「うっ……しおんっ――…………」
「お子様をお見送りして差し上げましょう」
本当のさよなら。
この十か月、私を幸せにしてくれてありがとう。
でも本当はさよならじゃなくて、詩音と一緒に人生を彩りたかった。
抱えきれないほどの想い出を作りたかった。
どんなに願っても、もう叶わない。詩音は空へと還っていく。
新藤さんに諭されて覚悟を決めた。きちんと受け入れなくちゃ。お母さんである私が……本当は家族みんなで送りたかったのに、たった二人の参列者で見送ることになってしまったのだから。ちゃんと送ってあげなきゃ。
溢れる涙を掌で拭った。それでもまだ涙は枯れずに溢れてくる。
こればかりはどうしようもない。堪えることができなかった。
ありがとう、詩音。またお母さんに会いに帰ってきてね――
そう呟いて小さく手を振ると係に人の手によって棺が閉められ、火葬炉の中に詩音が入れられた。
ふらふらと詩音について一緒に火葬炉の中へ行こうとする私の身体を、新藤さんが後ろから強く抱きしめて静止してくれた。
「律さんがそんな状態ではお子様が悲しみます。さあ、行きましょう」
もう手続きを進めていただいて結構です、宜しくお願いします、と新藤さんは係の人に頭を下げてくれた。
彼に連れられて、私はその場を後にした。
予約が取れないと言っていた職員の言う通りで、外に出ると休憩室やほかの待合はいっぱいだった。建物の外に設置されているひとけの無い空いているベンチに座った。
詩音は赤子で体が小さいから、火葬は一時間もかからないと職員から説明を受けた。終わったら大人と同じように骨を拾うのだ。この世に産声をあげることはできなかった詩音でも、同じように人として扱われ、空へ還してもらえるのか。なんとも複雑な気持ちになった。
売店で売っていた骨壺を買ってベンチに座った途端、涙は後から後から溢れて視界を歪ませた。
新藤さんが隣に寄り添うように座ってくれた。ただ無言で涙を流し、詩音の火葬が終わるのを待っていたその時――
プルルルル プルルルル
ハンドバッグに入れっぱなしの私のスマートフォンが鳴り出した。着信音を切り忘れていたのだ。
誰だろう。病院かな――スマートフォンを取り出して着信名を見ると、光貴だった。
心臓が早鐘を打ったように高鳴る。ああ……彼になんと言って伝えればいいのだろう。せめてもう少しあとにできれば………。でも、電話を取らずに病院に連絡されても困る。ここまで頑張った意味が泡となって消えてしまう。
それだけは絶対に避けなければ。光貴が輝ける道を私が作らなきゃ。
そのためにここまで来たのだ。誰にも言わずに黙って一人で。
荒井律、一世一代の大芝居。普段通りに明るく振舞うの。
大事な光貴のために。
深呼吸して電話に出た。
神様、どうか光貴が私の様子がおかしいと気が付きませんように。
スマートフォンを操作しようと持ち上げた指が震える。うまく話せる自信がない。でもこのタイミングを逃せば、時間的に今後光貴が電話に出る事はできないと思う。これからリハーサルを行い、本番に向けての準備がある。それが終わればギターや機材のメンテナンスもある。
きっと今、彼はリハーサル前。連絡を怠って光貴を不安にさせては本末転倒だ。
やりきらなきゃ!!
意を決してスマートフォンをタップした。
「はい」
平静を装ったつもりだったのに声が掠れた。震えていたように思う。
大丈夫かな。気づいてないよね?
『あ、元気?』
「うん。まあまあ」
光貴との電話でテンションが低いのは普段どおりだから、怪しまれなかったようだ。能天気な光貴の声がスマートフォン越しに聞こえてくる。何も知らない彼は悪くないけれど、その程度の電話なら正直もう切りたい。話すのが辛い。
『そっちの調子はどうかな、って。これからライブのリハがあるから、もう電話できないし。その……声聞いとこうと思ったんや。詩音は元気?』
「うん」声が震えないように涙を堪えて明るく言った。「元気」
『そっか。もうすぐ詩音に会えるのが楽しみや! お父さんはライブ頑張るからって、詩音に言っといて』
「うん」
光貴の元気で明るい声が頭に響く。ああもうこれ以上は無理。平静を装える自信が無い。嗚咽が漏れそうやった。
「……もうすぐ検査があるから行くね。ライブ頑張って」
『ありがとう。頑張るわ! 絶対成功させるから!!』
「うん。大成功祈ってる」
なんとかそれだけ言って通話を終了させた。
その途端、堪えていた涙が溢れて握りしめていたスマートフォンの画面上に落ちた。
「律さん」
すぐ横で肩を貸してくれていた新藤さんも、悲しそうな顔で私を見つめた。なにも知らない光貴に対してひとこと言いたそうな雰囲気だったけれど、結局彼は黙っていた。
「あの人、全然……気づいてなかったですよね? 光貴、これで……デビューライブ……頑張れますよね。……大成功、しま……すよねっ……?」
「律さんっ、貴女という人はっ、どこまで……――!」
新藤さんに抱きしめられた。「私だったら、律さんにそんな思いはさせないのに」
最後の新藤さんの呟きは、自分の嗚咽でよく聞こえなかった。
すすり泣く私の声だけがその場を支配していた。
詩音が、白い煙になって空へと還ってゆく。
これが全部、悪い夢だったらいいのに。
本当の現実はもっと幸せなもので、目覚めたら詩音を抱いていて、わが子と共に過ごす未来。でも現実は――……
毎日が幸せだった。
膨らんでいくお腹を撫でるのが楽しかった。
詩音の誕生を心待ちにして、新米ママだから慣れない家事や料理を練習して失敗してみたり。
性別が女の子だとわからないうちから、可愛いピンクの肌着を探してみたり。
愛らしいおもちゃを見つけては、気に入ってくれるかもしれないと思って衝動買いをしてみたり。
本当に楽しかった。
でも今、私のお腹は空っぽ。
大切な宝物を失ってしまった。
もう二度とこの手に還る事の無い、大切なものを――