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時間の流れに風化して崩れた壁や雨風の浸食に腐った窓蓋の隙間から差す薄緑の光を受けて、埃粒が煌めいている。レモニカとソラマリアが身動きする度に怯えて逃げ惑うように舞い上がる。鼻の奥を擦るような埃の臭いに顔を顰め、あまり多くを吸わないように口を覆い、目を細めてレモニカは塔の第一階層を検分する。
ここが不思議と怪奇を操作し、創造せんとする魔術師の工房であることは、門外漢のレモニカにもソラマリアにも一瞥して分かった。埃の他には中身の残っていない色褪せた桐の棚に、零れた薬品らしき菫色の粉末、枯れて砕けた薬草の束に人の入れる大きさの鉄の鳥籠と硝子の鳥籠。床に積もる埃に、天井に張るシシュミスの眷属の矮小な子孫の巣。かなり前から使われなくなった施設のようだが、かといってそれが四十年前でないのは確かだ。
「人の気配も死体の気配もありませんね」とソラマリアは拍子抜けした風に呟く。
「たった一人きりの親衛隊がわたくしを疑うの?」
「そういうこともあるでしょうが、そういう訳ではありませんよ。しかし」ソラマリアは少し腰を屈めてじっと床を見つめる。「この積もった埃に足跡が残らない訳がありません。肉体を持たない幽霊か、重さを持たない妖精でもない限り」
ソラマリアの言う通りだ。もしも足跡の残らない何らかの方法でやってきた誰かがいたのだとしても、それは息を潜めてこちらを待ち構えていることになる。襲撃に関しては、ソラマリアにどうにかできないならどうにもできないが。
ハーミュラーへの用件は復活した呪いに教団が関与していないか確かめることだ。もしも既に敵意を持たれているのなら確かめるまでもない。
「分かったわ。一度外に出ま――」
ソラマリアが端正な人差し指を立てて沈黙を求める。そうして囁く。「聞こえましたか? 間違いなくハーミュラーの声です」
聞こえた。レモニカの雅やかに弧を描く耳に何者かの声が届いた。ハーミュラーと確信できるほどではないが確かに何者かの声がどこからか微かに響いている。
ソラマリアが天井を指し示す。上から聞こえたというのだ。レモニカはソラマリアを盾にして塔を探り、見つけた石の階段をそっと上る。熟練の空き巣のように、臆病な小人のように。
第二階層までやってきて、レモニカは再び人影を見つける。二人は雪の積もるように足を置き、花開くように衣擦れ一つ立てず、物陰に隠れつつ近づいていく。そうして再びハーミュラーを視野に収める。
下と同じような工房の一室だ。が、こちらは比較的広い空間で、より多くの鳥籠が部屋の周囲に転がっている。ほとんどが鉄製でいくつかは硝子製だ。そして広間自体が少しばかり歪だ。床には焚火でもしていたかのような黒い焦げ跡、壁には鶴嘴でも打ち付けたかのような抉られた跡、天井にはレモニカに想像も及ばない魔術によって溶解した跡がある。そこから何を読み取れるわけでもないが、暴力的な雰囲気を感じずにはいられない。
その部屋の中心に銀の髪をなびかせる女性、シシュミス教団の長、巫女ハーミュラーが跪いていた。床に横たわっているらしい見えない誰かに向かって労わるような優しい声色で話しかけている。
「尊い犠牲に感謝を。この子のお陰でクヴラフワの救われる日へ大きな一歩を踏み出すことができました。我らは祝福され、呪いは克服されるのです」
どうやら幻のようだ、とレモニカは気づく。グリュエーの魂の欠片に刻まれた記憶だと推定されている過ぎ去りし思い出だ。話には聞いていたが、あまりにも現実味があって逆に嘘くさく感じる。息遣いも衣擦れの音も聞こえ、足音もその振動も感じる。だがこの状況は幻視でなければあり得ないだろう。
てっきり魔法少女だけの才能なのだろうとレモニカは今まで考えていたが、そういうわけではないらしい。あるいは魔導書で変身している者が条件に当てはまるのかもしれない。
ハーミュラーは夢と野望を湛えた瞳で床の上の虚空を見据え、背後の虚空にいる何者かに指示する。
「さあ、彼を埋葬しましょう。誰よりも手厚く、丁重に」ハーミュラーは床に手を伸ばし、しなやかな指で死した何者かを撫でる。「幽世にて見守っていてくださいね、ドーク君。……ん? 少々お待ちください」
するとハーミュラーがこちらをきっと睨み、立ち上がると同時に左手をかざした。目と目が合い、その左手から何かが放射されるのをレモニカは目にしたが咄嗟に間に入ったソラマリアによって隠れてしまった。
「お下がりください! レモニカ様! 問答する気はないようです!」
「待って、ソラマリア」
ソラマリアは抜刀し、レモニカを隠すようにしてハーミュラーの幻と対峙する。
「何だ? 何を放った!?」
「ソラマリア!」レモニカはソラマリアの肩を強く引くがびくともしない。「それは幻よ!」
ソラマリアがびくりとしてようやく振り向く。
「ほら、御覧なさい」
レモニカに促され、再び部屋の中心に目を向けると幻は消え去っていた。
「消えた!」
「ユカリさまが目撃したとおっしゃっていたハーミュラーの幻だわ。わたくしたち、グリュエーの魂の欠片に触れたのね」
「すみません。あまりにも本物らしく見えて」
「それはそうだけど、見えない亡くなった誰か――ドークといったかしら――に話しかけていたわよね? おかしな独り言だとは思わなかったの?」
「おかしな女なのだろう、と」
レモニカは表情を曇らせるソラマリアを見て我に返る。主君を助けようとした行動に罪悪感を植え付けてどうしようというのだ。
「いいのよ。それに咄嗟に庇おうとしてくれたことは嬉しかった。ありがとう」
「身に余る光栄です。我が君」
本当にそう思っているのだろうか、という疑念が頭をよぎったが、レモニカは話を進める。
「魔術工房のようだから、おそらく昔はここでクヴラフワを救うための研究を行っていたのね」
ソラマリアは確信した表情で頷く。「私もしかと聞きました。我らは祝福される、だとか。呪いは克服される、だとか言っていましたね」
だとするとまさにこの地で克服の祝福を完成させたということだ。しかし、とレモニカは頭を捻る。これがグリュエーの記憶ならば、克服の祝福を知らなかったのはなぜだろう。
答えは二つに絞られる。グリュエーがレモニカたちに黙っていたか、ハーミュラーがグリュエーに黙っていたか。だが前者の可能性は微塵もないとレモニカは信じている。つまりグリュエーがそれと知るよりもずっと前からハーミュラーとグリュエーは密かに袂を分かたれていたのだ。ハーミュラーの編み出した克服の祝福はグリュエーの想定していた救いの形ではないということだ。
幻視のハーミュラーが最後に魔術を放とうした相手こそ、まさに隠れ潜んで様子を窺っていたグリュエーなのだとすれば辻褄が合う。
「おそらくムローの都にもシュカー領にもハーミュラーはいないわね」
「何故です? 幻視を見たからといって本人がいないということにはならないと思いますが」
「いいえ、かつてはシシュミス教団にとって、ここが最も重要な施設だったはずよ。でも今は放棄されている。それに救済機構が屍使いの古城を陣取っているとか。おそらくこの街の統治権を救済機構に貸し与えているのよ」
「なるほど。シシュミス教団にとって用事になるものはない、と。では当初の予定通りシュカー領を解呪しますか」
「それは良いんだけど、その御業でもって信仰を集めるというのは難しそうよね」
「死体ばかりですからね」
「それもだけど、そうではなくて、まさにこの土地にいる救済機構の僧侶の信仰も必要かもしれないわ」
ソラマリアもことの面倒さを察して苦い顔で頷く。
「それは確かにあり得る話です。難儀ですね」
「取り敢えず集合場所に向かうわ。小競り合いが酷くなっていなければ良いのだけど」