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指先から滴る赤い雫が、白い制服の袖を汚していく。
ちひろは、痛みを感じなかった。むしろ、その痛みが唯一、自分が生きているという確かな証明に思えた。カッターナイフの刃先をなぞるたびに、胸の奥で渦巻いていた黒い澱(おり)が、少しずつ霧散していくような錯覚を覚える。
「……これなら、僕も、何かを変えられるかもしれない」
学校でのいじめは、さらに苛烈さを増していた。健斗たちはもはや、ちひろを「遊び道具」としてしか見ていない。彼らにとって、ちひろの屈辱は明日への活力を与える娯楽であり、ちひろの苦痛は彼らという集団の絆を深めるための接着剤だった。
ちひろは、ただ笑い続けていた。
机の上に吐瀉物をぶちまけられても、教科書を全て破り捨てられても。
「ごめんね、片付けるから。汚してごめん」
引きつった笑顔で謝るたびに、健斗たちの笑い声は大きくなる。ちひろの心は、すでに限界を超えていた。もはや彼は、自分が人間であるという感覚すら失いつつあった。自分はただ、踏みつけられるために存在する、ただの「モノ」なのだと。
その日の放課後だった。
あまりに激しい頭痛に耐えかね、ちひろはふらふらと、人通りのない裏路地へと迷い込んだ。雨が降り始めていた。冷たい雨粒が、火照った肌を冷やしていく。
路地の奥、古びた錆びた鉄扉のそばに、人影があった。
全身を漆黒のロングコートで覆い、冷たい視線で虚空を見つめる男。その手には、雨の中でも鈍い銀光を放つナイフがあった。刃には、見たこともないほど鮮やかな赤がこびりついている。
それが、何であるかは理解できた。理解した瞬間に、ちひろの呼吸が止まった。
恐怖? いいえ、違った。
それは、ずっと渇いていた喉に、冷たい水が流れ込むような衝撃だった。
「……ねえ」
ちひろは、自分の声が驚くほど滑らかに出ることに気づいた。怯えも、震えもなかった。ただ、目の前の男の持つ「力」に対する、純粋な羨望と渇望だけがあった。
男はゆっくりと視線を動かし、ずぶ濡れで、どこか壊れかけた人形のようなちひろを見下ろした。
「ここには、何も落ちていないぞ、少年」
男の声は、底なしの沼のように冷え切っていた。
「何かを探しているわけじゃない。ただ……」
ちひろは、ゆっくりと自分の指先を見つめた。カッターナイフで刻んだ、無数の赤い線。
「……この世界を、少しだけ壊したかったんだ」
ちひろは、震える足で、男の方へ歩み寄った。雨音が世界を隔絶する。
男の殺気、ナイフの冷たさ、そして自分が抱え続けてきた終わりのない憎悪。それらが一つの境界線で混ざり合おうとしている。
「壊したい?」
男が、わずかに口角を上げた。その表情は、ちひろが鏡の前で作っていた、偽りの笑顔とは決定的に違う。それは、地獄の門を開くための鍵のような、凶悪で、抗いがたい笑みだった。
ちひろは、男の黒いコートの裾に手を伸ばした。
その手は、もう二度と、元の光の中には戻れないことを、彼自身が誰よりも理解していた。
「教えて。……僕にも、それを壊せるかな」
暗い裏路地で、二人の影が重なる。
ちひろの瞳から、それまで張り付いていた「癒やし系」という名の仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。