テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
1,281
560
7
第四話 守護の巨人
冬木の郊外に、森がある。
アインツベルンの森。
かつて、白い少女が住んでいた場所。
かつて、銀と雪と魔術で閉ざされていた場所。
かつて、巨人が少女を守るために咆哮した場所。
その森が、燃えていた。
炎ではない。
戦意が燃えている。
木々はまだ立っている。
雪も、夜露も、冷たい空気も、そこに残っている。
けれど、森全体が戦場になっていた。
大地は割れ、霊脈は悲鳴を上げ、空気は重く歪んでいる。
魔術結界は何重にも張られているはずなのに、そのすべてが内側から殴りつけられたように軋んでいた。
衛宮士郎たちが森の入口に辿り着いた時、最初に聞こえたのは咆哮だった。
「■■■■■■■■■■――――!」
言葉ではない。
理性ある会話でもない。
だが、その叫びには意味があった。
守る。
ただ、それだけ。
士郎は足を止めた。
聞き間違えるはずがない。
あの咆哮を、忘れるはずがない。
「バーサーカー……」
その名を呟いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
五年前の聖杯戦争。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンのサーヴァント。
狂化によって理性を奪われながら、それでも最後まで少女を守り続けた大英雄。
ヘラクレス。
十二の試練を背負った、神話最大級の怪物。
彼が、またこの冬木にいる。
それが奇跡なのか、呪いなのか、士郎にはまだ分からなかった。
遠坂凛は宝石板を見つめ、顔を強張らせている。
「狂化霊基、間違いない。規模が大きすぎる。これ、バーサーカーよ」
「神格反応は?」
アーチャーが問う。
「接近中……いえ、もう戦闘中。クラスは戦神。出力が安定してないけど、とんでもない質量よ」
凛は唇を噛む。
「サーヴァリアント側のマスター反応もある。場所は森の奥。たぶん観戦してる」
「観戦?」
士郎が顔をしかめる。
凛は吐き捨てるように言った。
「そうよ。自分の契約した神が英雄を壊すところを見てる」
その言葉に、士郎の拳が固く握られる。
セイバーは森の奥を見据えていた。
黄金の聖剣は、まだ風に隠されていない。
先ほど終末神との戦いで風王結界は一度崩された。完全な再構築には、少し時間が要る。
だが、不可視でなくとも、彼女は剣の王だった。
「急ぎましょう」
セイバーが言う。
「この森に残る魔力は、イリヤスフィールのものです。バーサーカーが守っているのは、おそらく彼女の痕跡」
「痕跡?」
「ええ。肉体ではないかもしれません。ですが、彼にとっては同じなのでしょう」
士郎は奥歯を噛んだ。
イリヤは先ほど衛宮邸に現れ、終末神と共に消えた。
なら、この森に彼女本人がいる可能性は低い。
それでもバーサーカーは戦っている。
少女がいない場所で。
少女がいたという記憶だけを守るために。
それは、あまりにも彼らしかった。
「行くぞ」
士郎は走り出した。
凛がすぐに続く。
「ちょっと、先頭に出るなって言ったでしょ!」
「分かってる!」
「分かってない人間の返事よ、それ!」
アーチャーは呆れたように息を吐き、弓を作る。
「まったく。進歩がない」
リチャード一世は、そんな彼らの横を軽やかに駆け抜けた。
獅子心王。
黄金の髪を夜風になびかせ、彼はまるで祭りに向かう少年のように笑っている。
だがその手にある剣の気配だけは、笑っていなかった。
それは王の剣。
戦場を切り開く者の刃。
「急ぐぞ、諸君!」
リチャードは言った。
「神と英雄の戦いだ。見逃すには惜しすぎる!」
凛が眉を吊り上げる。
「観戦じゃないわよ!」
「もちろんだとも、魔術師のお嬢さん」
リチャードは振り返らずに笑う。
「助太刀する。王とは、面白い戦いを見つけたら剣を抜く生き物だからな!」
「それ、絶対に王の定義じゃないわ!」
◆
森の奥。
雪の残る開けた場所で、大英雄は神と戦っていた。
ヘラクレスは、黒い巨体を揺らして立っていた。
筋肉は岩のように隆起し、皮膚は鋼よりも硬く、手には巨大な斧剣。
狂化によって言葉を失っていても、その存在感は圧倒的だった。
ただ立っているだけで、森が小さく見える。
ただ一歩踏み込むだけで、大地が悲鳴を上げる。
彼は怪物ではない。
怪物を殺してきた英雄だ。
神々に翻弄され、十二の試練を課され、それでもすべてを超えてきた男。
理性を奪われようと、記憶を削られようと、なお魂の底に残るものがある。
守る。
小さな少女を。
白い少女を。
イリヤスフィールを。
「■■■■■■■■ッ!」
ヘラクレスの斧剣が振り下ろされる。
森の空気が縦に割れた。
その一撃は、岩山を砕くという表現では足りない。
大地そのものを叩き伏せる暴力。
普通のサーヴァントなら、受けるという選択肢すら存在しない。
だが、相手は笑っていた。
赤銅色の鎧を纏った青年。
鋭い顎。
燃えるような髪。
獣じみた金色の瞳。
手には、黒い槍とも斧ともつかない異形の武器。
その武器の刃には、無数の傷が刻まれている。
人を斬った傷。
城を砕いた傷。
国を燃やした傷。
祈りを踏みにじった傷。
武器というより、戦争の記録そのものだった。
「いいぞ、英雄!」
赤銅の青年神は笑う。
「もっとだ! もっと振るえ! もっと怒れ! もっと壊せ! お前の筋肉も、骨も、血も、神への憎悪も、すべて戦場に捧げろ!」
ヘラクレスの一撃を、青年神は神器で受け止めた。
衝突。
森が爆ぜた。
衝撃波が木々をなぎ倒し、積もった雪を円形に吹き飛ばす。
空気が砕けるような音が鳴り、周囲の結界が何枚も破れる。
ヘラクレスの膂力は圧倒的だ。
だが青年神は、その暴力を喜んで受けていた。
彼は戦いを避けない。
防がない。
逃げない。
ただ真正面から受け、真正面から返す。
「戦神……!」
凛が木陰からその光景を見て、息を呑む。
「あれがサーヴァリアントの戦神クラス……!」
セイバーの表情も険しい。
「純粋な武の神格。先ほどの海王とは性質が違います」
「海の神は現象だった」
アーチャーが言う。
「これは衝突そのものだな」
リチャードは剣を肩に担ぎ、目を輝かせている。
「なるほど。戦争を司る神か。これはまた豪快な相手だ」
「楽しそうにしないで」
凛が低く言う。
「相手は神よ」
「だからこそだ」
リチャードの笑みが、少しだけ鋭くなる。
「英雄が神に挑む。王が戦場に立つ。これ以上に剣を抜く理由があるか?」
士郎は黙って、ヘラクレスを見ていた。
巨人の背後には、白い城の残骸があった。
アインツベルンの城。
完全な形ではない。
神杯戦争によって再構築されたのか、それとも霊脈が記憶から引きずり出した幻なのか。
半分崩れ、半分だけ雪の中に浮かんでいる。
その入口に、白いリボンが落ちていた。
イリヤのものだ。
おそらく本物ではない。
記憶の残滓。
魔力が形を取っただけの、過去の欠片。
それでもヘラクレスには十分だった。
彼はそれを守っている。
ただのリボンを。
もうそこにいない少女の気配を。
「バーサーカー……」
士郎の声が震える。
その時、赤銅の青年神が笑った。
「どうした、大英雄! その背後の小さな布切れがそんなに大事か!」
青年神の神器が唸る。
黒い刃が横薙ぎに振るわれた。
狙いはヘラクレスではない。
背後の白いリボン。
瞬間、ヘラクレスが動いた。
巨体とは思えない速さ。
彼は自らの身体を盾にして、神器の一撃を受け止めた。
黒い刃がヘラクレスの肩へ食い込む。
だが血はほとんど飛ばない。
代わりに、十二の試練の霊基装甲が黒い火花を散らした。
ヘラクレスは怯まない。
むしろ、その瞳に怒りが宿る。
「■■■■■■■■■■■■――!」
咆哮。
大気が震える。
青年神は歓喜に顔を歪めた。
「そうだ! それでいい! 怒れ、英雄! 守るものがある戦士ほど強いものはない!」
士郎は我慢できなかった。
「やめろ……!」
凛が即座に腕を掴む。
「士郎!」
「あいつ、バーサーカーじゃなくて、イリヤのリボンを狙った」
「分かってる。でも飛び出したら死ぬわよ!」
「放っておけるか!」
「放っておけって言ってるんじゃない!」
凛は士郎を睨んだ。
その瞳には怒りと、同じくらいの恐怖があった。
「助けるなら考えなさい! イリヤにも言われたでしょ! 『助ける』だけじゃ届かないって!」
士郎は息を呑む。
その言葉は、痛いほど正しかった。
考えろ。
剣を出す前に。
走る前に。
叫ぶ前に。
どうすれば助けられるかを。
士郎は戦場を見る。
ヘラクレスは戦神を相手に押されてはいない。
むしろ、純粋な力なら拮抗している。
問題は、守る対象があること。
戦神はそれを理解し、リボンを狙ってヘラクレスの動きを制限している。
守るために、ヘラクレスは攻めきれない。
ならば。
「凛」
「何?」
「あのリボンを保護できるか」
凛は一瞬で意図を理解した。
「できる。けど、近づく必要がある」
「俺が行く」
「却下」
「なら誰が」
セイバーが静かに言う。
「私が道を開きます。シロウはリボンの回収を。凛は保護結界を。アーチャーは援護。リチャード王は――」
「神の気を引け、だろう?」
リチャードが笑う。
「得意分野だ」
アーチャーは苦い顔をした。
「軽い作戦だな」
「重くしたって時間がないでしょ」
凛は宝石を取り出す。
「やるわよ。三秒で配置、五秒で回収、十秒以内に離脱」
士郎は頷く。
目の前の戦場では、ヘラクレスと戦神が再び激突している。
青年神の神器がヘラクレスの脇腹を打つ。
ヘラクレスは片腕で受け、もう一方の斧剣を振り抜く。
青年神の鎧が砕ける。
だが神は笑う。
痛みを快楽に変えるような笑み。
「最高だ、ヘラクレス! お前は神に憎まれ、神に試され、神に名を刻まれた! その魂は戦そのものに近い!」
ヘラクレスは答えない。
ただ、さらに強く踏み込む。
その背後のリボンへ、戦神の視線が一瞬だけ向く。
今だ。
「行くぞ!」
リチャードが飛び出した。
速い。
獅子心王の突進は、風というより光だった。
彼は剣を振るう。
その一撃は、ただの斬撃ではない。
王の名声、遠征の記憶、数多の戦場を駆け抜けた魂が、剣筋に乗っている。
青年神が即座に反応した。
「新手か!」
神器がリチャードの剣を受ける。
火花が散る。
リチャードは笑う。
「獅子心王リチャード一世! 神よ、剣の相手を所望する!」
「王か! いいぞ、人の王!」
戦神が笑い返す。
「王とは戦を起こす者! 戦を飾る者! 戦で名を残す者! ならば歓迎しよう!」
その一瞬で、セイバーが走った。
彼女は戦神ではなく、ヘラクレスへ向かう。
ヘラクレスはセイバーを敵と認識しかけた。
巨人の瞳が赤く光る。
だが、士郎が叫んだ。
「バーサーカー! イリヤのリボンを守る! 俺たちは敵じゃない!」
言葉が通じるはずはない。
狂化したヘラクレスに、理性的な説得など意味を持たない。
それでも。
巨人の動きが、ほんのわずかに止まった。
イリヤ。
その名だけは、届いた。
士郎は走る。
セイバーが前方の衝撃波を斬り払う。
アーチャーの矢が戦神の足元を撃ち、凛の宝石魔術が士郎の身体を加速させる。
白いリボンまで、あと十歩。
戦神が気づく。
「ほう。狙いはそちらか!」
神器の刃が、リチャードを押し返す。
青年神は即座にリボンへ向けて黒い刃を放った。
斬撃ではない。
戦場の概念を刃にした遠隔攻撃。
触れれば、守る対象も、守る意志も、まとめて戦火に巻き込まれる。
士郎の前に、セイバーが飛び込む。
「させません!」
黄金の聖剣が斬撃を受け止める。
衝撃。
セイバーの足元が沈む。
神の戦意が、剣を通じて彼女の霊基を叩く。
だがアルトリアは退かない。
王である彼女は、守るための戦いを知っている。
守れなかったものも、救えなかったものも、選べなかったものも知っている。
だからこそ、この場でリボン一つを見捨てることはしない。
「シロウ!」
「ああ!」
士郎はリボンへ手を伸ばした。
その瞬間、リボンの周囲に白い魔力が浮かび上がる。
イリヤの声が聞こえた気がした。
お兄ちゃん。
それは幻だったのかもしれない。
けれど士郎は、確かにその声を聞いた。
指先がリボンに触れる。
冷たい。
ただの布ではない。
イリヤの魔力、記憶、そしてわずかな魂の残響が残っている。
士郎はそれを壊さないように、両手で包み込んだ。
「凛!」
「任せて!」
凛が宝石を砕く。
赤と青と緑の光が重なり、リボンを保護する小さな結界を形成した。
リボンが透明な魔力球に包まれる。
その瞬間、ヘラクレスの咆哮が変わった。
「■■■■……」
怒りではない。
確認するような声。
士郎は振り返る。
巨人がこちらを見ていた。
理性のない赤い瞳。
狂化に染まった霊基。
けれど、その奥に確かに何かがあった。
守るものが、守られた。
その理解。
「バーサーカー」
士郎はリボンを掲げた。
「イリヤのものは、俺たちが守る」
ヘラクレスは答えない。
だが、巨人はゆっくりと戦神へ向き直った。
そして。
踏み込んだ。
先ほどまでとは違う。
守るために縛られていた巨人が、今、攻めるために解き放たれた。
大地が砕ける。
ヘラクレスの斧剣が、戦神へ叩きつけられる。
青年神は神器で受けた。
だが、受けきれない。
「っ……!」
初めて、戦神の表情から余裕が消えた。
衝撃が腕を抜け、肩を軋ませ、赤銅の鎧に亀裂を走らせる。
ヘラクレスは止まらない。
二撃目。
横薙ぎ。
戦神は後退する。
三撃目。
振り上げ。
青年神の足が地面から浮く。
四撃目。
叩き落とし。
森全体が揺れた。
「■■■■■■■■■■!」
ヘラクレスの咆哮は、もはや防衛の叫びではない。
怒りだった。
守るべきものを狙われた怒り。
少女の残滓を踏みにじられた怒り。
神という存在に、またしても運命を弄ばれた怒り。
戦神は血のような魔力を吐きながら笑った。
「そうだ……それだ! それこそが戦だ、ヘラクレス!」
彼は神器を両手で握り直す。
黒い刃が変形した。
槍でも斧でもなかった武器が、巨大な戦鎚へ姿を変える。
神器の形態変化。
凛が叫ぶ。
「まずい! 出力が上がる!」
戦神のマスターと思われる青年が、森の奥の岩上に立っていた。
獅堂レオン。
黒い髪に鋭い目つき。
若い。
士郎と同じか、少し年下に見える。
だがその顔には、狂気にも似た高揚があった。
「やれ、戦神!」
彼は叫ぶ。
「英雄を砕け! 神話を超えろ! 俺の神が最強だって証明しろ!」
凛が舌打ちする。
「やっぱり観戦気分じゃない!」
アーチャーが弓を引く。
「マスターを狙うか」
「待って」
凛が止める。
「距離がある。それに結界が厚い。あのマスター、ただの馬鹿じゃない。自分を守る準備だけはしてる」
士郎は獅堂レオンを見る。
彼は笑っていた。
ヘラクレスが傷ついても。
森が壊れても。
神が暴れても。
ただ、自分の神が勝つ瞬間を見たいという顔で。
「ふざけるな」
士郎の声が低くなる。
アーチャーが横目で見る。
「何に怒っている」
「全部だ」
士郎は答えた。
「神に。神杯に。あいつに。イリヤのリボンを餌みたいに使ったことに」
「なら、その怒りを剣に変えろ」
アーチャーは弓を構えたまま言う。
「ただ叫ぶな。狙え。支えろ。今、この戦場の主役はお前ではない」
士郎は息を呑む。
主役は誰か。
ヘラクレスだ。
イリヤを守るために、神と戦っている大英雄。
なら、自分がやるべきことは一つ。
彼を勝たせる。
「凛、バーサーカーの援護はできるか」
「狂化霊基に直接補助は危険すぎる。でも、足場なら作れる」
「アーチャー」
「分かっている。神の腕を止める」
「セイバー」
「正面から切り込みます」
「リチャード」
「王の剣で戦神の目を奪おう」
士郎は頷く。
迷いは消えた。
救う方法は、まだ分からない。
イリヤを神杯から切り離す方法も、終末神を止める方法も、何一つ見えていない。
けれど、今できることはある。
イリヤの残したものを守る。
それを守ろうとしているバーサーカーを助ける。
そこから始める。
「行くぞ!」
士郎の声を合図に、全員が動いた。
凛の宝石魔術が大地に走る。
砕けた地面の上に、魔力の足場が連続で生成された。
ヘラクレスの巨体が踏み込むたび、そこに新しい支点が生まれる。
狂化した巨人は戦術など理解しない。
だが、足場があれば踏む。
踏めば、加速する。
ヘラクレスの突進が一段階速くなった。
「■■■■!」
戦神が神器の戦鎚を振り下ろす。
アーチャーの矢が飛ぶ。
一本ではない。
十本、二十本。
投影剣の矢が空中で軌道を変え、戦神の肩、肘、手首を狙う。
神の鎧に弾かれる。
砕ける。
消える。
だが、戦鎚の軌道がわずかにずれた。
そのわずかなずれに、セイバーが飛び込む。
聖剣が戦鎚の柄を打つ。
黄金と黒銅が衝突し、火花が夜を照らす。
セイバーは歯を食いしばる。
力だけならヘラクレスにも劣らぬ神の一撃。
受け続ければ霊基が軋む。
だが、彼女は受けるために入ったのではない。
「リチャード王!」
「応!」
リチャードの剣が横から走る。
獅子心王の斬撃は、戦神の兜を掠めた。
深くはない。
だが視界を奪うには十分だった。
戦神が一瞬、セイバーとリチャードへ意識を割く。
その瞬間。
ヘラクレスが来た。
巨人の斧剣が、戦神の胴へ叩き込まれる。
轟音。
赤銅の鎧が砕け、戦神の身体が森の奥へ吹き飛ばされた。
木々を何本もへし折り、岩を砕き、ようやく止まる。
獅堂レオンの顔が引きつった。
「な……」
戦神はゆっくり立ち上がる。
鎧は砕けている。
肩から胸にかけて、大きな傷が走っている。
だが、彼は笑っていた。
心底嬉しそうに。
「素晴らしい」
戦神が呟く。
「これだ。これが戦だ。神の武具を砕き、神の肉体に傷を刻む。ああ、ヘラクレス。やはりお前はいい」
彼の背後に、血のような赤い光が立ち上る。
凛の顔が青くなる。
「神器の完全開帳……!」
セイバーが即座に叫ぶ。
「全員、下がってください!」
戦神は神器を高く掲げた。
黒銅の戦鎚が再び形を変える。
今度は槍だった。
長く、禍々しく、刃の根元に無数の小さな刃が生えた戦槍。
その全体に、古い文字が刻まれている。
人類が戦争を神聖視した時代の祈り。
勝利を願う兵士の声。
敵を殺せと命じた王の言葉。
敗者の怨嗟。
そのすべてが、一つの神器に収束している。
戦神が笑う。
「開け、我が戦場」
空が赤く染まった。
森が消える。
いや、森の上に別の戦場が重なった。
燃える城壁。
倒れた旗。
折れた槍。
砕けた盾。
名もなき兵士たちの幻影が、地平線を埋め尽くしている。
神域展開。
戦神の世界。
「千軍神域――アラル・マルス」
真名ではない。
だが、それに近い響きがあった。
神域が展開された瞬間、ヘラクレスの身体に無数の赤い鎖が巻きつく。
それは鎖ではない。
戦場の因果。
戦う者は傷つく。
戦う者は消耗する。
戦う者は、必ず何かを失う。
その当たり前を、鎖として顕現させたもの。
ヘラクレスの十二の試練が火花を散らす。
「まずい」
アーチャーが言う。
「この神域、攻撃するたびに代償を要求する。バーサーカーの耐久でも削られるぞ」
「止める!」
士郎が走ろうとした瞬間、凛が腕を掴んだ。
「違う! 今は近づくな!」
「でも!」
「考えなさいって言ってるでしょ!」
凛の声が震えていた。
「終末神の時と同じよ。感情で突っ込んだら、助けたい相手の邪魔になる!」
士郎は立ち止まる。
見る。
戦神の神域。
ヘラクレスの位置。
赤い鎖。
神器の槍。
戦神はヘラクレスを消耗させるつもりだ。
守る対象が消えたことで、バーサーカーは攻勢に出られるようになった。
だから神域で、攻撃そのものに罰を与えた。
ならば必要なのは。
ヘラクレスに攻撃させず、決定打を通すこと。
そんな矛盾したことができるのか。
士郎は自分の手を見る。
投影。
剣を作る魔術。
自分にできるのは、いつもそれだけだった。
だが、剣とは何だ。
敵を斬るもの。
守るもの。
道を開くもの。
ならば。
「アーチャー」
「何だ」
「バーサーカーの斧剣、投影できるか」
アーチャーの目が細くなる。
「馬鹿を言うな。あれは神造に近い怪物の武装だ。完全複製は不可能だ」
「完全じゃなくていい」
士郎は戦場を見据える。
「形だけでいい。重さも強度も要らない。あいつに一瞬だけ、本物と誤認させられれば」
アーチャーは数秒黙った。
そして、薄く笑う。
「なるほど。囮か」
凛も意図を察する。
「戦神の神域は、戦う意志と攻撃動作に反応して代償を課す。なら、偽物の攻撃を本命と誤認させれば、神域の反応を散らせるかもしれない」
セイバーが頷く。
「その隙に、バーサーカー本人の一撃を通す」
リチャードが笑う。
「実に良い。神を欺く剣とは、なかなか洒落ている」
士郎は深く息を吸った。
ヘラクレスの斧剣を見る。
巨大すぎる。
重すぎる。
構造は単純に見えて、内側に神代の硬度と英雄の逸話が絡み合っている。
完全には無理だ。
だが、外形だけなら。
戦場の中で、一瞬だけなら。
「――投影、開始」
士郎の魔術回路が熱を帯びる。
骨子を想定。
構成を解析。
材質を劣化複製。
強度は不要。
寿命は一秒でいい。
必要なのは、巨人の一撃に見えること。
士郎の背後に、巨大な斧剣が浮かび上がった。
不完全。
中身は空洞。
実戦に耐える強度はない。
けれど、そのシルエットだけは、ヘラクレスの武装に酷似していた。
アーチャーも同時に投影する。
二本。
三本。
四本。
巨人の斧剣の贋作が、夜空に並ぶ。
戦神が目を見開いた。
「ほう?」
凛が叫ぶ。
「今!」
士郎とアーチャーが、贋作の斧剣を一斉に射出した。
それは本物ではない。
当たっても神を傷つけることはできない。
だが戦神の神域は、それを“攻撃”として認識した。
赤い鎖が反応する。
贋作の斧剣へ絡みつき、代償を要求する。
偽物の剣が次々と砕ける。
神域の反応が散った。
ほんの一瞬、ヘラクレスを縛る鎖が薄くなる。
その瞬間、巨人が踏み込んだ。
ヘラクレスの斧剣が、低く構えられる。
戦神が笑った。
「来い、大英雄!」
ヘラクレスは叫ばない。
ただ、振った。
単純な横薙ぎ。
技術も技巧もない。
狂化した巨人の、純粋な暴力。
しかしそこには、守る意志が乗っていた。
少女を守るため。
少女の記憶を守るため。
少女がもういない場所でも、それでも守り続けるため。
その一撃は、神域の鎖を砕いた。
戦神の神器と激突する。
黒銅の槍が軋む。
赤い空が割れる。
幻影の兵士たちが消えていく。
「おお……!」
戦神が歓喜の声を上げる。
だが次の瞬間、その表情が変わった。
ヘラクレスの一撃は、止まらない。
神器の槍を押し込み、戦神の胸へ届く。
衝撃。
戦神の身体が大きく吹き飛ばされる。
神域が砕けた。
赤い空が剥がれ落ち、アインツベルンの森が戻ってくる。
戦神は地面に膝をついた。
胸元の鎧は完全に砕け、神器にも深い亀裂が入っていた。
獅堂レオンが叫ぶ。
「嘘だろ……神が、押された……?」
戦神は肩で息をしながら笑った。
「いい。実にいい。英雄とは、やはり神の退屈を壊すものだ」
ヘラクレスは追撃しようとする。
だが、その身体がわずかに揺れた。
神域の代償は完全には避けられなかった。
十二の試練の一部が削られている。
士郎は息を呑む。
「バーサーカー!」
戦神は立ち上がった。
まだ戦える。
だが、獅堂レオンの神紋が激しく明滅していた。
戦神の霊基もまた、神器開帳によって負荷を受けている。
凛が叫ぶ。
「向こうも限界が近い! ここで押せば――」
その時。
森の奥に、黒い光が落ちた。
全員が振り返る。
終末の気配。
イリヤではない。
だが、終末神の力の残響がそこにあった。
白いリボンを包む結界が、淡く震える。
士郎はそれを抱きしめるように持った。
黒い光の中から、声が響く。
『バーサーカー』
イリヤの声だった。
ヘラクレスの動きが止まる。
『もういいよ』
声は幻影だ。
神杯による伝達か、終末神の干渉か、士郎には分からない。
けれど、ヘラクレスには届いていた。
『ありがとう。守ってくれて』
巨人の赤い瞳が、ほんのわずかに揺れる。
士郎の胸が締め付けられる。
黒い光の中に、イリヤの姿が一瞬だけ浮かんだ。
白い少女。
泣きそうに笑っている。
『でも、今はまだ来ちゃだめ』
ヘラクレスは低く唸る。
その声は、駄々をこねる子供のようにも聞こえた。
『お兄ちゃんたちが、私を助ける方法を探してくれるって言ったから』
士郎は息を呑む。
イリヤの幻影がこちらを見る。
『だから、バーサーカー』
少女は微笑んだ。
『もう少しだけ、待ってて』
黒い光が消える。
森に静寂が戻る。
ヘラクレスは、しばらく動かなかった。
やがて、巨人は士郎を見た。
正確には、士郎の手の中にあるリボンを。
士郎は言った。
「必ず助ける」
ヘラクレスは答えない。
だが、巨大な斧剣をゆっくりと下ろした。
それは信頼ではないかもしれない。
狂化した彼に、そんな理性的な判断があるのかも分からない。
けれど少なくとも、今この瞬間だけは。
ヘラクレスは士郎たちを敵とは見なさなかった。
戦神が笑う。
「幕切れか。惜しいな」
獅堂レオンが苛立ったように叫ぶ。
「何してる! 今なら殺せるだろ!」
戦神は彼を一瞥した。
その目に宿るのは、冷たい失望だった。
「黙れ、契約者」
「なっ……」
「戦は勝敗だけではない。いつ退くかを知らぬ者は、戦場に愛されない」
戦神は砕けた神器を肩に担ぐ。
「今宵はここまでだ。ヘラクレス。次は、何も守るものがない場所で戦おう」
ヘラクレスは低く唸る。
戦神は満足そうに笑い、赤い魔力となって消えた。
獅堂レオンもまた、転移術式で姿を消す。
残された森には、破壊の跡だけがあった。
◆
夜明け前。
アインツベルンの森に、薄い青が差し始めていた。
戦いは終わった。
だが誰も勝利を口にしなかった。
ヘラクレスは城の残骸の前に座っている。
巨大な背中。
傷だらけの身体。
それでも倒れない守護者。
士郎は少し離れた場所に立ち、白いリボンを見つめていた。
凛の結界に守られたそれは、淡い魔力を放っている。
「これ、手がかりになるか?」
凛はリボンを慎重に観察する。
「なる。イリヤの魂の残響がある。終末神との契約痕も微量だけど付着してる。これを解析できれば、神杯との接続経路が見えるかもしれない」
「じゃあ」
「ええ」
凛は頷いた。
「イリヤを神杯から切り離す方法に、一歩近づいた」
士郎は目を閉じる。
たった一歩。
けれど、確かな一歩。
セイバーが隣に立つ。
「シロウ。貴方は今日、考えて戦いました」
「凛に怒られたからな」
「それでもです」
セイバーは穏やかに言う。
「救いたいという願いを、戦術へ変えた。それは大きな進歩です」
アーチャーが少し離れた場所で鼻を鳴らす。
「褒めるには早い。無茶は減っていない」
「そこは今後の課題ね」
凛が即座に言う。
「大課題よ。超大課題」
士郎は苦笑する。
リチャードは、ヘラクレスを見上げながら静かに言った。
「守るためだけに狂い続ける英雄か」
その声には、先ほどまでの軽さがなかった。
「美しいな」
士郎はヘラクレスを見る。
巨人は動かない。
だが、白いリボンが士郎たちの手にあることを理解しているのか、先ほどよりも怒りは薄れているように見えた。
凛が言う。
「問題は、このバーサーカーのマスターが誰かよ。反応が薄い。もしかすると、神杯が強制召喚してる」
「マスターなしで?」
「あり得ないとは言えない。今回は儀式自体が壊れてる。過去の縁を触媒にして、神杯が直接サーヴァントを引っ張ってる可能性もある」
士郎は眉をひそめる。
「過去の縁……イリヤか」
「たぶんね」
その時、ヘラクレスがゆっくりと立ち上がった。
全員が身構える。
だが、巨人は襲ってこなかった。
彼は城の残骸へ向かい、入口の前に立つ。
そして、背を向ける。
それはまるで、ここから先は自分が守ると言っているようだった。
士郎はリボンを胸に抱えた。
「また来る」
ヘラクレスは答えない。
けれど、咆哮もしなかった。
それが今は、十分な返事だった。
◆
その頃。
冬木市内の高層ビルの屋上で、獅堂レオンは膝をついていた。
顔には屈辱が滲んでいる。
「くそ……くそっ……! 神が負けかけるなんて、あり得ないだろ……!」
その背後に、戦神が立っている。
砕けた鎧は既に修復されつつある。
だが神器の亀裂だけは残っていた。
「負けではない」
「同じだ! 押されたんだぞ! 英雄に!」
戦神は冷たく笑う。
「だから面白いのだ」
レオンは振り返り、怒鳴る。
「俺は面白さなんて求めてない! 俺は勝ちたいんだ! 最強の神を従えて、全部のマスターを見下ろしたいんだよ!」
戦神は黙ってレオンを見た。
その目は、戦場でヘラクレスを見ていた時とは違う。
冷めていた。
「契約者よ。お前は戦を知らぬ」
「は?」
「勝利だけを欲する者は、戦に愛されない。敗北を恐れ、傷を嫌い、他者の痛みを娯楽にするだけの者は、戦士ではない」
レオンの右手の神紋が赤く脈動する。
戦神は続ける。
「だが安心しろ。お前の愚かさも、我が戦場の燃料にはなる」
「何を――」
神紋がさらに強く光る。
レオンの顔が苦痛に歪んだ。
戦神は微笑む。
「次は、お前の魂を少し借りる」
屋上に赤い風が吹いた。
神杯戦争は、マスターすらも神の武器に変えていく。
◆
夜明け。
衛宮邸に戻った士郎たちは、居間に集まっていた。
机の上には、凛が作った小さな結界箱が置かれている。
その中に、白いリボンが納められていた。
イリヤの残響。
終末神の契約痕。
神杯への接続経路。
すべてを繋ぐ、最初の手がかり。
凛は疲れ切った顔で言う。
「解析には時間がかかる。でも、可能性はある」
「イリヤを助ける可能性か」
「ええ。ただし、簡単じゃない。神杯と終末神とイリヤの魂が三重に絡んでる。無理に切れば、イリヤの存在そのものが崩れる」
士郎は黙って頷く。
「慎重にやろう」
「分かってるじゃない」
凛は少しだけ笑った。
アーチャーは壁にもたれながら言う。
「その慎重さが一日保てば奇跡だな」
「うるさいな」
セイバーは静かにリボンを見つめていた。
「ヘラクレスは、今も彼女を守っているのですね」
「ああ」
士郎は頷く。
「イリヤがいなくても。死んだ後でも。神杯に呼ばれても。ずっと」
その重さを、誰も笑えなかった。
守るということは、美しいだけではない。
時に呪いになる。
時に狂気になる。
時に、終わったはずの物語を縛り続ける鎖になる。
それでも、ヘラクレスの背中は確かに誰かを救っていた。
士郎は右手を見た。
令呪と神紋。
この戦争は、まだ始まったばかりだ。
海王。
終末神。
戦神。
すでに三柱の神が現れた。
残り十二柱。
そして十五騎のサーヴァント。
神杯は、まだ多くの傷を掘り返すだろう。
それでも。
「凛」
「何?」
「次にイリヤに会ったら、言葉だけじゃなくて方法を持っていく」
凛は頷いた。
「そのために解析するわ」
「セイバー」
「はい」
「また力を貸してくれ」
セイバーは真っ直ぐに士郎を見た。
「もちろんです。貴方が誰かを救おうとするなら、私はその剣となります」
アーチャーが小さく息を吐く。
「まったく、甘い陣営だ」
リチャードが笑う。
「甘さで神に喧嘩を売る。最高じゃないか」
士郎は窓の外を見る。
東の空が白み始めている。
夜が終わる。
けれど戦争は終わらない。
その時、凛の宝石板が警告音を鳴らした。
「今度は何よ……!」
凛が画面を覗き込み、表情を変える。
「柳洞寺方面でキャスター反応。これは……メディア?」
アーチャーの眉が動く。
「神格反応は?」
「ある。しかも複数の魔術式が絡んでる。智慧神クラスの可能性が高い」
セイバーが剣に手を添える。
「キャスターと智慧神」
士郎は立ち上がった。
凛が睨む。
「今すぐ行くとは言ってないわよ」
「分かってる。考える」
「本当に?」
「本当に」
凛は疑わしそうに目を細めたが、少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
宝石板に、新たな文字が浮かんだからだ。
柳洞寺地下大空洞。
そこに表示された魔力反応は、単なる戦闘ではない。
召喚式。
再構築式。
そして、神杯への逆接続式。
凛の声が震える。
「嘘でしょ……誰かが神杯を解析してる」
「誰だ」
士郎が問う。
凛は画面を見つめ、ゆっくりと答えた。
「キャスターよ」
沈黙。
それから凛は、さらに続けた。
「メディアが、神を召喚しようとしてる」
朝日が昇る。
だがその光は、妙に冷たかった。
神杯戦争、第四夜。
守護の巨人は、少女の残響を守り抜いた。
そして次なる戦場では、魔女が神を呼ぶ。
聖杯戦争を知る者たちは、まだ知らない。
神を使役しようとする魔術師が、どれほど危険な存在になるのかを。
柳洞寺の地下で、紫の魔女が微笑んでいた。
「さあ、始めましょう」
彼女の足元には、神代の文字で描かれた魔術陣。
その中心に置かれているのは、砕けた神の角。
キャスター、メディア。
裏切りの魔女は、黒い杯を見上げて囁いた。
「神を呼ぶだけなら、誰にでもできる」
魔術陣が輝く。
「問題は、呼んだ神をどう騙すかよ」
その笑みは、美しく、危険で、ひどく魔女らしかった。
第五話へ続く。
コメント
1件
もう…やばかったっす。 ヘラクレスがイリヤの残したリボン、ただの布切れを守って戦い続けてるのが胸に来すぎる。理性なくても「守る」って意思だけは残ってる感じ、最高に熱いし切ないっすわ。士郎が「考える」ようになったのも成長感じるし、最後の魔女のシーンで次回へのフックも完璧。続きめっちゃ気になるっす🔥