齢七つ。
時也は
すっかり表情を無くしていた。
もはや
〝少年〟と呼ぶには あまりにも静謐で
無機質な存在だった。
歳相応の幼さ等とうに消え失せ
其処にあるのは
まるで一枚の美しい仮面のような顔。
ーいや、仮面ですらないー
それは
感情を捨てる事で
生き残る為に選んだ顔だった。
ーよくできた器ー
そう父は言った。
それは、称賛ではない。
侮蔑を含んだ
歪んだ憎悪の言葉だった。
父は、時也を妬んでいた。
陰陽師として育て上げたのは
自分だというのに
時也はもはや
〝天稟〟と呼ぶに値する程の
才を示していた。
五行思想を理解し
星を読み解き
龍脈を感じ取る。
それを教え込んだのは
他でもない父だった。
なのに──
時也は
何も言わずとも
それらを悟っているように見えた。
それが
父にとっては許せなかった。
まるで
最初からそれを
持って生まれたかのように。
まるで
教えなど不要であったかのように。
その存在が、妬ましかった。
だから、さらに圧し付けた。
「貴様ごときが
陰陽を知った気になるな」
「我らの代々の知を
そう簡単に理解できるはずがない」
「器が良くとも
中身が伴わなければ意味などない」
蔑み、侮り、圧し付ける。
それでも時也は
父を敬うように接し続けた。
冷たい眼差しの奥に
決して父への反抗を見せる事はなかった。
そして、その日
父と対峙した時也は
静かに口を開いた。
「父様⋯⋯
恐れながら、申し上げます」
静かで、穏やかな声音だった。
「先の話は⋯⋯受けてはなりませぬ」
父が目を細める。
「⋯⋯何故だ?」
「櫻塚家を⋯⋯
乗っ取る策にございます」
その瞬間──
青龍の背筋に、電流が走った。
青龍は思わず立ち上がりかけた。
(──時也様っ!何故!)
言ってはいけない。
そんな事を言えば⋯⋯
しかし、時也は言った。
あえて
読心術の存在を仄めかすように。
それは
ある〝確信〟ゆえだった。
ー十歳を迎えたら
双子は事故と見せかけて殺すー
それが、母の思惑だった。
時也は、知っていたのだ。
それを止める為には
何としてでも
〝生かさねばならない〟と
父に思わせる必要があった。
ならば⋯⋯
自らの有能性を示すしかない。
雪音を守る為に──
何としてでも、彼女を。
彼女だけは
生かさねばならない。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
父は、沈黙した。
それが何を意味するか
時也には分かっていた。
父は、考えている。
〝この子は利用できるか〟と。
そう思わせる事ができれば
時也の策は成功だった。
父が殺すに値しない程の
〝器〟であると証明できれば。
時也の中には
何の感情もなかった。
ただ、計算が巡る。
すべては⋯⋯雪音の為に。
その頃──⋯
座敷牢の中で
雪音は泣き崩れていた。
「あに様⋯⋯」
その声には
時也にしか分からない感情が
込められていた。
雪音は、知っていた。
ー兄が、自分の為に
〝何をしたのか〟ー
ー何を犠牲にしたのかー
ー何を〝捨てた〟のかー
だからこそ
涙が止まらなかった。
「あに様⋯⋯っ」
震える声で
彼女は何度も兄を呼んだ。
だが、その声が届く事はない。
なぜなら、時也はもう
あの頃の時也ではなかったから。
七つの歳にして
自らの感情を捨て去った少年。
すべてを妹と共に
〝生きる為〟に捧げた存在。
それが、櫻塚 時也だった。
それからの時也は
父に連れられ
数多の嘘を暴いた。
—暴いて、暴いて、暴いて⋯⋯ー
疑念の種を見つければ
それを追い
絡まり合う闇を断ち切るように
真実を露にする。
時也の能力は
〝真実を見抜くもの〟として
櫻塚家の権力をより増大させた。
ー欺瞞を看破する少年ー
そう噂されるようになり
櫻塚家はますます
繁栄を確かなものにしていった。
父は、それを誇った。
時也の言葉に
完全に盲信するようになった頃の
ことだった。
その日
時也は静かに父の前に座った。
「父様⋯⋯
母様は私と雪音を⋯⋯殺すお心算です」
その言葉が響いた瞬間
「──なにっ?」
父の表情が変わる。
そして、次の瞬間
「許さんっ!!」
轟く怒声と共に
父は勢い良く立ち上がった。
父の中では、既に時也が
〝疑うべきではない存在〟に
なっていた。
だからこそ
その言葉に一切の疑いを持たなかった。
そして、迷いなく動いた。
その日のうちに
母を討ち殺したのだ。
母が、血の海の中に沈む。
息も絶え絶えになりながら
母の手が時也へと伸びた。
その手は、小さく震えていた。
そして初めて
時也の身体を掴んだ。
「⋯⋯産まなきゃ、良か⋯った⋯⋯」
母の手が、力なく落ちる。
ぱたり、と血の海に沈む音。
時也は
それをじっと見つめた。
この母の手が自分に触れたのは⋯⋯
初めてだった。
いや、違う。
彼女はただ
〝憎しみを伝えたかっただけ〟だ。
生まれなければ良かったと。
この世にいなければ良かったと。
彼女の心の底から零れた
その最期の言葉に──
時也は、穏やかに微笑んだ。
その表情には
何の感情もなかった。
ただ、無機質なまでに
綺麗な微笑みが浮かぶ。
「初めて⋯⋯私に、触れましたね?」
優しく語るように
静かに言葉を紡ぐ。
「えぇ⋯⋯
私も貴女から産まれたとは
思いたくありません」
青龍が息を呑んだ。
この場にいた誰よりも
青龍だけは知っている。
これは、痛みを伴う微笑みだ。
時也が
心の奥で何を思っていたのか。
それを青龍だけが知っていた。
母に求めた事など
一度もない。
母に愛されたかった事も
一度もない。
それでも
それでも⋯⋯
〝産まなきゃよかった〟と
最期に吐き捨てられる事が
どれほど幼き心に影を落とすか──
それを
時也は決して口にはしない。
母の死を見つめたまま
時也の微笑みは崩れなかった。
それはまるで、仮面のように。
皮肉な事に
この日⋯⋯
時也は
〝人としての顔〟を捨て
〝微笑みという仮面〟を手に入れた。
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兄を守るため、幼き少女は自ら未来を差し出した。 座敷牢の闇の中、雪音は決意する。 兄だけに背負わせないために── 小さな手で、運命さえも変えようとした、静かなる反抗の物語。