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むむみん
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始めは、軟派な男だと思っていた。変に陽気で馴れ馴れしく、軽薄。わざわざ自分のような奴を気に入って話しかけてくるあたり趣味も悪いようだし、はっきり言って今後仲良くなることは無いと思っていた。
しかしきちんと話してみれば意外にも思慮深く、心優しく、臆病な人間だということが分かった。陽気な態度は体格のせいで怖がらせないようにするためで、馴れ馴れしいのはあえてとっつきやすくするためだ。軽薄ぶった接し方は相手に必要以上に期待させないためで、それなのに、自分にばかり話しかけてくるのは一目惚れが理由なのだと言う。
そう打ち明けられたとき耳まで真っ赤になった顔を見て、あぁなんだ、こいつもちゃんと人間なんだと思うとおかしくて、つい笑ってしまえばそいつも同じように笑い返してくる。思えば、その時初めて真正面から目を見て話すことができたように思う。
人は見かけに寄らないもので、あれだけ苦手意識のあった相手が今や生涯の友、もしくはそれ以上と呼べる関係になっていた。だからこそ首を縦に振ったし、想いを受け入れたし、身体すらも許した。
後悔なんてひとつもない。強いて言うなら、彼が生きている間に過ごせる時間は案外短すぎるというくらいだ。
後悔のないように。それは些か無理な話で、こんなにも気の合う相手と過ごす時間は、それこそ一生分あっても足りないくらいなのだ。
──あぁ、そうだ。そんなことはとうの昔から、分かりきっていたとも。
§ § §
「よォ、珍しいじゃねえか。まあ随分と粧しこんでさ……どこへ行くんだ? 与太」
後ろから呼び止める声に振り向いてみれば、赤ら顔の男がひらひらと手を振っていた。噺家は口元だけで笑みを作ると、歩くのをやめて男の千鳥足が追いつくのを待つ。
「あぁ、兄さん。いやね、ちょいと野暮用ができたんで、ついでに事務所の近くまで寄って顔でも出そうかと思ってね」
「へェ、あの与太が殊勝なこと言うようになったもんだ。ええ? お前は元々可愛い奴だけど、最近じゃあ前にも増して愛嬌が出てきたじゃねえか」
「ふふ、世辞は止してくださいよ。……それに、今はちょうど帰りなんです。生憎急ぎでね」
ぷうんと鼻をつく酒の匂いに顔を背けそうになるのをぐっと堪え、噺家はにこやかな笑みを貼り付けた。
何もかも知っているくせに、意地の悪い言い方をするものだ。わざわざこうして非番の日に二重回し──インバネスコートまで着込んで事務所に赴くことになったのも、そもそも人通りの多い休日の夜に寄席の出番が入っていないのも、ひとえに噺家が協会から爪弾きにされていることが原因だというのに。
噺家は元々兄弟弟子の中でもずば抜けて芸達者で、高座に上がるごとに評価も上がり、めきめきと頭角を現しつつあった。それを良く思わなかったのが協会の上の人間で、ある日突然転がり込んできた一門の外の人間に不相応な立場を与えるわけにはいかないとあからさまに出番を減らすようになったのだ。
無論それに甘んじるばかりではない噺家はこうしてかっちりと正装で直接物言いに来たわけだが、所詮は文字通りの門外漢。入り口でどれだけごねようが『お師匠様は急用でご不在でして』『話だけは聞いておきますから』『あの方も忙しくしていらっしゃるもので』──と悉く突っぱねられ、結局お師匠様には会えもしないまま帰されてしまったのだ。
最近は高座どころか稽古にも参加させてもらえない始末で、こうして抗議しようにもまともに取り合ってもらえず、いよいよもってどん詰まりかというところまで来ている。それを兄弟子であるこの男が知らないはずがないのに、どうせ今だってへらへらと適当な公演をしたあとで打ち上げにでも行った帰りなのに、まるで何も気付いていないような顔でこうして噺家に絡んできたのだ。
気に入らない。何もかもが気に入らない。こんな人間ばかりが上に好かれることも、自分は正当な評価さえされずこうして燻っていることも、それでも自分は女のように媚びて諂うことしかできないことも。
「与太、お前今夜は空いてるかい?」
「だから、これからあたしは野暮用があって──」
「──なァ、与太……」
する、と黒ずんだ指が肩を撫で、そのまま二の腕、背中、腰へと降りていく。耳元にかかる酒臭い息と相まってぞわりと鳥肌が立ち、口角が引き攣る。
すっとぼけようとしたって無駄だ。この男は最初からこちらに拒否権なんて無いことを承知で誘っている。意見なんて聞いていない。こいつはただ、こちらが「はい」と答えるのを待っているだけなのだ。
気持ち悪い。今隣を見れば、性欲に支配された男の目がべっとりと自分を見つめているのだろう。想像するだけで胸焼けがする。
──あぁ、どうしてこうも、何もかもが『彼』と違うのだろう。
噺家は胃から何かがせぐり上げてくるのをどうにか飲み込んで、男の手を上からするりと撫で上げた。
男の目が、にたりと歪む。
「……東町繁華街の、飴屋の男──」
「……!」
噺家がぽつりと呟いた瞬間、男の表情から笑みが消えた。
「おや、兄さんもご存知で? 何の因果かね、最近妙な連中に目ェつけられちまって……」
「……お前、あの飴売りと繋がってんのか?」
「繋がりっつったって、あたしは一方的に気に入られてるだけでさァ。ただ……それってのはつまり、あの旦那の『お気に入り』になったってことでね。今日も今さっき、いきなり呼び出されちまったところなんですよ」
「……」
男は岩のように固まって動かなくなり、噺家の腰へと回していた手を下ろした。横目で見てみればその額にはびっしりと冷や汗が浮かび、奥歯がかちかちと鳴っている。
……効果は覿面、といったところか。噺家はひとまず息をつき、汗を拭う。彼からはどうにも面倒になりそうなとき一定の相手にだけ通用する『魔法の言葉』だと聞いていたが、それにしてもこんなに簡単に引いてくれるとは思わなかった。
怯えっぷりを見るに、どうやら男も『飴売り』の世話になったことがあるらしい。といってもあちらも最近は色々と手広くやっていると聞くので、彼とこいつが一体どういう関係で、何を恐れているのかは知らないが。
噺家はくるりとコートの裾を翻し、男に向かって笑いかける。
「──てなわけなんですよ、兄さん。残念だけどね、今日は堪忍してくれるかい?」
「あ、ああ……お前、そうか……気をつけろよ、あいつは……あの人は、俺たちの常識が通じる相手じゃねえんだ。口答えなんてしようものなんざ……」
「あたしを心配してくれるんですか? ありがたいけどね、その辺はもう身に染みて分かってるんです。……じゃ、あたしはここいらで」
今度は噺家がひらりと手を振って、駅前の商店街へと吸い込まれていった。すっかり酔いも醒めたらしく、男は真っ青な顔で噺家を見送っている。
あれだけ噺家を気に入っていた相手だ。これで出番がひとつ減る、なんてことがあってはたまらないが、どうせあんな兄弟子ひとり失ったところでそう変わりはないだろう。
苦境に立たされている自分と違ってみるみるうちに名を馳せていく飴屋に思うところがないわけではないが、今はとりあえず感謝の気持ちでいっぱいだ。
宵も深まって藍色の空を赤提灯の暖かい明かりが照らしている。
もうじきこの明かりも消えて、この街の本当の夜が始まる。視界の全ては星ひとつない真っ暗な空にとっぷりと浸かり、前後も分からなくなってしまうだろう。
そうなる前に間に合えば良いが。噺家は気合いを入れるため落ちてきた前髪をぐいと掻き上げ、点々とシャッターの降りた道を早足で通り過ぎてゆく。
──すると。
「だァから、──で、──なんだって。──なのにさあ……」
大通りから少し離れた路地の方から聞き覚えのある声が微かに聞こえる。深く鼓膜を揺らすテノールの声は、まさに今探していた張本人のものに違いなかった。内容までは聞き取れないが、口調から察するにどうやら電話越しに相手を説得しているらしい。
金刺繍の入った羽織りは元々鍛えられている飴屋の体格をとりわけ大きく見せ、荒れ狂う雷雨をあしらった派手な柄入りのシャツは、鮮やかな橙色の髪を更に際立たせている。
それにしたってよく通る声だ。噺家は吸い寄せられるように路地裏へと足を向け、宵闇よりもまだ暗いビルの隙間を縫うようにして進んでいく。
「なあ。大人んなろうぜ、兄ちゃん。俺だって受け取ってねえもんは出せねえのよ……」
聞き耳を立てていた噺家は、そこで「ははぁ」と感嘆する。
あの様子だとおそらく、また客に支払いを渋られているんだろう。最近はどうも減ってきてはいたが、それでも『客』からの電話の対応をしている飴屋を見るのは珍しいことではなかった。
それはこの街に貧乏人が溢れているからなのか、それとも、どれだけ潤沢な金があったとしても足らなくなるほどに恐ろしい値段の『商品』を扱っているからなのか──噺家は知る由など無いし、これから聞こうとも思わなかった。
兎にも角にも、彼の商売の邪魔になってはいけない。噺家はなるべく足音を立てないように声の主の方を目指していく。
「今から? 無理だね、こっちにも予定ってもんがあんの。あんただって社会人なら分かるだろ? ……そう焦んなって。あと二日……いや、三日くらいなら待ってやるから──、」
そこで、金色の瞳が噺家を捉える。
冷酷にただ淡々と『商談』をしていた飴屋は、とろけるように目元の力を緩めた。
「……じゃ、そういうこった。またな、兄ちゃん」
電話越しに騒ぎ立てる相手を無理矢理に言いくるめたあとで、飴屋はこちらにひらりと手を振った。噺家もそれに応えるように手を振って、双方駆け足で合流する。
「──遅かったじゃねえか、テツ。あんまり遅いから俺、お前に何かあったんじゃないかって心配でさ……」
「あはは、ごめんね……ちょっと、ここに来る途中で知り合いに捕まっちゃって。……電話、良かったの?」
「ん? ああ……どうってことねえよ。お前より優先することなんざ俺にはあんまり無いからな」
「ちょっとはあるんだ?」
「ふは、まあ今はな。……でも、すぐにお前がいちばんになるよ」
そう言って流れるように自然な動作で腰を抱かれ、噺家は少し唇を噛む。こういうときの飴屋は、言動の端々から女をあやすことに慣れているのが伝わってくる。それが噺家にはやはり少々複雑だった。
こちらがどれだけ疑心を持っていたとしても飴屋の甘い声で囁かれ、たくましい腕に抱かれてしまえば、全ては些末なことに思えてしまう。いっそのこと『そういう』やり方を本職にしてしまえばまた違った稼ぎ方ができるのだろうが、飴屋は何故かそうしない。
その理由は、まぁ──自分が関係しているのだろうが、と噺家は内心で口角を上げた。
「はあ、ああ……また痩せたんじゃねえの、お前。ちゃんと飯食ってる?」
「食べてるよ……そうじゃなくて、きみが大きくなりすぎてるんじゃない?」
「……それはあるかも」
飴屋は起きがけの子供が毛布を手繰り寄せるような動作で噺家を抱き寄せて、張り詰めきった神経を弛緩させた。きっちりとセットされた髪を乱さないよう丁寧に撫でつけ、仄かに香る整髪料と煙草の匂いを肺いっぱいに吸い込んで、触れれば折れてしまいそうな痩躯をぎゅう、と愛おしげに抱きしめる。
噺家は視界の端に入った墨の色を捉えたまま、飴屋の背中へと腕を回す。前に会ったときよりいくらか膨らんでいるように感じる筋肉は、飴屋の日々の鍛錬による賜物だろうか。それとも、その筋肉を『行使するような仕事──でも終えた後なんだろうか。
飴屋の纏う甘ったるい匂いに要らぬ思考が過ぎるのを振り払うように、噺家は分厚い胸板に頬を寄せた。
「──ごめんな、ありがとう。……もう、大丈夫だから」
「ちょっと、ごめんは余計だよ。感謝ならいっくらでも受け取るけどね」
「は、そうかあ……うん、ありがとな」
そうしてするりと腕を抜いた飴屋はもうあの鋭い金色を宿してはおらず、暖かな橙色と、すっとするような薄荷色の眼差しでこちらを見つめている。
──贅沢を言うと、それを縁取る色付き眼鏡も邪魔だけど。噺家はとりあえず胸を撫で下ろし、落ちかけたコートを脱いで片腕にかけてしまう。元よりこういった堅苦しい衣服を好む方でもなし、飴屋の前でならどれだけ着崩したって嗜められはしないだろう。
それを視線だけで追った飴屋はすん、と鼻を鳴らし、考えを巡らせるようにぐるりと上を向いた。
「どっかで嗅いだことある気がするんだよな、それ。……白檀か?」
「まさか。それに似せて作っただけの、ただの安物さ……ていうか虫除けね、箪笥の」
道理で、と飴屋は笑う。白檀の香と仏教には切っても切れない縁があると聞くが、きっと彼のいた寺で使われていたのも偽物の香なのだろう。もしも本物であれば、こんな安っぽい香りを白檀だなんて思わないはずだ。
ひとしきり談笑に花を咲かせたあとで、ふたりはふと顔を見合わせた。考えることは同じようで、目が合った瞬間に思わず吹き出してしまう。
「ねぇ、きみめちゃくちゃお腹減ってるでしょ。分かりやすすぎ」
「お前だって朝から何も食べてません、みたいな顔してるじゃねえか」
「あ、残念でした、朝は徹夜で文書作ってたんで食べてます〜!」
「は? お前今日徹夜してんの? そっちのが心配なんだけど」
「あ。…………そういやきみ蕎麦食える? アレルギーとかじゃなければおすすめの店があるんだよね」
「話の逸らし方露骨すぎるだろ」
あからさまに目を逸らして手元を弄る噺家にまたもやツボを刺激され、飴屋は薄暗い路地裏にそぐわない快活な声で笑い飛ばす。もしもここを偶然彼の『顧客』が通りがかったとしたら、威圧することも牽制することもなく穏やかな笑みを浮かべる飴屋を見て、よく似た他人の空似だと思うだろう。それほどまでに今の飴屋は先ほどとは全く別の様相を見せていた。
結局、あまり表立って飲み食いのできない飴屋は噺家の言う蕎麦屋に案内されることになり、ふたりは揃って空きテナントと黒ずんだ室外機ばかりの道を歩き始めた。そのうちまばらな街灯が、ちかちかと大小ふたつの黒い背中を照らし出していく。
コメント
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ああ、もうもうもう…! 噺家さんの「彼が生きている間に過ごせる時間は案外短すぎる」という一文に、胸がぎゅうっとなりました。種族が違う者同士の恋の切なさが一瞬で滲む……。飴屋の名前を出したときの兄弟子の怯えっぷりと、それからの再会シーンのあたたかさの対比がたまらなかったです。ふたりで蕎麦屋に行く背中、優しい夜だなあ🌙