テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
オフィスに着くと、一臣は既に出社しており、何事もなかったかのようにデスクでパソコンに向き合っていた。フロアには既に半分ほどの社員が揃っており、理人が足を踏み入れると、朝の活気とともに一斉に挨拶が飛んでくる。
そんな日常の風景の中、一臣だけは理人の姿を認めると、立ち上がりもせず口角を上げてニヤリと不敵に笑って見せた。
「よぉ、結構来るの遅いんだな」
「……」
昨夜の凄惨な「お仕置き」の後だ。今日は欠勤するのではないかとすら思っていたのに、そのあまりに平然とした態度に、理人のほうが毒気を抜かれてしまう。 自分は昨日の今日で、一臣に対してどんな顔をすればいいのか、正解が見つからずにいるというのに。
(単に神経が図太いだけなのか、それとも……)
どちらにせよ、一臣はどこまでも「一臣」だった。
「上司に対する口の利き方がなってないと、何度言えばわかるんだお前は」
「あー、はいはい。サーセン」
全く悪びれる様子のない生意気な返球。理人は呆れて物も言えず、どっと押し寄せてきた疲労感とともに自分のデスクへ向かおうとした。
「待てよ。……ちょっと話したいことがあるんだ」
遮るように呼び止められ、強引に腕を掴まれる。無視して立ち去ることもできず足を止めると、一臣は理人の耳元に顔を寄せ、密やかな熱を帯びた声で囁いた。
「アンタ、マジで俺のモンになれよ」
「……あ?」
昨夜、あんな形で瀬名に屈辱を刻まれたばかりだというのに、この男は何を言っているのか。
「アンタが瀬名と付き合ってんのも、アイツがアンタに異常に執着してんのもよーくわかった。……だからこそ、俺は全力で、アイツからアンタを奪うことに決めた」
「は……っ」
理人の表情が凍りつく。冗談にしては悪趣味すぎるが、一臣の眼光は射抜くように鋭く、本気であることだけが痛いほど伝わってきた。 それ以上に、ここはオフィスだ。誰が聞き耳を立てているかわからない場所で、こんな火遊びのような会話をする無鉄砲さに、理人の眉間に深い皺が刻まれる。
「俺、今度こそアイツには負けねぇからな」
「お、おい……俺は……」
拒絶の言葉を紡ごうとした、その時。
「いい度胸だけど、そんなことにうつつを抜かしてる暇があったら、早く一人前になれるよう努力したらどうだい?」
背後から冷徹な声が響き、一臣の肩がビクリと跳ねた。 振り返れば、そこには「部長の盾」を自処するかのように、瀬名が割って入っていた。その唇には、一分の隙もない腹黒い笑みが張り付いている。
「あ? んだよ、邪魔すんな」
「邪魔? それは失礼。でも、もうすぐ業務開始の時間だよ。随分と余裕があるみたいだし、もっと君に仕事を回してもいいってことだよね?」
瀬名が放つ、有無を言わせぬ威圧感。言葉こそ丁寧だが、その瞳は一臣を完全に「敵」として認識し、排除しようとする冷たさに満ちていた。さすがの一臣もそれ以上は食い下がれず、不機嫌そうに舌打ちを残して自分の席へと戻っていった。
「全く、あの馬鹿……油断も隙もない。変なことされてませんか? すみません、僕が目を離していたばかりに」
「い、いや……問題ない。それより、職場では部長と呼べと言ってるだろうが!」
理人は慌てて瀬名の口を塞ぐように制し、周囲を伺いながら小声で窘めた。 全く、どいつもこいつも。オフィスでこんな痴話喧嘩じみた真似をされては堪らない。
(奪う、だと……?)
一臣の宣言が頭の中で反芻される。昨夜のような強引な手段に再び出るつもりなのか、それとも。 ぐるぐると考えを巡らせてはみたが、あの予測不能な若造の本心など、理人にわかるはずもなかった。 何があっても自分は瀬名が好きなのだ、その芯は揺るがない。けれど、一臣が真剣な熱を持って迫ってきたら、自分はどう対応すればいいのか。
「大丈夫ですよ、部長。何があっても、僕が守ってみせますから」
思考を読み透かしたような絶妙なタイミングで、瀬名の声が耳を擽った。
「――っ」
気づいた時には、至近距離に瀬名の唇があった。 ちゅ、と触れるだけの、けれど確かな所有欲を込めたキス。 一瞬の出来事に理人が呆然としていると、瀬名は悪戯を成功させた子供のように、満足げな笑みを浮かべた。
「お、おま……っ、正気か……!?」
「大丈夫ですよ。パソコンの画面と僕の身体で隠れて、皆には見えてませんから」
ふふ、と笑い、瀬名は軽やかな足取りで自席へと戻っていく。 確かに理人のデスクは死角になりやすい配置だが、それでもここは戦場のようなオフィス内だ。
一気に全身の血が沸騰するように熱くなる。真っ赤に染まっているであろう顔を隠すように、理人は両手で顔を覆い、デスクに額をゴリゴリと押し付けた。 落ち着け。自分に言い聞かせても、早鐘を打つ鼓動は一向に治まる気配がない。
「あの、部長……大丈夫ですか? 顔が真っ赤ですが、熱でも……?」
「問題ない。確認が必要な書類ならそこに置いておいてくれ」
「は、はぁ……」
部下の訝しげな視線を受け流しながら、理人は心の中で深く、深い溜息を吐いた。 一臣の挑発のせいで、瀬名の独占欲という名のスイッチが完全に入ってしまった。
(……クソっ、先が思いやられる)
小さく悪態をつきながらも、理人は火照った指先でキーボードを叩き始めた。これから始まる騒がしく、そして狂おしい日々に備えるように。