テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
学祭を間近に控えた、蒸し暑い夜のことだった。
仁人の部屋に、絹を裂くような悲鳴が響いたのは、日付が変わる少し前のことだった。
「――は? いや、うわ、うわ、うわ」
普段の冷静さはどこへやら、仁人は机の上に飛び乗り、部屋の隅を指差しながら硬直していた。
視線の先には、この夏一番の大物と呼んでも差し支えない、黒々とした甲虫らしき影が、悠然と壁を這っている。名前を言いたくもない。
いつか飛ぶかもしれないという恐怖と、目を離せばどこに行ったか分からなくなるのではという不安と。
「――勇斗! 勇斗、いるか!」
隣の部屋まで届けとばかりに叫ぶと、程なくして、寝間着姿の勇斗が欠伸交じりにドアを開けた。
「――どうした、こんな時間に」
「あああ、あれ、あれ倒して」
震える指の先を見て、勇斗はああ、と得心した様子で頷いた。見ても驚かないのか。
「――なんだ、Gか」
「なんだって、なんだよ。あんなでかいの、うちの流儀にないんだよ」
「うちの流儀って何だよ」
笑いながらも、勇斗は手近にあったティッシュの箱を掴み、慣れた手つきで数分後には事態を収拾していた。武勇伝と呼ぶには些か地味な手際の良さだった。
「――はい、解決」
「……ありがとう」
素直に礼を言う仁人に、勇斗は満足げに笑った。
勇斗は、自分の部屋に帰ろうとして、部屋の扉まで進めば、仁人もその後ろをついてくる。
振り返るより先に、寝間着の裾を後ろから掴まれた。――控えめにというわけではなく、割とがっつりと。
どうしたものかと振り返れば、わざとなのか無意識なのか、唇を嚙んで上目遣いに見上げる仁人がいた。
「……もう無理。この部屋、しばらく無理」
「一匹しかいなかったと思うけど」
「そういう問題じゃない」
首を横に振れば、ふわふわした髪も一緒に揺れる。いつになく頑ななその様子に、勇斗は少し呆れながらも、なぜかそのまま帰してはダメな気がして、優しく言葉を続けた。
「じゃあ、今日はうちで寝ろよ。床でよければ、布団もう一組出すし」
「――助かる」
深夜、電気を落とした部屋の中、二人はしばらく無言のまま、天井を見上げていた。
「――なあ」
先に口を開いたのは勇斗だった。
「仁人って、そんなに虫、苦手なんだな」
「うるさい、忘れろ」
「いや、そういうところ可愛いなって」
「――可愛いとか言うな、気持ち悪い」
軽口の応酬に、二人はどちらからともなく小さく笑った。しばらくの沈黙の後、仁人がぽつりと呟いた。
「――勇斗、いつもこうだよな」
「何が」
「困った時、大抵お前がいる」
「――そうか?」
「そうだよ。数え出したらきりがない」
暗闇に向かって、仁人は指折り数えるように、記憶を辿り始めた。
相手の視線を感じないから、いつもより幾分か素直に言葉が出てくる気がする。
「一年の時、鍵をなくして部屋に入れなくなった夜、真っ先に泊めてくれたの、お前だったし」
「――あれは、俺もちょうど暇だっただけだよ」
「引っ越しの時、本の入った段ボール、一番重いやつ、聞きもせず持ってっただろ」
「そんなことあったっけ」
「風邪で寝込んだ時も、頼んでもないのに、粥だけ置いて帰ってっただろ」
「――それは、うつされたら面倒だったから、早く治ってほしかっただけで」
一つ挙げるごとに、勇斗はもっともらしい理由を並べたが、次第にその声から、いつもの軽さが抜け落ちていった。思い出せば思い出すほど、大事な記憶だった気がする。
「……なあ、勇斗」
「――何」
「どうして、いつも助けてくれるの?」
心もとなく消え入りそうな仁人の声は、暗闇を縫って、やけにはっきりと勇斗の耳に届いた。
しばらくの沈黙の後、勇斗は小さく息を吐いた。
「――なんでだろうな」
「……」
「仁人のことは、何しても助けたくなるんだよ。理由とか、後付けでいくらでも並べられるけど、多分そういうのじゃなくて」
その声には、いつもの飄々とした調子はなく、まるで自分自身に問いかけているような、静かな響きがあった。
その言葉を最後に、勇斗はそっと体を起こして手を伸ばし、仁人の頭を、ぽんぽんと軽く撫でた。
自分の気持ちを上手に表せるほど雄弁ではないし、ふさわしい言葉がこれ以上でてこなかったのを誤魔化すようだった。――ただ、こうするのが一番正しい気もした。
その瞬間、仁人の中で、何かが弾けるように弾んだ。
(――知ってる、これ)
理屈ではなかった。ただ、この掌の感触も、この撫で方の癖も、これまで一度も経験したことがないはずなのに、深く、痛いほどに、知っている気がした。
「……仁人?」
「――何でもない」
震えそうになる声を、かろうじて押し殺す。気持ちの整理ができない。
勇斗はそれ以上何も聞かず、ただ手を離して、静かに目を閉じた。
その夜、二人は、それぞれ違う夢を見た。
仁人が見たのは、月明かりだけが差し込む、静かな庭園の夢だった。石造りのベンチに腰掛け、隣には誰かがいる。顔はよく見えないのに、その温もりだけが、はっきりと伝わってくる。「――ずっと、そばにいる」と、誰かが囁いた気がした。理由もなく、涙が出そうなほど、安心できる声だった。
勇斗が見たのは、剣を握る手に、誰かの手が重なる夢だった。危なっかしい構えを、根気強く直してやる。何度も転んでは笑う誰かを、呆れながらも、放っておけずに助け起こす。その誰かの笑顔を守るためなら、何を差し出しても構わないと、迷いなくそう思っていた。
どちらの夢も、どこか懐かしく、そしてどうしようもなく、幸せだった。
翌朝、先に目を覚ましたのは仁人だった。
まだ薄暗い部屋の中、頬に伝う感触に気づいて、仁人はゆっくりと自分の顔に触れた。
濡れていた。
理由の分からないまま、涙が、後から後から零れ落ちてくる。声を殺して泣いていることに、仁人自身、しばらく気づかなかった。
物音に気づいたのか、しばらくすると勇斗が目を覚ました。
寝ぼけ眼で仁人の様子を見た瞬間、その顔から一気に眠気が引いていった。
(――知ってる、これ)
声を殺して肩を震わせる仁人を見て、胸がざわざわして、いてもたってもいられなくなった。
大切な人が、自分の知らないところで、声を上げられないまま涙を流している。
ただ、君の幸せを願ったのに―――手を伸ばしても届かない。
勇斗は、突き動かされるようにほとんど反射的に、その体をそっと抱き寄せていた。
あのときは届かなかった腕が、こんなにも簡単に君に届く。
自分の指先で目尻の涙を拭えることが、どれほど幸せか。
「――大丈夫」
理由も聞かずに、ただそれだけを呟きながら、勇斗はもう一度、仁人の頭を優しく撫でた。
二人とも、その涙の理由も、あの夢の中身も、言葉にすることはなかった。
それは、誰にも打ち明けることのない、二人だけの記憶になった。
窓の外では、夏の朝の光が、まだ眠るキャンパスを、静かに照らし始めていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
606