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時也が陰陽師としての
厳しい修行を受け始めたのは
まだ三歳の頃だった。
齢三つの幼子には
到底耐え難い程の
過酷な修行だった。
それでも
父は容赦しなかった。
陰陽師の名門
櫻塚家の嫡子として生まれた以上
彼には〝選択〟の余地などない。
ー生きる為に
鍛えなければならないー
「目を閉じろ。心を鎮めよ」
父の冷ややかな声が
庭の修行場に響く。
時也は、小さな手を膝に置き
幼いながらも
真剣に瞑想を始めた。
その姿はあまりにも幼く
あまりにも儚い。
しかし、父の目にはただの
〝未熟な器〟
それ以上の価値などなかった。
時也の背後に立ち
白木の警策を静かに構える。
次の瞬間
音も気配も完全に消したまま
振り下ろした。
だがー⋯。
「⋯⋯っ!」
僅かに身を傾け
時也はそれを避けたのだった。
幼子の身体はまだ脆く
俊敏に動けるはずもない。
それでも、彼は〝避けた〟
まるで
振り下ろされる瞬間を
知っていたかのように。
「貴様⋯⋯っ!」
父の顔に怒気が浮かぶ。
「何故、避けた!」
時也は
震えながらも言葉を発さない。
彼はまだ理解していなかった。
自分が〝何をしてしまったのか〟を。
陰陽師の修行において
気配を消して振り下ろされた警策は
決して容易に避けられるものではない。
それを避けたという事は
〝この父を、出し抜いた〟と
同義ということだ。
「調子に乗るな!」
怒声が轟く。
次の瞬間
父の警策が
無闇に時也を打ち据えた。
「——⋯っ!」
小さな背に、鋭い音が響く。
「どうした、何故避けぬ!」
バシンッ!
「陰陽師として生きるつもりなら
耐えてみせよ!」
バシンッ! バシンッ!
「貴様ごときが⋯⋯
この父を欺いたつもりか!」
バシンッ! バシンッ! バシンッ!
何度も、何度も、何度も。
時也の幼い背が
無慈悲な音と共に染められていく。
それでも、彼は泣かなかった。
耐えなければならない。
耐えなければ⋯⋯生きていけない。
その時だった。
襖の向こうから
何かの気配がした。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
ふと、顔を上げると—
其処には母が立っていた。
「⋯⋯かか、様⋯っ」
打ち据えられ
赤く染まった幼い手が
母へと伸びる。
扇子を持つ母の手が
ほんの僅かに止まった。
しかし⋯⋯それだけだった。
母は、ただ眉を寄せただけで
何の言葉もなく、背を向ける。
「⋯⋯⋯っ」
時也の小さな手が、力なく落ちた。
母は、助けてくれない。
いや
最初から
何も期待してなどいなかった。
父の警策は
なおも容赦なく降り続ける。
その痛みを感じながら
時也は知った。
知りたくもなかった
母の本心を。
(⋯⋯母などではない)
(産まなきゃ⋯良かったのです。)
それは
心の奥底に隠された声。
母が去る際に
ふと浮かんだ浅い思考。
その言葉が
時也の心に突き刺さった。
ー自分は、いらない子なのだ⋯ー
「⋯⋯⋯⋯⋯っっ」
小さな背中を襲う痛みも
いつの間にか
感覚がなくなっていた。
幼い身体は
ただ沈黙したまま
耐え続ける。
その姿を
青龍は、部屋の隅で正座し
黙って見守るしかなかった。
青龍は
己の膝の上で静かに
手を握り締める。
(⋯⋯時也様っ)
何もできない。
何も言えない。
それが
式神として仕える身の限界だった。
ただ、己に課せられた
〝見守る〟という役目を
果たすしかなかった。
その日⋯⋯
時也は
陰陽師としての
〝修行〟ではなく
〝生きる為の絶対的な孤独〟を
学んだのだった。
バシンッ! バシンッ! バシンッ!
木と肉がぶつかる鈍い音が
静かな庭に響く。
時也の小さな背には
赤く腫れた無数の痕が刻まれていた。
だが、泣かなかった。
決して、泣かなかった。
泣けば
さらに父を怒らせるだけだと
知っていたから。
そして
耐えなければ
生きていけないと
分かっていたから。
ふと、視線を上げる。
正座したまま動かない
青龍の姿があった。
彼は、見守るしかできない。
それが式神としての
役目だから。
それでも、青龍の心は
間違いなく時也を憂いていた。
(⋯⋯時也様っ)
時也の小さな身体が
びくりと震えた。
まるで
青龍の心の声を聞いたかのように。
そして、顔を上げ
微かに微笑んだ。
青龍だけは
自分の味方なのだと
そう理解を示すように⋯⋯。
だが、それを見逃す程
父は甘くない。
「何を笑う!!」
バシンッ!!
容赦なく振り下ろされた警策が
時也の脇腹を打つ。
「⋯⋯っ!」
もはや声すら出ない。
痛みが麻痺し始めた頃
父の荒い息が聞こえた。
そして、最後の一撃を
警策ごと投げつけた。
「覚えておけ。
貴様は、我が櫻塚の嫡子。
余計な情など、持つな」
その言葉を残し
父は冷ややかに去っていった。
静寂。
打ち据えられたまま
時也は地面に倒れ伏していた。
その瞬間
青龍は即座に駆け寄った。
「時也様っ!」
背中を抱き上げると
時也の小さな身体が
異様なほど軽い事に気付く。
三歳児の身体が
こんなにも儚いものだったのかと
胸が軋んだ。
このままでは
時也が壊れてしまう。
青龍は躊躇なく
時也を抱き上げると
すぐに地下の座敷牢へと向かった。
牢の格子に
小さな手が掛けられていた。
待っていたのだ。
「⋯⋯っ、あに様!!」
雪音だった。
幼子には似合わぬ
焦燥を顔に浮かべ
彼女は牢の中から
じっと待ち続けていたのだ。
「雪音様が⋯⋯
水をお持ちしろと仰って⋯⋯
これは、時也様っ!!」
青龍の背後から
琴が慌てた声を上げた。
その手には、水を張った小さな鉢。
青龍は、それを見て確信する。
(⋯⋯やはり
雪音様には視えておられるのか)
時也が、今どうなっているのか。
時也が、何をされたのか。
雪音は総て分かっていたのだ。
そして、助けようとした。
自分が牢から出る事も
叶わぬ身であると知りながら
それでも琴に指示を出し
時也の為に水を用意した。
ーたった三歳の少女がー
「琴⋯⋯時也様の治療を、頼む」
青龍がそう命じると
琴はすぐさま動いた。
時也の小さな身体をそっと横たえ
濡らした布で
傷ついた肌を拭っていく。
その間も
雪音はぐったりする時也に
しがみつくように寄り添った。
「⋯⋯てて様も、かか様も
⋯⋯きらいっ!」
ぎゅっと、
也の服を握りしめる。
「⋯⋯あに様⋯⋯あに様ぁ⋯っ!」
頬を伝う涙が
時也の肌に零れ落ちる。
雪音は
ただひたすらに兄を求めて泣いた。
それは
唯一の拠り所を
必死で守ろうとする
小さな少女の
あまりにも痛々しい声だった。
青龍は、それを
黙って見守るしかなかった。
幼い双子が
こうして寄り添い合うしか
生きる術を持たない事に
何もできない己の無力さを
噛み締めながら⋯⋯。