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第五話 柳洞寺の魔女と智慧神
朝日は昇った。
だが、冬木の空に浮かぶ黒い杯は消えなかった。
昼の光を受けてもなお、神杯は夜のようにそこに在る。
人々はそれを認識しない。
通学路を歩く学生も、車を走らせる会社員も、商店街で店を開ける老人も、誰一人として空を見上げて怯えたりはしない。
異常は、日常の皮を被る。
それが魔術の隠蔽であり、聖杯戦争の常だった。
けれど今度の隠蔽は、少し違った。
見えないのではない。
見えているのに、意味が抜け落ちる。
黒い杯を見た者は、それを雲だと思う。
空に走る魔力の亀裂を見た者は、飛行機雲だと思う。
夜の戦闘で砕けた橋を見た者は、老朽化による事故だと信じる。
世界が嘘をついている。
あるいは、神杯が世界に嘘を吐かせている。
衛宮邸の居間で、遠坂凛は宝石板に浮かぶ数式を睨んでいた。
机の上には、小さな結界箱が置かれている。
その中には、白いリボン。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの魔力残響を宿す、神杯戦争における最初の手がかり。
凛は眠っていなかった。
目の下に薄く疲労の影がある。
それでも指先は止まらない。
宝石板の上を、赤い魔術式がいくつも走る。
イリヤの魂の残響。
終末神との契約痕。
神杯から伸びる接続線。
それらを一つずつ解いていく作業は、絡まった糸を炎の中でほどくようなものだった。
間違えれば、燃える。
しかも燃えるのは、術者の指ではない。
イリヤという存在そのものだ。
「……最悪ね」
凛は小さく呟いた。
衛宮士郎は、居間の隅でその声を聞いた。
「何か分かったのか?」
「分かったことならあるわ」
凛は顔を上げずに言う。
「でも、いい情報じゃない」
「言ってくれ」
凛は少しだけ黙った。
それから、結界箱の中のリボンを指差す。
「このリボンに残ってるイリヤの魔力は、本物よ。神杯が作った偽物じゃない。少なくとも、彼女の魂の一部に由来してる」
士郎の肩がわずかに震えた。
本物。
その言葉は救いであり、同時に呪いだった。
偽物なら切り捨てられたかもしれない。
神杯が作った幻影だと割り切れたかもしれない。
だが、本物なら。
あのイリヤは、確かにイリヤなのだ。
「ただし」
凛は続ける。
「神杯はイリヤをそのまま蘇生させたわけじゃない。死者の魂を丸ごと戻すなんて、現代魔術の領域じゃないし、神杯でも無傷ではできないはず。あれはたぶん、イリヤの魂の核を、神杯側の霊基で補強して仮初めの肉体に入れてる」
「つまり?」
「神杯から切り離した瞬間、存在が維持できなくなる可能性がある」
士郎は息を止めた。
セイバーが静かに目を伏せる。
アーチャーは壁に背を預けたまま、表情を変えなかった。
だが、その沈黙は冷たさではない。
知っていたのだろう。
救うという言葉が、いつも綺麗な結末に繋がるわけではないことを。
士郎は拳を握る。
「維持する方法を探す」
「そう言うと思った」
凛は疲れたように笑った。
「だから探してるのよ」
その時、宝石板が高い音を立てた。
警告音。
凛は即座に画面を切り替える。
「柳洞寺方面、術式反応増大。地下大空洞で神杯への逆接続式が展開中」
「キャスターか」
アーチャーが言った。
声は低い。
セイバーもまた、わずかに表情を硬くする。
柳洞寺。
かつてキャスター、メディアが拠点としていた場所。
大聖杯へと至る地下大空洞を抱えた、冬木の魔術的要所。
聖杯戦争を知る者にとって、あの場所は鬼門だ。
そして、そこに魔女がいる。
神を騙そうとしている魔女が。
「メディアは何をしてるんだ」
士郎が問う。
凛は宝石板に表示された術式を睨む。
「分からない。けど、神杯を解析してるのは間違いない。しかも外側からじゃなくて、内側に針を刺してる」
「危険なのか?」
「危険なんてもんじゃないわよ」
凛は立ち上がった。
「神杯は今、三十の霊基に魔力供給してる巨大な儀式盤よ。その中枢に逆接続してるってことは、巨大な炉心に素手で触ってるようなもの。失敗すれば柳洞寺一帯が吹き飛ぶか、最悪、神杯が防衛反応を起こす」
アーチャーが腕を組む。
「キャスターがそれを理解していないとは思えんな」
「理解した上でやってるから厄介なのよ」
凛はコートを掴んだ。
「行くわよ。あの魔女が何をするつもりか確認する。場合によっては止める」
士郎は立ち上がる。
「俺も行く」
「当然。置いていったら勝手に来るでしょ」
「……そこまで信用ないか」
「あるわよ。悪い方向に」
リチャード一世は縁側に腰掛け、楽しげに笑った。
「魔女に神か。剣だけでは届かない戦場だな」
「それでも来るんですか」
セイバーが問う。
リチャードは肩をすくめる。
「無論。剣で届かぬなら、剣が届くところまで誰かに連れて行ってもらえばいい」
アーチャーが呆れたように息を吐く。
「王とは便利な思考をするものだ」
「そうとも。王は基本的に図々しい」
凛は深くため息をついた。
「頭痛がするわ……」
◆
柳洞寺へ続く石段は、静まり返っていた。
昼前だというのに、人の気配がない。
ただ、空気が重い。
一段ごとに、世界から音が遠ざかる。
鳥の声が消え、街のざわめきが消え、風の音さえ薄くなる。
士郎は石段の途中で足を止めた。
「結界か」
「ええ」
凛は宝石を一つ取り出し、石段に落とす。
宝石は階段に触れた瞬間、淡く光った。
そこから赤い線が走り、石段の表面に隠された術式を浮かび上がらせる。
複雑な魔術陣。
だが、防御用ではない。
凛の眉が動く。
「……面倒な組み方してるわね」
「どんな結界だ」
「侵入者を弾く結界じゃない。むしろ招き入れる結界よ」
士郎は怪訝な顔をする。
「招き入れる?」
「ええ。ただし、入った瞬間に“何を見たか”を記録される。視線、魔力の流れ、霊基の反応、呼吸の乱れまで。全部、術者に送られる」
アーチャーが目を細める。
「監視結界か」
「ただの監視じゃないわ。観測した情報を元に、次の階段で結界の性質が変わる。つまり、進めば進むほどこっち専用の罠になる」
リチャードが感心したように頷いた。
「なるほど。敵を拒まず、敵を学ぶのか」
凛は唇を吊り上げた。
「魔女らしいでしょ」
セイバーは剣に手を添える。
「強行突破は?」
「できるけど、その瞬間にこっちの手札が全部ばれる。キャスター相手にそれは悪手」
凛は士郎を見る。
「士郎、投影はまだ使わないで。アーチャーも。セイバーも魔力放出は最低限。リチャード王も剣を抜かない」
「私は?」
「笑顔で立っててください」
「難しい任務だな。得意だ」
リチャードは本当に笑顔で立っていた。
凛は無視した。
彼女は石段に手を触れ、魔術回路を開く。
「私が結界に嘘の情報を食わせる。全員、私の歩幅に合わせて」
「できるのか」
士郎が問う。
凛は不敵に笑う。
「誰に言ってるのよ」
凛が一歩踏み出した。
その瞬間、石段の術式が反応する。
赤い線が青へ変わり、凛の魔力を読み取ろうと伸びる。
凛はそれより一瞬早く、指先で宝石を砕いた。
小さな魔力の霧が広がる。
術式はそれを凛の魔力と誤認した。
実際には、宝石に封じておいた偽装魔力だ。
階段は嘘を食べた。
次の段が変化する。
しかし、変化した先にいるのは本物の凛ではない。
偽の情報に合わせて調整された罠は、彼女たちの横をすり抜ける。
士郎は息を呑んだ。
剣の戦いとは違う。
一歩ごとに、術式が互いを騙し合っている。
凛の額に汗が浮かぶ。
「凛、大丈夫か」
「話しかけないで。今、階段と喧嘩してる」
「階段と」
「魔術師は時々そういうことするの」
アーチャーが小さく笑った。
「ずいぶん高度な階段だな」
凛は睨む余裕もなく、次の宝石を砕いた。
◆
山門を抜けた先で、彼女は待っていた。
紫のローブ。
美しい顔立ち。
深い知性と、深い傷を隠した瞳。
キャスター。
メディア。
神話において裏切りの魔女と呼ばれた女。
彼女は寺の境内の中央に立ち、士郎たちを見て微笑んだ。
「遅かったわね、遠坂の娘」
凛は足を止める。
「招待状でも出したつもり?」
「出したでしょう。柳洞寺からこれだけ派手に術式を立ち上げれば、あなたなら必ず来る」
「嫌な信頼ね」
「魔術師同士の信頼なんて、大抵は嫌なものよ」
メディアは視線を士郎へ移した。
「衛宮士郎。五年ぶりかしら」
「……ああ」
士郎は警戒を解かない。
五年前、彼女とは敵として戦った。
だが、今目の前にいるメディアからは、すぐに殺し合いを始める気配はない。
それが逆に怖かった。
メディアはセイバーを見て、目を細める。
「騎士王も再召喚。弓兵もいる。獅子心王まで連れているとは、ずいぶん豪華な一団ね」
リチャードは軽く手を上げた。
「どうも、魔女殿。招かれざる客としては礼儀正しく来たつもりだ」
「礼儀正しい客は神杯戦争中に剣を携えて現れないわ」
「王の礼儀では携えるものなのだ」
「面倒な王ね」
メディアは呆れたように言い、それから凛へ視線を戻した。
「それで、何をしに来たのかしら。私を止めに? それとも、私から情報を盗みに?」
「両方よ」
凛は即答した。
「あなた、神杯に逆接続してるわね。何を企んでるの」
「企む?」
メディアは楽しそうに笑う。
「嫌な言い方。私はただ、解体しているだけよ」
「神杯を?」
「ええ」
その場の空気が変わった。
士郎は一歩前に出る。
「神杯を壊す方法が分かるのか」
メディアは士郎を見た。
その瞳に、わずかな興味が浮かぶ。
「あなたは相変わらず真っ直ぐね。真っ直ぐすぎて、見ていると頭が痛くなる」
「答えてくれ」
「壊すだけなら不可能ではないわ。けれど、壊した瞬間に中へ接続された霊基と契約者がどうなるかは保証できない」
士郎の顔が強張る。
メディアはそれを見て、すぐに理解したようだった。
「なるほど。白い少女ね」
士郎の拳が握られる。
「イリヤを知ってるのか」
「知っているわ。あの子は神杯の中で、ひどく目立つもの。死者の核を使って仮初めの存在を編むなんて、悪趣味極まりない術式よ」
凛が鋭く問う。
「切り離す方法は?」
「あるかもしれない」
「本当に?」
「ただし、三つ必要よ」
メディアは指を三本立てた。
「一つ。神杯と契約者を繋ぐ接続線の完全解析。二つ。契約神格の権能を一時停止させる封印術式。三つ。切り離した魂を維持する代替霊基」
凛の表情が険しくなる。
「どれも現代魔術だと無茶苦茶ね」
「だから私が必要なのでしょう?」
メディアは微笑む。
凛は顔をしかめた。
「協力するつもり?」
「条件次第ね」
「何が目的なの」
メディアの笑みが薄くなる。
「私は神杯を解体したい」
その声には、冗談がなかった。
「聖杯戦争も、神杯戦争も、結局は同じよ。誰かを器にして、誰かの願いを燃料にして、誰かの人生を部品にする。神も英雄も、マスターもサーヴァントも、みんな儀式の歯車として扱われる」
メディアは空を見上げる。
黒い杯は、柳洞寺の上空にも変わらず在る。
「私はもう、誰かの物語の道具になるのは御免なの」
その言葉に、士郎は黙った。
メディアは魔女だ。
敵だった。
多くを傷つけた。
彼女のやり方を肯定することはできない。
それでも、その言葉だけは嘘ではないと分かった。
彼女もまた、神話に翻弄された者だった。
神々の都合。
英雄の都合。
愛と裏切りの物語。
後世の人間が面白おかしく語る筋書き。
その中で、彼女自身の痛みはどれほど正しく見られたのか。
「それで、神を騙そうとしてるのか」
士郎が言う。
メディアは微笑んだ。
「神は人間を騙すのが好きでしょう? なら、一度くらい騙されても罰は当たらないわ」
その瞬間。
境内の空気が割れた。
音はなかった。
だが、全員が同時に振り返る。
柳洞寺の本堂の奥。
地下大空洞へ続く道から、銀色の光が漏れている。
凛が宝石板を見る。
「智慧神反応、急上昇……!」
メディアは舌打ちした。
「予定より早いわね」
「何を呼んだのよ!」
「呼んだのではないわ」
メディアは杖を握る。
「呼ばせたのよ。向こうに、自分の意思で来たと思わせて」
銀色の光が、人の形を取った。
現れたのは、少女とも女ともつかぬ姿の神だった。
灰銀の髪。
夜明け前の空のような瞳。
白と青を基調とした薄い鎧。
肩には小さな梟が止まっている。
手には槍ではなく、盾。
ただしその盾は、守るためだけのものではない。
表面に無数の瞳のような紋様が浮かび、見る者の思考を覗き込むように淡く輝いている。
神器。
知恵と戦略、観測と洞察を司る神具。
凛が息を呑む。
「智慧神……」
銀の神は境内に降り立ち、静かにメディアを見た。
「魔女。巧妙な招待でした」
声は冷たく、澄んでいた。
「私に気づかれぬよう罠を張るのではなく、気づかせることで誘導した。知恵ある者ほど、自分が見抜いた道を選ぶと知っていたのですね」
メディアは優雅に一礼する。
「お気に召したかしら」
「不快です」
智慧神は即答した。
「ですが、見事です」
メディアは笑う。
「光栄ね。神に褒められるなんて、昔なら泣いて喜んだでしょうに」
「今は?」
「利用できるなら利用するだけよ」
智慧神の瞳がわずかに細くなる。
「神を利用する。それが貴女の答えですか」
「違うわ」
メディアの声が低くなる。
「神に利用された者の答えよ」
境内に沈黙が落ちた。
士郎は息を詰める。
凛は二人のやり取りを聞きながら、指先を動かしていた。
宝石板の裏で、すでに術式解析を始めている。
アーチャーも弓を出していない。
セイバーも剣を抜いていない。
今この場は、剣の間合いではない。
言葉と術式の間合いだ。
智慧神は士郎たちへ視線を向けた。
「英霊陣営。貴方たちも魔女の共犯ですか」
「違う」
士郎は即答する。
「俺たちは神杯を止めたいだけだ」
「止める?」
「神杯が死者を利用してる。イリヤを、終わったはずの人を、また戦争に引きずり出してる。そんなものを放っておけない」
智慧神は士郎を見た。
その瞳は、ただ見ているだけではなかった。
思考を測っている。
過去を読んでいる。
士郎という人間が、どこまで本気で、どこまで愚かなのかを見ている。
「貴方は、方法を持っていますか」
「探してる」
「では、持っていない」
「それでも探す」
「探している間に、何人が死ぬと思いますか」
士郎は言葉を詰まらせた。
智慧神は続ける。
「救うという言葉は美しい。けれど、方法のない救済は時に呪いです。救うと言われた者は期待し、待ち、そして二度目の絶望を受け取る」
士郎の胸に、イリヤの言葉が蘇る。
『助けるって言葉だけじゃ、もう届かないよ。お兄ちゃん』
拳が震える。
だが、士郎は顔を上げた。
「だから、方法を取りに来た」
智慧神の瞳が揺れた。
ほんのわずかに。
「……愚かですね」
「ああ」
士郎は認めた。
「でも、空っぽの正解より、まだその愚かさの方がましだ」
アーチャーが目を細める。
セイバーは静かに士郎を見ていた。
メディアは小さく笑う。
「いいでしょう、智慧神。彼はこういう人間よ。計算に入れておくと痛い目を見るわ」
「計算外という意味ですか」
「いいえ」
メディアは杖を構える。
「計算しても、間違えるという意味よ」
智慧神は盾を前に出した。
神器の表面に浮かぶ瞳が一斉に開く。
凛が叫ぶ。
「来る!」
瞬間、境内のすべての可能性が整理された。
士郎は奇妙な感覚に襲われる。
自分が次にどう動くか。
セイバーがどの角度で剣を抜くか。
アーチャーが何秒後に弓を引くか。
凛がどの宝石を砕くか。
リチャードがどの瞬間に笑って飛び出すか。
そのすべてが、目に見えない盤面へ並べられていく。
智慧神の権能。
戦場の全情報を観測し、最適解を導き出す力。
それは未来視ではない。
未来を見ているのではなく、現在から導けるすべての未来を計算している。
つまり、知っている。
こちらの癖も。
迷いも。
魔術回路の出力も。
踏み込むタイミングも。
「最悪ね……!」
凛が宝石を握る。
その瞬間、智慧神の盾から銀の光が放たれた。
凛が宝石を砕くより早く、彼女の足元の魔術陣が崩れる。
「っ!」
「読まれている」
アーチャーが弓を作る。
だが、矢を番えるより早く、銀の梟が飛んだ。
小さな梟は空中で金属片へ変わり、アーチャーの弓の形成点を正確に突いた。
投影が一瞬乱れる。
セイバーが踏み込む。
智慧神は動かない。
盾をわずかに傾けただけ。
セイバーの剣筋が、盾の縁に吸い込まれるように逸れた。
「っ……!」
力で防いだのではない。
最初からそこへ来ると分かっていたから、最小限の動きで受け流した。
リチャードが笑う。
「これは厄介だ!」
彼は剣を抜き、斬りかかる。
だが智慧神は、彼の笑みすら読んでいた。
リチャードの斬撃が最も鋭くなる直前、銀の光が足元を撃つ。
踏み込みの支点を崩された獅子心王の剣は、わずかに届かない。
智慧神は静かに告げる。
「貴方たちの行動は、すべて観測可能です」
メディアが杖を振る。
紫の魔術陣が智慧神の背後に展開される。
だが、それも読まれていた。
盾の瞳が一つ輝き、魔術陣の基点が反転する。
メディアの術式が、術者自身へ跳ね返る。
「甘いわね」
メディアは笑った。
跳ね返った術式は、彼女に触れる寸前でさらに反転した。
二重反転。
術式そのものが囮だった。
紫の鎖が智慧神の足元に絡みつく。
凛が目を見開く。
「うわ、性格悪い……」
「褒め言葉として受け取るわ」
メディアは涼しい顔で言う。
智慧神は足元の鎖を見る。
「なるほど。私が反転させることを前提に、反転後に完成する術式を組んでいた」
「神を相手にするなら、そのくらいはするわよ」
「ですが、不十分です」
智慧神の盾が輝く。
紫の鎖に亀裂が走る。
解析された。
分解される。
メディアの表情が険しくなる。
「遠坂の娘!」
「分かってる!」
凛が宝石を三つ同時に砕く。
赤、青、緑。
三色の魔力がメディアの鎖に流れ込み、術式の構造を変える。
メディアの神代魔術と、凛の現代魔術。
本来なら相性は最悪だ。
時代も理論も違う。
だが今だけは噛み合った。
メディアが大きな術式を作り、凛がその継ぎ目を宝石で補強する。
智慧神の分解速度がわずかに落ちる。
アーチャーがその隙を逃さず、矢を放つ。
投影剣の矢は真正面からではなく、地面へ撃ち込まれた。
境内の石畳が砕ける。
破片が舞い上がる。
セイバーが突進する。
視界を塞ぐためではない。
智慧神は視界に頼っていない。
なら、石片の散乱は目眩ましではなく、観測情報を増やすため。
無数の破片。
不規則な軌道。
凛の宝石魔力。
メディアの鎖。
アーチャーの投影残滓。
情報量を増やし、処理を遅らせる。
智慧神の盾の瞳が一瞬だけ瞬いた。
その一瞬へ、セイバーの剣が届く。
金属音。
聖剣と神器の盾が衝突した。
銀の光が弾ける。
智慧神は初めて、半歩下がった。
「見事」
彼女は静かに言った。
「ただし、次はありません」
盾の瞳がさらに開く。
今度は境内全体に銀の線が走った。
凛の顔が青ざめる。
「全域観測……!」
智慧神の権能が拡張される。
石段。
本堂。
境内。
地下大空洞。
空に浮かぶ神杯。
士郎たちの魔力反応。
すべてが、彼女の盤面に乗る。
その瞬間から、こちらの行動はほぼ完全に読まれる。
メディアが舌打ちした。
「完全に開眼する前に止めるわよ!」
「どうやって!」
凛が叫ぶ。
「知らないわ!」
「ちょっと!」
「知っていたらもうやってる!」
士郎は戦場を見た。
正面からの攻撃は読まれる。
魔術も読まれる。
投影も、セイバーの剣筋も、アーチャーの矢も、リチャードの突撃も、全部。
なら、読めないものは何だ。
情報から導けないもの。
意味のないもの。
合理性のないもの。
士郎は、自分の手を見た。
投影魔術。
彼はこれまで、武器を作ってきた。
剣を。
槍を。
盾を。
武器には意味がある。
意味があるから読まれる。
なら。
意味のないものを作ればいい。
「――投影、開始」
アーチャーが振り返る。
「何をする気だ」
士郎は答えない。
骨子を想定しない。
構成を定義しない。
材質を決めない。
剣ではない。
盾ではない。
槍でもない。
失敗品。
投影魔術において、本来なら即座に廃棄されるべき、用途のない形。
士郎の手の中に、歪な鉄塊が生まれた。
剣のようで剣ではない。
刃は曲がり、柄はねじれ、重心は壊れている。
武器として成立していない。
凛が叫ぶ。
「士郎、何それ!」
「分からない!」
「作った本人が分からないもの出さないで!」
智慧神の盾が、その鉄塊を観測する。
だが、瞳の一つが揺れた。
意味がない。
用途がない。
攻撃に使うには不合理。
防御に使うにも不完全。
投げるにも重心がずれている。
魔術的価値もない。
だから、最適解に組み込めない。
士郎はそれを投げた。
狙いは智慧神ではない。
彼女の盾でもない。
足元ですらない。
境内の何もない空間。
全員が一瞬、理解できなかった。
智慧神でさえ、その行動の意味を計算できなかった。
鉄塊は空中で回転し、地面に落ちる。
ただそれだけ。
だが。
落ちた場所は、凛がさっき砕いた宝石の魔力残滓と、メディアの鎖の補助線と、アーチャーの矢が砕いた石片の反射角が、偶然重なる一点だった。
偶然。
本当に偶然だった。
士郎自身も狙っていない。
だが、戦場において“意味のない偶然”ほど、計算を乱すものはない。
鉄塊が落ちた衝撃で、宝石魔力が跳ねた。
跳ねた魔力がメディアの鎖に流れ込む。
鎖の術式が一瞬だけ暴走し、智慧神の盾の観測線へ絡みついた。
盾の瞳が二つ閉じる。
凛が叫んだ。
「そこ!」
メディアも同時に動いた。
「捕まえたわ」
紫の鎖が、智慧神の左腕へ絡みつく。
完全拘束ではない。
神を縛るには足りない。
だが、盾の角度を一瞬だけ固定した。
セイバーが踏み込む。
リチャードが横から走る。
アーチャーが矢を放つ。
三方向。
今度は読まれていない。
智慧神は盾を動かせない。
彼女は静かに息を吐いた。
「人間は、時折これだから」
銀の梟が羽ばたく。
梟は盾の上で砕け、無数の銀片となって散った。
その銀片が三つの攻撃を受け止める。
セイバーの剣。
リチャードの斬撃。
アーチャーの矢。
すべてが防がれた。
だが、完全ではない。
アーチャーの矢の破片が一つ、智慧神の頬を掠めた。
血ではなく、銀の光がこぼれる。
智慧神は頬に触れた。
「傷をつけましたか」
メディアが微笑む。
「傷というほどでもないでしょう?」
「神にとっては十分です」
智慧神は盾を下ろした。
戦闘の気配が薄れる。
セイバーは剣を構えたまま動かない。
凛も宝石を握りしめている。
メディアだけが、少しだけ警戒を緩めた。
「続けないのかしら」
「続けても構いません。ですが、目的は果たされました」
智慧神は士郎を見る。
「衛宮士郎。貴方の行動は愚かでした。意味がなく、計画性がなく、戦術として不安定です」
「……悪かったな」
「ですが、その不安定さが神の計算を乱した」
彼女は静かに言う。
「神杯は、願いを数式として処理します。死者の未練、英雄の後悔、神の退屈、人間の欲望。それらをすべて、儀式の材料として計算する」
凛の表情が変わる。
「神杯の処理方式を知ってるの?」
「一部だけです。私もまた、神杯に招かれた神格ですから」
智慧神はメディアへ視線を移す。
「そして魔女。貴女が盗もうとした情報の一部を、今ここで渡します」
メディアの目が細くなる。
「ずいぶん親切ね」
「親切ではありません。検証です」
「何の?」
「人間が神杯の計算を壊せるかどうか」
智慧神は盾を掲げた。
盾の表面から、一枚の銀色の羽根が剥がれ落ちる。
羽根はゆっくりと宙を舞い、凛の前に落ちた。
凛は警戒しながらそれを受け取る。
触れた瞬間、宝石板に膨大な情報が流れ込んだ。
「っ……!」
凛が膝をつきかける。
士郎が支える。
「凛!」
「大丈夫……情報量が多すぎただけ」
凛は荒い息をつく。
宝石板に、神杯の構造図の一部が浮かんでいた。
三つの輪。
英霊の座へ向かう輪。
神々の座へ向かう輪。
そして、その二つの間に挟まる黒い核。
人の願い。
凛の声が震える。
「神杯の中核……これ、聖杯の汚染とは違う。願望そのものを核にしてる」
メディアが宝石板を覗き込み、表情を険しくする。
「なるほど。だから神も英雄も呼べる。座そのものを直接支配しているわけではない。人間の願いを媒介にして、両方の座へ干渉しているのね」
「つまり?」
士郎が問う。
凛はゆっくり答えた。
「神杯を壊すには、黒い核をどうにかする必要がある。でもその核は、誰か一人の願いじゃない。聖杯戦争に関わった人間たちの願い、後悔、未練が混ざってる」
「イリヤも?」
「おそらく含まれてる」
士郎はリボンを思い出した。
会いたかった。
もう一度、お兄ちゃんに。
その願いが神杯の核に混ざっているのなら、神杯を壊すことは、彼女の願いを否定することでもあるのか。
智慧神は言う。
「神杯から契約者を切り離すには、三つの楔を外す必要があります」
メディアが続けるように呟く。
「接続線。契約神格。願いの核」
「そうです。接続線を切るだけでは契約者は崩れる。神格を封じるだけでは神杯が再接続する。願いの核を無視すれば、魂が帰る場所を失う」
士郎は唇を噛む。
「じゃあ、イリヤを助けるには」
「彼女自身が、自分の願いを選び直す必要があります」
智慧神は士郎を見た。
「神杯に利用された願いではなく、彼女自身が今、本当に望むものを」
士郎は黙った。
イリヤは言った。
全部終わらせたい、と。
だが本当にそれだけなのか。
会いたかった。
助けてほしかった。
でも、自分で終わりを選びたいとも言った。
なら、士郎がやるべきことは彼女の願いを否定することではない。
終わり以外の選択肢を渡すこと。
そのための方法を、見つけること。
「ありがとう」
士郎は智慧神に言った。
凛が驚いたように見る。
メディアも一瞬、意外そうな顔をした。
智慧神は静かに目を細める。
「感謝される筋合いはありません。私は観測しているだけです」
「それでも助かった」
「貴方はやはり愚かです」
「よく言われる」
「でしょうね」
その時、地下大空洞の奥から低い鼓動が響いた。
神杯の鼓動。
黒い杯が、反応している。
凛が叫ぶ。
「まずい! 神杯が逆接続に気づいた!」
メディアが即座に杖を振る。
境内の下に隠されていた術式が一斉に起動する。
「撤退するわよ!」
「あなたも?」
凛が問う。
「当たり前でしょう。神杯の防衛反応を正面から受ける趣味はないわ」
空が暗くなる。
昼間のはずの柳洞寺に、夜のような影が落ちた。
黒い杯から、無数の糸が降りてくる。
魔力の糸。
それは人を縛るためのものではない。
霊基を測定し、分類し、神杯の盤面に登録するためのもの。
凛が顔を強張らせる。
「触れちゃ駄目! あれに捕まると、神杯に現在位置と霊基情報を固定される!」
「固定されると?」
リチャードが問う。
「次から神杯の防衛対象になる!」
「それは困るな!」
リチャードは笑いながら糸を斬る。
だが斬られた糸は、黒い霧となって再び絡みつく。
セイバーが聖剣で糸を払う。
アーチャーが矢で上空の糸束を撃ち抜く。
メディアと凛が同時に転移術式を組む。
だが、神杯の糸が術式に絡み、座標を歪める。
「転移阻害!」
凛が叫ぶ。
「キャスター!」
「分かっているわ!」
メディアは自分のローブの袖を裂いた。
その布片が紫の鳥となり、黒い糸の中へ飛び込む。
囮。
神杯の糸は鳥を霊基反応と誤認し、一斉にそちらへ向かう。
その隙に、凛が宝石を砕いた。
転移陣が光る。
「士郎!」
セイバーが士郎を引き寄せる。
だが、その直前。
黒い糸の一本が、士郎の右手へ伸びた。
令呪と神紋。
神杯が、その異常な刻印に反応した。
「っ!」
士郎は避けようとする。
間に合わない。
糸が手の甲へ触れる寸前、銀の盾が割り込んだ。
智慧神。
彼女は盾で黒い糸を受け止めた。
糸は盾の表面で弾け、黒い火花となって散る。
士郎は目を見開く。
「何で」
「まだ観測対象に消えられては困ります」
智慧神はそう言った。
そして、少しだけ声を落とす。
「衛宮士郎。覚えておきなさい」
「何を」
「神杯は、貴方を既に見ています」
士郎の背筋が冷えた。
次の瞬間、転移の光が全員を包む。
柳洞寺の境内が遠ざかる。
最後に士郎が見たのは、黒い糸の雨の中で立つ智慧神と、笑みを浮かべたメディアの姿だった。
◆
衛宮邸へ戻った直後、凛は畳の上に倒れ込んだ。
「疲れた……本当に疲れた……」
士郎は慌てて水を持ってくる。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないけど大丈夫」
「どっちだよ」
「魔術師用語よ」
「絶対違うだろ」
アーチャーは壁際に立ち、静かに言った。
「収穫はあった」
凛はゆっくり起き上がる。
「ええ。大収穫よ」
彼女は宝石板を机に置いた。
そこには、神杯の構造図の一部が表示されている。
英霊の座。
神々の座。
願いの核。
そして、イリヤの契約線に関する仮説。
メディアが残した術式補助も、そこに組み込まれていた。
「癪だけど、キャスターの情報と智慧神の羽根があれば、イリヤの接続線を解析できる可能性がある」
「切り離せるのか」
「すぐには無理。でも、道筋は見えた」
凛は士郎を見る。
「ただし、問題が一つある」
「何だ」
「イリヤ本人の願いを確認しないと、切断はできない」
士郎は黙る。
凛は続ける。
「神杯に利用された願いじゃなく、今のイリヤが本当に望むこと。それを見つけない限り、こっちが勝手に切れば彼女を壊す」
セイバーが静かに言う。
「つまり、次にイリヤスフィールと対峙した時、私たちは彼女と戦うだけでなく、彼女の本心に届かなければならない」
「そういうこと」
凛は深く息を吐いた。
「戦闘より難しいわよ、これ」
士郎は結界箱の中のリボンを見る。
白いリボンは、微かに光っていた。
イリヤの残響。
彼女がいた証。
士郎は静かに言った。
「聞くよ」
「士郎?」
「次に会ったら、ちゃんと聞く。俺が助けたいからじゃなくて、イリヤがどうしたいのか」
アーチャーが少しだけ目を伏せた。
「できるのか」
「分からない」
士郎は正直に答えた。
「でも、やる」
セイバーが頷く。
「私も共に」
リチャードは笑った。
「良いね。神杯戦争らしからぬ戦いだ。剣より先に、言葉を届かせるとは」
凛が苦笑する。
「その言葉を届けるために、たぶん剣も魔術も全力で使うんだけどね」
その時、宝石板に新たな反応が浮かんだ。
凛の表情が変わる。
「……嘘でしょ」
「今度は何だ」
士郎が問う。
凛は画面を見つめたまま言う。
「新都中央部に、サーヴァント反応二つ。片方は黄金反応。もう片方は……」
アーチャーの目が細くなる。
「黄金反応なら、あの王か」
「ええ。ギルガメッシュ」
凛は唾を飲み込む。
「でも問題はもう一つ。神格反応じゃない。サーヴァント反応。だけど霊基の質が異常に古い」
セイバーが問う。
「誰ですか」
凛はゆっくり答える。
「エルキドゥ」
部屋の空気が止まった。
英雄王ギルガメッシュ。
そして、神に造られた兵器にして、英雄王唯一の友。
エルキドゥ。
その二騎が、新都で接触しようとしている。
アーチャーは苦々しく呟いた。
「最悪だな」
リチャードは目を輝かせる。
「いや、最高に危険だ」
「同じ意味で言わないでください」
セイバーが静かに言う。
凛は宝石板を握りしめた。
「しかも、近くに神格反応が一つある。クラスは……天王」
士郎は息を呑む。
天王。
神格側十五クラスの中でも、おそらく最上位に近い器。
ギルガメッシュ。
エルキドゥ。
そして天王。
神杯戦争は、次の局面へ進もうとしていた。
◆
同時刻。
新都の高層ビル群の上空。
黄金の舟が、空を滑っていた。
ギルガメッシュはその上に立ち、退屈そうに夜へ視線を向けている。
昼は過ぎ、夕暮れが街を赤く染め始めていた。
だが、その赤は夕焼けだけではない。
空の高い場所に、巨大な神気が集まりつつある。
天を支配する者の気配。
人間が空を見上げ、雷に怯え、星に祈り、王に天命を見た時代の名残。
天王。
その気配を前にしても、英雄王は笑っていた。
「神々の座より落ちたか。あるいは、落とされたか」
彼の背後に、王の財宝が開く。
「どちらでもよい。天を名乗るなら、まず我を見下ろせるか試してみるがいい」
その時。
黄金の舟の前方に、一人の影が立った。
人の姿をしている。
緑の髪。
穏やかな瞳。
性別の境界すら曖昧な、美しい人影。
エルキドゥ。
彼は空中に立ち、ギルガメッシュを見た。
ギルガメッシュの表情が変わった。
傲慢な王の顔ではない。
ほんの一瞬だけ、遠い過去を見た者の顔だった。
「……エルキドゥ」
エルキドゥは静かに微笑んだ。
「久しぶりだね、ギル」
その声は穏やかだった。
だが次の瞬間、二人の周囲で空間が軋んだ。
友として再会したのか。
敵として召喚されたのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
黒い神杯は、彼らの再会すら戦争の燃料にするつもりだった。
夕暮れの空に、雷鳴が響く。
天王が、降りてくる。
第六話へ続く。
コメント
1件
わあ〜〜第5話もやばすぎた😭✨ 柳洞寺の空気感と智慧神の登場、めちゃくちゃカッコよかった…!「愚かですが見事」って智慧神に言わせた士郎の投影・意味のない鉄塊、天才すぎるでしょ…好き。メディアと凛の連携も熱かったし、イリヤの本心に届けるって覚悟が胸に刺さったよ…! そして最後のギルとエルキドゥの再会シーン、震えた…次回が待ちきれない!!
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