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「⋯⋯とりあえず
連れて中に戻りましょうか。
朝食の時間ですしね」
静かに微笑んだ時也が
しゃがんでそっと腕を差し出すと
猫は一度だけその蒼の瞳で彼を見つめ──
そして、ふわりと身を預けた。
長い毛並みが
日の光に銀灰色の光沢を帯びて揺れる。
その小さな身体は、意外なほど軽かった。
猫は抵抗する様子もなく
まるで最初からそう決めていたかのように
時也の腕の中にすっぽりと収まった。
肉球がやわらかく彼の腕を踏み
長い尾がゆるく巻きつく。
時也の胸元で
丸くなった猫を見下ろしながら
レイチェルがぱっと目を輝かせた。
「ねぇねぇ、時也さん!
この子、飼うの?」
軽く弾む声に
時也は苦笑を含ませながら答えた。
「ふふ。
先ずはアリアさんに
お伺いを立ててから⋯⋯ですね」
その名を聞いた瞬間
どこかで風の音が強くなった気がした。
まるで猫ですら
その名の威厳を理解しているかのように
耳がぴくりと動く。
「得体の知れん猫を、許すかねぇ?
俺は、おちょくられたみてぇで
ムカついてっけど」
ソーレンがぶっきらぼうに吐き捨て
わざと時也の隣を大股で通り過ぎる。
猫はちらりとも視線を寄せず
むしろ時也の腕の中で喉を鳴らしていた。
「猫の方は
お前の事など
気にも止めておらんようだがな」
青龍が、肩を払うようにしながら
面白くもなさそうに呟いた。
ソーレンの額にまたもや青筋が浮かぶが
猫の方は完全に無関心を貫いたまま
気持ちよさそうに身体を丸めて目を細める。
「はぁ⋯⋯ったく、どいつもこいつも⋯⋯」
そうぼやきながらも
ソーレンはレイチェルの横に並び
ついでのように彼女の背を軽く押した。
「⋯⋯まぁ、腹ぁ減ったし
朝メシにしようぜ」
「うんっ!
わたしも、お腹ぺこぺこ!」
四人と一匹は
朝の日差しの中
喫茶桜の玄関をくぐっていった。
抱かれた猫だけが
最後にひとつだけ振り返り──
まるで、何かを想うかのように
静かに目を細めた。
⸻
「⋯⋯少しの間
ここで待っていてくださいね?
朝食が終わったら
洗って差し上げましょう」
時也は優しく声をかけながら
玄関のマットの上にそっと猫を降ろす。
その手が
一度だけ撫でるように背中を過ると
猫は身じろぎ一つせず
静かにその場に香箱座りをした。
知らぬ場所の匂いを確かめるように
鼻先を軽く震わせながら周囲を見渡すと──
やがて瞳を閉じ
しっぽを体に巻き付けて
まるでその場に溶け込むように
穏やかに待ち始めた。
「ふふ⋯⋯お利口さんですね。
では、少しお待ちくださいね?」
時也は扉の前で一度だけ振り返り
静かに微笑むと、リビングへ戻っていった。
扉の向こう
朝の喫茶桜の居住スペースのリビングは
あたたかな朝食の香りに満ちていた。
全員がそれぞれ席につき
すでに並べられた食器と湯気の立つ食事に
自然と笑顔がこぼれる。
時也も手を洗ってから
アリアの隣へと腰を下ろした。
「では、どうぞお召し上がりください」
その一声で、皆が手を合わせる。
「いただきます!」
レイチェルが元気よく声をあげ
ソーレンもぶっきらぼうにそれに続く。
青龍は椅子の上で正座のまま丁寧に一礼し
アリアは無言でフォークを取った。
会話が交わされる中
時也はふと手を止めて
アリアに向き直る。
アリアは静かにパンをちぎり
黙々と口に運んでいた。
「アリアさん。
先程、庭に猫がおりまして⋯⋯
それが、少し不思議な猫なのです」
その言葉に、アリアの指先が止まる。
だが顔を上げることはせず
ただ耳を傾けるように
微かに睫毛を揺らす。
「その猫は
結界のようなもので
青龍を閉じ込めておりました」
青龍も補足するように、静かに口を開いた。
「水面のように美しい
まるで異空間のような結界でございました」
時也と青龍の言葉に
アリアの眼差しがゆっくりと上がる。
静かな深紅が
時也の鳶色と真っ直ぐに交差した。
「朝食の後
その子を洗ってからお連れしますね。
雑菌やノミなどがあれば、大変ですから」
アリアはただ一度、確かに頷いた。
その仕草だけで、時也の表情はやや緩んだ。
食事を一人手早く終えると
時也は食器を整えながら
レイチェルへと声をかけた。
「レイチェルさん
アリアさんに食後のコーヒーを
お願いしてもいいですか?」
「はーい!」
レイチェルの明るい返事に
時也は小さく会釈をし、席を立った。
シンクへ食器を運び終えると
玄関へ向かう。
扉を開けると
猫は先程と同じ姿勢のまま
香箱を組んでじっとしていた。
「⋯⋯お待たせしました」
静かに語りかけながら
時也は膝をついて猫を抱き上げる。
猫はやはり抵抗することもなく
時也の腕の中で丸くなり
ただ小さく喉を鳴らすような震えを見せた。
(⋯⋯賢い猫さんで、助かりましたね)
そう心中で思いながら
時也はバスルームへと向かっていった。
猫を降ろして浴室の扉を静かに閉めると
時也は着物の袖を襷紐で纏めていく。
ぬるま湯の張られた浴槽の傍で
猫を前に椅子に腰を下ろした。
「さあ、少し失礼しますね⋯⋯
嫌だったら、ごめんなさい」
小さく囁きながら
まずはぬるま湯を指ですくって
背にかける。
⋯⋯だが、猫はまったく動じなかった。
むしろ
目を閉じて
まるで湯の温もりを楽しんでいるかのような
表情を浮かべる。
その姿に
時也は内心の驚きを隠せなかった。
(⋯⋯もっと、手間取るかと思いましたが)
泡立てた石鹸を指の腹で馴染ませると
毛並みの奥に溜まっていた
灰色の汚れが徐々に落ちていく。
それとともに現れたのは
眩いほどに白い毛。
「ふふ。
貴女⋯⋯凄い美人さんだったのですね」
真珠のように輝く毛並みが
濡れた身体に沿って張りついている。
その毛色は
まるで雪原を思わせる純白だった。
湯をかけて泡を流し終えた後
時也は大きめのバスタオルで
猫の身体を丁寧に包む。
「すっきりしましたか?
では、しっかり拭いてあげましょうね」
猫は再び目を細め
まるで擽ったいような表情で
タオルに身を委ねていた。
ドライヤーの微風をあてながら
時也は手櫛で毛を梳かしていく。
毛並みはふわりと広がり
艶やかに光を帯びてゆく。
「⋯⋯綺麗ですね。まるで、雪のようです」
手の中の命に、時也は微かに微笑んだ。
まるで
どこかの貴族にでも飼われていたような
不思議な気品と存在だった。