テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
朝の光が、やけにやさしかった。 カーテンの隙間から差し込む白が、部屋の輪郭をふわっと溶かしていく。ぜんいちは目を開けて、まず思った。
――今日は、何も起きない気がする。
キッチンのほうから音がする。食器が触れ合う、生活の音。
それだけで胸が少し緩んだのが、自分でも分かって、ぜんいちは小さく眉をひそめた。
「起きた?」
振り返ると、マイッキーがいた。
近い。距離が。
いつもより、ほんの一歩分。
「……おはよ」
「おはよ。ちゃんと寝れた?」
問いかけがやさしい。探る感じがない。
ぜんいちは一瞬だけ言葉に詰まって、それから頷いた。
「うん、まあ」
「そっか。よかった」
それだけ。
なのに、胸の奥がじんわり熱くなる。
朝ごはんは、特別なものじゃない。トーストと卵と、いつものコーヒー。
でもマイッキーはやたらと褒める。
「焼き加減ちょうどいいね」
「今日の顔、なんかいいじゃん」
「そのシャツ似合ってる」
褒め言葉が、呼吸みたいに自然に落ちてくる。
ぜんいちは「そう?」と笑いながらも、どこか落ち着かない。
――こんなに、優しかったっけ。
動画の打ち合わせも、今日は穏やかだった。
意見を出せば、ちゃんと聞いてくれる。被せてこない。否定しない。
「それ、ぜんいちの案でいこ」
名前を呼ばれる。
それだけで、背筋がわずかに揺れた。
「……珍しいね」
「なにが?」
「俺の案、通すの」
マイッキーは少しだけ目を細めて、笑った。
「だって、頼りにしてるし」
軽い言い方。
でも逃げ場のない真っ直ぐさ。
昼、外に出るときも、距離は近いままだった。
肩が触れそうで触れない、その曖昧なライン。
「迷子になんなよ」
「なんでだよ」
「冗談。……でも、離れんなよ」
冗談みたいな声なのに、最後だけ少し低い。
ぜんいちは気づかないふりをして、歩幅を合わせた。
夕方、家に戻るころには、胸の奥に変な安心感が溜まっていた。
息をするのが楽で、思考が静かで。
――ああ、大丈夫なんだ。
――全部、考えすぎだったんだ。
ソファに並んで座る。
マイッキーが何気なく距離を詰めてくる。
「今日さ、楽しかった」
「……俺も」
「ほんと?ならよかった」
一拍。
それから、当然みたいに続く。
「好きだよ、ぜんいち」
心臓が、遅れて跳ねた。
「……急に言うなよ」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
視線を逸らした瞬間、指先が絡め取られる。
拒む理由が見つからない。
「俺さ」
マイッキーの声が、やけに近い。
「ぜんいちがそばにいると、落ち着くんだよね」
その言葉は、毛布みたいに重くてあたたかい。
包まれて、思考が鈍くなる。
「……俺も、たぶん」
無意識に返した言葉に、自分で少し驚いた。
でもマイッキーは満足そうに笑うだけだった。
「でしょ」
夜。
電気を消した部屋で、ぜんいちは天井を見つめる。
今日は何もおかしくなかった。
怖いことも、痛いことも、なかった。
――これが、普通なんだ。
そう思った瞬間。
背中に回された腕が、静かに力を込める。
「ね、ぜんいち」
「なに」
「このまま、ずっと一緒でいよ」
優しい声。
逃げ道のない言い方。
ぜんいちは返事をしなかった。
しなかったけれど、離れもしなかった。
安心は、いつの間にか鎖みたいに重くなっていた。
それに気づいたときには、もう――
目を閉じるしか、できなかった。