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墨で塗り潰したような海を越える。星の導きがなければ誘い込まれ、飲み込まれてしまいそうな魔力を秘めた漆黒の海だ。
ユカリとレモニカはグリュエーから魔法少女の杖に乗り換えてウィルカミドの街へと急ぐ。
「さっきはあのように言いましたが」とレモニカが言いにくそうに言う。
「さっき?」とレモニカは尋ね返す。耳を塞ぐ風の音でレモニカの声が遠かった。
レモニカがユカリの耳元で口を開く。
「モディーハンナが転向した理由。やはり、わたくしのせいかもしれません」
「ああ、何か言ってたね。あまり話の流れが分からなかったけど。元々アルメノンのやり方にモディーハンナが反目していて、でも何かのきっかけで心変わりして譲歩した、ってことで良いのかな」
「はい。おそらく。そしてその心変わりですが、前にわたくしの変身した姿で驚かせてしまったのです。あれがきっかけかもしれません」
「前にっていつのこと?」
「フォーリオンの海の上に閉じ込められていた時、モディーハンナと出逢った時ですわ。彼女が最も嫌っている者はライゼン大王国の騎士でした。それも古い記憶なのか、負の感情がそうさせたのか、実際以上に禍々しい鎧姿にわたくしは変身していました」
「そんなに? そりゃあ一番嫌いな生き物を目の当たりにするとそれなりの衝撃は受けるけど」
ユカリに関しては、自身が実の母をそれほど嫌っている自覚がないのでもう慣れたものだった。
「絶叫して気絶してしまいました」
「それは、強烈だね」ユカリは正直に思ったことを話す。「何か嫌な記憶を思い出してしまったのかもしれないね。だとしても不可抗力だったんでしょ?」
「それはそうですが。わたくしの呪いが姉アルメノンによるものいうことであれば、モディーハンナの考えが変わったことと併せて考えると悔しくて」
「確かにアルメノンに都合のいい展開ではあるね。あっ! 見て!」
行く手の暗い海の底に空気の神殿を戴いた街が現れる。地上に、あるいは海底に取り残された人々はやはりあの泡の中で生き延びているらしい。街のあちこちに眩い松明が掲げられ、救済機構の寺院も篝火を煌々と焚いている。陸に生きる者が見ることのできない様々な海の生き物がその営みを曝け出し、魚や貝、甲殻類や軟体生物たちが生涯決して目にすることのない篝火に照らされ、鱗や殻を輝かせていた。海に沈んだ光の街は生と死の幻想を纏い、夜空の神秘も霞む幽玄な輝きを放っている。
ウィルカミドの上空を、あるいは海上を怒り狂うように激しい渦が巻いていた。渦は海面を抉り、漏斗状に海中へと伸び、先端は泡の街へと突き刺さっている。そしてシャリューレとモディーハンナ、そしておそらく聖女アルメノンの乗った船が抵抗することなく大渦を滑り降りて行った。
二人は渦の上空を巡る。二人には見覚えのある大渦だった。
「渦の底に何かいる」とユカリは呟く。
何やら黒い影が蠢いている。
「あれは……蛸ですわ!?」とレモニカは言う。
「うん。いや、待って。あれは烏賊だよ!」とユカリは言う。
「ユカリはどっちも美味しいって言ってた」とグリュエーが言う。
まるで蛇の巣だ。巨木の如き触腕が手招きするように蠢いている。そして大渦の中心に鎮座している、その体は銀河の如く煌めいている。全身を覆う粘液、墨は大部分を漆黒が占めているが、所々は白銀に輝いていて、星々の渦巻く星雲のようだった。銀河の墨はどくどくと溢れ返り、絶えず体の表面を流れ、体の表面から流れ出し、大渦を宇宙の景色に染めている。
体そのものが蕩けた夜空で出来ている。吸盤のそれぞれが口、いわゆる烏鳶のようで、ぱくぱくと開閉し、奥には鋭い牙までもが並んでいる。まさにその無数の烏鳶吸盤から、獲物を前にした獣の涎のように液化した銀河が湧き出していた。
ユカリは叫ぶ。「蛸の王! もしくは烏賊の王! ないしは頭足類の王よ! もしかして私たちの前に立ちはだかっていますか!?」
星々に浸された触腕が蠢いて、吸盤の一つ一つがユカリの問いに答える。
「ああ、その通り」「だけど僕自身がしたくてやってるわけじゃない」「ここを通り抜けた女の持っていた剣の魔力に従えられているんだ」「まったく」「何で僕がこんなことをしなきゃいけないんだ」
溟海の剣は海だけでなく、海の生き物までをも操ることができるということになる。だとすれば大地の剣は人間を従えられても良さそうなものだが、ユカリが知る限りそれはできそうにない。
「勘違いなら申し訳ありませんが、前にも私のことを海に引きずり込みませんでしたか!? 二、三か月前のことです」
フォーリオンの海の御前へと引き立てられたあの時、ユカリを引っつかむようにして連れ去った。あの時は不思議な海流だと思っていたが。
「ああ、君のことは覚えているよ」「あれだってそうだ」「フォーリオンがやれというから仕方なくね。気を悪くしないでくれ」「僕だって王の座にある存在なのに、どいつもこいつも良いように使いやがって」「ここもそうだ。全力で守らざるを得ない」「とどのつまり僕にとって海とは世界そのものだからね」「逆らえやしないのさ」「ああ、恨めしい」
ユカリを狙って海中から触腕が飛び出してくる。ユカリは慌ててかわし、舞い上がろうとするが、触腕の長さには限界がないのか、どこまで逃げても触腕だけが延々と伸びて追ってきた。
「どうやってウィルカミドに入ろう!?」ユカリはレモニカに助けを求める。
「ウィルカミドの方を持ち上げることはできませんの? その大地の剣で」とレモニカは提案する。
「とても大胆で素晴らしく私好みの案だけど無理だよ。あくまで大地に起こりうる現象を任意に起こすだけだから。大規模な隆起を起こすってことはそのまま強い力で突き上げることになる。街が滅茶苦茶になっちゃう。……でも使えそうだね」
ユカリは銀河に濡れた無数の触腕を誘い出すように、少しずつウィルカミドから離れていく。濡れたように煌めく星々が群れになって流れになってユカリとレモニカを追い回す。
「ユカリさま、本体が追ってきてませんわよ」
「大丈夫だよ。あの触腕が一本でもついて来てくれたらね」
ユカリは大地の剣を握り、その魔力の感覚を探る。どれくらい街から距離をとればいいか、どの程度の力で造山すればいいか。ユカリが狙いすまして剣を振ると、海底の一部が一息に盛り上がり、沢山の触腕が陸に打ち上げられた。海の中の土の塊の上で触腕が苛立たし気に蠢き、新たな地面を叩く。
「こんなことしたって僕は止められないぞ」と出来たばかりの島の上で蛸か烏賊、もしくは頭足類の王の烏鳶の一つが言った。
「僕の触腕からは逃げられないんだ」吸盤たちが次々に口々にそれぞれに喋り散らす。
「絞め殺そう」「命令だ」「何だこんなもの」「殺せとは言われてない」
「捕まえろ」「フォーリオンに感謝されるかも」「何だあんな奴」
「何のために陸を持ち上げたんだ?」「いいから捕まえろ」
「分からないなら離れておけ」「追え追え、上だ!」
「降りてくるぞ」「そら、今だ」「飛び掛かれ」
「すばしっこい奴め」「どこに行った?」
「やっぱり降りてくる」「何だ?」
「僕たちからかわれてる?」
「飛ぶのに疲れたか?」
「靴を履き替えてる」
「何のために?」
「何だあ?」
「げほ」
塔の如く急峻に盛り上がった海の山、あるいは島、その上に魔法の白霧が溢れかえる。あらゆる呼吸する生命を昏倒させる瘴気が、持ち上げられた大地と『珠玉の宝靴』の間から噴出し、烏賊か蛸かそのどちらもの王の烏鳶から吸い込まれていく。頭足類の王とて魔導書の魔力には敵わず、意識を失うとその沢山の触腕は縮んでいった。
「さあ、戻ろう」
ユカリとレモニカは縮む触腕を追うようにして再びウィルカミドへと急ぐ。