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――あれからどれだけの時間が過ぎただろうか
彼女の体感からすれば、永遠と思えるほどに長かったかもしれない。
しかし時間にすれば、ものの数分だった。
焼け焦げた左頬を撫でながら、腹の上に座る男の姿を見上げたロディアは、自分自身の無力さを嘆いていた――
思い起こせば、彼女の人生もまた数奇なものだった。
貴族でも裕福でもない凡庸な平民の両親のもとに生まれ、とりとめて何も持たない父親と母親に育てられた。しかし一つ違っていたのは、彼女があまりに優秀すぎるという点だった。
彼女は普通の平民の家柄に現れるはずがないほど、生まれながらに多くの才を受け継ぎすぎていた。
当然、その事実を周囲が放っておくはずはない。彼女が物心つく頃になると、途端に周りの見る目は変わった。
継承するはずもないスキルを保持し、無意識のうちに使いこなす。 類まれなる運動能力を持ち、それでいて頭もきれた。
それだけに飽き足らず、見た目までもが美しいとなれば、有能な者が目に留めるのも時間の問題だった。
半ば必然的に見出された彼女は、国一番の良家へと養子に出され、マイラス家の長女として生きていくこととなる。しかし彼女の人生は、その瞬間から陰り始めていた。
実子であり、マイラス家の長兄であるひとつ年上の兄は、お世辞にも優れた人物ではなかった。
彼女本人から見てもそれは確かで、危うさだけが漂う兄の存在は、彼女にとって無粋なものでしかなかった。
そして時を同じくし、彼女は気付いてしまった。
男でなく、その上平民出身である自分は、どうやら一生の日陰者だということを。
自分は優秀でない兄を支えるために用意された器でしかなく、未熟で愚かな男のために一生を費やすことこそが使命なのだと――
生まれながらの身分差が埋まることは決してない。
それどころか、抗うことは即死を意味した。
良家であるマイラス家の娘が自分の役割を拒否することの意味は、小さな子供にとって、あまりに大きすぎた。子供ながらに全てを飲み込んだロディアは、兄を支える二番手としての人生を受け入れるしかなかった。
それから彼女の人生は、苦難の連続だった。
目立つことなく、優ることなく、驕ることなく、支え続けるだけの日々。
文字にすれば容易いが、彼女にとってその毎日は苦痛でしかなく、全てを否定されるようなものだった。
優秀だ、天才だともてはやされた過去は露と消え、無の二番手として過ごす日々は光の一つもなく、酷く退屈なものだった。
権力に守られ、得られるはずもなかった知識や能力が身に付いても、それは自分のためのものではない。
全ては他人、兄であるウィル=マイラスのためだけに与えられる力であり、使い道すら彼女自身に選択権は与えられなかった。
しかしある時、日陰でしかなかった毎日に、突然光が差し込んだ。
字面でしか見覚えのない、どこそかにあるダンジョンという名の魔物の巣窟が、退屈な彼女の日常に風穴を開けた。
ダンジョンにのめり込み、心酔していく兄や父の様子に、彼女は笑みを噛み殺した。
このまま事が進めば、間違いなく潮目は変わる。
自分の人生が、初めて想像と違うものへ変わるかもしれないと、淡い期待のようなものが膨らんでいった。
そして図らずも、期待は一歩ずつ、現実というリアルな実感に姿を変え、彼女の元へと近付いた。
痩せ細り衰えていく父の姿や、疲弊する傭兵たちを気遣うふりをしながら、彼女の心は震えていた。
もうすぐだ。
もうすぐ私は自由になれる。
とても天気のいい夕暮れ時だった。
夜の闇に吸い込まれるように、全てのものが一瞬にして弾けて消えた。
しかし、望み、願い続けた日を迎えた彼女に待っていたものは、想像とまるで違う、何もない虚無の時間だった。
―― あれだけ欲したはずなのに
自分の力を、誰のためでもなく、自分のために使う。
気兼ねすることなく、全てを思うままにできる。
初めての自由が目の前にあったはずなのに、彼女の心は晴れなかった。
目の前で泣いている男がいる――
この男は、なぜ泣いているのだろうか?
愚かで、非力。
常識も、能力も、人徳も、何もかも持ち得ないこの男は、どうして私の前で泣いているのだろうか。
全てを失ったから? ―― いいや、違う。
男は初めて悟ったのだ。
この世には、どうにもならないことがあるのだと。彼女自身そうだったように、この男も初めて理解したのだと。
何もかも思うがままになると信じたものが、そうでないと否定された時、頭に残るのは「どうして」の文字のみ。泣いていたのが、他でもない彼女自身だと気付かされた時、彼女はなぜか全てのことがどうでもよくなり、馬鹿らしくなった。
弟や妹は、兄を諸悪の根源と蔑み、一族だけでなく、国からも追いやった。
反対にこれからはあなたの時代だと持ち上げられ、彼女は一族の再建を任された。
ついに自由が与えられた。それなのにどうしてか、瞳に映るものは酷く貧しく感じ、彼女は戸惑いを隠せなかった。
これが本当に望んだものだったのか。
崇められ、ただ与えられるまま生きていくことが、本当に思い描く未来だったのか。
自問自答するほどに、彼女は自分自身のことがわからなくなった。
覚えたはずの妥協すらも手を離れ、自分が壊れていく感覚に襲われた。
ただ息をして、目の前の作業をこなし、食事して、眠りにつく。
理想だと夢見ていた日常が、ただ苦痛なだけのルーティンに変わった時、自由だと思っていたものが無意味な幻想だったと悟った――
どれだけ進んだとしても、ここに私のいる世界はない。
絶望し、全てを擲つ覚悟を決めた彼女は、ひとり国を抜け出した。
最期くらい、自分で決めた道を歩こう。彷徨う森の中で、皮肉にも彼女と最初に出会ったのは、彼女をよく知る男だった。
『ロディア?! どうしてこんなところに、何をしているんだ!』
木々の生い茂る怪しい森の中。
人どころか、モンスターすらいない。寂しい寂しい世界に、男はいた。
本当のことなど答えられない彼女に、男は言った。
「キミはこんなところにいちゃいけない。キミは僕とは違うんだから」
彼女はその時、初めて過去を振り返った。
男は確かに、愚かで、非力で、常識も、能力も、人徳も、何もない人物だった。
それだけは間違いのない事実。なのに――
「僕が死んでも代わりはいる。けどキミは違う。ロディアの代わりは、どこにもいないんだよ」
男は優しかった。
いついかなる時も、彼女にとって男は、理由なく自分を護ってくれるただひとりの存在だった。
外様であり、常に完璧を求められる彼女に対し、どんなミスをしても男はいつも隣で笑っていてくれた。
何よりも第一に憂慮される存在でありながら、いつも近くで見守ってくれた唯一の人物。他でもない、それが彼女にとっての兄だった。
「僕のことなんかどうでもいい、もう街へ戻るんだ。こんなところにいては危ないよ」
彼女の背中を押した男の手は震えていた。
頼る者もなく、寂しい森で強がる男の姿は、闇の中で藻掻く彼女自身を見ているようだった。
あれだけ憎かった、愚図で、ノロマで、薄汚れた冴えない男は、最後の最後まで、愚図でノロマな冴えない兄そのものだった。
「街には、……街には、もう戻りません。私は、私の思うまま、生きると決めましたから」
震える指先を突き返し、改めて男の手を握った彼女は、「行きますよ」と頷いた。
涙を流して頷く男は、無様に、格好悪く、「行こう行こう」と笑っていた――
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