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胸の中で抜けない棘となっていたロザリオが恋人の言葉によってその由来が明らかにされた翌朝、いつものようにウーヴェに起こされて寝惚け眼のまま朝の支度をしたリオンは、テーブルに用意されている朝食を大急ぎで食べ終え、呆れたように見守るターコイズ色の瞳に肩を竦める。
「オーヴェ、今日出勤するときに乗せていって欲しい」
「うん?構わないが時間は大丈夫なのか?」
ウーヴェがクリニックに出勤する時間よりも多少早く出勤するリオンの言葉に軽く驚いた彼は、今日は職場ではなく病院に直接向かうことを告げられて目を瞠り、そう言うことならば大丈夫だと頷きながらミルクとコーヒーが半分ずつのカフェオレを差し出す。
「誰かの遺体が見つかったと言っていたな」
「そう。昨日のうちに解剖をしてるから朝一番に結果が出てるって。だから病院に直行する」
「分かった。担当の医者は誰なんだ?」
分野は違っていても同じ市内で医者として働く為、担当の医者が誰であるかを知りたいと告げ、カール・エッケルトとの答えを得て軽く握った拳を口元に宛って苦笑する。
「そうか・・・彼が担当か」
「知ってるか、オーヴェ?」
「ああ。アイヒェンドルフ先生の知己だからな」
「ふぅん・・・。じゃあさ、もし今度あったら、俺にだけ意地悪するの止めてくれって言ってくれよ」
カールのリオンに対する意地悪は本人曰く好きな子に対する悪戯らしいのだが、壮年男性に悪戯を仕掛けられて愉快なはずはなく、困惑する己を見て喜ぶヒンケルにも腹が立つため、ウーヴェから一言忠告してくれと眉尻を下げたリオンだったが、そんなことを頼めば次に顔を合わせたときに悪戯がエスカレートするかも知れない恐怖に気付き、仕方がないが自身で対応すると悲壮な顔で頷く。
「悪気がある訳じゃないだろうからな」
直接顔を合わせたことは数える程でお互い名前を知っている程度の関係の彼だが、周囲から伝え聞く人物像を脳内で纏め上げると、一癖も二癖もある法医学者の姿が浮かび上がり、だからといって陰湿に人を苛めるような風聞は聞こえてこなかった、ただリオンをからかって楽しんでいるだけだと苦笑し、寝癖が付いている髪を撫で付けて髪と心を宥めるようにキスをする。
恋人の心を慰めてくれるキスに口角が持ち上がり、自分好みのミルクの量のカフェオレを一気に飲み干したリオンは、出かけるまでの短い時間に出来る限りの身嗜みを整え、何故かリオンよりも遅く支度を始めたはずなのに既に完璧に整った姿になっているウーヴェに苦笑されて肩を竦める。
「病院まで回ろうか?」
「頼んでも良いか?」
「ああ」
リオンの前で穏やかに問い掛けてくるウーヴェの表情は家の中でくつろいでいる時にだけ見られるものではなく、既にクリニックの若きドクターのものになっていて、その背筋がピンと伸びている態度からどんな己の心を晒したとしてもしっかりと受け止めてくれることを容易く連想させる姿に眩しそうに目を細める。
「どうした?」
「何でもねぇ・・・今日も一日頑張って来ような、オーヴェ」
「ああ」
お互い思うようになることが少ない仕事だが、それでも精一杯持てる力を発揮しようと頷き互いの頬に誓いのキスをした二人は、そろそろ出なければ遅刻するとリオンが腕時計を見て素っ頓狂な声を上げた為、大急ぎで家を出る準備をするのだった。
ヒンケルと待ち合わせをした時間を何とか守って病院に駆け込んだリオンは、車を降りる直前に運転席から身を乗り出してリオンの唇にキスをして力を分け与えてくれたウーヴェの声と温もりを思い出して顔をにやつかせそうになる。
だが今己がいる場所が何処であるのかを思い出すと自然と笑みが消え、ヒンケルがまだ来ていないことを確かめると玄関横の壁際で煙草に火を付ける。
最近の喫煙事情も厳しくなってきたと暢気なことを思いながら煙で輪を作っていると、背後から一本くれと言われて煩わしそうに壁から顔だけを出す。
「ボース、煙草くらい自分で買えって・・・・・・あれ?」
振り向いた先にいたのは白衣を身に着けて欠伸を堪えているカールで、煙草を吸うのかと問い掛けながらくしゃくしゃになっているパッケージの口を彼に向けて一本だけ飛び出させる。
「眠気覚ましだ」
「そっか」
カールの無精髭が少しだけ生えている口元を見ながら年季の入ったジッポーの蓋を弾くと同時に火を付けて差し出すと、満足そうに吐息を零してカールがリオンの横で煙を細く長く吐き出す。
「昨日の遺体だがな」
「あー・・・何か特記すべきことがあった?」
「ああ。どうやら監禁されて・・・・・・一人ないしは二人にレイプされていたな」
カールのやるせない言葉にリオンも無言で紫煙を燻らせ、レイプと呟いて彼へと向き直る。
「ただの性交渉じゃなくて?」
「ああ。両手両足に拘束されたような痕があったし、押さえつけられたときに出来たらしい痣が幾つも残っている。・・・・・・無理矢理挿れたからかかなり深い裂傷もあった」
今もっとも考えられることは複数人によるレイプの後に殺害されたことだろうと感情の籠もらない声で告げられて煙草を灰皿で揉み消したリオンは、彼女の死因が何であるかを問い掛け、水を大量に飲んだ結果の溺死だと教えられる。
「生きているうちに川に投げ入れられた?」
「いや、肺の中の水を調べたら次亜塩素酸カルシウムが検出された」
「次亜塩素酸カルシウム?何だそりゃ?」
そんな医者や化学者にしか分からない言葉で話すのではなく一介の刑事にも分かるように説明してくれと肩を竦めると、カルキだと教えられて納得した証にもう一度肩を竦める。
「じゃあ・・・別の場所で殺されて川に捨てられた?」
「その可能性が高いな。肺の中からは川の水の成分が検出されなかった」
つまり川に捨てられたときには既に死んでいたと煙草を消しながら呟いたカールは、近付いてくる足音に気付いて顔を上げ、ヒンケルが小走りに駆け寄ってきたことに気付いてリオンと視線を交わして肩を竦めあう。
「おはよう、警部」
「ああ、おはよう」
二人が揃ったのだから中に入ろうと促されて清潔感溢れる白い部屋へと進んだ三人は、カールが助手に頼んで出した遺体を取り囲むように見下ろし、蝋のような白い肌と血が通っていないために不自然さを増加させている傷口について一通りの説明を受けていく。
先程カールが感情の籠もらない声で告げたとおり彼女の身体には彼方此方に傷や痣があり、それらの由来もある程度は推測できたことをカールが告げ、腕を組んで遺体を安置している棚にもたれ掛かる。
「彼女が所持していたものを調べたが、どうやら外国人のようだな」
「この近辺に住む移住者ではないのか?」
ヒンケルが眉を寄せて己の想像通りであってくれと願いつつ問い掛ける横では、外国籍の人間が事件に巻き込まれた時には出てくるところから出てくるよなぁと、内心の煩わしさを感じさせない暢気な声でリオンが呟いて天井を見上げる。
「所持していたものってさ、まさかパスポートとか身分証明書があったのか?」
「いや、ジーンズのポケットにビニールの小袋に入れたメモがあった」
ビニールの小袋のおかげで川から引き揚げられたにもかかわらずにメモの文字が読めたこと、そこに書かれていたのはこの街から車で30分ほど郊外に向かった場所の住所と、カールには読めない言語の走り書きがあった、拡大したものを用意したのでそちらで調べてくれと言ってそのメモと拡大用紙が入った袋を受け取ったリオンは、矯めつ眇めつした後でヒンケルにそれを手渡し、コニーが昨日言っていたことを耳打ちするとヒンケルの手に少しだけ力が籠もる。
「遺族への連絡をしなければならないな」
「・・・署に戻って調べますか」
「ああ。・・・・・・カール、ありがとう。正式な報告書はまた後で提出してくれ」
「了解。終わり次第警部に届けるよ。しっかり捜査しろよ、問題児」
「うるせー」
ヒンケルとは違った意味で可愛がってくれているのだろうが、その可愛がり方は迷惑極まりないとリオンが舌を出しつつも言われたとおりにしっかりと捜査をすると宣言し、踵を返して部屋を出て行くヒンケルの後を追いかけるのだった。
少女の遺体が発見された現場付近をくまなく捜査していた制服警官から事件と関係がありそうなものが次々に運び込まれ、ホワイトボードに証拠品としてナンバリングされたそれらが列記されていく。
当然その中にリオンが昨日一日悩んでいたロザリオも入っているが、やはり事件にとって最重要なものであるこの少女が誰であるのかを示すものが出てきたことが大きいと少し離れた場所からホワイトボードを睨むように見ていたリオンは、マクシミリアンが重苦しい溜息を零しながら受話器を置いたことに気付き顔を振り向けて暢気な声で問い掛ける。
「”エリカ・ムスターマン”の名前が分かったのにどーしたんだ?」
エリカ・ムスターマン、つまりは少女の身元が判明するまで名前がないと不便という理由から便宜上付けられた名前ではなく、ダーシャ・ドレチェクという名前であることが判明したのに何をそんなに重苦しい雰囲気を撒き散らしているんだと苦笑すると、己が書いたメモを睨みながらマクシミリアンがもう一度溜息を吐く。
「・・・カールがくれたメモに書かれていたのは確かに彼が言ったとおり、郊外の小さな村の住所だった」
「うん」
「小さな村の教会の住所だったが、一年前に司祭が不慮の事故で亡くなって今は誰も管理していないらしい」
外国籍の少女が小さな村の人がいなくなって放置されているらしい教会にどのような用事があるのだろうと、マクシミリアンの話を聞いたリオンやコニーが同時に考え込んでしまう。
「誰かを捜していたとか?」
「わざわざチェコからここに人捜し?」
「チェコ!?」
マクシミリアンが重苦しい溜息を零した理由を察した二人は顔を見合わせ、これは完全に出てくるところから人が出てくるぞとリオンが呟くと、いつも穏やかなコニーでさえも舌打ちをして忌々しそうな顔になる。
「LKAならともかく、BKAが出てくるか?」
「・・・可能性は少なくないな」
ドイツ国内で州を跨いだ事件ならば州刑事庁から人が派遣されるだろうが、国を跨いだ場合は州刑事庁ではなく連邦刑事庁が動き出すかも知れなかった。
過去にどちらの刑事庁から派遣された人と共に捜査を行ったことのあるコニーやリオンは、捜査官の態度が呆れるほど尊大だったことを思い出すと同時に、その時に感じたやるせなさや憤りも思い出してしまって苦々しい表情を浮かべる。
「まだ一人ならうちだけで何とか出来るんじゃないのか?」
州刑事庁や連邦刑事庁が動き出す前に何とか犯人を確保し、事件を一地方に訪れた少女の不慮の死として片付けたいとの願いからコニーが呟くと、マクシミリアンとリオンが同意を示すように大きく頷く。
少女をレイプしその死体を遺棄した犯人さえ捕まえれば少女の国籍が外国であったとしても多少の手続きは煩雑になるが、いつもと同じように起訴送検するだけで終わるが、もしも第二第三の殺人が起きれば、今彼らが頭を悩ませている連邦刑事庁から捜査官が派遣される可能性が高くなる。
そうなれば今回の事件は自分たちの手から半ば離れてしまい、主体的な捜査はほぼできなくなってやりにくいことこの上ない事態が待っているだろう。
そう考えるだけでも胃の辺りに不快感を感じるが、それよりもチェコ国籍-と思われる少女がこの街の郊外の教会の住所が書かれたメモを所持していたのかという疑問が大きくなり、顎に手を宛ったままリオンが己の疑問を口にする。
「でもさ、チェコから人捜しって・・・どういう事情だろうな」
「さぁな・・・。ただ、あのロザリオに彫られていた名前は彼女のものではなかったし、指紋も幾つか出たけど特定は出来ないみたいだ」
「指紋は無理か」
「ああ」
マクシミリアンとコニーと顔を突きつけて溜息をついていると離れた場所で様子を見守っていたヒンケルが近づいてきて、今後の進展はどうなると問いかけながら一人一人の顔を見ていく。
「どう、でしょうね・・・俺としてはLKAやBKAが出てくる前にケリを付けたいってのが本音ですけど」
「俺も賛成」
「私も同じですね」
コニーの言葉にリオンとマクシミリアンが盛大に頷き、それは当然ながら自分も考えているとヒンケルが告げるが、彼女のが所持していた運転免許証からチェコの警察に身元照会を依頼している為にその返事待ちだと三人に告げると、どうか事件が連続殺人事件に発展しませんようにとリオンが口に出して祈ってしまう。
「連続殺人になったら厄介だよなぁ」
「ああ」
とにかく今は、彼女をレイプして殺害し川に遺棄した犯人を捜すべきだと四人が頷いて今後の捜査方針を確かめ合う。
「ところで、リオン」
「はい?」
この後、遺体発見現場付近の聞き込みをコニーとリオンが行い、マクシミリアンはヒンケルと共にチェコからの一報を待って行動することが話し合われた後、ヒンケルが何かを思い出した顔でリオンを呼び、首を傾げる部下に苦笑しつつマザー・カタリーナは知らないかと問いかける。
「は?マザーを知らないかって?」
マザー・カタリーナが己の育ての親であることをよく知っているヒンケルなのにその彼女を知らないかというのはどういうことだ、やはり自分がからかわなければ健忘症に罹ってしまうのかと嘆くフリをしたリオンは、本物のクランプスでさえ逃げていきそうな形相でヒンケルに睨まれるもののまったく懲りる気配も見せずに肩を竦め、マザーが誰を知っているのかを知りたいのかと問いかけて頷かれる。
「その教会の司祭だ」
「・・・そっか、カトリックだったらマザーも知ってるかも知れないか」
「そうだ。一度聞いてくれないか、リオン」
「Ja.」
ヒンケルの言葉にすぐさま携帯を取りだしたリオンは三対の目が見守る前で自身の育ての親であるマザー・カタリーナから話を聞く為に教会へ電話を掛けるが、コールが5回を数えた時に出たのは少し慌てている素振りのゾフィーだった。
「ゾフィー?マザーは何処に行ったんだ?」
『リオン?マザーは今来客中よ』
「そうなのか?んー・・・・・・マザーに確かめて欲しいんだけどさ・・・」
電話口に出たゾフィーに手短に事情を-と言っても告げたのは村の名前とその教会の司祭が知己であるかどうかについて-説明し、なるべく早くマザーから連絡が欲しいと告げて了解を得ると、返事を待っている上司と同僚に無言で肩を竦め、折り返し電話をくれるそうですと告げながらデスクの前から椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。
「ゾフィーの口振りだと知っている感じだったけど・・・」
俺自身は一度も聞いた事のない村の名前と教会だと呟き、ゾフィーが知っているのだからマザーも知っている筈だと苦笑して長い足を伸ばす。
「マザーから電話があればすぐにボスに報せます」
「そうだな、そうしてくれ」
ならばお前達は今からその教会へ出向いて現在どのような状況なのか、ここ数日ないしは数週間の間に変わった動きはなかったかを調べてくれとヒンケルが告げ、コニーとリオンがほぼ同時に頷いて立ち上がる。
「あれ、そう言えばジルは?」
「ああ、ジルベルトは別件でヴェルナーと動いて貰っている」
「そっちのが楽だったら代わって欲しいなー」
「馬鹿者っ」
姿を見ないジルベルトの別件が楽であれば代わって欲しいと思うのは当然だが、嘯きつつも今目の前にある事件を解決することに全力を向けないリオンではないことをここにいる面々はよく知っており、ヒンケルの少しの愛情が籠もった罵声に口笛を吹いて聞こえないふりを装ったリオンがコニーの後を追いかけるように出て行く。
その後ろ姿に黙って仕事が出来ないのかとヒンケルがぶつぶつと文句を垂れるが、マクシミリアンに黙って仕事に向かうリオンなど想像出来ないし、そちらの方が何やら恐ろしい感じがすると生真面目に答えられて短く舌打ちをする。
「マックス、チェコから連絡があればすぐに教えろ」
「Ja」
どの部下も一筋縄ではいかないことを改めて思い知らされ、悔しさと少しの誇りを込めて生真面目が服を着ているような部下に命じ、己のデスクがある執務室に足音高く戻っていくのだった。
マザー・カタリーナからの連絡を待ちながらも職場でじっとしていることなど出来ない為、件の教会にコニーと共に出掛けたリオンは、小さな村の住人に教会が無人になってしまった経緯やそれからの人の出入りについて聞いて回ったものの、教会は司祭が不慮の死を遂げてから日に日に荒れ果ててしまったことを教えられてめぼしい収穫がない予感に襲われてしまうが、リオンのそんな不吉な予感をコニーが別の村人に問いかけて吹き飛ばしてしまう。
それは、不定期ではあったが一人のシスターがこの教会を訪れては埃を被ってしまう燭台やマリア像の手入れを行っているという情報を聞いたからだった。
神父が来ないがシスターが来ていたのであれば必ず村人の記憶に残るだろうし、また周辺の教会に問い合わせればそのシスターの素性もはっきりとするだろう。
収穫できたその情報を二人で顔を見合わせてしっかりと脳に刻み込み、それ以上の収穫は無いだろうがそれでもすれ違う村人に身分証を見せては教会のこと、そして教会に訪れていたシスターのことについて聞き出すが、やはり予想通りそのシスターが来ていた事実以外に新しいものは出てこなかった。
マクシミリアンが得た情報が正しかった証明と新たな事実ひとつを引っ提げて署に戻って来たリオンは、ヒンケルの不機嫌そうな顔に出迎えられて素直にただひとつの事実しか分からなかったと報告するが、チェコに問い合わせた返事がまだないと苦虫を十匹ぐらい噛み潰したような顔で吐き捨てられてコニーと顔を見合わせる。
「何か暢気な警察だなぁ・・・」
「そうだな・・・国が違えば色々違うが・・・明日を待つしかないですか、警部?」
リオンの呆れた様な呟きにコニーも苦笑しつつ同意をし、次いでヒンケルの顔を見て苦笑を深めるが、そうするしかないと忌々しそうに舌打ちされて無言で頷く。
「今日はもう帰って良いぞ」
「りょーかい」
「分かりました」
「ああ、リオン、マザーから連絡はあったか?」
二人で出掛ける前にマザー・カタリーナに連絡を取ったがあれから何かあったかと問われ、こちらも何もありませんでしたと肩を竦めたリオンは、この後ホームに行くつもりなのでマザーに直接聞いてくることを告げるとひとつ肩の荷が下りた安堵からヒンケルが溜息をつく。
「頼む」
「了解」
ヒンケルの言葉に戯けたように背筋を伸ばし己のデスクに戻って帰る準備を始めたリオンは、背中合わせの位置にあるデスクの主がまだ戻っていないことに気付いて首を傾げる。
「あれ、ジルはまだ戻ってねぇのか?」
「一度戻って来たんだけど、事情を聞いていた人が気になるからってすっ飛んでいったよ」
今回リオン達が捜査している事件とはまた別の事件をジルベルトと二人で追いかけているヴェルナーが頬杖を着いて仕方がないと言いたげに呟くと、人の言う事を聞かないヤツは本当に迷惑だよなと、ヒンケルが聞けば己のことを良く理解出来ていると褒めてくれそうなことを嘯きながらデスクから立ち上がり、ジルベルトのデスクに単独行動は慎むようにと殴り書きのメモを残して他の同僚達よりも早くに刑事部屋を飛び出す。
いつもならば最愛の恋人に仕事が終わった連絡をし、相手がまだ終わっていないのであればクリニックにすっ飛んでいくリオンだが、ヒンケルに約束したとおりマザー・カタリーナに今日訪れた教会の話を聞かなければならない為、ウーヴェには連絡を入れずにそのまま電車に飛び乗ってリオンが育った孤児院へと向かっていた。
その道中、何かを思い出したのか、携帯を取りだして何件か前の履歴から幼馴染みの番号を表示して電話を掛けると、程なくしてふてぶてしい声がどうしたと問いかけてくる。
「もう仕事は終わったのか?」
『ああ・・・今から教会に行く』
「は?ホームに来る?俺も今ホームに向かってる所だ」
この街に何年ぶりかに戻って来た幼馴染みが己がホームと呼んでいる児童福祉施設に向かう事を教えられて奇遇だなと口笛を吹いたリオンは、後15分程で着くことを告げて通話を終え、今度は履歴の中で最多を数えるウーヴェに電話を掛ける。
今日は早く終わったがホームに用事があるから向かっていること、終わるのが何時になるか分からないから帰る前に連絡を入れることを告げ、帰る前に必ず連絡をくれと念を押されて生真面目に返事をし、愛してると告げる代わりに携帯にキスをする。
駅からあまり道路も舗装されていない道を進んで古びた小さな教会の屋根を見ると、無意識にリオンの胸の中の何処かが暖かくなるが、その理由について深く考えた事がないリオンは今日もまた全く気にすることなく教会のドアを開き、中にいたシスターに腹が減ったと宣って呆れられるのだった。
リオンが仕事を終えて孤児院で幼馴染みと再会を果たし、くだらない事で大騒ぎをしたりマザー・カタリーナとほんの少しだけ真剣な話をしていた頃、彼らが暮らす街でも建物が雑多に建っている地区で繰り広げられる出来事を洗い流すように雨が降り始める。
その地区の一角、まるで忘れられたような古いビルの剥き出しのコンクリートの壁に何かを殴るような音と男の絶叫に近い悲鳴が反響し、その音を響かせている彼が忌々しい顔で舌打ちをする。
「・・・まったく、何を考えてるんだ、あぁ!?」
誰が殺して死体をこの街の川に捨てろと言ったと眼下で痛みに身体を折り曲げる男を睨み付け、苛立ちを込めて足を振り上げる。
高級そうな革靴の先が男の脇腹にめり込み、新たな痛みに悲鳴を上げそうになった口を蹴られ、折れた歯と血と悲鳴を埃まみれの床に撒き散らす。
「ぁが・・・っ!」
「お前があいつを殺したお陰で俺たちのことを探られるだろうが!」
口を血まみれの手で覆ってのたうつ男に唾を吐きかけ、己の保身にこれからしばらくの間全力を注がなければならない事に舌打ちをし、本当に何を考えているんだともう一度吐き捨ててのたうつ男の背中を爪先で軽く押し退ける。
「良いか、お前のことは警察が間違いなく突き止める」
床でのたうつ男を冷たい目で睥睨した彼だったが、視線に込めた冷たさはそのままに、少し離れた場所で蒼白な顔のまま椅子に縛り付けられている男を見やり、お前も一緒にレイプをしたのならこいつと同じで警察がすぐにでも身元を割り出してお前達に辿り着くと呟き、スーツのポケットから煙草を取りだして火を付ける。
「警察を舐めるんじゃねぇぞ」
レイプしたことで相手の身体にお前達の体毛や汗などが残り、そこから一人の人間を特定することも可能なんだと紫煙と共に吐き捨てると、床に転がる男が肩を揺らす。
「・・・まったく」
本当に後先何も考えずに行動をする馬鹿はこれだから困ると心底震えが来るような、獲物に狙いを定めたは虫類特有の視線で二人の男を睨め付けた彼は、二人が一緒にいれば面倒なことになるからしばらくの間別々に行動をしろと吐き捨て、二対の脅えきった目を睨み返すが、ふと脳裏を過ぎった考えに顎に手を宛がって考え込む。
「・・・・・・そうだな・・・まだ使えるか・・・」
何がどんな風に使えるのかは全く分からないが、彼の脳内ではそのものの使用方法が明確に浮かんでいるようで、冷たさを秘めたままその顔に笑みが浮かび始める。
その横顔を見た二人の男は己に残された時間がごく僅かであることを本能的に察し、嘆くことすら諦めてしまうのだった。
窓枠も何もないコンクリートが剥き出しの廃ビルに抑えているが堪えきれない笑い声が響き、ぽっかりと口を開けた場所から吹き込む雨の音に紛れていくのだった。