公園の小川で性別不明の遺体が発見された、その一報を制服警官から受けて現場に駆けつけたのは、部下からは恐れられつつも慕われているヒンケルと、そんな上司と現場に出かけることの多いリオンだった。
顔馴染みの制服警官から手短に事情の説明を受け、遊歩道に引き上げられて布を被せられている遺体の傍にしゃがみ込み、そっと布を持ち上げて顔を引きつらせてしまう。
「……何日くらい経ってるんですかね、ボス?」
「解剖しないと分からないだろうな」
布の下から見える遺体は長い間水に浸かっていたからか、生前の面影を探すのが難しいほどに膨れていて、身元の判別に苦労しそうだという予感を抱かせる程だった。
どんな類の死体であれ好んで見たいとは思わないが、水死体も可能な限り避けたいと思っているリオンが立ち上がって空を仰いで嘆息すると、同じく立ち上がったヒンケルが近付いてくる男に気付いて親しげな笑みを浮かべて手を出す。
「久しぶりだな、カール」
「久しぶりだな、警部。……問題児も一緒か」
「誰が問題児だって?」
カールと呼ばれたのはヒンケルと同じ年頃の男で、リオンやヒンケルとも顔馴染みの法医学者カール・エッケルトだった。
ヒンケルが差し出す手を握って笑みを浮かべ、次いでリオンの手をわざときつく握ったカールは、リオンの口がへの字に曲がったのを見届けると同時に表情を切り替え、先程まで彼らが見ていた布を少し大きく持ち上げて死体を法医学に携わるものの目でじっくりと見つめていく。
「詳しいことは後で報告するが、水に浸かっていたのせいぜい1、2日かな」
この川と合流する支流から流されてきたのかとヒンケルが問い掛けるが、詳しいことは解剖しないと分からないとだけ答えたカールは、詳しく調べた結果を報告するからそこの問題児を寄越せと告げて立ち上がり、腕を組んだリオンに睨まれても何処吹く風で肩を竦める。
布を被せたまま担架で車へと運ばれていくのを見るとは無しに見ていたリオンだったが、カールがこれから解剖に取りかかると言い残して背中を向けた為、連絡を受けたらすぐに行くことを叫んで伝えると、ヒンケルへと向き直ってこの後の指示を待つ。
「どーしますか、ボス」
「一度署に戻って皆と手分けをして捜査だ」
「Ja.」
ヒンケルの決断に短く返して現場を立ち去ろうとした時、死体の発見現場から少し離れた草むらの中で光る何かを発見し、先を行く頭ひとつ以上小さな背中に声を掛けてその光の元へと駆け寄って目を瞠る。
光を発していたのは長さが5センチほどの小さなロザリオらしきものだったが、鎖は途中でちぎれてしまっていて、十字架から伸びる鎖が辛うじて残っているだけだった。
だが、その残っている鎖のひとつひとつの珠の大きさや並びが既視感を覚えさせ、ラテックスの手袋を嵌めた手でそっと持ち上げたリオンは、陽光を弾いてくるりと回転するそれを見つめて首を傾げる。
「どうした?」
「ボス、これ」
「あの死体のものか?」
「どうですかね……調べて貰いましょうか」
水辺からは少し離れているがこの草むらは遊歩道との境にある為に何らかの関係があってもおかしくないと判断したことを告げるとヒンケルが少し考え込むように腕を組むが、リオンの言葉を受け入れることにしたのか、近くにいた鑑識の警官にそれを渡すように指示を出す。
「頼むな」
「りょーかい」
鑑識の警官達ともそれなりに付き合いがあって仲が良いリオンの言葉に頷き、現場で発見した貴重な証拠になる可能性のあるロザリオらしきものを受け取って袋に鄭重に入れる。
「……何処かで見たか、あれ」
袋に入れて運ばれる物をじっと見ていたリオンは無意識に小さな呟きを零してヒンケルにどうしたと問われて何でもないと首を振って己の疑問を掻き消そうとするが、その小さな疑問は喉に引っかかった何かのような不気味さでリオンの中に居座り続け、ヒンケルを助手席に乗せて署に戻る時でさえもずっと考え込んでしまうほどだった。
日頃はまるで幼稚園児のように騒ぎ、職場でも子ども扱いされることが往々にしてある部下が珍しく真剣な顔で考え込んでいるのを助手席から見守っていたヒンケルもリオンの様子が気になるもののどうしたとは問えずにいて、気が付けば車は警察署付近に戻ってきていた。
ヒンケルを入口前で下ろして車を所定の場所に停め、何となく正面玄関から入りたくなったリオンが建物を回り込んでヒンケルが一足先に入っていったドアを潜ろうとした時、シスターの衣装に身を包んだゾフィーと同じくブラザーの衣装を着けたブラザー・アーベルがやってきてリオンに手を挙げて合図を送る。
「リオン!」
「ん?ゾフィーとアーベルじゃねぇか。どうしたんだ?」
署内に戻ろうとしていた足を戻して振り返ったリオンは、小走りに駆け寄ってくるゾフィーとゆっくりとやってくるブラザー・アーベルにも笑みを見せ、今日は一体どうしたんだともう一度問いかけてバザーの打ち合わせだと答えられる。
「あーそう言えばこの間もそんな事言ってたよな、ゾフィー」
「そうよ。もうすぐバザーなんだから。今回は色々あるみたいだし、マザーも念入りに準備をしたいそうよ」
小さな教会とそれに併設する児童福祉施設を運営していくには当然ながら金が掛かるが、教会から幾ばくかの資金を受けていてもやはり施設で日々成長していく子ども達を養う為には不足していて、その不足分を補う為にマザー・カタリーナはバザーを行ったりチャリティイベントを行ったりと、子供たちの成長に必要不可欠な支援を取り付ける為に東奔西走していたのだ。
そんな彼女を幼い頃から見続けているゾフィーもそれを手伝うのが当たり前になっていて、今日もマザー・カタリーナの右腕として忙しく働いていたのだ。
そんな事情を彼女の少し疲れたような表情とそれを上回る誇りから察し、隣で穏やかな笑みを浮かべるブラザー・アーベルにお疲れ様と声を掛けたリオンは、背後のドアが開いて人が出てきたことに気付いて振り返り、自他共に認める男前が眠そうな顔で立っているのを発見すると、これから捜査会議だろうと笑って男前の腹を拳でひとつ叩く。
「……川で見つかった死体に関してはお前に任せると警部が言っていたぞ」
「げー。皆で手分けして捜査だって言ってたのにな」
あのクランプス、人が嘘を吐けば殴る癖に自分は嘘を吐いても平気なのかと舌打ちをし、自他ともに認める男前、ジルベルトに同情の目で見つめられて口を尖らせる。
「せいぜい頑張れよ」
「シャイセ」
どこに出掛けるか知らないがさっさと行けと罵ってその背中を蹴り飛ばしたくなったリオンだが、ジルベルトを呆然と見つめるゾフィーの様子がおかしいことに気付き、背中を蹴り飛ばす代わりに肩に腕を回してゾフィーの名を呼ぶ。
「ゾフィー?どうした?」
様子がおかしいのはどうやらゾフィーだけではなく己が腕を回しているジルベルトもそうだったようで、理由は分からないが身体を強張らせるほど緊張しているらしいジルベルトとゾフィーの顔を交互に見つめてどうしたと問い掛けるが、どちらからも返事が無くて焦れたリオンがゾフィーをもう一度呼ぶ。
「……何でお前がここにいるんだ?」
「それは……こっちのセリフよ。まさかあんた……いえ、あなたがリオンの同僚だったなんてね」
ジルベルトの呟きとゾフィーの嫌悪感すら滲ませた声にさすがにリオンが驚いてもう一度二人の顔を交互に見つめつつ本当にどうしたんだと声を潜めると、ジルベルトがリオンの疑問から逃げるように手を挙げて大股に立ち去っていってしまう。
「ゾフィー、ジルを知ってるのか?」
「……うん、知ってるというか……キザでいけ好かないヤツだって思ってたけど、まさかあんたの同僚だったなんて……」
信じられないと思わず親指の爪を噛みながら忌々しげに呟く彼女の様子に眉を寄せ、自分が知らない所で接触があったのならばどちらかから必ず話が耳に入る筈なのにそれがなかったことに対して違和感を抱き、何処で知り合ったんだと思わず刑事の貌で問い掛けると、いつだったかマザーと二人でいるときに職務質問をされ、その時の対応が激しく気に食わなかったんだと吐き捨てるように教えられて更に目を細める。
マザー・カタリーナと二人で出かけるときにはゾフィーの姿は今と同じの筈だが、一目でシスターと分かる人物に職務質問をするなどあまり考えられないことだった。
だが、もしも何らかの事件に関係しての職務質問であれば当然行われるため、己の直感が得た違和感を無理矢理押し殺したリオンは、あんまり良い印象を抱いていないみたいだがあれでも優秀な刑事だから気をつけろと肩を竦め、今までのやり取りを穏やかな顔で見守っていたブラザー・アーベルに気をつけてくれと囁いて苦笑で返事を貰う。
「ゾフィー、アーベル、そろそろ戻るから、俺」
「ああ、気をつけてな、リオン」
「そうよ、気をつけなさいよ」
「分かってるって。じゃあな。バザーのことはまた何か決まったら教えてくれよ」
さすがにここでいつまでも油を売っているとクランプスに頭から食われてしまうと肩を竦めて仕事に戻ることを伝えると、ゾフィーもブラザー・アーベルもそれに気付いて苦笑し、自分たちも目的の場所に向かいましょうと頷き合って肩を並べて歩くゾフィーだったが、その顔には何に起因するのかが分からない安堵の表情が浮かんでいるのだった。
そんな彼女の横顔を見つめたリオンも己の前言通りに職場に戻る為、背後のドアを潜って階段を一段飛ばしに駆け上っていくのだった。
刑事部屋に戻って来たリオンを待っていたのはヒンケルの一睨みとコニーの苦笑で、遅くなったことを詫びる代わりに肩を竦めて己のデスクに腰を下ろしたリオンは、ホワイトボードに初動捜査で得られた情報が記されていくのをじっと見守りながら証拠品としてリストアップされている写真へ目を向けると、鎖がちぎれているロザリオらしきものが目に入る。
やはりその鎖の並びに見覚えがあると気付き、ちぎれた先にあったはずのメダイを見ればより確信を抱けるのだろうが紛失していることが残念だと溜息をついた時、ヒンケルが言葉で問いかける代わりに鋭い視線で見つめてきた事に気付いて肩を竦める。
「どうした?」
「……何でもありません」
今のところそのロザリオが死んだ少女が所持していたものかどうかも分からない為、いくらロザリオに既視感があったとしても口にすることは憚られてしまう。
その為に肩を竦めて何でもないと言葉を濁し、ヒンケル達が捜査の割り振りをする様子をぼんやりと見つめているといつもと同じようにヒンケルと行動することが決められ、安心と僅かの不満を胸に秘めつつ頷いてデスクから立ち上がる。
「リオン」
「Ja.どうかしましたか?」
近づきつつ呼びかけるヒンケルに首を傾げて先を促すものの返ってきたのは何でもないという一言で、だからいつかも言ったが名前を呼ぶだけ呼んでおいて何でもないなんて健忘症にでも罹ったかと上の空で呟いたリオンは、直後に頭上に生まれた痛みに首を竦め、暴力反対、暴力を振るうのならばデスクに隠し持っているチョコを総て差し出せと捲し立てて更に拳をぐりぐりと押しつけられてしまう。
「痛い痛いっ!ボス、痛ぇ!」
「うるさいっ!─さっきのロザリオだがな、リオン」
ヒンケルの言葉にリオンが上目遣いで彼を見上げるが、予想外の真剣さで見られていることに気付いて瞬きをし、今まで冗談めかしていた表情を一瞬にして切り替える。
「Ja.」
「鑑識に調べて貰うように頼んである。明日連絡が入ればカールの所へ行くぞ」
明日の朝一番に報告を貰えるように頼んであるからロザリオについてはひとまず置いておけと言われ、気になる心を閉じ込めるように笑みを浮かべて短く返事をしたリオンは、この後死体発見現場付近の聞き込みに回ることを告げられて頷き、脳味噌の片隅に引っ掛かるだけではなく心をざわつかせるロザリオの存在をひとまず封印し、ヒンケルと共に刑事部屋を出て行くのだった。
たったひとつの鎖がちぎれた小さなロザリオがリオンの心に理由の分からない影を大きく落とし、その後ヒンケルと共に聞き込み調査に出掛けた時でさえもその影の存在はじわじわと大きさを増していた。
ひとまず忘れておけと上司にも言われていたにも関わらずに何故か忘れられず、ステアリングを握っている時も第一発見者である親子に面会している時でさえも脳裏をちらちらとロザリオ型の影が掠めていた。
一体何なんだ、どこで見かけたんだと己に問いかけても明確な返事は無く、次第に疲れてきたリオンの口から流れ出すのは、恋人が聞けば間違いなく整った形の眉を顰める言葉達だった。
だが今それを聞いているのは幸か不幸かそんな罵詈雑言が日常的に頭上を飛び交う職場にいる上司だった為、一体何に腹を立てているんだとしか問われず、問われた方も理由は分からないがロザリオが気になって仕方がないと溜息混じりに返し、仕方がないヤツだと苦笑されて口を尖らせる。
「そうは言いますけどねー、俺だって思い出したくて思い出してるんじゃありません」
「そんなに気になるのか?」
「Ja.気になるというか……何かを忘れている気がするんです」
日頃は子どもじみていたりとんでもない言動でヒンケルを始めとする刑事仲間達を困らせたりしているリオンだったが、仕事となればそんなふざけた態度はなりを潜め、ヒンケルでさえも舌を巻くほどの鋭さを見せることがあり、そんな彼が引っかかりを覚えるのであれば何かが関連しているのだろうと気付いて目を細めると信号が赤になった為かステアリングを拳で殴りつけて舌打ちをする。
「ボス、思い出したいからチョコ下さい」
「バカなことを言うな。何故チョコをやらねばならない?買ってこい」
「えー。面倒くせぇからくれって言ってるのになぁ」
その反抗期真っ盛りの子どものような言葉にヒンケルが顔を赤くするが、今日の聞き込みもこの辺で切り上げようと話題を変えてリオンを促すと今度は腹が減っただの早く帰ってオーヴェにキスしたいだのと言い始め、うるさいバカ野郎とヒンケルが怒鳴る。
「ちょーっと奥さんに相手してもらえねぇしキスもしてもらえねぇからって僻んで怒鳴らなくても良いでしょうが」
「お前の思考回路は一体どうなってるんだ!?ドクに頭を開いてもらえ!」
「残念でしたー。オーヴェは精神科医なんで脳味噌は専門外でーす」
もっとも人の感情などが心ではなく頭にあるのならば専門分野だとぬけぬけと言い放つと、最早一言も言い返す気力句がない顔でヒンケルが額を押さえ、溜息混じりに煙草に火をつける。
「……ボス」
「何だ」
「明日、朝一番にカールの病院ですか?」
「ああ、そうだな……今日中にある程度の結果が報告出来ると言っていたからな」
「そっか……じゃあ明日は直行した方が良いですか?」
明日の朝一番にカールが所属する病院へと向かった方が良いのかと尋ね、前の車にあわせてゆっくりとアクセルを踏んで署に戻る道を進み出したリオンは、確かにその方が都合が良いから病院で合流しようと頷かれて短く返事をする。
「分かりました。じゃあ明日朝は病院で」
「ああ」
警察署までもう少しの道を走りながら明日の約束を交わし、その後は何故か無言のまま署に戻った二人は、刑事部屋に戻って事務処理を手短に済ませる時でさえもどちらも無言で、刑事部屋が静かな時はリオンが不在だと思い込んでいる他の刑事達が部屋に入ってきてデスクに座って書類を書いているリオンを見つけては盛大に驚いてしまい、驚かせている張本人に睨まれてしまっていた。
書類の記入も終わり愛しい彼に今から帰ると連絡をしようとしたその時、厳つい顔に愛嬌のある小さな目を好奇心一杯に光らせた青年が軽い足取りでやってきて、ヒンケルの執務室のドアをノックして入っていく。
その光景を視界の隅で捉えていたリオンはそろそろ呼び出しが掛かるはずだと予測をし、程なくしてその青年から呼ばれた為に立ち上がり、内心の焦りを完全に笑顔の裏に覆い隠してわざとのんびりとヒンケルの前に向かう。
「フランツー、呼んだか?」
「ああ。ロザリオを調べた」
「ダンケ」
その結果だろうとは思っていたがヒンケルの手前己の感情をグッと堪えてのんびりと礼を言い丸椅子を引き寄せて腰を下ろしたリオンは、ヒンケルも報告を聞くように手を組んでその手に顎を載せてフランツと呼ばれた青年の言葉を待っている。
「ロザリオから指紋がいくつか検出されましたね。あまりはっきりしたものではないので、もう少し詳細に調べる必要があります」
「そうか」
「はい。で、裏に文字か何かを刻んでいて、それも今解読中です」
「文字?名前か?」
「可能性としてはそれが一番高いと思います」
ロザリオからひとまず得られた情報を纏めた報告書を受け取り、ざっと目を通したヒンケルがそれをリオンに向けて差し出すと、のんびりと-だが心では大急ぎで-受け取り、一言一句を脳に刻みつけるように報告書を読み進めて最後まで読み終えると溜息をつく。
「どうだ、リオン?」
「んー……まだ分かんないですね……ボス、この写真借りて帰っても良いですか?」
報告書に添付されている二枚の写真を指で突きながら問いかけたリオンは、少し考え込んだ後にヒンケルが頷いたことに目を細め、クリップで留められている写真を抜き取って財布の間に挟んでジーンズの尻ポケットに突っ込む。
「フランツ、引き続き詳細を頼む」
「分かりました」
厳ついが心は顔とは裏腹に優しい鑑識課の刑事に今後も頼むと告げ、今日はご苦労だったと労いの言葉をかけたヒンケルは、回転椅子に腰を下ろしながら開いた膝の間で手を組んでくるくると親指を回転させているリオンをちらりと見つめ、小さな溜息を零して部下を呼ぶ。
「リオン」
「……ボス、明日はカールの病院ですよね」
「あ、ああ」
「……じゃあオーヴェの家に泊まろうかな」
自宅よりもそちらの方が早いと肩を竦めて立ち上がったリオンにヒンケルは何も言わなかったが、財布に挟んだ写真は後日必ず返却しろとだけ告げて頬杖を着く。
「分かってます」
大きく伸びをして今日も一日頑張ったと声を張り上げたリオンをうるさげに見遣ったヒンケルは、早く帰れと手で追い払う仕草をし、にたりと不気味に笑われてしまう。
「何だ・・・?」
「家に帰っても奥さんが相手してくれないんだもんなぁ。だからボスはいつも残業してるんでしたっけ?」
「うるさい、馬鹿者っ!!」
「バカにバカと言っても堪えませーん」
ヒンケルの怒鳴り声を更に煽るような態度で返すだけではなく舌さえ出して小憎たらしい顔で上司の部屋を出たリオンは、他の同僚達が呆れた視線を投げ掛けるのも気にせずに携帯を取りだし、リダイヤルの一番上にある番号を呼び出す。
「……ハロ、オーヴェ」
そろそろ仕事を終えて帰るが今どこにいるんだと問いかけながら己のデスクに尻を乗せたリオンは、今夜は用事があって今から自宅に戻ると教えられて瞬きをし、もしも車ならば拾って欲しいと告げると、15分後に最寄り駅に到着できることを教えられて一も二もなく了解と告げて通話を終えるが、その前に忘れることのないキスを携帯から送り届け、同僚達に更に呆れた目で見つめられてしまう。
「どーした?」
「……何でもない。ドクと待ち合わせているんだろう?」
疲労感を倍増させるようなリオンの言動に諦めの溜息をついたコニーの言葉にリオンが頭をひとつ縦に振り、駅前で待ち合わせていることを告げて部屋を出ようとするが、何かを思い出したのかコニーのデスクの横に駆け寄ると尻ポケットの財布から写真を取りだして見てくれと囁く。
「どうした?」
「このロザリオの裏に彫られているもの、何だと思う?」
鑑識で今調べてくれているが気になると素直に告白し、傍にあった椅子を引き寄せて後ろ向きに腰掛けたリオンは、写真を見ながら顎に片手を宛がうコニーの顔をじっと見つめるが、名前のようだがドイツ語ではない気がすると告げられて目を瞠る。
「へ?」
「これはドイツ語じゃないんじゃないのか?」
「そう思うか?」
「ああ。eの上に何か付いてるだろう?」
「……あ、ホントだ」
彫られている名前らしき文字に特徴があり、それを手がかりに解読出来るとコニーが呟くが、その文字の特徴から二人が察したのは先程コニーが口にしたとおりドイツ語ではないと言う事実だけだった。
「フランツの調査待ちかぁ」
「お?フランツが調べてるのか?なら明日にはすぐ分かるな」
「そっか?」
「ああ。ああ見えて彼は言語学についても詳しいからな」
だからもしかすると今の時点でこの文字がどこの国のもので何と書いてあるのかも読み取っているかも知れないと肩を竦める同僚に驚きを隠せなかったリオンだったが、明日の報告を待つことにすると頷いて立ち上がり、写真と再度財布に挟んでポケットに戻して再度伸びをしつつコニーに礼を言う。
「ダンケ、コニー。また明日」
「ああ、また明日。あんまり警部をからかうなよ、リオン」
「はは。からかってるからボケねぇんだって」
自分は上司のボケ防止の為にふざけたことを言っているんだと片目を閉じると勝手に言っていろと手を振られて相手にして貰えないことに気付くが、全く気にも留めずに刑事部屋を出て階段を下っていくのだった。
パスタが格別に美味くてドルチェも思わず頬が落ちそうなほど美味い店で二人で軽く食事を取ってジェラートを持ち帰り用の箱に詰めて貰ったリオンは、ウーヴェが運転するスパイダーの助手席で嬉しそうに箱を膝に載せていたが、ウーヴェに駅で拾って貰って店に向かう道中も、久しぶりの絶品パスタに舌鼓を打っている時も、それは見事な太鼓腹を揺らしながらテーブルにやってきてオーナーシェフとウーヴェが楽しそうに会話をしている時も、そしてこうして家に向かっている今でさえも、やはりリオンの脳裏にはロザリオの影がちらついていた。
いつもと様子が違うことを敏感に察していたウーヴェだったが、それが不機嫌さの表現ではないことに気付き、帰るまでに話してくれれば良いが無理ならば自宅に戻ってから聞き出そうと決め、敢えて車中では何も言わずにいた。
そんなウーヴェの心を知ってか知らずか、時折鋭い目つきで考え込んでいたリオンは、いつしか車がアパートの駐車場に停まったことにも気付かないでいた。
「リオン、着いたぞ」
「へ?あ、ああ……んー……なぁオーヴェ」
「どうした?」
ウーヴェに促されて慌てて車から降りたリオンはスパイダーの車体の上で視線を交わし、後で見て欲しいものがあると告げてウーヴェの目を細めさせる。
「ヤバイものじゃねぇんだけど……ずっと引っ掛かってる」
「……分かった」
お前がそんなに気にするのであれば後でじっくりそれと向き合おうと苦笑したウーヴェは、とにかくジェラートが原型をとどめているうちに家に戻ろうと苦笑を深め、エレベーターへとリオンを誘うのだった。
自宅に戻ってジェラートを冷凍庫に放り込んだリオンは、リビングのソファにどさりと座り込んで眉間を指の腹でマッサージする。
珍しく考え込んでいる様子に何かしら感じ取ったウーヴェは冷蔵庫からビールを取り出して一本をリオンの前に置き、もう一本を手に持ったまま恋人の横に腰を下ろして身体を向き直らせる。
「どうしたんだ?」
「うん、あのさ……」
少し遠くを見るような目つきで語り出すリオンの言葉をしっかりと聞き止めたウーヴェは、仕事の話だと切り出されて眼鏡の下で目を丸くしてしまう。
付き合いだして長いとも短いとも言える時間が流れたが、リオンから仕事について相談をしてきたことはあまりなくてさすがに驚きを隠せないでいたが、咳払いをひとつしてリオンに先を促すと、ずっと気になっている事があるがそれが何だか分からないと答えられて瞬きを繰り返す。
「どういうことだ?」
「う、ん……すげー気になることがあるのにどうしてそれが気になっているのかが分からないってことねぇか?」
「は?」
「いや、何て言うのかな……例えば俺がオーヴェを見て何か苛々したとする」
「……その例え、何か気にくわないぞ」
リオンの例え話に眉を顰めたウーヴェだったが、例えだから許してくれと言われて溜息ひとつで許して先をどうぞと掌を向けると、手を組んで親指をくるくると回転させ始めたリオンが逡巡するように視線を彷徨わせ、吐息混じりに苛々する理由が分からないと呟く。
「俺を見て何故苛々するのかが分からない?」
「そう。別に苛々する理由がある訳じゃない。でも何故か苛々する。そんな感じ」
己の心が最もそれに近いと肩を竦めたリオンは、組んでいた手を解いて肩を竦めてウーヴェの目を見つめ、例え話だから気にするなと告げてウーヴェの白い髪に手を差し入れる。
「……無意識で何かを感じ取っているんだろうな」
「そんな事ってあるのか?」
「ああ。それはお前の経験に裏付けされた結果かも知れないぞ」
「へ?」
「今まで経験してきたことは決して忘れる事は無い。脳の中にある引き出しに収められていて、そこへアクセスしなくなっているだけで忘れてしまった訳じゃない」
忘れたと思っているが実は引き出しを開けていないだけで、もしもその引き出しに直結する何かを経験すればそこに眠っていた記憶が蘇るだろうと告げてリオンの手に手を重ねたウーヴェは、お前が刑事として働いてきた時間の中で経験した何かに繋がっているのかと問いかけ、事件なのかとリオンが呟くのを見つめている。
「事件……何か違うんだよなぁ……もっとさ、警察に入る前……」
何が何だか分からないと一声吼えてカウチソファに引っ繰り返ったリオンにそんなに考え込むなと苦笑して立ち上がったウーヴェは、何処に行くんだと視線で問われてリオンの腕を掴んで引き起こす。
「シャワーを浴びて来る。ビールをベッドルームに持って行っておいてくれ」
「ん、分かった」
ウーヴェの腕に引き起こされてのそのそと起き上がり、頼まれたとおりにビールのボトルを両手に持ってベッドルームに向かったリオンだったが、己のジーンズの尻ポケットから財布が抜けてカウチソファから滑り落ちた事には気付かなかった。
リオンを一足先に送り出してキッチンとリビングの戸締まりを確かめたウーヴェは、ソファ前に財布が落ちていることに気付いて手に取り、その間からひらりと写真が舞い落ちた事にも気付いて腰を屈めてそのまま動きを止める。
財布から落ちた写真はまるで証拠写真か何かのように写された壊れたロザリオのように見えるアクセサリーで、一枚はイエス・キリストが磔にされている姿を模した面を、もう一枚はその裏側を撮していた。
何の写真だと思いながら手に取った時、財布の小銭入れの蓋も開いて耳に心地よい金属音と共に何かが滑り落ちる。
それは、リオンが肌身離さず持っているロザリオだった。
そのロザリオをリオンが持っていることをウーヴェは聞かされていたし、何度かこうして現物を目の当たりにもしていたが、リオンがそれを使って祈りを捧げている姿は見たことがなかった。
祈る為の物であるロザリオだが、祈りを捧げないからと言って家に置いておく考えはないようで、財布の小銭入れにいつも納めていた為、リオンは財布とは別に小銭入れを持っている程だった。
ロザリオを拾い上げて小銭入れに戻そうとしたウーヴェは何気なく写真のロザリオとリオンのそれを見比べてある事実に気付くが、そんな事もあるのだろうと苦笑して写真と財布を重ねて手に持ち、そのままベッドルームへと向かう。
一足先にシャワーを浴びて濡れた髪を拭きながらベッドに腰掛けているリオンに苦笑し、財布が落ちていたことを告げて差し出すと怪訝な顔で見上げられて肩を竦める。
「財布を拾ったら写真が落ちて……見てしまった」
「あー、うん、平気」
財布と写真を無造作に受け取ってサイドテーブルに置いたリオンは、ウーヴェがバスルームに向かおうとするのを腕を掴んで制止するが、シャワーを浴びるだけだと肩越しに呆れた顔で睨まれて口を尖らせ、10分だと鼻息荒く言い放つ。
「……15分」
「……後14分!」
「はいはい」
本当にお前は我が儘なんだからと苦笑しつつもそれでも己の恋人を邪険に扱わないウーヴェは、15分以内に総てを済ませる為にいつも以上に手早くシャワーを浴びて髪も半分乾いただけの姿で出てくると、ベッドで俯せになりながら写真を凝視するリオンを見つけて目を細め、そっとベッドに腰を下ろしてリオンの背中にキスをし身を伏せる。
「……本当にどうしたんだ?」
「オーヴェ……このロザリオさ、何処かで見た事ねぇか?」
ウーヴェのキスを背中とうなじに受けてくすぐったそうに肩を竦めた後で勢いよく寝返りを打ったリオンは、見下ろしてくるウーヴェの鼻先に写真をそっと差し出し、見た事がないかと自信なさげに問いかける。
「何処かで見たんだよ。でもそれがどこなのかが思い出せねぇ・・・」
だから何か気になってしまって苛々することを舌打ち混じりに告げ、ウーヴェが持っているロザリオはどうだと問いかけるが、それに対しては明確にウーヴェが返事をする。
「俺はロザリオを持っていない」
お前のように心の基部に祈る神を持たない為、祈りに必要とされる文物などは持っていないことを告げてリオンの横に横臥して頬杖を着くと、向き合うようにリオンも同じ姿勢を取って溜息をつく。
「そうだよなぁ。オーヴェのロザリオなんて見た事ねぇもんな」
「ああ。お前のはどうなんだ?」
「へ?俺の?」
「マザー・カタリーナから戴いたものを持っているだろう?」
ウーヴェの苦笑混じりの言葉にリオンの青い眼が次第に大きくなっていったかと思うと、思わずウーヴェが耳を塞ぎたくなるような大きな声を挙げて身体を起こす。
「あー!!」
「……うるさいぞ、リオン」
呆れ顔のウーヴェなどお構いなしに飛び上がってベッドから転がり落ちるように降り立ちサイドテーブルに置いた己の財布を鷲掴みにすると、同じようにベッドで身体を起こしたウーヴェの前へと膝を揃えて飛び乗ってくる。
「これだ、これ!オーヴェ、この二つを見比べてくれ!!」
「お前のものと……これは?」
「うん。今日川で死体が見つかったんだけど、その傍に落ちてたんだよ」
このロザリオがその時からずっと抜けない棘のように引っ掛かっていた事を告げ、やっとそれが取れた安堵に胸を撫で下ろしたリオンだったが、ウーヴェの言葉を聞いて今度は別の疑問を抱かざるを得なくなってしまう。
「……メダイが無いから分からないが……お前の物と良く似ているな」
「似てるよな?」
「ああ。何故これが死体の傍に落ちていたんだ?」
当然と言えば当然のウーヴェの疑問にリオンが口を開きかけるが、何故自分が持っているロザリオと酷似したそれが死体発見現場付近に落ちていたのかを説明する術が無く、ひとつの謎が解けてスッキリした直後に今度はなかなか解けそうにない謎を突きつけられてしまい、力を失ったようにベッドに仰向けに転がってしまう。
「それに……この裏面に彫られているのは名前か?」
「……コニーが言うにはドイツ語じゃないって」
「ああ。これはスラブ系の言語だろうな」
ウーヴェが写真を片手に己の記憶と照らし合わせるように見つめているが、東欧諸国の言語のような気がすると苦笑し、頭だけを擡げて見つめてくるリオンに写真を差し出す。
「俺も言語学の専門家ではないから確証はないが、ドイツ語にeの上に記号が付く文字は無いからな」
「……これ、eなのか?」
ウーヴェが指摘した写真の文字は確かにeと読めるが、その文字の上にアクセント記号のようなくさび形の記号があり、それをじっと見つめたリオンがお手上げだと吼えて写真をサイドテーブルに投げ出す。
「明日考える事にする!」
「……そうだな」
今日はもう考える事は止せと苦笑し、腕を伸ばしてくるリオンに目を細めて覆い被さるように身を寄せると、首の後ろで腕が交差されて引き寄せられる。
「オーヴェ」
「……ああ」
短い一言で先を読んで同じく短い言葉を返したウーヴェは、期待と情と欲に目をぎらりと光らせたリオンの唇を自ら塞ぎ、寝返りを打ってリオンの身体をしっかりと受け止めるのだった。
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