遮断されている。
空間が異なれば、物理的にも
術的にも干渉できないのは道理です」
「私もそのように感じておりました。
私の爪すらも無意味でしょう」
「⋯⋯なら、なんで煽りやがったんだよ
このクソチビ!」
ソーレンの目が険しくなるのと同時に──
ふわぁ、と欠伸をする音が
結界の中から響いた。
猫だった。
青龍の膝の上で丸まっていた猫が
ようやく眠りから目覚めたのか
背中を反らせて大きく伸びをする。
そして
のそのそと地面に降り
毛繕いを始めた──
その瞬間。
パシャン──⋯。
結界の壁が
静かに光を纏って波紋のように揺れ──
ゆっくりと、その存在ごと消滅していった。
あまりにも自然に、音もなく。
「⋯⋯え?」
レイチェルがぽつりと呟く。
そこにはもう結界は無く
猫を足元に侍らせた青龍が
ゆっくりと立ち上がる姿があった。
「⋯⋯どうやら
出してやる気になったようだな」
そう言う青龍の足元に猫が擦り寄り
喉を鳴らしていた。
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