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#モキュメンタリーホラー
ひのめこがね
23
156
#文学
かんすい
35
『そいつ』が現れたのがいつだったのか、もう思い出せないくらい前のことだった。
そいつはいつも、俺の住むボロアパートの玄関の内側に立っている。
パッと見はスーツを着た男だ。ただし、頭部が洗面器になっている。文字通りの意味である。中身は空っぽで、本来人間の頭があるべき場所に、洗面器がピッタリとくっついている。
動かないし、喋らない。現れたその日から今まで、俺はこいつが動いたところを一度も見たことがなかった。
「今日めっちゃムカつくことあってさぁ。聞いてくれる? 聞いてくださいお願いします」
玄関に立ち尽くすそいつに、俺は話しかける。返事なんて期待していない。どうせ話せないのは分かっているから、ただの独り言、暇つぶしだ。不思議なことに、話しかけていると気持ちが落ち着くので、いつの間にかこれが習慣になっていた。
確かに、最初はいきなり現れたこいつを見てパニックになった。けれどどうやらこいつは俺以外の人間には見えないし、触ることもできないらしい。なぜか俺にだけははっきりと見え、しかも触ることができる。
だからこそ、普段の出入りやたまにピザの配達なんかを頼むときには物理的に邪魔で本当に困っていた。狭い玄関の真ん中に直立不動で突っ立っているから、横をすり抜けようとするたびにスーツの肩や冷たい洗面器のふちに俺の身体がごつごつとぶつかるのだ。
相談した友達や同僚に「頭がおかしくなった」と心配されてからはもう気にしないことに決めていたが、一人暮らしのわりには随分と狭苦しい玄関になってしまっていた。
「今日さ、客にいちゃもんつけられたんだよ。俺のせいじゃないのに、上司にめっちゃ怒鳴られてさぁ……『お前のせいだろ!使えねえな!』だって! そこまで言うことなくない!? ほんと最悪だったわ」
相変わらず、そいつは何も言わない。ただ夕暮れ時の細い光を浴びて玄関に佇んでいる。それでも俺は気にせず話し続ける。誰かに話を聞いてもらえるだけで、このやりきれない気持ちがほんの少し軽くなる気がするから。
「まあ、お前に言ってもしょうがないんだけどな。でも、誰にも言えないままだと、頭がおかしくなりそうだったからさ。……聞いてくれてサンキューな」
一通り吐き出すと、胸の奥に閊(つか)えていた黒い塊が、すうっと軽くなるのが分かった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルトップを引き抜く。プシュー、と小気味いい音が狭いワンルームに響いた。
ビールを一口、喉に流し込む。
玄関で直立不動のまま佇むそいつを眺めているうちに、ふと思いついた。
「おい。いつも愚痴聞いてくれてありがとうな。……たまにはお前も呑むか? その洗面器の中に入れたら、お前、呑めるのか?」
俺は缶ビールを片手に、玄関へと歩み寄った。
そいつの細い肩にぽんと手を置く。安物のビジネススーツの、少しひんやりとした生地の感触が手に伝わる。
つま先立ちになり、ビールを少し注いでやろうと缶を傾けかけた――その瞬間、俺の動きが止まった。
「……あれ?」
いつもの見慣れた光景のはずだった。
安物のビジネススーツ。直立不動の姿勢。そして、頭部にある白いプラスチック製の洗面器。
何かが違っていた。
部屋の薄暗い電灯の光を反射して、洗面器の内側が、キラリと不自然に光ったのだ。
「水……?」
底から数センチほど、透明な液体が溜まっていた。
俺の部屋の水道水よりもどこか澄んでいるように見えるそれは、底のプラスチックをレンズのように歪めている。
「前見たときは洗面器の中空っぽだったよな……?」
だが、水が溜まっている。
なぜだ。雨漏りでもしたのだろうか。いや、天井を見上げてもそんな形跡はない。
その時、耳元でかすかに音がした。
――プツ、プツ。
洗面器に溜まった水の底から、極小の泡が湧き上がって弾けるような、冷たい水音。
そのチャプン、ポツンという微かな揺らぎの合間に、ささやきのような音が混ざっていた。
耳を限界まで近づけて、水面に自分の息がかからないよう注意しながらじっと聞き入る。
『……お前の……せ……だろ……』
水の中でくぐもった声が、泡の弾ける音とともに鼓膜へ届く。
『……ええ……使えねえな……』
それは、さっき俺が口にした、今日俺を怒鳴り散らした上司の声そのものだった。
水底に沈んだスピーカーから、遠く響いてくるような、妙にこもった不気味な響き。
「これ、俺がさっき言った……」
はっとした。
『そいつ』は、俺の愚痴を聞いていたのではない。
俺が吐き出した「言葉」や「嫌な記憶」を、その頭部の洗面器で、文字通り『受け止めて』いたのだ。
そう自覚した瞬間、不思議なことに、今日あれほど俺を苦しめていた上司の怒鳴り声や、客の理不尽な顔が、頭の中で驚くほど薄れていることに気づいた。
今日言われたはずの具体的な罵倒の言葉が、まるで他人の小説の一行を読んだかのように、自分の痛みとして思い出せなくなっている。主観的な苦痛が、目の前の洗面器の水に物理的に吸い出されてしまったかのような、奇妙な断絶感がそこにはあった。
俺はぽかんと口を開けたまま、洗面器の中の澄んだ水を見つめた。
水面は静かに揺れ、やがて鏡のように平らになった。音ももう聞こえない。
「お前……身代わりになってくれてんのか?」
問いかけてみるが、やはり『そいつ』は微動だにしない。スーツの肩も、頭部の洗面器も、ただそこにあるだけだ。
もし、これからも俺が愚痴をこぼし続けたら、この水はどんどん溜まっていくのだろうか。
そして、この洗面器が水でいっぱいになって溢れてしまった時、一体何が起こるのだろう。それに、嫌な記憶を吸い取られ続けることで、自分の中の何か大切な感覚まで少しずつ摩耗して失われてしまっているのではないかという、漠然とした不安が脳裏をよぎる。
だが、それでも――。
明日もまた、あの神経を擦り切らすような現実に戻らなければならないのだ。この手軽で都合のいい、唯一のストレス発散の手段を、今さら失うわけにはいかない。
そして何より、俺の代わりにあの汚泥のような罵倒をすべて受け止め、頭の中に溜め込んでくれているこの奇妙な存在に、どうしようもない感謝と、歪んだ親近感を覚えていた。
少しの薄気味悪さと、それ以上の、何とも言えない愛おしさが胸に湧いてくる。
「まあ、溢れる前に、たまにはこうして一緒に呑もうや」
俺は再び缶ビールを手に取ると、そいつの洗面器のふちに、カチン、と自分の缶を軽くぶつけた。そして、少し迷ってからビールを少しだけ洗面器の中に注ぎ込んだ。変わらず澄み切ったままの洗面器の中の水を見て少し安心感を覚える。
「……明日も、仕事なんだよな。また溜まったら、よろしく頼むわ」
一口飲むと、ビールはさっきよりも少しだけ美味く感じられた。
玄関の『そいつ』は、やはり何も言わず、ただ静かに俺の部屋の入り口を守るように立ち続けている。
その足元が、いつもよりほんの少し、俺の側に近づいたような気がしたが、それはきっと、ビールの酔いのせいだと思いたかった。
コメント
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うわ、これめっちゃ好きなやつだ……。 最初はただの奇妙な同居人かと思ったら、最後の「水が溜まってる」で全部の意味が変わった。主人公が吐き出したネガティブな言葉とか記憶を、あの洗面器が文字通り“受け止めて”くれてたんだね。しかも上司の声が水の中から聞こえてくるの、めちゃくちゃ不気味で鳥肌立った……。 それなのに、最後にビールの缶をカチンってぶつけて「またよろしく」って言うのが、もう完全に歪な絆が成立しちゃってて、気持ち悪いけど愛おしい。この絶妙な距離感、めっちゃ刺さるよ……。続きが気になりすぎる🌙