同僚から休暇を譲って貰ってウーヴェを捜しに出掛けようとしていたリオンだったが、その休暇を翌日に取得できると密かに喜んでいた日、市内を流れる河の中州で身体中に傷のある子供の遺体が発見されたとの一報が入った。
見た目やその性格はともかく、仕事に関しては上司や同僚からも厚い信頼を受けているリオンが私心をおくびにも出さないでジルベルトと共に現場に出向き、野次馬を整理している顔馴染みの制服警官から事情を聞き出していたが、その内心では恋人が大いに嫌っている罵詈雑言の嵐が吹き荒れていた。
子供が持参しているはずの身分証明書は見あたらず、一見しただけでは身元は分からなかったが、身体のあちらこちらが赤黒く腫れていたり青や赤、紫などの大小様々な痣に彩られている事から事件に巻き込まれた可能性が高いと判断し、担架で運ばれる子供の身体的特徴、発見時の様子などを脳味噌に叩き込んだリオンは、同じように制服警官から情報収集をしていたジルベルトと顔だけではなく情報も突き付けあう。
「死因は何だと思う?」
「出血によるショック、内臓の損傷・・・どれでも当てはまりそうだな」
パトカーのボンネットに座り込んで煙草を取り出したリオンの横、同じように軽く尻だけを乗せたジルベルトが自らの煙草に火をつけたそれを差し出してきた為、ダンケと火を分けて貰う。
「刃物による傷は無さそうだったよなぁ」
「何処から流されてきたのか・・・厄介だな」
「あー・・・そうだな・・・」
身分証明書も身につけていない事から身元の判明にはもしかすると時間を有するかも知れないと同時に溜息を吐き、ついでに煙草の煙も細く長く吐き出す。
「休暇が潰れるんじゃないのか、リオン?」
「・・・・・・シャイセ」
くそったれと内心の罵詈雑言の一端を吐き捨てた後煙草を投げ捨てるが、さすがに現役の刑事がそれをしてはいけないだろうと、今は行方不明になっている恋人に叱られたことを思い出し、投げ捨てた煙草をわざわざ拾い直して靴の裏に押しつけて火を消した後、パトカーの灰皿にそれを捨てに戻る。
年若い同僚のその仕草を明るい緑の目を細めて見守っていたジルベルトは、自らは携帯用の灰皿を取り出して見た目にもスマートに火を消すと、一度戻るかと伸びをする。
「そうだな・・・」
ジルベルトと同じように伸びをしたリオンは、制服警官が整理する人だかりの向こうでちらちらとこちらを窺う人の姿を発見し、間近にいる同僚の脇腹を肘で突いて合図を送る。
「ジル、あいつ」
「あの黒いパーカーか?」
「ああ」
野次馬の人々とは明らかに挙動が違う事にリオンの合図で気付いたジルベルトが傍にいた制服警官を手招きし、何気ない素振りで先程目星をつけた男の情報を伝えると、リオンもまたポケットに手を突っ込んでぶらりと制服警官の横から野次馬の中に進んでいく。
挙動不審な青年が近付くリオンに気付かずに野次馬の頭越しに現場を見ているが、納得したのかどうなのか、踵を返して人波を押し分けるように離れていこうとする。
「ちょーっと良いですかー」
「!?」
立ち去ろうとする肩に呼びかけて手を掛けたリオンは、驚愕に彩られた顔の中、しまったと言いたげな色を見出してにこやかな笑みを浮かべたまま蒼い目を剣呑に光らせる。
「ちょっと話聞きたいんだけど、良いかな?」
「・・・・・・っ!」
嫌だと叫んだ直後、パーカーのポケットから細身のナイフを取り出して振りかざした為、その銀の閃光を正確に見切ってかわしたリオンは、相手がナイフを振り回しているにも関わらずに逃げるべきか立ち向かうべきか一瞬だけ躊躇したのを見逃さず、エンジニアブーツに包まれた足を跳ね上げ、狙いと寸分違わない手首に爪先をヒットさせる。
人波の端とはいえ周囲にいた人々がその頃には何が起きているのかに気付き、女性が甲高い悲鳴を発する。
その声が新たな声を産んでしまい、思わず顔を顰めたリオンの隙をついて男が逃げ出そうとするが、誰が逃がすかと一声叫んだリオンが男の膝裏目掛けて蹴りを放ち、背後からの強い衝撃に身体が前のめりになった後、地面に激突する。
悲鳴を上げることすら出来ない痛みにのたうつ男の襟首を掴み、クリポにナイフを向けるなんて良い度胸だと獰猛な笑みを浮かべるが、その時ジルベルトが警官を引き連れてやって来た事に気付いて男の身柄を荷物のように引き渡す。
「ああ、そこに落ちてるナイフ、後で調べてくれよ」
別の警官に先程己の足がたたき落としたナイフを預けると、男を引き連れてパトカーへと戻っていくが、ジルベルトもリオンとは逆の腕を掴んで二人でパトカーへと向かう。
「こいつが犯人なら楽勝なのになー」
「それもそうだな」
男を後部座席に投げ込んでジルベルトがその横に乗り込んだのを見計らったリオンは、ヒンケルが聞けば雷を落とすような暢気なことを呟いて車を発進させる。
「自殺するような度胸はないと思うけど、念のため気をつけてくれよ、ジル」
「ああ。任せておけ」
被疑者死亡のまま送検などしたくないと、鼻歌交じりにステアリングを握るリオンの言葉にジルベルトも好戦的な表情を浮かべた為、狭い車内で身の置き場が無くなった男が肩を丸めてこの後己に待ち受ける運命がどんなものであるのかを嫌な予感と共に思い描くのだった。
挙動不審男を捕まえてきましたと、刑事達が仕事をしている部屋のドアを開け放ったリオンが大声で報告した結果、室内が一瞬静まりかえるが、ガラスで仕切られている小部屋からヒンケルが出て来てクランプスの異名を遺憾なく発揮するような顔で睨み付ける。
「さっき報告があったヤツか?」
「ヤー。現場できょろきょろしてたので連れてきました」
ちなみにここに連行するまでにナイフで切り付けられたので、傷害未遂でも公務執行妨害でも警官侮辱罪でもどんどんとおまけを付けてくれと笑い、取調室へと男の身体を引きずっていく。
「なぁんかやけに力が入ってないか?」
その様をただ無言で見守っていたコニーが室内にいた同僚に問いかけ、その通りと同意を貰ってどういう事だと首を傾げるが、それに対しての回答は遅れて戻ってきたジルベルトがもたらした。
「休暇を潰された腹癒せだろう」
「納得」
刑事仲間以外には聞かせられない理由で力が入っている事を教え、やれやれと溜息を吐いたジルベルトにコニーが無言で肩を竦める。
だが呆れを隠さない二人の顔にはどこか安堵の色が浮かんでいて、ちらりと視線だけを交わしあった二人は互いの心にある思いが同じ事に気付いて苦笑しあう。
「・・・張り切るのも良いけどやりすぎないようにしないとな」
「そりゃそうだ。でも・・・まあ大丈夫だろ」
何しろヒンケルが直接取り調べに出向いているのだ。何かあったとしても拳で黙らせるだろうとシニカルにコニーが笑うともっともだと大袈裟に手振りを交えてジルベルトも賛同する。
その直後、取調室から微かな悲鳴が零れだした為に皆一斉にドアの近くに集まるが、再び聞こえてきた悲鳴の主が誰であるかを察知すると、早速やられたと三々五々呆れつつ散らばっていくのだった。
リオンがヒンケルと共に取調室に入ってから小一時間もした頃だろうか、重く苦しい沈黙を両肩に乗せて項垂れた様子で部屋から出て来たリオンと、苦虫を噛み潰したような顔で何度も舌打ちをし、真っ青を通り越して真っ白な顔になった被疑者を引きずるヒンケルが姿を見せ、室内にいた刑事達が一斉に顔を見合わせた後、一同を代表してコニーが問いかける。
「警部、どうしたんですか?」
「厄介な事になったぞ」
「は?」
製粉会社のマスコットが描かれたお気に入りのマグカップでコールタールのようなコーヒーを飲んでいたコニーが返された言葉に目を見張り、他の事務仕事をしていたジルベルトもデスクから顔を上げてどうしたとリオンを見るが、リオンの伸びた前髪に覆い隠されている表情を見て眉間に皺を刻む。
「リオンの休暇が完全に潰れたな、これは」
「くそったれ!!」
ヒンケルの皮肉混じりの言葉にリオンが盛大にがなり立て、その声に色を無くした被疑者がびくんと竦み上がる。
取り調べの間に一体どれ程の恐怖を感じたのかと疑問を抱くその様に、少しは落ち着けとジルベルトが宥めるようにリオンの肩を抱き、一体どうしたんだと低く問いかける。
「南部の山までハイキングだ。どうせならもう一月程早ければ良かったのにな」
「は!?」
「・・・子供を一人埋めたらしい」
リオンが不機嫌になる理由を教えられたジルベルトは、制服警官によって連行されていく被疑者-今は立派な容疑者-を視線で見送り、その山の麓に子供を埋めたのにわざわざここまでやって来たのかよと囁くと同時にリオンの長い足が跳ね上がり、傍にあった鉄製のロッカーを蹴り飛ばす。
突如響いた金属音に仕事をしていた皆が手を止めるが、音の発生源が誰であるかを悟った直後、仕方がないと言いたげに溜息を吐く者、またかと呆れた顔で仕事を続ける者とそれぞれの対応をする。
「南部か・・・仕方ねぇなぁ・・・登山靴なんてねぇよ」
「何もお前が出張らなくても良いんじゃないのか?あっちの警察に協力して貰えよ」
「俺もそう思う!でもさぁ・・・」
ジルベルトが心底気の毒に思っているのか、何度も肩を撫でて慰めるように囁いてリオンも己の不運を嘆くが、直後にヒンケルの冷徹な一声が飛んでくる。
「行くぞ、リオン!」
「────だってよ」
「・・・土産は何が良いかな」
落ち込むリオンとは対照的に鼻歌まで歌い出しそうな浮かれ具合でジルベルトがリオンの肩を叩くと、地獄の底から恨み声を上げている悪魔か何かのような顔で隣の男前の顔を睨み付ける。
「ジルのくそったれ!馬に蹴られてイッちまえ!」
「蹴られるのはゴメンだね。代わりに乗って何処かに行ってくるか」
一方は地獄の悪魔すら逃げ出すような表情で、もう一方は人の不幸は蜜の味とでも言いたげな顔で顔を見合わせたかと思うと、ほぼ同時に荒い鼻息を吐いて顔を背け合うが、どれ程怒鳴ろうが騒ごうがはたまた嘆こうが、ヒンケルとの出張予定は変更にならず、その日の勤務が終わるまでリオンの両肩にはどんよりとした気配が重くのし掛かっているのだった。
麓の村はずれの一軒家に車を預け、必要最低限の荷物を持って雨が降った為にぬかるんでいる山道を歩き出す。
あの日の約束を果たす為にはどうしても出向かなければならない場所に一歩近付く度に心の何処かが軋む音を発するが、気のせいだと割り切りながら短くても極度の疲労を伴う登山を始める。
背中に背負った荷物は亡くなった少年の気持ちを静める為に毎年持って来ているものだったが、リュックの紐が肩に食い込むような重さを感じて何度も背負い直す。
まるでその重さが喪われた命である、そんな気持ちで何度となく荷物を背負い直しては一歩ずつ泥濘に足を取られそうになりながらも山道を登っていくと、程なくして小さな十字架が屋根に取り付けられている古びた教会が姿を顕す。
この山は国内でも有数のハイキングコースを有していたり本格的な登山も楽しめるとあって年中観光客が訪れるのだが、今彼が登っている山道は観光客よりは地元の人間が山に入る際に使っている道だった。
肩に食い込む荷物と足を引っ張るような泥濘の重さに逆らうように歩き、やっと辿り着いた教会を見上げるだけで膝が崩れ落ちそうになる。
毎年この季節にだけここを訪れるが、事件があった20余年前と一見すれば何ら変わらない、小さいながらも神聖な空気に包まれた教会がただひっそりと建っていて、ドアを押すと軋みながらも滑らかに開いていく。
小さな教会の聖堂と呼ぶにも烏滸がましいが、それでも由緒のありそうなマリア像が入ってきた彼をじっと見つめた為、彼も軽く目を伏せて間近にある椅子に荷物を下ろす。
まるで誰かが毎日手入れをしているようなマリア像は大きな損傷は受けておらず、あの時も同じ顔同じ静けさでただ見守っていた事を思い出し、像の前に向かって歩き出す。
このマリア像はあの日、一人の少年が無残にも命を奪われ、三人の男が殺されて仲間割れが起きたその惨劇をつぶさに見つめていたのだ。
だが、ただ静かに見守るだけで、救う為の手は差し伸べられることはなかった。
あの事件以来、信じてきた神を喪った自分だが、事件の総てを見守っていたマリア像にはやはり特別な感慨を抱いてしまい、その場に膝を着いて頭を垂れる。
ただ独り生き延びた己をどうか許して下さい。
こんな思いも掛けない場所で生を終えさせられた彼らの苦しみが、少しでも和らいでいますように。
二つの願いに込めた思いに唇を噛み、どうか許してくれと額が床に付くほど上体を折った彼は、あの日と何ら変わることのない静けさで見下ろすマリア像に何度も何度も許してくれと呟くが、責める言葉も許す言葉も何一つ聞こえてくることはなかった。
代わりに耳に底で響き始めたのは、事件の最中幾度と無く聞いていた嘲笑だった。
古びていても手入れが行き届いている床を視界一杯に映しながら聞こえる嘲笑を遮ろうとしているのか、手が拳を形作ったかと思うとそのまま床に叩き付けられる。
20余年もの間決して消えることの無かった嘲笑、その奥に微かに響くのは子供の悲鳴と泣き声、大人達の常軌を逸したようなけたたましい叫び声のそのどれもが彼を責めているようで、きつくきつく目を閉じて拳を床に叩き付ける。
自分一人が生き延びた罪をどうか許して下さい。
死んでしまった彼らに対してどのようにすれば罪を贖えるのかが分からない苛立ちに歯を噛みしめる。
あの事件に関わった人達総てに対して許すと、誰でも良いから言って欲しかった。
だがそんな彼の思いを知ってか知らずか、あの日と何ら変わることのないマリア像は、床を殴りつけながら堪えきれない慟哭を零す彼をただ静かに見下ろすだけだった。
皮膚が破けたのか、殴りつける床が微かに紅く染まりだした頃、のろのろと手を止めた彼はその場に座り込んでいつまで経っても許しの言葉が聞こえてこない現実に自嘲する。
やはり一人だけ生き延びた自分が許されることなど無いのだろうか。
生きている限り苦しめと言われている、そんな思いが心の奥底から首を擡げて身体中の隅々にまで行き渡る。
事件後、実家の主治医がほぼ彼にだけ力を注ぎ、心配する家族とは物理的にも距離を取った方が良いと判断した結果、独り立ちをし今の地位を得るまで回復したのに、その治療の甲斐も虚しいとすら思うような気持ちが心の中でじわじわと広がっていく。
姿形の見えないものに心が侵される恐怖に身体を震わせた彼は、蹌踉けながらも立ち上がって最も近い場所にあった長椅子に腰掛けると、足の間に頭を挟むように身体を折る。
ここで形の見えない闇に囚われてしまえば今までの時間が総て無駄になる。そんな事はしたくないと幼い頃から藻掻きながらも手にした対処法を実践しようとするが、長年の訓練で身に着けたそれらを思い出すことすら出来ず、その事実に脳味噌が一瞬にして恐慌状態に陥ってしまう。
血が薄く滲んでいる手が痛みを覚えるほど髪を握りしめて荒い息を繰り返すが、激しい呼吸を繰り返す事で過呼吸にも似た症状が引き起こされてしまい、恐慌状態の最中の脳味噌が働きを放棄してしまう。
「────ぅ・・・ッァア────っ!」
堪えきれない悲鳴が口から迸り、誰もいない聖堂内に響き渡る。
パニックを抑える術が思い出せない結果、更にパニックに陥る最悪の悪循環に嵌ってしまった事を辛うじて判断できた脳味噌が叫んだ直後、足の間に押し込んでいた上体のポケットから何かが滑り落ち、床の上にゴトリと音を立てて転がる。
汗と涙で滲んだ視界に入り込んだのは、窓から差し込む光にきらりと光る古びたジッポーだった。
あの夜、咄嗟に持って来たものだったが、光るジッポーが何を意味するのかを察した心が脳味噌の指令よりも早くに指先に動けと信号を送った結果、文字通り無我夢中でそれを鷲掴みにしてその場に蹲る。
掌にすっぽりと収まるジッポーだが、自分を正気に引き留めてくれるただ一つのものだと言うように握りしめて胸元に引き寄せ、無機質な銀のライターから持ち主の温もりを思い出そうとするようにきつく目を閉じると、記憶の中に存在する熱と匂いと決して忘れる事の出来ない笑顔が思い浮かぶ。
今回の無言の旅立ちの結果、それぞれ別の道を歩くかも知れない恐怖は拭い去れなかったが、それを遙かに上回る恐怖が彼の脳味噌と心を支配し、傍にいられないと強く思い込んでしまった為に黙って部屋を出たが、最後に見た顔は子供のようないっそあどけなさすら残る寝顔だった。
その寝顔が切っ掛けとなり、恐慌状態に陥ったはずの脳味噌が次から次へと恋人の表情を思い出していく。
初めて出逢った時、子供のように好きだと告白した癖にやけに老成した男の貌で言い寄ってきた時、付き合う事を許した瞬間の惚けたような顔などが浮かんでは消えていき、最後に浮かんだのは大輪の花が開いたような笑みを浮かべ、オーヴェと彼だけが呼べる名を呼ぶ顔だった。
脳裏に強く優しく響く声が血に乗って全身へと向かい、身体の奥底からの力を分け与えてくれる。
徐々に徐々に深く息を吸って吐き出せるようになった頃、張り巡らされていた緊張が一気に解け、その拍子に床に横臥すると極度の緊張の副作用が頭痛という形で現れ、歯を噛みしめて何とかそれをやり過ごそうとするが、くすんだ金髪と子供のような笑顔を持つ恋人の顔を思い描くと、やはり過去のどんな時に比べても恐慌状態に陥った心や脳味噌が冷静さを取り戻す時間は早かった。
今まで何人かの彼女達と付き合い、それなりに心を許してきていたつもりだが、笑顔を思い出すだけでこれほどの速さで平静さを取り戻せる相手などいなかった。
身体の自由にさせるように荒い息を繰り返していると、程なく呼吸も落ち着きを取り戻し、恐慌を来した脳味噌も平静さを取り戻しつつある事に気付き、背後の長椅子にもう一度何とか這い上がると、背もたれに深くもたれ掛かって天井を仰ぎ見る。
あの日と同じで今の一部始終を見守っていたマリア像がきらりと日差しに光ったのが視界の隅に入り、やはり救いの手は差し伸べられないと自嘲したとき、軋みを上げながら両開きのドアがゆっくりと開かれていくような音が聞こえて訝る視線を背後へと向けると、古びた赤い絨毯の上に伸びた影が見え、光を背負ってやって来た人影に眩しそうに目を細める。
ハイキングコースからも外れ、地元の人ですら忘れているような山道の外れに建つ小さな教会に訪れる人がいるのかと思案する耳にゆっくりと歩くブーツの足音が聞こえ、薄暗い聖堂に慣れた目で瞬きを繰り返していると、足音がより一層はっきりと聞こえてくる。
その足音は登山靴が出す音よりも重厚で特徴があり、いつか何処かで聞いた事があると気付いたと同時に鮮明な像が脳裏に浮かび、身体全体で振り返るように長椅子から立ち上がる。
それは、あの日言葉を交わすことなく別れを告げた恋人だった。
「・・・ボスの読みが当たったな」
「・・・リ・・・オン・・・!?」
歓喜の滲んだ声に途切れ途切れに答えた彼は、その言葉に小さく頷いた目の前の青年にただただ呆然と目を瞠り、今まで握っていたジッポーを再び床に落としてしまう。
その音に気付いて落ちたジッポーをひょいと拾い上げたかと思うと、だらりと垂らされている彼の掌に載せてそっと握らせる。
別れも言わずに立ち去った夜に持って出たのだからこれからもずっと持っていろと言うように手の甲を撫で、驚愕に彩られる碧の双眸を真正面から見つめるとそっと目を伏せた後、間近にある目に笑みを映し出す。
「────うん」
その一言を聞いた途端、膝から力が抜けてしまって座り込みそうになるが、それを察した腕が身体を支えるように回されると、触れる頬や背中に回った腕の強さと温もりが記憶の中のものと重なり合い、経験した事が無い思いが全身を駆け抜けて腕の中で身体を震わせる。
過去の声に怯えただ一人現実から逃避するように恋人からも逃げ出した夜、もう逢えなくなるかも知れない恐怖を何処かで感じていたが、どうしてもここへやって来る事を告げられなかった。
だからまさかここでこうして抱きしめられている現実が中々受け入れられなかったが、背中を抱く腕も鼻腔を擽る匂いも今ではすっかりと馴染んだ恋人のものだったと納得すると、震える腕を何とか持ち上げてシャツを握りしめる。
「リオン・・・っ!!」
「うん」
震える声で何度も呼べば、ひっそりとだが疑う余地もない強さでうんと返され、その短い返事が歓喜を伴って身体中を駆け巡る様にきつく目を閉じる。
「オーヴェ」
いつも聞きたいと願い、苦しいときには力を分け与えてくれる声に頭を振って視線を合わせないようにするが、そっと顔を固定されてしまって小さな溜息を零した後、至近にある目を見つめる。
「────リーオ・・・っ」
「うん。────逢いたかった」
毎日顔を合わせていた時にも聞かされた言葉がいつもとは違う重さを持って囁かれ、耳朶、頬、こめかみに口付け薄く開かれたままの唇にそっと唇が重ねられて瞼を閉ざす。
決して忘れたくない温もりが重なった唇から全身へと伝わり、同じ強さで背中を抱かれている事に気付くと、閉ざした瞼の下からじわりと何かが溢れそうになるが、それを堪えて久しぶりにキスを交わし広い背中を抱きしめるのだった。
淡い光に照らされたマリア像が、思いも掛けない別離を経た後に再会を果たした恋人達の抱擁をもただ静かに見守っているのだった。
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