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ウーヴェが小さな荷物と決して下ろすことの出来ない重い荷物を背負い小さな教会目指して山を登り始めたのと同じ頃、リオンはヒンケルを覆面パトカーの助手席に乗せてアウトバーンを南下していた。
朝っぱらからクランプスの様なヒンケルの面を拝んで南部でハイキングかぁ、全くやる気が出ないと助手席の当人に聞かせるように文句を垂れ、ヒンケルからバカ者と怒鳴られていたが、口ではどれ程文句を垂れようとも仕事に対する真っ直ぐなものを持っている事を見抜いている上司に見守られつつパトカーを制限速度一杯で走らせていた。
秋を迎えて少しの肌寒さと心地良さを含んだ風が緑溢れる平野や森を潜り抜け、リオン達が暮らす街にまで届けてくれる季節になったが、咥え煙草で運転をするリオンの胸の奥にはぽっかりと穴が開いていた。
あの夜、恋人がキスと今のままでいてくれとの言葉を残して姿を消した時、どうして手を伸ばすことをしなかったのか。
何故黙ったまま行かせてしまったのかと、今更ながらに悔やんでみてもどうすることも出来ず、ここ数日の間秘かに頭を悩ませ胸を痛めていた思いが不意に甦り、フィルターの奥でシャイセと吐き捨てた後、煙草を灰皿に落として手荒く蓋を閉める。
あの時は黙って見送ることが己に出来る精一杯だと思ったのだ。
だが振り返ってみれば、本当にそれが精一杯だったのか、もしかすると他にも手があったのではないのかとの思いが過ぎり、何度となく後悔と無理強いの納得を繰り返し、今もまた同じ事を行いかけて自嘲する。
出て行ってしまった恋人を追い掛ける、そんな事は彼の経験上有り得ない事だった。
今まで何人もの女性と付き合ってきたが、別れるときは呆気ないほどあっさりと、まるで昨日までキスをして抱き合った相手が存在しないかのように忘れ去り、そして次の相手へと向かっていたのだ。
冷淡とも取れる別れをあっさりと選んできたリオンだからか、恋人との別れで今回のように己の心が左右に大きく揺れ動く経験などなく、未経験から来る苛立ちに舌打ちをし、ついさっき消したばかりなのに煙草をもう一本咥えて火を付ける。
そんな彼の様子を沈黙でもって見守っていたヒンケルが同じように煙草に火をつけた後、ちらりと視線を流して口を開く。
「リオン」
「なんっすか?」
「・・・ドクから連絡はないのか?」
市内の草原に大小様々なテントを立て、移動式の遊園地も呼んで始まる年に一度のお祭りだが、それが始まる直前に行き先も告げずに黙って姿を消した事を彼のクリニックで事務全般を引き受けている女性や他の部下達からも聞かされていたヒンケルは、部下とは言えプライベートに口を挟むのは気が引けると謝罪しながら問いかけるが、返事と言えばあっけらかんとした、ナシの一言だった。
「無いのか?」
「無いですねー。まあ気が済めば戻ってくるでしょうし」
仕事を放り出して探し回っても良いのだろうが、それをするのは何かが違う気がすると自嘲気味に呟き、細く開けた窓から火のついたままの煙草を投げ捨てる。
「こら」
「灰を落とそうとしたら手から落ちたって事で」
のんびりとゆったりした様子でアクセルを踏むリオンだが、メーターは制限速度を軽く越えていて、下手をすれば高速を管轄とする同僚に反則キップを切られるかも知れないと告げると、ここら辺が縄張りの警官は友達ばかりだから大丈夫と、親指を突き立てて安心しろと返してくる。
「そんな問題じゃないだろうが」
「まぁまぁ。あんまり細かい事気にするとハゲますよー」
ハゲたクランプスなんて怖すぎて目も当てられないから是非とも止めてくれと笑い、もしかするとウーヴェの話題に触れて欲しくないのではないかと危惧をした時、リオンがぽつりと呟く。
「ヴィーズンが終わって帰ってきたとして・・・まだ俺と付き合うつもり、あるのかな」
その呟きは今まで見てきたリオンには相応しくない弱い声だった為、いつもいつも煩いほどドクが好きだと騒いでいるお前らしくないと苦笑すると、ひょいと肩を竦められる。
「いやー、俺は好きだし付き合いたいと思ってるんですけどね。でも・・・どうなんだろうって悩んじゃったって事ですねー」
あははと陽気に笑うリオンだが、さっき投げ捨てたばかりなのに、また煙草を取り出して火をつけると、ヒンケルが深々と溜息を吐く。
「お前が時々何を考えているのか分からない時があったが・・・」
「あ、それひでぇ、ボス」
「馬鹿者っ!・・・知っての通り俺は古い人間だからお前達の付き合いを心から祝福するにはまだ時間がかかるだろう」
ヒンケルの突然の告白に内心驚いたリオンは、集中力の半分を助手席へと向けて先を促す。
「だが・・・端から見ていてお前達の付き合い方だのなんだのは・・・嫌な気がしなかったぞ」
刑事という職業柄人々の愛憎の果ての悲しい事件や事故を見つめてきたが、リオンとウーヴェの付き合いを知った後、己の思いが少しだけ変化をしたと告白されて思わずぽかんと口を開けてしまいそうになる。
「・・・ボス」
「お前がドクと付き合っている事は・・・お互いにとって悪いことじゃないだろう」
二人が初めて出会った事件から再会を果たした時、そして時々事件や犯人像の助言を貰っている事実を教えられてからしばらくして二人が付き合いだした事を教えられたのだが、その総ての日々を思い浮かべているらしいヒンケルの言葉を沈黙でもって受け入れたリオンは、遠くに見えていた険しい山並みが近付いてきた頃、窓に肘を突いてリラックスしたような顔で口を開く。
「・・・良く考えたらクランプスに恋愛相談してる、俺?」
うわー不気味ーと、己を茶化すように告げた直後、助手席から伸びてきた手が拳を作り、逃げ場のないリオンの頭上に落下する。
「痛ぇ!パワハラで訴えてやる!」
「俺に訴えても受理しないからそう思え!」
「がーん」
まるで絵に描いたような顔でショックを受けたリオンの横、ヒンケルが鼻息荒くバカ者と言い放つが、余韻が消えたのを見計らうようにリオンが再度口を開く。
「────ボス、ありがとうございます」
プライベートな事で心配を掛けるだけではなく、生理的なものと育ってきた環境から恐らく理解出来ないだろう恋愛関係にある自分達を庇護してくれてありがとうと、滅多に見ない真剣さで感謝の言葉を告げられ、今度はヒンケルがぽかんと口を開けそうになるが、さすがに亀の甲より年の功と言うだけあるのか、グッと堪えて無様な表情は見せずに鼻息で返事をする。
「いつもそれ程殊勝なら助かるんだがな」
「えー、いつもいつもそうなら有り難みがないでしょう?」
こういった殊勝さは奥床しく隠しておくものだとルームミラーで視線を重ねあった二人だったが、どちらからともなく笑みを浮かべた時、車はアウトバーンを下りて一般道へと進んでいた。
「現地に着いたらまずクリンスマン警部に会うからな」
「Ja。その人が今回の事件の担当ですか?」
「ああ。昨日電話で事情を話してあるからそう手間取ることもないだろう」
だからあと少しだけ我慢してくれとぽつりと呟くヒンケルに首を傾げたリオンだが、その場ではそれ以上の事を問い返すこともなく、一般道にあるまじき速さで車を走らせようとする為、さすがにそれは止めておけと忠告を受ける。
秋の太陽の下、そろそろ色付き始めた菩提樹の並木道を通り、窓を全開にすると気持ちよい風が通り抜けていく。
濃い色のサングラスの下で蒼い眼を細め、今姿を消している恋人も何処かで同じような光景を見ていればいいとこの自然が少しでも傷を癒してくれていればと願うが、この道の先に繋がる険しい山々の中腹に存在する小さな教会にその恋人がいる事など、この時のリオンには想像も出来ない事だった。
そしてその教会に己が向かうこともまた、想像出来ない未来だった。
パトカーをゆっくりと走らせ左右に流れ去る景色を視界の端に納めていると、一本道ではなく町か村に繋がっているような道へと進み、案内板に従って進んでいくと街の外れに到着した事を観光客の姿で知る。
「結構人がいるんだな・・・」
リオンの呟きにヒンケルがフロントガラスの向こうに聳える山を顎で示し、あの山に皆登るんだろうと苦笑する。
「あの山ってもしかして・・・」
「ああ。ご多分に漏れずに俺たちも登ることになる山だ」
嬉しいだろうと笑われ、涙がちょちょ切れそうなほど嬉しいとやけくそ気味に吐き捨てたリオンは、自分達が暮らす街とはまた違う時間の流れに足を突っ込んだような錯覚を抱きながらゆっくり車をヒンケルが指示する通りに進ませ、駅前で停車する。
「ここで良いんですか、ボス」
「ああ。ビアンカが来る事になっている」
「ビアンカ・・・?その警部ってもしかしてボスのお友達とか言う?」
「そうだな」
クランプスの友達はやっぱりクランプスだろうかと鼻歌のように呟いた時、そのクランプスが何かを思い出したような顔でドアを開けながら顔を振り向ける。
「そう言えば先日の休暇の件だがな、リオン」
「ああ、あれはジルに代わって貰ったけど・・・」
ボスとここにいる時点でものの見事に潰れましたと、獣が獲物を威嚇するような貌で笑ったリオンにヒンケルが苦笑し、クランプスとリオンがからかって呼んでいる厳つい顔に太い笑みを浮かべる。
「あれはちゃんと受理されているぞ」
「は!?」
ヒンケルの意味の分からない言葉に素っ頓狂な声を張り上げ、一体どういう事だとドアを開けてパトカーのボンネットに手を付いてひらりと飛び越えたリオンは、己の肩ぐらいの高さにある頭を見下ろして先を促す。
「あの休暇願いは受理されていて、お前は今は休暇中だ」
「何だそりゃ!?どういう事なんです、ボス!!」
ヒンケルの肩を掴んで前後に激しく揺さ振ったリオンの手を振り払い、そんなに揺さ振られると話も出来ないだろうと吼えた後に拳をくすんだ金髪にめり込ませたヒンケルは、呆れたような溜息を零しながらしゃがみ込んだ部下を細めた目で見下ろす。
「ここで起きた事件について調べようとしていただろう」
「ここが現場だったんですか?」
二人が明言を避けたものが示すものを間違えることなく理解している事を示す様にリオンが飛び上がり、ヒンケルが重々しく頷きながらボンネットに尻を軽く載せるが、その横にリオンが飛び上がった勢いのまま座り込む。
「事件は市内で発生したが、解決したのはこの先にある小さな教会だ」
「ここまで逃げてきて犯人が死んだって事ですか?」
取り出した煙草に火を付けるリオンの手が微かに震えている事を見逃さなかったヒンケルだが、同じように煙草に火を付けて細い煙を秋晴れの空へと吹き付ける。
「いや、誘拐した子供と一緒に立て籠もったのがここだった」
「2時間近くアウトバーンを走ったって事か・・・?」
「ああ」
「・・・その間に良く検問に引っかからなかったですね」
「そうだな・・・詳しい事は資料に書いていなかったか?」
この間お前に渡したメモから情報を入手しなかったのかと、ヒンケルが驚きながら隣を見ると、無言で肩を竦めたリオンがぷかりと暢気に煙を吐き出し、ただ驚愕に見開かれる上司の目を見つめて逆に目を細める。
「調べてません」
「あれだけうるさく騒いだのに調べなかったのか?」
「ボスの好意は嬉しかったんですけどね、約束なんで」
「約束?」
「Ja.・・・約束したんですよ。だから調べませんでした」
メモの存在は本当に嬉しいし、またひいては自らを信じてくれている事を確認できて今まで以上に頑張ろうという気持ちになれたとヒンケルの好意に対して真剣に感謝の言葉を告げるが、それを有効活用しなかった事情を一言で告げると、さすがにリオンと付き合いの長いヒンケルはそれ以上は深く聞いてくるなと言われている事を察して溜息を吐き、煙草を携帯用の灰皿に投げ入れる。
「そうか・・・・・・なら俺のしたことはお節介になるか」
「へ?何ですか?」
「俺はこれからビアンカと落ち合うが、もう一人、ここの刑事も一緒にやってくる」
薄い雲が秋風に乗って山から平野へと進む様を見守りながら苦笑し、俺の一存でやってしまって悪いと謝罪をしたヒンケルにリオンがどういう事だと問い掛け、さっきの事件の詳細を知る刑事がやって来ると教えられて蒼い眼を最大限に見開いてしまう。
「お前が事件のことを知りたいのなら捜査に直接関わった刑事に話を聞いた方が良いと思ったんだが・・・」
「・・・ボス」
「俺の独りよがりの思いだったな」
せっかくの休暇を潰させてしまって悪かったと、クランプスに似付かわしくない顔で顔を伏せるヒンケルにリオンが沈黙していたが、ボンネットから飛び降りると同時にヒンケルの前で直立不動の姿勢になり、滅多に見る事のない姿勢で一礼する。
「────ダンケ、ボス」
「ああ・・・そう言う訳でな、リオン。お前はたった今から休暇に入る」
そんな人間がパトカーを運転するのはどうかと思うから、これは俺が乗って帰ってやるとヒンケルが告げた刹那、見る見るうちにリオンの顔が情けない顔になったかと思うと、ぎりぎりと歯軋りの音を立て始める。
「リオン?」
「こんな田舎からどーやって帰れって言うんですか、ボス!」
どうせなら街に帰ってから休暇にするから、俺も一緒にパトカーに乗せて帰ってくれと、こんな辺鄙な所に置いて帰るなと懇願するが、お前は休暇だろうとにべもなく言い放たれてぐうの音も出なくなったリオンは、ボスのくそったれ、牛に踏みつぶされてしまえと大声で叫んでみるが、ヒンケルに電光石火の素早さで拳を落とされて頭を押さえてしゃがみ込むのだった。
やって来たビアンカ・クリンスマン警部-はクランプスの友達の癖に絶世の、と付けたくなるような美女だった-とヒンケルがリオンを駅前に残してパトカーで走り去ったのを、ただただ指を咥えて恨めしそうに見送ったリオンだったが、少し遅れてやって来た男に声を掛けられて表情を切り替える。
やって来た刑事は長年地道に捜査に関わってきたとは思えない穏やかな表情の中にも鋭さを持っている人物で、お互いに名乗り合った後事情は聞いていると教えられ、さっきはクランプスだの何だのと罵倒した上司に掌を返したような感謝の言葉を内心でのみ告げたリオンは、次はその思いを無駄にしないようにするだけだと腹を括るが、恋人と交わした約束が重くのし掛かり、駅前から山道へと向かう途中にある小さなカフェでコーヒーを飲みながら刑事に開口一番頭を下げる。
「・・・せっかくなんですが、すみません」
「どうした?」
「いえ・・・ボ・・・ヒンケル警部にも事情を話したんですが・・・」
あの事件の唯一の生き残り-と思われる人物と浅からぬ縁があるのだが、事件についてはその人から直接聞くと約束をした為に詳細を第三者の口から聞く事は出来ないと、テーブルに額が付きそうな程頭を下げたリオンだが、詳しい事情は分からないが、そちらが聞きたくないと言うのならばと納得してくれた気配に顔を上げ、隠さないで安堵の色を浮かべて礼を言う。
「わざわざ来て頂いたのに、申し訳ありません」
「今日は夜勤明けで時間がある。だから気にするな」
事件があったと思われる山の中腹を見上げて目を細め、カップに口を付けた刑事に倣ってリオンもコーヒーを飲むが、いつも恋人が用意してくれるものと比べれば遙かに味は落ちる為、一口飲んでそっとソーサーに戻す。
今日でもう何日、彼の声を聞いていないのか。数えてみればたかが二週間足らずの筈なのに、何故だか一月もふた月も声を聞いていない、顔を見ていない気持ちになっていた。
たった一杯のコーヒーからも恋人の穏やかな笑顔を思い浮かべ、無意識にテーブルの下で拳を握ったリオンだが、刑事の問い掛けに瞬きをして手に込められた力を抜こうとする。
「では俺はこれでお役御免か?」
「あ、いえ・・・もし良ければ事件の概要というか、少しだけ教えて欲しいんです」
自分勝手なことを言いますともう一度礼をすると、何が聞きたいと真っ直ぐに見据えられた為、リオンも腰を据えるように深呼吸をして気になっていた事を問い掛ける。
「事件で子供が一人生き残り、後は皆死んだと聞きました。一体何人の人間が関わっていたんです?」
「確か・・・犯人が4人、誘拐された子供が二人と・・・後は成人男性が3人だったか?」
20余年の遠い昔を思い出すように目を細める刑事の言葉を脳裏に刻み込んだリオンは、8人の人間が死んだことになるのかと呟き、警察史上でも類を見ない悲惨な事件になったと当時を思い出したらしい呟きに小さく頷いた後、犯人が4人もいたとは思わなかったと呟くと、確か兄弟か何かだったと教えられて首を傾げる。
「犯人が兄弟?」
「ああ。男女二人ずつだったが、血縁関係か夫婦関係があったはずだ」
人質だけではなく犯人も含め皆が死亡した事だけでも異常な事件と感じてしまうのに、話を聞けば聞くほど異様さを増していく事件の概要にリオンが無意識に険しい表情を浮かべて腕を組めば、同じく険しい顔で刑事も腕を組んで秋の空を見上げる。
二人の遙か頭上を種類は解らないが大きめの鳥がくるりと円を描いて飛び去り、それを見送ったリオンの脳裏に恋人の穏やかな顔と何かに怯えるように許してくれと告げたあの夜の顔が浮かび上がり、奥歯を噛みしめる。
ヒンケルに事件について問い掛けた時に思い浮かんだ仮説があったが、やはりそれは間違ってはいなかったのだ。
己の恋人は10歳という幼い頃、大量の人が死ぬ事件に巻き込まれていたのだ。
そんな彼に自分はどうして過去を教えてくれないと詰め寄り、涙を流させた事が再び甦り、胸の深い場所に痛みが生まれるが、それを表情に出すことなく刑事が思い出しながら教えてくれる事件についての情報を脳味噌に叩き込んでいく。
「被害者は・・・」
犯人と面識があったのかどうなのかを問い掛けようとしたが、事件の詳細については聞かないと先程告げたことを思い出して首を左右に振る。
「事後処理はどうなったんですか?」
「子供に事情聴取をしようとしたが、面会すら出来なかった」
事件が解決した直後から取り調べをしようにも犯人は死亡、ただ一人生き残った被害者とは面会すら出来ない状態だったと、苦虫を噛み潰したような顔で教えられて瞬きをする。
「聴取出来なかったんですか?」
「子供の親が捜査に横槍を入れたそうだ」
「・・・」
上流階級やセレブと呼ばれる人種-リオンはある思いを込めてそう吐き捨てる-が事件に絡めば必ずと言って良いほど横槍が入るが、今回もそうだったのかと溜息を吐いた後、それならばヒンケルが忘れていた事も納得がいくと頷いて苦いコーヒーにもう一口口を付ける。
二人が座っているテーブルは軒下にあるのだが、少し離れた場所を5歳ぐらいの子供がきょろきょろとしながら歩いては立ち止まり、その度に両親を捜すように呼んでいた。
迷子だと気付いた時には子供は泣きだしてしまったが、周囲が子供の泣き声に気付いた直後、遠くで子供の名を呼ぶ親の声が聞こえてきたかと思うと、人を掻き分けて若い夫婦が真っ青な顔色のまま駆け寄ってくる。
その様を安堵の色を僅かに浮かべて見つめていたリオンだが、脳裏では別の家族の様子を思い描いていた。
恋人とその家族、特に父と兄とは絶縁関係にあると何度か聞き、また直接ではないがその雰囲気を感じ取っていたが、この誘拐事件がその切っ掛けだったのだろうかと思案したリオンの胸の裡では齟齬感が渦を巻いて落ちていく。
そもそも当初から溝があった上での事件ならばその溝が深まった事も理解出来るが、数少ない告白からリオンが感じていたのは、10歳までは仲睦まじい家族関係であったという事実だった。
たった今目の当たりにした迷子の子供を捜していた親が発見したときの慌てぶり、そしてその後の感激は決して浅くないものだろう。ましてや誘拐事件に巻き込まれながらも無事に生還したのだ。救出された後の親兄弟の喜びは目の当たりにしていないリオンでさえも想像出来る事だった。
だが現実にはその事件を契機に家族間に深くて広い溝が出来ていた。
胸に落ちたものがもたらす強烈な違和感を上手く説明付けられなかったリオンは、今はまだ何かが足りないのだろうと溜息を零し、齟齬感をそっと胸にしまい込む。
「事件現場となった教会は今でも山の中にあるが、行ってみるか?」
「・・・・・・そうですね」
恋人が幼い頃に巻き込まれた事件現場をこの目で一度確かめておいても良いかも知れないと頷いたリオンに、刑事が山の中腹を指さして顎を上げる。
「この山道を登っていけばその教会が見えてくる。周りは林で何も無いからすぐに分かる筈だ」
結局ヒンケルが言ってた通りの登山をする羽目に陥ったと苦笑するが、好意からの言葉を無碍にすることも、また己の心を裏切るようなことも出来ずに曖昧な態度で頷いた後、刑事の顎の先を辿るように山の中腹へと顔を向けるが、そんな彼の横顔を見ながら刑事が小さな声で呟いた為、何ですかと顔を振り向けるとヒンケル警部からの伝言だと肩を竦められる。
「伝言?」
「ああ。休暇が明ければ二人揃って顔を出せ、だそうだ」
「・・・分かりました」
「犯人は良く事件現場に戻ってくるが、もしかすると被害者も同じ行動を取るかも知れないとも言っていたぞ」
「・・・・・・あり得るんですかね、そんな事」
自分が辛く苦しいことを経験した場所に戻る事などあるのだろうか、己ならば金を積まれたとしても戻りたくないと驚くリオンだが、何かで聞いたが辛い出来事を再体験する事でその記憶と向かい合う人もいるそうだと返され、やっぱり俺には理解出来ないと今度はリオンが肩を竦める。
「俺も良く分からないな」
「伝言をありがとうございます」
犯罪に巻き込まれた人の心理について、良く考えれば己の傍には専門家がいる事を思い出し、無事に恋人が戻ってくればその時にでも聞いてみようと苦笑した後、コーヒーを一息に飲み干したリオンが席を立って大きく伸びをし、遠くに見える山に向けて目を細めるが、刑事が垣間見た横顔に浮かんでいるのは確固たる意思だった。
「俺の足でも日帰りできますよね」
問いの形で再確認をしたリオンに気をつけて行って来いと、同じく立ち上がって手を握って送り出そうとしてくれる刑事の手を取った後、ヒンケルに見せたものよりは砕けているが、今日のこの時間を取ってくれたことへの敬意と今後の刑事人生が順調でありますようにと願いを込めた一礼をし、目の前に延びる山道を歩き始めるのだった。
そして、教えられた教会に迷うこともなく辿り着いたリオンは、古びているが手入れが行き届いているドアを押し開け、中で驚愕に立ち尽くすウーヴェと再会する事になる。
その腕にしっかりとウーヴェの身体を抱いたリオンの脳裏、ヒンケルの言葉と地元刑事の言葉が渦を巻いていたが、どちらにも感謝の言葉を告げた後、やっと見つけた宝を二度と手放さないと言うように震える身体を抱きしめ続けるのだった。