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日中は父親の会社の現場で汗を流し、仕事が終われば友人達の遊びの誘いも丁重に断り市民向けに開かれている授業を受けるために大学に出向く毎日を送っていたギュンター・ノルベルトは、今日もまた仕事で汗を流し、大学の授業で頭をフル回転させてきた為にさすがに疲労を覚えている身体を何とか引きずって自宅に辿り着く。
幼い頃から両親の代わりになってくれているヘクターやハンナらは2年近くもこのような暮らしを続けるギュンター・ノルベルトの身体を気遣って色々と世話を焼いてくれるのだが、高校を中退してしまった彼が学力を得るためには、卒業資格を得られなくても実際に働くときに役に立つ勉強と働き方を身につけるしか無かった。
昼は働き夜に学校などそんな生活を続けていればいずれ身体を壊すとハンナが泣きながら何度も訴えてきたこともあったが、この家に戻ってくることを決めた夜、戸籍上は弟になった己の息子のためならば何でもすると誓ったことを思い出し、またハンナや黙っていても心配しているヘクターに伝え、二人には息子が世話になっていることを詫びたのだ。
そして今夜も授業を受けて帰宅をしたギュンター・ノルベルトは、出迎えてくれたのが優しいヘクターやハンナではなく、お気に入りの毛布とこれまたお気に入りのテディベアを抱えて眠っているウーヴェだったため、疲れすぎて幻でも見ているのだろうかと目を瞬かせる。
『……ギュンター様、お帰りなさい』
『どうしてフェリクスがここで寝ているんだ?』
ギュンター・ノルベルトが帰宅したことに気付いたヘクターが廊下の先から駆け寄ってきた為、事情を説明してくれと問いかけるとなんとも言えない顔で謝罪をされてしまう。
『ヘクター?』
『……ウーヴェ様が、起きて来られたのですが……』
その時にギュンター・ノルベルトの姿が無いことに気付き、いつものように兄の姿を探して家中をかけずり回ったのだが、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたまま部屋に戻ったかと思うと、お気に入りのテディベアと毛布を引きずってここにやってきたことを教えられ、思わずすぐ傍に膝を突いてその顔を覗き込んだギュンター・ノルベルトは、頬に残る涙の跡と泣きはらした為にか腫れている瞼に気付き、言葉に出来ない感情から震える指先で頬を撫でる。
『……そう、か……』
『はい。……お仕事と勉強と大変なのは分かりますが、ウーヴェ様の為にも身体の為にも少し休みを取るようにされてはどうですか?』
己の身体を気遣っての言葉だとは分かっているが、本来であれば学べる環境だった場所を飛び出したために自力で何とかしなければならない今どちらかを選ぶことも出来ず、苛立ちを隠さないで舌打ちをしたギュンター・ノルベルトは、どうすることも出来ない現実に溜息を吐いて視線をウーヴェに落とす。
『……ヘクター、心配してくれているのはありがたい。でも自分で決めたことだ。それぐらい守れないでどうする』
『ギュンター様……』
眠る弟を見守る横顔は到底10代後半の少年のものとは思えないほど精悍で力強いものだったため、ヘクターもそれ以上は何も言えずに口を閉ざしてしまう。
『だからお前には悪いがフェリクスを頼む』
自分の身体の心配はハンナが用意してくれるものを食べれば大丈夫だと笑い、もう一度ウーヴェの頬を撫でると長い睫がぴくりと揺れ、茫洋としたターコイズ色の双眸が姿を見せる。
『ああ、起こしてしまったな』
何度か目を瞬かせてのろのろと起き上がったウーヴェは、今自分に向けて笑いかけているのが探し回っていた兄である事に気付くと同時に顔をぐしゃぐしゃにし、テディベアを抱きしめていた小さな手を伸ばす。
『ノル……っ!』
『帰ってくるのが遅くなって悪かった。もう泣かなくていい、フェリクス』
涙と鼻水で汚れる顔をシャツの袖できれいにしようとするギュンター・ノルベルトだったが、それを嫌がるようにウーヴェが兄のシャツにしがみついたため、ヘクターと顔を見合わせて無言で肩を竦め合う。
『ウーヴェ様、ギュンター様はお疲れです。ヘクターと一緒にお部屋に戻りましょう』
『……ゃ!』
『……帰ってきたか』
ギュンター・ノルベルトの身体を心配したヘクターがウーヴェを抱き上げようとするが渾身の力と小さな声で否定されてしまい、どうするべきかと思案していた時、廊下の先にある書斎の扉が開きレオポルドがガウン姿でやってくる。
『……フェリクスがどうしてここで寝ていたのか聞いていたんだ』
『ああ、またか』
『また?』
今夜のようなことが幾度か繰り返されていたのかと問いながらウーヴェの背中を撫でて安心させたギュンター・ノルベルトは、父が意味ありげに己を見た後リビングへと歩き出したために立ち上がってその後に続くが、腕の中ではウーヴェがようやく落ち着いたのか、何かを探すようにもぞもぞし始める。
『どうした?』
『……ウーの……テディ……』
『ちゃんとヘクターが持ってきてくれるから大丈夫だ』
寝るとき横にいないと不安になる焦げ茶色のテディベアがいないことに気付いて眉尻を下げるウーヴェの頬にキスをしたギュンター・ノルベルトは、心配するなと伝えながら目尻にもキスをし栗色の髪を撫でてやる。
『ウーヴェ、ギュンターと話があるから部屋に戻って寝なさい』
末息子が出来てから仕事上でもプライベートでも付き合いが悪くなったことを悪友からからかわれることが多くなったレオポルドが子どもは寝て遊ぶことが仕事なのだから早く仕事に戻れと優しく伝えるが、当の息子は兄が帰宅したことが嬉しくて寝るどころではなく、兄の腕の中で父の言葉を先ほどのように断固拒否し絶対に離れないことを教えるようにそのシャツに顔を押しつける。
『……フェリクス、テディと一緒に先に寝てなさい』
『……ャ!……ノル、いや・・っ!』
どうしても離れるつもりが無いウーヴェが次に取った抵抗手段は最大にして最高のもので、その場にいた大人達はやれやれと溜息を零し、一人は大泣きするウーヴェを何とか泣き止まそうとし、一人は慌ててテディベアと毛布を取りに行くために廊下に駆け出しウーヴェが探していたテディベアを抱かせて何とか宥め賺せることに成功する。
部屋に戻れと言っても泣いてしまう為に仕方が無いと大人達が折れ、レオポルドとギュンター・ノルベルトがソファに座ると、ヘクターが彼らのための飲み物を用意するためにリビングを出て行くが、入れ替わるように同じくガウン姿のイングリッドが静かに入ってくる。
『母さん?』
『あらあら、ウーヴェはまたギュンターを探して廊下で寝ていたの?』
本当にお兄ちゃんが大好きなんだからと穏やかに優しく笑ってギュンター・ノルベルトの腕からウーヴェを抱き上げようと手を伸ばすと、ヘクターの時とは違ってウーヴェが大人しく母の腕に抱かれて頭をその胸に預ける。
『ここで大人しく話を聞いていましょうね』
『……ぅん』
大好きなテディベアと毛布をしっかりと抱え母に甘えるように頷いたウーヴェだったが、その前で父と兄が真剣な顔で話し合い始めたことに気付き、不安を覚えて母の顔を見上げる。
『あなたは何も心配しなくて良いのよ、ウーヴェ』
息子の心配を見抜いている母が穏やかに告げて髪にキスをし、次の日曜日には近くの公園に遊びに行きましょうと笑いかけて息子の笑顔を引き出し、そんな末息子を前にレオポルドとギュンター・ノルベルトがこれからのことについて真剣に話をし始めるのだった。
リオンがウーヴェを子どものように抱き上げたまま部屋に入ってきたのを見守っていたギュンター・ノルベルトは、呆然としつつも遠い昔のいつかの光景を思い出していた。
その彼の前でウーヴェを先程まで座っていた椅子に下ろして肩をぐるぐると回して解したリオンは、ウーヴェが不安そうな顔で見上げてくる事に気付いて片目を閉じたあと、泣いたために少し腫れぼったくなっている瞼と額にキスをする。
「リオン……?」
「さっきムッティいたよな? 今日のおやつの事話してくるからちょっと待っててくれよなー」
色の違う瞳に見守られながら片目を閉じ、今日のおやつについて作ってくれる人に話をしてくると言い残して慌ただしく部屋を出て行くリオンを三人が呆然と見送るが、その背中が消えて開け放たれたままのドアからイングリッドとハンナを呼ぶ声が聞こえたとき、レオポルドが呆れた様な溜息を、ギュンター・ノルベルトが多少怒りが籠もったような声を上げたため、ウーヴェが椅子の上で膝を抱えて顔を伏せる。
過去の事件が原因でメディアを通じてその存在を確かめただけで頭痛を起こすほど避けていた父と兄と同じ部屋にいる事実に我に返ったウーヴェの鼓動が一気に早くなり、理由が分からない身体の震えを何とか抑えようと両腕でしっかりと己の身体を抱きしめる。
つい先程まではリオンがいてその温もりを間近で感じていた安堵感から避けていたこの家であの事件以来初めて笑い声を上げたのだが、その温もりが一時的とはいえ消えた途端、不安の海に投げ出されたように身体が震えてしまいどうすることも出来なくなってしまう。
「……ウーヴェ」
立てた膝の間に顔を埋めるように身を丸めていたウーヴェにレオポルドが呼びかけると身体全体がびくりと揺れる。
その動きに目を細めたレオポルドだったが、次の言葉をウーヴェに掛けようとした寸前、震えて蒼白ながらもウーヴェが顔を上げ、呼びかけたレオポルドに向けて震えて掠れる声で返事をする。
「……な、に……?」
「あ、ああ。いや……目以外に調子の悪いところは無いのか?」
まさかウーヴェが返事をするとは思わなかったために口ごもった父だったが己を落ち着けるような溜息を一つデスクに零したあと、目以外に不調は無いのかと問いかけ無言で頷かれて今度は安堵の吐息を零す。
「そうか。早く治ると良いな」
「……リ、オンがいる、から……」
多分すぐに治ると思う、治らなくても何とかなると思えると震える声でもしっかりと返したウーヴェにレオポルドが驚きの表情を浮かべ、確かにその通りだと頷いて腕を組むがギュンター・ノルベルトが複雑な表情でウーヴェを背後から見守る。
本当に大丈夫なのか、今すぐ主治医に相談した方が良いのでは無いかとの思いから先ほどホームドクターに連絡を取ったのだが、ウーヴェの様子を見た母やハンナの言葉を聞く限りでは特に今すぐ何か手を打たなければならない訳では無いと気付き、部屋に戻ってきて父と今後のことについて話し合っていたのだ。
あの事件で人間らしい感情の一切を喪失したウーヴェであっても生きていて欲しい、ただその一心で父とともに憎まれることでウーヴェを生かそう、感情を取り戻させようと主治医と相談して決意をしそれを実践してきたギュンター・ノルベルトだが、いつも心のどこかで前のようにウーヴェと話し笑える日が来ることを願っていた。
その願いが一生叶うことが無い甘い夢であったとしても願い続けていたのだが、今目の前で震えながら呼びかけに返事をし、顔を上げて父の顔を見ている姿からもしかすると自分たちが密かに願い続けてきた思いが叶うかも知れないと僅かな希望も見いだせるようになっていた。
その希望と変化の芽はギュンター・ノルベルトが見いだした希望を大きくしてくれるものでもあったが、気にくわないことを思い出してしまう。
ギュンター・ノルベルトの最大にして最高に気にくわないのがリオンという端から見ればいい加減で暴力傾向の強い男が大切なウーヴェの恋人だという事実だったが、その彼がウーヴェにも自分たち家族にとっても良い方向へと物事を転がしていくのではないかと言う微かな期待が芽生えている己に気付き、苛立たしそうに舌打ちをする。
「……本当に、あんな男のどこが良いんだ」
お前にはもっとふさわしい人がいるだろうにとどうあっても消し去ることの出来ない不満を零すと、不安や苦痛の中にいても絶対に譲れない思いを双眸に込めてウーヴェが父から兄へと顔を振り向ける。
「ノルが……どう、思ってるかは……、俺が付き合う人は、俺が選ぶ。それ、にふさわしいのは……あいつだけ、だから……」
だからリオンのことを悪く言うなと今までの関係からすれば信じられないことに顔をしっかりと見つめながら、己が愛しまた同じ愛を返してくれて守ってくれる人を悪く言うなと再度告げるウーヴェを見つめ言葉を失ったギュンター・ノルベルトは、やはりどうしても認められない思いから拳を握るが、ウーヴェが自らの意思を表明し貫ける人に成長していることにも気付いて感慨深げに目を細めてしまう。
幼い頃、帰宅の遅いギュンター・ノルベルトを待って玄関傍の廊下で泣きながら眠っていた面影を多少血色が悪くなっている顔につい探してしまい、もうあの幼いフェリクスはいないのだ、事件の時に喪われてしまったのだと冷静な声に諭されて何度目かの溜息を零すが、それに対して敏感さを見せるようにウーヴェの肩が幾度目かの緊張の動きを見せ、さっき感じた思いはやはり甘い夢だろうと諦めの吐息を胸の中に零すのだった。