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「よかった……」
僕は満面の笑みで顔を上げた。
だけど、黒川ではなかった。
「酸素、吸いますか?」
いきなり酸素ボンベを差し出された。
どうやら高山病を心配してくれたらしい。
僕は即座に首を振った。
「人を待っているんです。お気遣いありがとうございます」
僕は丁寧に返した。
その人は「なら、よかった」と言ってボンベを下げた。
その時、顔がぼんやりと見えた。
肌は白く、色素が薄い感じの人だった。
化粧をしている感じはないけど、綺麗な顔をしている。
ラフなポニーテールに登山服姿なのに、妙に美しく見えた。
(お、お姉さんだっ)
多分、年上の女性だ。
男子校だった僕にとって、年の近い女性に触れ合う機会は滅多になかった。
学校では、安心感のある中年女性ばかりだったから。
僕には、少し年上の女性に対して免疫がゼロだった。
急に恥ずかしくなって、俯いてしまった。
「もうすぐ山頂よ。頑張ってね」
彼女はそう言い残して、僕に向いていた足先を山頂へと向けた。
(話しかけられたっ。ドキドキしちゃったよ!)
恥ずかしさと時間への焦りで、僕は身体を揺らしてソワソワし始めた。
やはり、黒川が来る気配は全くない。
あの顔色では、もう無理かもしれない。
(黒川のところに戻ろう)
そう決断した時だった。
「ねえ、今ならご来光に間に合うわよ」
そう僕に声をかけたのは、先ほど酸素を渡そうとしてくれたあの女性だった。
どうやら、僕のところまで引き返してきたらしい。
「人を待っていたら、せっかくのご来光を見逃してしまう。一緒に行こう」
そう言って、戸惑う僕に手を差し伸べてきた。
僕は一気に身体が熱くなって、言われるがまま立ち上がり、腕を引かれてしまった。
(ひゃっ~、どうしよう。
女性に触られている。
ドキドキしちゃうよぉ)
低酸素のせいなのか、女性への照れのせいなのか。
理由のわからない動悸がひどかった。
だけど、目視でも山頂にあと少しで着くのがわかった。
(このまま二人で行くのかな)
僕は、なぜかとても楽しくなってきていた。
「急に話しかけてごめんね。君、いくつ?」
「十五です」
「やっぱり……。私、十四歳の弟がいるの。きっと同じくらいだろうなと思って、声をかけちゃった」
「ど、どうしてですか?」
「私、面倒を見てしまう性分なのよ。許してね」
色白の彼女は顔だけ僕に振り返り、眉を下げて笑ってくれた。
(うわぁ、綺麗な人……)
僕は足元など見ずに、彼女の後ろ姿だけをじっと見つめて歩いた。
「あの……弟さんは一緒ではないのですか?」
「もう先に行ってるの。引きこもりだった子なのよ。それなのに、今じゃ私を置いてけぼりにするんだから。成長したのよね」
女性は息を切らしながらも、スピードを落とさず進んでいく。
「君はなぜ富士登山を?」
女性に富士登山の理由を聞かれ、僕は正直に答えてしまった。
黒川は叔父ということにして。
「部屋から出ない僕を……叔父が心配して、登山に誘ってくれました」
すると、その女性が足を止め、上半身ごと僕に振り返った。
「それなら、あなたもご来光を見たら人生が変わるわよ」
「そんなにですか?」
「言葉では言い表せないエネルギーを感じるの。体験してみて」
「はい……」
「ほらっ、もう山頂よっ」
女性が、さらに息を切らしながら教えてくれた。
山頂の面積は想像より狭く、人でごった返していた。
その中から男の子が小走りで僕らのほうへやって来た。
「姉さん! 早く、ご来光の時間だよっ!」
「李人!」
彼女が手を挙げる。
そして、僕に振り返った。
「あれが私の弟なの」
その子は僕に似ていた。
坊ちゃんヘアで細身で、とても穏やかな表情をした少年だった。
「そちらは誰?」
李人くんが不思議そうに僕を見てきた。
「途中で人を待ってたの。ご来光に間に合わないよって、一緒に登って来たのよ。初めての富士登山なんだって」
「うわー、そうなの。じゃあ、こっちに来てよ!」
今度は李人くんに腕を掴まれてしまった。
案内されたのは、人だかりから少し離れた場所だった。
「ここは人が少ないから、ご来光をゆっくり見ることができるよ」
「で、でも僕が前に出たら、みなさんが見えなくなってしまいます」
僕がそう遠慮すると、女性が柔らかく笑った。
「今日はあなたの番よ」
そう言って、僕の背中を優しく押してくれたんだ。
僕は目の前に広がる壮大な雲海を見た瞬間、心を鷲づかみにされた。
まるで海のように雲が眼下一面に広がり、下界を覆いつくしていた。
そして、雲の地平線からオレンジと黄色の光線が差し込んできた。
(こんな景色、初めて見る……)
すでに僕は、瞬きもできなくなっていた。
徐々に雲から光線が漏れ出す。
そこから一気に、周囲が光に包まれた。
雲海も、僕たちも、強烈なオレンジ色に染まってゆく。
同時に、今まで感じたことのない温かさを感じた。
清い空気が身体を駆け抜けると、細胞が一気に活性化して弾けそうになる。
ドクンドクンと、力強い血潮のざわめきが聞こえてくる。
視覚、聴覚、嗅覚、皮膚感覚。
すべての感覚器が未知のエネルギーに驚き、騒ぎはじめる。
僕は、その光がもつ神秘の景色に圧倒されてしまった。
僕の深部が熱くなってゆく。
今までに感じたことがないほどに。
胸の奥が大きく揺さぶられる。
苦しいくらいに。
涙が無自覚に流れ、我慢できずに嗚咽が始まった。
外気は冷たいのに、身体の芯から発熱してくる。
その熱が、凍てついた僕の心の氷を溶かしてゆく。
自分の手のひらを広げて見た。
無意識に握りしめていた手のひらに、血が循環して赤く色づいていた。
僕は生きている。
生きているんだ。
それは、僕が初めて「生きている」という実感を味わえた瞬間だった。
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夏目莉央
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