ウーヴェを精神的に不安定になる場所に残して部屋を出たリオンは、リビングのドアの前で不安そうに立ち尽くしている細い姿に気付くと無意識に二人の女性の姿を脳裏に思い浮かべてその面影を重ねてしまう。
刑事として働くまでのリオンは教師や周囲の大人達が匙を投げてしまうほど素行が悪かったが、今脳裏に自然と浮かんだ二人の女性だけは何があろうとも最後まで見放すことがなかった。
今になって気付いたことだが、リオンが何をしようとも全く変わらない穏やかな笑顔とその横で勝ち気な笑顔で二人の女性が出迎えてくれていたのだ。
今、己の前で不安そうに、それでも毅然とした顔で愛する息子の様子を気遣っている彼女のように。
そのことに気付いたリオンの口からは自然と溜息がこぼれ、この家に来てまだ一夜を明かしただけなのに一体自分はどれだけのことに気付かされたのだろうと、呆れるやら感心するやらでつい肩を竦めてしまうと、不安そうな顔に驚きの色が浮かび上がる。
「どうしたのですか?」
「んー……俺ってバカだったなぁって今頃気付いたってこと」
「まぁ」
リオンの突然の自虐の言葉にイングリッドの目が丸くなるが、突然そんなことを言われても困ると鈴を転がしたような声で笑われて思わず赤面する。
「確かに困りますよねー」
「ええ。……ウーヴェの目の調子はどうですか?」
リオンの軽口に付き合うように笑った彼女だったが今最も心配していることをそっと尋ね、それにつられるようにリオンも表情を切り替えるが、まだ朝からさほど時間が経過していないから何も変わっていないが、ウーヴェの心境はかなり変化しているから、もしかすると早々に元通りになるかもしれないと楽観的な言葉を告げて頭に手を宛がう。
「そう俺が思ってるだけなんですけどね」
「いいえ……あなたがそう思うのならきっとそうなのですよ」
廊下での立ち話に気付いたイングリッドがリビングのドアを開けて中へと進みリオンもついて行くと、ソファではハンナとアリーセ・エリザベスが顔を寄せて何かを見ていた。
「母さん、今日はチーズケーキとリンゴのタルトでしょう? これはどう?」
イングリッドが戻ってきたことに気付いたアリーセ・エリザベスが顔を上げて雑誌を見せるが、母の後ろにリオンがいることに気付いて表情を和らげる。
「あら。私のダーリンよりも自分の好きなおやつを優先させたリオンちゃんじゃない。フェルはどうしたの?」
柔らかな表情とは裏腹な言葉にリオンが瞬間的に反論のスイッチを入れそうになるが、ウーヴェの叔母であり姉でもあるため素直に己の思いを口にすることが苦手である事を思い出した瞬間、ついウーヴェをいつもからかっているような口調で素直になるのが苦手なんだからーと笑うと、ウーヴェにも似通った面立ちが鳩が豆鉄砲を食らったようになってしまう。
それが氷の女王と称されたこともある美貌を近寄りがたい美しさから身近な美へと上手く変化させたのか、うわ、すげー可愛いとの本音がこぼれ落ちてしまい、リオンが咄嗟に口元を押さえる。
「……な、何を言うのよ!」
「何ってアリーセもオーヴェのお姉さんだけあって本当にきれいで可愛いのに素直じゃ無いなーって思っただけだろ?」
それ以外何の思いもないと慌てて首を振ったリオンだったが、背後から聞こえてきた嫉妬を含んだ低温の声に飛び上がりそうになる。
「私の女王様を口説いているのかい?」
「違う違うっ! ……ちょ、ムッティ! 笑ってないで助けてくれよっ!」
背後から聞こえてきたのはアリーセ・エリザベスの夫であり彼女曰くの最愛のダーリンであるミカの声で、その後ろではヘクターがなんとも言えない顔でリオンを見つめていたため、己よりも体格の良いミカを相手にケンカをするつもりなど毛頭無いリオンが慌てて自己弁護をするが、そんな二人の耳に先ほどよりも楽しそうなイングリッドの笑い声が届けられ、二人揃って彼女の顔を見つめる。
「……本当に、楽しい人」
涙すら浮かべて笑う恋人の母を恨めしそうに睨んだリオンだったが、不意におかしさを感じて肩を揺らして笑うとミカの手を取って和解の握手をする。
それに応じたミカも先ほどの言葉は嘘では無いがこれ以上は何も聞かないとリオンの青い石のピアスに囁くと二人肩を並べてソファへと向かい、ヘクターがハンナの横に腰を下ろして皆が今日焼くケーキのことで話し始めるが、イングリッドが聞くべきかどうするべきかを思案している顔でリオンの横顔を見つめたため、それに気付いたリオンが顔を振り向けると、躊躇いつつも聞かずにはいられない声が先ほどの笑い声は何だと問いかけてくる。
「へ?」
「さっきウーヴェが笑っていたでしょう? あれは……」
まさかこの家でと言うよりは自分たちがいる前であんなに声を上げてウーヴェが笑うことなどもう二度と無いと思っていたと悲しげに目を伏せて呟くイングリッドにアリーセ・エリザベスが驚きに目を瞠り、隣の夫の腕を無意識でぎゅっと握る。
「ああ、さっきの? あれは腹に頭を押しつけてぐりぐりってしただけだけど?」
オーヴェの弱点は色々知っているが腹を擽られれば誰でも涙を流して笑ってしまうと肩を竦めたリオンは、ミカ以外の人の顔が驚きや悲しさに彩られていることに気付き、己の言動の結果だと気付くとくすんだ金髪を掻きむしった後、高い天井に向けて息を吐く。
「簡単なことだと思うんだけどなぁ」
二度と笑うことが無いと思っていたと悲しそうに呟くイングリッドの横顔へと視線を向けたリオンは、一瞬痛ましそうに眉を寄せたあと、やるせない溜息を吐いて再度髪を掻きむしる。
「みんなさ、オーヴェがベッドでずっと寝てる間、そのままにしてたのか?」
「……」
「どーして誰もハグしてやらなかったんだ?」
当時を見てきたかのようなリオンの言葉に皆が口を閉ざして悲痛な面持ちになるが、己の過去を思い出しながら目を伏せたリオンが意味が分からない笑みを浮かべて小さく頷く。
「俺もガキの頃は随分とひどいことをしてきたけどさ、ゾフィーにこっぴどく叱られた後はマザーが絶対にハグしてくれた。多分……それがあったから最後の一線は越えなかったんだと思う」
自分の時とは環境が全く違うが、日がな一日ベッドで寝ているだけのウーヴェを誰も抱きしめてやらなかったのは遠慮してのことかと問いかけると、アリーセ・エリザベスが何かを言いたげに口を開くが、どうして良いのか分からなかったのだと幾度かの開閉を繰り返した口から苦しそうに声を出す。
「どうして良いのか分からなかったわ。それに……あの様子を見た後だったもの。近付いてまたフェルが自分を傷つけるのを見たくなかったのよ」
警察の手によって発見され救急隊員の手で病院に搬送された後、駆けつけた病室でアリーセ・エリザベスらが見たのは、病室の隅で小さな身体をさらに小さく丸めながらやっと外して貰えた忌々しい赤い首輪の後がくっきりと残る首を掻きむしるウーヴェの姿だった。
アリーセ・エリザベスとイングリッドが蒼白になりながらも近付いてそれを止めさせると、焦点の合っていない目で見つめられるだけだったが、レオポルドとギュンター・ノルベルトが入ってきたときなどは半狂乱という言葉が生易しく感じるほどで、主治医から近付くなと言われるだけではなく顔を見せるなとまで言われるほどだった。
あの半狂乱の様を再現させたくない-どちらかと言えば見たくない-一心で、腫れ物に触れる時のようについつい接するあまり、いつしか一人であの部屋で寝かせるだけになってしまったのだと肘をぎゅっと握りながらイングリッドが後悔の滲んだ告白をすると、リオンの頭がゆっくりと上下するが蒼い瞳に強い光を浮かべてイングリッドを見つめる。
「あんなオーヴェ、二度と見たくねぇよな」
「……あなたは見たと言うの?」
リオンの言葉にイングリッドではなくアリーセ・エリザベスが驚きの声を上げるが、夢を見てうなされた後クローゼットに逃げ込んで身体を丸めて震わせていた姿を脳裏に思い描きつつ無言で頷いたリオンは、首に痣が浮かんでいる時のウーヴェの様子を伝えると女性達の顔が一瞬で青ざめてしまう。
「あんなオーヴェ、見たくねぇ。でも、だからと言ってそっとしておくことも出来ねぇ」
愛する人が苦しむ姿は見たくないが、そうなってしまう原因に蓋をするようなことをすれば結果的にその苦しみを長引かせてしまうだけではないのか、もしそうならばそちらの方が辛いと足の間で手を組み、その親指をくるくると回転させながら言葉を選ぶリオンの顔をじっと見つめたイングリッドは、いつまでも苦しみ続ける必要などない、そんな苦しみを与えられなければならないほど親父や兄貴達はひどいことをしたとは思えないと呟かれて驚くが、彼女の驚きにリオンが達観したように目を細める。
「……言っちゃ悪ぃけどさ、俺の周りでは珍しいことでもなんでもなかったし」
後先を考えられない若い兄貴がしたことなどリオンの周辺には掃いて捨てるほど転がっていた若さ故の過ち-とは言えない事情を多分に含んでいた-であり、リオン自身は幸運にも経験しなかったが、児童福祉施設や教会に毎日熱心に通っていた少女がある日を境に姿を見せなくなったが暫く経ったころ、生後間もない乳児を連れて顔を出すと言うことが、頻繁ではないが決して皆無ではなかった。
「……俺にとっては珍しくも無いけど、親父やムッティにしてみれば驚くことだよなぁ」
立場を変えれば当然の出来事もそうではないことぐらい今のリオンには理解出来ることだったため、やるせない溜息を吐いて苛立ち紛れに髪を掻きむしるが、だからといって二十年以上も苦しまなければならない理由などないと零し、イングリッドだけではない男女の顔に驚きを浮かべさせる。
「20年だぜ? いくら親父達が憎いから復讐したいからって言って二十年以上も苦しむように仕向けるなんてフツーできねぇ」
しかもその復讐の対象に己が腹を痛めて産んだはずの息子が含まれていることが理解出来ないし納得できないとも零すが、色々と複雑な思いがあったのだろうとミカがリオンの言葉に同意するように頷きつつ呟くと、リオンが再度組んでいた親指の動きを止める。
「確かに色々あったんだろうけど……あれかな、オーヴェを取り上げられたことに対する恨みとまた別に何かあるのかもな」
もっとも、事件の関係者で今生きているのは一番幼かったウーヴェだけであるために知る術がないと苛立たしそうに呟くが、日記に書いていないのかと問われて頭を何かで殴られたときのような衝撃を受ける。
「そうだった……! 日記に書いてるかも」
「……まだ読んでないの?」
「ああ。オーヴェに読むかどうかを任せてるからさ、そのままにしてた」
そうか、日記かと呟き右の掌に拳を打ち付けたリオンは、日記を読めば色々解決するかも知れないと呟いて天井を見上げる。
二十数年前の事件は犯人達が全員死亡し、誘拐されていたウーヴェが解放された時点で解決しているはずなのにまだその影に怯えているウーヴェや、抱きしめたくても出来なかったその家族達を思えばただただ悲しく、犯人に対するやり場のない怒りが胸に溢れかえってくる。
調書で軽く見ただけの犯人達の顔を脳裏に浮かべ、良くもまあここまで人の家庭を壊せるものだなと知らず知らずのうちに呟くリオンの横顔を室内にいた皆が一斉に見つめるが、その視線に気付くことなくリオンが無意識なのか唇に太い笑みを浮かべる。
「……イイゼ、前にも言ったけど、いつまでもお前らの好きにはさせねぇ。影としてしか出てこられねぇんだから大人しく地獄に引っ込んでろ」
そしてその地獄で主のルツィフェルに食われながら、お前達が憎んだ相手が互いの気持ちを知り和解し仲良く暮らしていく様を見て悔しがれと、天井に犯人達の顔を思い描きながら挑発的な笑みに切り替える様を、アリーセ・エリザベスは夫の腕に身体を寄せながら、イングリッドは小刻みに身体を震わせながら見守ってしまうが、その身体の震えは恐怖と言うよりはもしかすると長年家族を苦しめた事件が本当の意味での解決を見るかも知れないという期待からだと気付き、咳払いをして静かに目を伏せる。
リオンの言葉から感じ取れるのはウーヴェに対する愛情と犯人達に対する憎しみだけだった。
事情を知りそれをネタに良からぬことを考える輩も過去にはいたが、そんな人達とは一線を画していることはもう十分に分かっていることだったため、再度目を開けてリオンの横顔を信頼のまなざしで見つめたイングリッドは、その顔が此方に向けられたことに驚き、瞬きをしてその驚きをかき消そうとする。
その様子を同じく瞬きをしながら見つめたリオンだったが、その顔に種類の違う笑みが三度浮かび上がり、イングリッドに笑いかける。
「みんなもう事件から解放されて良いはずだよな」
それをこれからするつもりだから、だからお願い、おやつはリンゴのタルトとカスタードプディングにしてと片目を閉じると、リオンの変化についていけないのか皆の顔が驚きに染まるが、さっきは感じられなかった明るさが少しずつにじみ出していた。
「カスタードプディング?」
「そう。オーヴェが好きだったおやつ。いっぱい頑張ったご褒美にそれをオーヴェと一緒に皆で食いたいなーって」
これからもう少しだけ泣いたり苦しかったりするかも知れないが、あと少し頑張ってもらうつもりだと告げて立ち上がったリオンは、ウーヴェを一人残したままであることを思い出しつつ伸びをし、何事かを思い出した顔でイングリッドとアリーセ・エリザベスの顔を交互に見る。
「そー言えば、オーヴェが事件の時にずっと二人を庇ってたってこと、知ってたか?」
「え? 初めて聞いたわ」
「知らないわ」
二人の反応が予想通りだったことに頷いたリオンは、以前レオポルドを護衛した一連の仕事で感じた違和感を解消できるかも知れないと呟くと疑問を顔中に広げる二人の前で一つ伸びをして今日のおやつはその二つでお願いと言い残してリビングを出て行く。
「フェルが私たちを庇っていたってどういうこと……?」
「初めて聞いたことよ」
アリーセ・エリザベスの疑問にイングリッドが頭を左右に振って何のことか分からないと眉を寄せるが、とにかくリオンが言うとおりに今日のおやつはリンゴのタルトとカスタードプディングにすることを娘とハンナに伝え、今日のおやつはウーヴェの好物ばかりだが、それを思い出させてくれたリオンに感謝しなければならないとハンナが笑ったため、つられて皆笑みを浮かべるが、イングリッドの心の中にこの皆の笑顔はリオンがもたらしたものだという思いと、こうして笑顔をもたらしてくれるリオンだからこそウーヴェも信頼しすべてを預けられるのだとも気付くと、本当に事件から解き放たれたいものだと小さく零してハンナの首を傾げさせるのだった。
太陽から離れ過ぎた惑星が氷に覆われるように己の身体を包む冷たさを感じてしまって膝を抱えて椅子に座っているウーヴェは、何度目かも分からない溜息が兄の口からこぼれたのをぼんやりと知覚するが、これもまた何度目になるのか分からない永遠の恋人に対する不満を聴覚が捉えたとき、ごく自然と伏せていた顔を上げて己とよく似た端正な横顔を見つめる。
ウーヴェの視線に気付いたギュンター・ノルベルトが前髪を掻き上げ、どうしてそこまであんな粗雑で乱暴な男が良いんだと呟いた為、ウーヴェが頭を左右に振って小さな声で兄を呼ぶ。
「……ノル……違う。あいつは……ただ粗暴な男じゃ、ない」
「……俺にはそう見えるが、お前が庇うほどの男なのか? そんなにリオンが良いのか?」
兄としての思いよりも父としての思いが強く滲んでいる言葉に、戸籍上の父が咳払いをして二人の息子を交互に見つめるが特に口を開くことはなかった。
「リオンは、誰かを守るために、誰かに対して暴力を振るう、ことが多い。自分の感情のままに暴力を振るうことは……今ではもう、ないはずだ」
社会人になる前までのリオンならば暴力沙汰は日常茶飯事だったが、それでもその大半は己の感情の善し悪しではなく、彼が大事に思っている存在が不当に貶められ名誉を傷つけられるような事があった結果、暴力という手段に頼ってしまっただけだろうとリオンと知り合ってから様々な事象をともに経験してきたからこそ見抜けることを傍にいるだけで緊張と不安のあまり鼓動を早めていた兄に向けて静かに語る。
今この部屋で父と兄といる己を想像し認識するだけで鼓動が早まるが、リオンを非難されていることが分かるとその鼓動も日頃のような冷静さを取り戻し、緊張も不安も形を潜め、不思議なほど心穏やかに己の愛する男がどのような思いで拳を握り、彼が大事にしたいと思う人達を守ってきたのかを語ると、事件以来交流を断っていた相手にこれほどまでに穏やかな気持ちで対峙できるようになっている己が不思議だったが父や兄は当人以上に驚いているようで、瞬きも忘れてただじっとウーヴェの顔を見つめていた。
「……あいつがいる、から……今こうして、父さんやノルと……話が出来る、んだと思う」
短期間の友人関係を経て恋人として一緒に過ごす時間が増え、その中で胸が張り裂けそうな出来事も舞い上がりそうなほど嬉しかった出来事も経験してきたリオンがいるからこそ、今己はここにいてこんなにも穏やかに話が出来るのだと独り言のように呟いたウーヴェは、椅子の上で膝を抱えるように座り直す。
「……あいつは……つい、悪い方へと考えてしまう癖を、直してくれる。何かが起きても大丈夫だと思える力をくれる」
そんな人に今まで出会ったことは無いし、これからも出会えるとは思えないと、リオンへの思いを口にする時にはさっきとは打って変わったしっかりした口調で己の思いを伝えるウーヴェにギュンター・ノルベルトがただ驚きに目を瞠り、そんな息子達を見つめる父の目も驚きに丸くなっていた。
「リオンは……すべて受け止めて、受け入れて……それでも一緒にいようと言ってくれる」
傍にいるだけで安心できる、本当に奇跡のような人だと穏やかさすら顔に浮かべたウーヴェは、抱えていた膝に額を押し当て、世界が灰色になっても過去に戻るわけでも死ぬわけでも無い、日常生活に支障を来すのは辛いことだが一度その世界から抜け出せているのだ、また必ず抜け出せると笑った顔を脳裏に描き、それからでも力を分け与えられているのだと気付き、灰色の世界で手を伸ばして眩しそうに目を細める。
「……あいつは……太陽、だ」
静かな告白に父も兄も何も返事が出来ずに口を閉ざしてしまっていたが、己の言葉から悲しい場面を思い出してしまい、伸ばした手をぎゅっと握りしめたウーヴェは、あの事件当時、ただ一人の友であり支えでもあった少年のようにリオンが無残な最期を迎えてしまうことまで想像してしまうが、あのような悲しい最期を迎えたりはしない、もうあれは過去の出来事なのだと小さな声がウーヴェの中で静かに沸き起こり、恐怖に支配されようとしている身体に時間を掛けて伝播していく。
伝わる思いに顔を上げて深呼吸をしたウーヴェは、心配そうに見守っている父と兄の顔を自らの意思でしっかりと見つめた後、リオンがいれば大丈夫だ、何事も受け入れられると告げて目を伏せる。
「……昨日、リオンが言ったけど、ノルなら分かるはず、だって」
「……・・」
帰宅したギュンター・ノルベルトを出迎えたリオンがウーヴェにしがみつきながら-にしか見えなかった-彼に告げたのは、本当に守りたい、守ってくれる存在に出逢ってしまえば過去など関係なく人は変わることが出来るし自然と変わってしまうだけの力を与えられる、それはただ一人の女性、レジーナと出会ったギュンター・ノルベルトにならば理解出来るはずという思いだったが、その言葉の意味をしっかりと読み取っていたウーヴェが穏やかな声で己の思いも込めて囁くと、兄が顔を背けて口元を手で覆い隠す。
「だ、から……ノル、には……そんなことを言って欲しく、ない」
途切れつつも己の意思を伝えてくるウーヴェを直視できずに顔を背けていたギュンター・ノルベルトは、たった今交わされた会話が以前のような溝を感じさせないものである事に気付く余裕が無く、ただ告げられる思いを受け止めるだけで精一杯だったが、父には余裕があったため、顎の下で手を組んでじっとウーヴェを見つめつつ静かに口を開く。
「お前の気持ちは分かったが、正直な話……まさか今ここでそんな風にお前が話をしてくれるとは思わなかった」
事件以来顔を合わせることを極力避けてきていた節のある自分たちがこうして話を出来るようになるとはつい昨日までは夢にも思わなかったと、混乱しながらも喜びを隠しきれない顔で苦笑する父の言葉にギュンター・ノルベルトが我に返ったように目を瞠り、同じく驚いた顔をしているウーヴェを見つめる。
父に言われて初めて己の心身に不調が現れていないことに気付いたようで、ウーヴェが先ほど掲げた手へと視線を落とすと、こうして穏やかな気持ちでいられるのもリオンがいるからだと先ほどと同じ言葉を繰り返すことで立場や思いは違うものの根幹にある己が愛し生涯一人と決めたその相手に対する思いは父や兄と何ら変わらないどころか、それ以上のものがあるのだと伝えれば、それを察することの出来ない二人ではない為か、父は何度も頷き兄は相手に納得できないがそれでも己が発見したようにウーヴェもただ一人の相手を見いだしたことだけは認めると溜息混じりに呟く。
「……ありがとう……ノル」
リオンに対する思いを理解してくれてありがとうとギュンター・ノルベルトの顔を見つめて礼を言うと己によく似た端正な顔にさっと赤みがさし、どんな感情からか震える声がどういたしましてと返すが、その時、けたたましいノックの音-とはやはり二度目に聞いても決して思えない-がし、ウーヴェがいつもの癖で溜息を吐きつつどうぞと告げてしまう。
「ハロ、オーヴェ!」
ドアが開き勢いよく入ってきたのは金色の嵐のようなリオンで、日々クリニックでその襲撃を受けているウーヴェは深い溜息を零すことで何とかそれをやり過ごすが、二度目の襲撃にただただ呆然とするしかないレオポルドとギュンター・ノルベルトの前、何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべ、肩に異様な大きさのテディベアを担ぎ、小脇には日記を挟んだリオンが大股にウーヴェに近付くと、ダーリン、待たせて悪かったと詫びながら白っぽい髪にキスをし、そのまま少しだけ血色が良くなった頬にもキスをすると、レオと名付けたテディベアをウーヴェの椅子の横に座らせる。
リオンのキスを受けて顔を上げたウーヴェは、窓から入る秋の日差しが不意に強くなった気がし、眩しそうに目を細めながら突然そう感じた理由を探っていくが、間近に見える今は灰色にしか見えない蒼い瞳の持ち主が笑みを浮かべていつもと変わらない様子でいるからだと気付いて眩しそうに目を細め、無意識の行動でテディベアの頭を何度も撫でる。
「どーした、オーヴェ?」
「お前が戻ってきたら急に眩しくなったと思っただけだ」
「へ?」
「何でもない」
笑みさえ浮かべつつテディベアの頭を撫でていた手でリオンの金髪を撫でたウーヴェを、ただただ呆然と見つめることしか出来なかったギュンター・ノルベルトは、人間、あまりの衝撃を受けると言葉をなくすものなんだなとぽつりと呟く父に頷き、目の前の光景が夢ではありませんようにと密かに強く祈ってしまうのだった。
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