テラーノベル
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鍵は毎日ちゃんと回していた。 小柳くんを逃がさないように。
この部屋は、光が届かない。
朝も夜も関係なく、遮光カーテンどころか窓すら最初から存在しないコンクリートの箱。 壁は厚く、どんなに叫んでも、拳で叩いても、外には一瞬の振動すら漏れない。
テレビもスマホも時計すら、俺が全部取り払った。 残っているのは、ただ天井の小さなLEDライトと、俺が時々針を狂わせる古い壁掛け時計のカチカチという音だけ。
「ごはん持ってきましたよ」
金属トレイを手に、ゆっくりと重い鉄扉を開ける。 蝶番の軋む音が、静寂を切り裂く。 部屋の隅、薄いマットレスの上で膝を抱えていた小柳くんは、俺の足音を聞くと小さく体を縮めた。
顔を上げた瞬間、目が合った。
その瞳は、もう最初の頃の怒りも、必死の抵抗もほとんど残っていない。 ただ濁った虚無とかすかな恐怖が沈んでいる。
「おい……星導。もう帰せよ」
声はひどく掠れていた。 何日も、何週間も叫び続けた声帯は、もうまともに言葉を紡げない。 俺は静かに首を振った。 それがどれだけの想いを込めた拒絶なのか、小柳くんはまだ理解していない。
「帰ったら、またみんなのところに行くんでしょ。 俺のことなんて、すぐに忘れる。 ……そうやって何度も、何度も、俺を捨てるんですよね」
「忘れたのはお前だろ……!」
小さな呟きに、俺はふっと笑ってしまった。 どうしてわからないんだろう。 こんなにも、こんなに深く、愛しているのに。
俺はトレイを床の横に置いた。 今日のココアは、小柳くんが一番好きだった温度と甘さ。 38度ちょっと、砂糖は控えめ、ミルク多め。
カップはみんなで雑貨屋で選んだ白い陶器のやつ。 表面の泡をスプーンで丁寧にすくって差し出すと、小柳くんは顔を背けた。
「いらない」
「体、冷えてますよ」
「いらないって……言ってるだろ」
最後の言葉は、ほとんど泣き声に近かった。 俺は静かに膝をついて、小柳くんの隣に座る。 細くなった手首をそっと掴んだ。
骨が浮き出て、指一本で簡単に折れてしまいそうだった。
「小柳くん。俺のこと、もう忘れたの?」
「……忘れるわけ、ないだろ」
その一言に、胸の奥が熱くなった。忘れていない。まだ俺を、覚えている。それだけで、十分だった。
「じゃあ、なんでそんな顔するの? 俺はただ、小柳くんを幸せにしたかっただけなのに」
幸せ、という言葉を口にした瞬間、小柳くんの目から一筋涙が零れた。
でもそれは、感動なんかじゃない。
ただ、限界を超えた絶望が溢れただけだ。
「お前が幸せにするって……これが? ここに閉じ込めて、外の光も音も全部奪って、誰とも会わせないで……これが幸せかよ!」
声が震え、途切れ途切れになる。 俺は静かに頷いた。
「うん。 だって、外にはみんながいるから。小柳くんが笑うたびに、俺以外の誰かに向ける視線があるから。
俺はもう、それに耐えられないんですよ」
小柳は目を大きく見開いた。 そして、信じられない、という顔で俺を見た。
「……あいら? 誰のことだよ」
「知ってるくせに」
俺は笑った。 笑いながら、小柳くんの顎を掴んで顔を上げさせる。
「いい子は黙っててくださいね」
小柳の瞳が揺れた。 恐怖と、理解と、諦めが、同時に広がっていく。
俺はゆっくり立ち上がり、部屋の隅の小さな冷蔵庫を開けた。
中には、小柳くんが好きだった飲み物、お菓子、コンビニのサンドイッチまで、ぎっしり詰まっている。 賞味期限が切れかけのものも、わざと残してある。
「いつか小柳くんが俺を必要としてくれるまで、ずっとここにいるから」
そう言い聞かせて買い溜めたものだ。
トレイの上に、今日の特別なものを置く。 小柳くんと俺と二人で食べた、あの小さなチョコレートケーキ。 同じ店、同じ味を再現するために、何度も通ってレシピを盗んだ。
「ほら、食べよう?二人で」
小柳は動かなかった。 ただ、膝を抱えたまま、じっと床を見つめている。
「……それでも、俺は星導を愛せない」
その言葉が、部屋の空気を一瞬で凍らせた。
俺の心臓が、止まったような気がした。 でも、次の瞬間には笑顔に戻っていた。
「うん、知ってますよ。 今はまだ、ですよね」
「ちがっ」
「調教していけばいいんですから♡そうですね、首輪でも買ってみますか?」
小柳くんの肩が小さく震える。 俺はそっと近づき、背中を抱きしめた。 抵抗する力は、もうほとんど残っていなかった。
「でも大丈夫。 ここなら、時間はいくらでもある。 小柳くんが俺を愛せるようになるまで、 何年でも、何十年でも、待ちますよ」
耳元で囁くと、小柳の体が硬直した。
「それに……」
俺は声をさらに低く落とす。
「小柳くんが俺を愛さなくても、 俺は小柳くんを愛し続けるから。 それでいいですよね? だって、これが俺の愛なんですから」
小柳の呼吸が、ひどく乱れた。 嗚咽とも、喘ぎともつかない音が漏れる。
俺は微笑んで、小柳くんの髪を撫でた。 指の間をすり抜ける髪は、以前よりずっと細く、脆くなっていた。
「ねえ、小柳くん。 俺のこと、ちゃんと見て?」
小柳は顔を上げなかった。 でも、俺は無理やり顎を掴んで、上を向かせる。
「俺の目を見て。 俺だけを見て。 他の誰のことも、考えないで」
その瞳には、もう何も映っていなかった。 ただ、虚ろな闇と、微かな絶望だけ。
俺はそっと唇を寄せた。 冷たい額に、キスを落とす。
「ずっとここにいましょうね。 二人だけの世界で」
扉を閉めるとき、鍵を三つ、ゆっくりと回した。
カチリ、カチリ、カチリ。
その音が、俺の心を一番落ち着かせてくれる。
小柳くんの小さな泣き声が、扉の向こうで響く。 でも、もう外には届かない。 誰にも。俺は静かに微笑んだ。
これでいい。これが、俺たちの永遠だ。
硫酸バリウム
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ゆる
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コメント
1件
読ませていただきました……。第1話から、もう胸がぎゅっとなりました。 星導さんの執着が「愛」の形として描かれているのが、読んでいて苦しいほどにリアルで。特に「小柳くんが俺を愛さなくても、俺は小柳くんを愛し続ける」という台詞、怖いのにどこか哀しくて、言葉にできない感情が押し寄せました。 小柳くんの「愛せない」という抵抗が、この閉じた世界でいつまで続くのか……続きが気になります。丁寧な心理描写と、細かい仕草や温度へのこだわりが、二人の関係性をより深く見せてくれていて、とても引き込まれました。