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目を覚ましたとき、最初に妙な静けを感じた。
天蓋付きのベッド。重たいカーテン。整いすぎた部屋。
まったく見覚えがない。
「……どこだよ、ここ」
喉がやけに乾いていて、声はかすれていた。
体を起こすと、絹のシーツがさらりと音を立てる。その感触に、なぜか落ち着かない。
何か、大事なものを忘れている気がするのに、それがなんなのかすら思い出せない。
ただ一つ、確かなのは——
「……帰る場所、ねえな」
ぽつりと呟いて、苦笑する。不思議と、その言葉はしっくりきた。
白い一人用の机の上に、一つ小さな手鏡が置いているのに気づき、右手で持った。
昨夜よりも少し目が大きくなり、青色の目と
肩にギリギリかからないくらいの茶髪の男が鏡に映る。思わず、後退りをした。
…俺、か…?これが…?
コンコン、と控えめなノックが少し大きい扉からした。
「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」
扉の向こうから、落ち着いた女の声がする。
奥様?俺が?
「……ああ、起きてる」
反射的に返事をしてから、わずかに眉をひそめる。
言い慣れているような、そうでもないような、不思議な感覚におちいった・
扉が開き、年配の侍女が一礼して入ってくる。
「お加減はいかがでしょうか。本日はお食事のお時間——」
「待て」
言葉を遮ると、侍女はぴたりと動きを止めた。
その反応が、妙に“整いすぎている”。
「……ここ、どこだ」
一瞬の沈黙。
侍女の表情が、ほんのわずかに揺れた。
「……ご冗談を」
「冗談に見えるか?」
低く言うと、侍女は視線を伏せる。
「こちらは、ブライア公爵家の離宮でございます。奥様は……公爵様のご正妻でいらっしゃいます」
「……は?」
理解が、追いつかない。
公爵? 正妻?
そんなもの、俺の人生にあった記憶は——
(いや、そもそも“人生”ってなんだよ)
頭が、うまく回らない。
だが、侍女の態度は嘘をついているようには見えなかった。
それどころか、どこか“怯えている”ように感じた。
「……で?」
「はい?」
「他には」
侍女がわからないとでも言うように、僅かに首を傾ける。
「この部屋にいる理由とか、あんだろ」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
だが、口から勝手に出た。
侍女は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに整った表情に戻る。
「……奥様は、必要な時以外はお部屋から出られません」
「は?」
「お食事の際のみ、公爵様と顔を合わせる決まりでございます」
「……はあ?」
思わず、少し低い声が出た。
何だそれは。意味が分からない。
「それと……」
侍女は一瞬ためらい、それから静かに続けた。
「お子様のことは、使用人にお任せいただいております」
その瞬間。
胸の奥が、妙にざわついた。
「……子供、いんのか」
「はい。お一人」
「……」
言葉が、出ない。
知らない。そんな記憶はない。
なのに——
なぜか、胸がざわつく。
嫌な感じじゃない。
むしろ逆だ。
“放っておけない”という、意味の分からない衝動。
「どこだ」
「……え?」
「その子、どこにいんだよ」
自分でも驚くくらい、声が強かった。
侍女は明らかに動揺した。
「奥様……?」
「答えろ」
短く言い切ると、侍女は視線を彷徨わせたあと、小さく口を開く。
「……別棟で、乳母と共に」
「連れてこい」
「それは——」
「連れてこいっつってんだろ」
思わず、声が荒くなる。
部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。
侍女は完全に困惑していた。
無理もない。こんなこと、これまで一度も言われたことがないのだろう。
——だが。
「……会ったこと、ねえのかよ」
ぽつりと落とした言葉に、侍女が息を呑む。
その反応で、分かった。
“そういうこと”なんだと。
「……」
最悪だ、と思った。
理由は分からない。記憶もない。
でも、これはダメだと、本能が言っている。
「……いいから、連れてこい」
今度は少しだけ声を落とす。
「無理なら、場所教えろ。俺が行く」
「奥様、それは規則で——」
「知るか」
即答だった。
自分でも驚くくらい、迷いがない。
「規則なんざどうでもいい。……ガキがいるんだろ」
言いながら、胸のざわつきが強くなる。
知らないはずなのに。
会ったこともないはずなのに。
なぜか——
“顔を見なきゃいけない”と、強く思った。
侍女は、しばらく何も言わなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
やがて、小さく息を吐いて。
「……少々、お待ちください」
そう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
「……なんなんだよ、マジで」
頭をかきながら、ベッドに座り直す。
分からないことだらけだ。
ここがどこかも、自分が誰かも、何をしていたのかも。
でも——
「……子供、か」
ぽつりと呟く。
胸の奥にある、この妙な感覚だけは、嘘じゃない気がした。
しばらくして、再びノックの音。
今度は、さっきより少しだけ慌ただしい。
「奥様……お連れしました」
扉が開く。
侍女の後ろに、小さな影。
まだ幼い、歩くのもやっとの年頃の子だ。
その子は、こちらを見て——
ぴたりと動きを止めた。
視線が、合う。
その瞬間。
胸の奥が、強く締めつけられた。
理由なんて分からない。
でも——
(ああ、これ)
妙に、納得した。
(放っとけるわけ、ねえだろ)
しゃがんでゆっくりと、手を伸ばす。
「……来い」
ぶっきらぼうな声。
けれど。
その子は少し迷ったあと、とてとてとこちらへ歩いてきて——
恐る恐る、数秒だけその手に触れて、侍女の近くへ向かった。
一瞬だけだが、小さくて、温かい。
「……」
言葉が、出ない。
ただ、その温もりだけが、やけに鮮明だった。子供が不思議そうにこっちを見ていた気がした。
——この日を境に。
止まっていた何かが、少しずつ動き始める。
それを、まだ誰も知らない。
もちろん——
“食事の時間だけ顔を合わせるはずの夫”も。
#rzli