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ガチャ。ゴーン。
時間通りだな。
ジルエットの扉が開く音と、時計塔から聞こえてくる音を、マーカスは店内の奥で同時に耳にした。
時計塔は時の数を鳴らすだけでなく、三十分毎に一回だけ音を鳴らす。ジルエットの昼の開店が、十一時半であるため、その音がちょうど合図となるのだ。時の数よりも短いこともあって、アンリエッタは朝昼夕の開店時間を、わざと三十分に決めていた。
「いらっしゃいませ」
いつもより明るいアンリエッタの声が聞こえてきた。
「ごめんなさいね、アンリエッタ。開店時間に押しかけちゃって」
「いえ、私がお願いしたんですから。どうぞパトリシアさんも、好きなのを選んで下さいね」
そう、ジャネットとパトリシアがやってきたからだ。
「ありがとう。ようやく、アンリエッタさんとの約束が守れて良かったわ」
以前、アンリエッタの言伝を、パトリシアに伝えたことを言っているのだろう。
「それについては、私のせいね。パトリシア嬢も、もっと早く言ってくれれば良かったのに」
「私のわがままで、ジャネット様……じゃなかったポーラさんを、お呼び立てるわけにはいきませんもの」
ジャネットは相変わらず、市井に出る時は偽名呼びを徹底させていた。けれど、パトリシアはギラーテに来て以来、学術院の外に出られなかったため、慣れない様子だった。
「でも、これが最初で最後になってしまうのよ。もう日程が差し迫っているから、私抜きで来られたとしても、一,二回あるかどうかだろうし」
「どうしてですか? 旅先で、パトリシアさんが危険な目に合うようなことは、あまりないって話じゃないんですか?」
店内であるため、アンリエッタは言葉を濁しながら、ジャネットに聞いた。
「う~ん。旅が終わったら、パトリシア嬢がギラーテにいる理由がなくなるのよ、アンリエッタ」
「あっ。じゃ、帰っちゃうんですね。マーシェルに」
「えぇ。恐らく、手紙も難しくなると思うの。アンリエッタさんがマーカスと結婚するとね」
「えっ⁉ ま、まだ、結婚とか、そんなっ!」
アンリエッタの顔が見えなくても、容易に想像がついた。赤くなりながら慌てた様子までは可愛いと思う。しかし、否定的な言葉までは、許容を超えていた。
だから、そっと後ろから近づき、アンリエッタの腰に腕を回した。
「キャッ!」
「確かに、まだ明確に伝えてはいないが、冷たいんじゃないか」
このまま耳に噛みついてやりたかったが、さすがにそこまですると、後々のアンリエッタの仕返しが困るので、我慢した。代わりに、腕の力を込めた。
「マーカス!」
抵抗もなく、ただ顔を真っ赤にして目を瞑り、声だけで抗議したので、マーカスも大人しく腕を放した。本気で嫌がっているわけじゃない、と分かったからだ。今はこれだけで満足しよう。
「何をしに来たの。邪魔をしたいのなら、消えなさい」
「別に邪魔をしに来たわけじゃない。お前に話があるから来たんだ」
「お前って、私のことを言っているのかしら」
ジャネットは胸に手を当てて、マーカスに確認を求めた。ただ『お前』呼びされたのが、不服のようだった。
アンリエッタのいる前で、ジャネットとは呼べず、今更本人を目の前にして、ポーラと呼ぶのが出来なかった。さらに今は、ジルエットの店内だ。
「それ以外誰がいる」
「……分かったわ。アンリエッタ、家の方を使わせてもらいたいんだけど、構わないかしら」
「はい。……その、あまり喧嘩だけは」
一瞬、何のことを心配しているのか、分からなかった。
「アンリエッタ。私たちは、別に喧嘩しているわけじゃないのよ。ただ、馬が合わないだけで」
「それなら、いいんですけど」
「今後の旅について、詳細を聞きたいだけだ。喧嘩するわけないないだろう」
「分かっているけど……」
尚も歯切れが悪いアンリエッタに、マーカスはそっと、耳元に口を近づけた。先ほどの衝動を思い出さないように、小さな声で言った。
「嫉妬か?」
「ち、違うってば!」
すると、逆にアンリエッタは大きな声を出した。耳を押さえていたが、手から除く部分が赤く見えた。ようやく引けた顔も、再び赤くなっている。もう一回抱き着いたら、怒るだろうか。
それを察したのか分からないが、早く行けとばかりに、アンリエッタはマーカスを店内の奥へと押した。
「すみませんが、ポーラさんは裏口からお願いします」
分かったわ、というジャネットの声が聞こえるのと同時に、自宅と店とを仕切るドアの向こうに追いやられた。その途端、ドアを閉められそうになり、急いでアンリエッタの腕を掴んだ。
「!」
そして、アンリエッタを引き寄せてから、ドアを閉めた。
「ちょっと、お店に戻らないといけ――……んっ」
腰を引き、声から息まで飲み込むように、アンリエッタの口を塞いだ。先ほどの衝動が抑え切れなかった。顔を傾け、何度もアンリエッタを求めるように、キスをした。
「はぁ、はぁ。……ポーラさんが来るから、もうやめて」
「わかった」
そう言って、軽く唇に触れた。
「わかってない!」
「旅に出れば、なかなか出来る機会がないんだから、少しはいいじゃないか」
「……時と場所を考えて」
嫌だとは言わないことをいいことに、マーカスはアンリエッタの髪に触れようと、手を伸ばした。すると、今度はアンリエッタに腕を掴まれた。
「アンリエッタ?」
「夜まで預かってて」
手首に、青いリボンを巻き付けられた。アンリエッタがいつも手首に巻いている、青いリボンを。
嫌じゃなくても、怒っている、ということか。
「なら、夜はいいんだな」
「っ。……マーカスの態度次第。ポーラさんと喧嘩しないこと。迷惑かけないこと。いい?」
アンリエッタのジャネットに対する、その態度が余計増長させているんだとは、微塵も感じていないらしい。どっちがどっちに嫉妬しているんだか。
「ただの確認だ。安心してくれ。それに、早く店に戻らないといけないんじゃないのか」
「そうだけど……」
「戻らないのなら」
もう一度キスをしようと、顔を近づけた。そうすれば、顔を真っ赤にしながら押し返して、店に戻るだろう。そう思っていたのだが、逆に距離を詰められて、唇が触れた。
その後の展開は、マーカスの予想通りだった。ただ、自身の顔が赤くなった以外は。
***
「それで、話って何かしら?」
裏口のドアを開け、ジャネットを招き入れた途端、早々に尋ねられた。お茶を出して、ゆっくり話をするほどの仲でない、と思っているのは、向こうも同じだった。
「一昨日言っていた、犯人たちの処遇。あれは本当のことじゃないんだろう」
廊下の壁に背を預け、ジャネットを見据えた。先ほど、マーカスの口から、旅についての詳細と聞いていただけに、ジャネットは少し驚いた顔を見せた。
「なるほど。確かに詳細を聞きたかったわけね。アンリエッタがいたから、わざと旅なんて、言葉を使っただけで」
「旅に出れば、聞く機会もなくなる。お前だって、アンリエッタがいたから、言わなかったことがあったんじゃないか」
互いに『アンリエッタがいたから』言えなかったことがあった。
マーカスは、アンリエッタが自身を狙う者がいなくなったことで、興味を失っていたため、余計なことを耳に入れさせたくはなかった。ついでに言うと、国家間、貴族間の法のことなどに、アンリエッタが疎いというのも相まって、聞かせる必要性がないと思ったのだ。
ジャネットは、
「犯人たちは、カラリッド侯爵に引き渡したわ。生きたまま、釈放したの」
内容が内容だけに、話せなかった。
「何?」
「と言っても、元カラリッド侯爵だけどね」
「勿体ぶらずに教えてくれ」
急かすマーカスに、ジャネットは詳細を話した。
無事、アルバートが侯爵を継いだことを確認したのち、犯人たちをゾドに送還した。すると予想通り、侯爵家の者の手によって殺された。送還時に取り付けていた魔法陣にて、確認も取れている。
「手を下した者たちの中には、教会の者もいたから、また何かあれば、交渉の材料にはなるでしょうね」
「抜かりないな」
「あら、そうでければ、王女も魔塔の主もやっていられないわ」
それもそうだ、と納得した。一侯爵家の跡継ぎ問題で、迷惑を被ったというのに、一国家の王族、そして、魔術師たちを束ねる主の座に座っているのだから、頭の痛い問題は山積みのはずだ。
「それじゃ、俺の提案は無駄になったというわけか」
「いいえ。ちゃんと使わせてもらったわよ。ユルーゲルが作った盗聴用の魔法陣もそうだけど、カラリッド侯爵がなかなか首を縦に振らないから、最終的に貴方の案で、物を言わせないようにしたのだから。お陰で、ちゃんと背後に私がいることが示せて良かったわ」
「それはそれは、何よりで」
本当に抜け目ない。だからこそ、アンリエッタがあそこまで信頼するのかと思った。これは敵に回すと、厄介な分類だった。
だが、負けていられないな。
「でも、いつまでも私がアンリエッタを守ってはいらないから、頼んだわよ、マーカス」
「それについてだが、旅の間でも構わないから、頼みがあるんだ」
「ん? 何かしら」
まだ何かあるの、という顔をしたジャネットに、アンリエッタには内緒で、という前置きをしてから、詳細を伝えた。
「抜かりないのは、貴方の方じゃなくて」
「当り前だろう。大事な問題なんだから」
「ふふふっ。分かったわ。エヴァンに頼まない辺りが賢明ね」
「エヴァンじゃ、アンリエッタにバレる」
「そうね。誠実なのが良い所なのだけれど、誠実過ぎて秘密が守れないから」
ジャネットが、ギラーテで活動する時の拠点にする理由が、まさにそれだった。腹の探り合いばかりしていると、エヴァンのような男といるのは、気が休まるからだった。
「だから、アンリエッタの世話役を頼んだのか」
「えぇ。エヴァンもアンリエッタを可愛がってくれているし、アンリエッタも慕っているようだったから」
「……アンリエッタを気に入った理由を、聞いてもいいか」
率直な質問だった。そこまでアンリエッタに入れ込む理由が知りたかったのだ。
「しっかりしているように見えるけど、何処か抜けているから、構いたくなるのよ。でも一番は、私を見ると駆け寄ってくるほど、歓迎してくれるからかしら。それが可愛くてね」
「それは分かる」
二日に一度は帰っていた時のアンリエッタの反応は、まさにジャネットが言ったものだったからだ。
思わず口が緩み、手で隠した。
「旅の最中は、さすがに自重しなさいよ」
「何のことだ?」
「さっきみたいなことよ!」
抱き着いたことか。その後のことまでは、さすがに知られてはいないだろう。
「わかっている」
本当かしら、と疑いの目を向けてくるジャネットを、再び裏口のドアに潜らせた。
***
目が覚めるとすぐに、横を確認する。眠っているアンリエッタの姿に安心して、そっと起きないように引き寄せた。
元々、朝は弱いのか、先に起きていることはなく、さらにベッドからいなくなっていることはない。けれど、毎回安堵することはなかった。
抱き締めるように、もう片方の腕をアンリエッタの体に回すと、身を寄せてきた。普段は甘えてくることがないアンリエッタだったが、寝ている時や寝起きは、こうして甘えてくれる。だから、一緒に寝たくなるのだ。本人に言えば、恥ずかしがって、もう一緒に寝てはくれなくなるかもしれない。
名残惜しいが、そろそろ起きる時間だ。
「アンリエッタ」
最初は優しく呼びかける。しかし、これでは起きないことは知っていた。それでも、始めから乱暴に起こしたくはなかった。
どうやって起こそうか。
こないだのように、至るところにキスをして起こすのも、マンネリ化し始めてきたから、そろそろ別のものにしよう。そう思って、アンリエッタの手を取った。
昨夜巻き直した青いリボンをそっと外し、手首に噛みついた。
「っ!」
その反応と同時に手を引っ込めようとしたが、逆に自分の方に引き寄せた。すると、恨めしそうな顔で睨まれた。
「一回で起きないのが悪いとは、思わないか」
「思わない! それに、別の起こし方があるでしょ!」
「こないだは、それが嫌だと言っていたじゃないか」
一瞬、何のことを言っているのか分からない様子だったから、思い出させるように、噛みついた所にキスをした。
「こっちの方が良かったか」
途端アンリエッタは、真っ赤な顔を枕に埋めた。
いつまでも初々しいのは可愛いが、慣れて欲しくもあった。溜め息が出そうになり、隠す振りをして、話題を別の方に向けた。
「一人の時は、どうやって起きていたんだか」
そう言いながら、マーカスはアンリエッタの手首に青いリボンを巻き直した。
「それは責任感というか、起きなくちゃって思えば、起きられていたから」
「今は?」
「……マーカスが、起こしてくれるから」
言い辛そうに、マーカスの方を少しだけ窺うように顔を覗かせた。
「だったら、どんな起こし方をしても、文句は言えないな」
そんな甘えた姿を見たら、今度はどんな起こし方をしようか、今から思い浮かんでしまう。
「優しく起こしても、起きないんだから」
「……それでも、加減はして。今日みたいに痛いのは嫌」
「わかった。精進する」
マーカスの返事を聞いても、アンリエッタは疑いの眼差しを向けてくる。申し訳なさと可愛いさが相まって、マーカスはアンリエッタの体を持ち上げた。
「えっ、ちょっと、何?」
そう言いながらも、マーカスの首にアンリエッタは腕を回す。
「大丈夫。洗面台まで運ぶだけだから。朝が苦手なアンリエッタには、この方がいいだろう」
マーカスの言葉に同意を示すかのように、アンリエッタは腕に力を込めた。
朝でなければ、こんなアンリエッタの甘えた姿は見られない。それも、この家にいるからこそ、見られるものである。
旅に出れば、しばらくは得られない感触を、マーカスは堪能することにした。