テラーノベル
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始めは、軟派な男だと思っていた。変に陽気で馴れ馴れしく、軽薄。わざわざ自分のような奴を気に入って話しかけてくるあたり趣味も悪いようだし、はっきり言って今後仲良くなることは無いと思っていた。
しかしきちんと話してみれば意外にも思慮深く、心優しく、臆病な人間だということが分かった。陽気な態度は体格のせいで怖がらせないようにするためで、馴れ馴れしいのはあえてとっつきやすくするためだ。軽薄ぶった接し方は相手に必要以上に期待させないためで、それなのに、自分にばかり話しかけてくるのは一目惚れが理由なのだと言う。
そう打ち明けられたとき耳まで真っ赤になった顔を見て、あぁなんだ、こいつもちゃんと人間なんだと思うとおかしくて、つい笑ってしまえばそいつも同じように笑い返してくる。思えば、その時初めて真正面から目を見て話すことができたように思う。
人は見かけに寄らないもので、あれだけ苦手意識のあった相手が今や生涯の友、もしくはそれ以上と呼べる関係になっていた。だからこそ首を縦に振ったし、想いを受け入れたし、身体すらも許した。
後悔なんてひとつもない。強いて言うなら、彼が生きている間に過ごせる時間は案外短すぎるというくらいだ。
後悔のないように。それは些か無理な話で、こんなにも気の合う相手と過ごす時間は、それこそ一生分あっても足りないくらいなのだ。
──あぁ、そうだ。そんなことはとうの昔から、分かりきっていたとも。
§ § §
「よォ、珍しいじゃねえか。まあ随分と粧しこんでさ……どこへ行くんだ? 与太」
後ろから呼び止める声に振り向いてみれば、赤ら顔の男がひらひらと手を振っていた。噺家は口元だけで笑みを作ると、歩くのをやめて男の千鳥足が追いつくのを待つ。
「あぁ、兄さん。いやね、ちょいと野暮用ができたんで、ついでに事務所の近くまで寄って顔でも出そうかと思ってね」
「へェ、あの与太が殊勝なこと言うようになったもんだ。ええ? お前は元々可愛い奴だけど、最近じゃあ前にも増して愛嬌が出てきたじゃねえか」
「ふふ、世辞は止してくださいよ。……それに、今はちょうど帰りなんです。生憎急ぎでね」
ぷうんと鼻をつく酒の匂いに顔を背けそうになるのをぐっと堪え、噺家はにこやかな笑みを貼り付けた。
何もかも知っているくせに、意地の悪い言い方をするものだ。わざわざこうして非番の日に二重回し──インバネスコートまで着込んで事務所に赴くことになったのも、そもそも人通りの多い休日の夜に寄席の出番が入っていないのも、ひとえに噺家が協会から爪弾きにされていることが原因だというのに。
噺家は元々兄弟弟子の中でもずば抜けて芸達者で、高座に上がるごとに評価も上がり、めきめきと頭角を現しつつあった。それを良く思わなかったのが協会の上の人間で、ある日突然転がり込んできた一門の外の人間に不相応な立場を与えるわけにはいかないとあからさまに出番を減らすようになったのだ。
無論それに甘んじるばかりではない噺家はこうしてかっちりと正装で直接物言いに来たわけだが、所詮は文字通りの門外漢。入り口でどれだけごねようが『お師匠様は急用でご不在でして』『話だけは聞いておきますから』『あの方も忙しくしていらっしゃるもので』──と悉く突っぱねられ、結局お師匠様には会えもしないまま帰されてしまったのだ。
最近は高座どころか稽古にも参加させてもらえない始末で、こうして抗議しようにもまともに取り合ってもらえず、いよいよもってどん詰まりかというところまで来ている。それを兄弟子であるこの男が知らないはずがないのに、どうせ今だってへらへらと適当な公演をしたあとで打ち上げにでも行った帰りなのに、まるで何も気付いていないような顔でこうして噺家に絡んできたのだ。
気に入らない。何もかもが気に入らない。こんな人間ばかりが上に好かれることも、自分は正当な評価さえされずこうして燻っていることも、それでも自分は女のように媚びて諂うことしかできないことも。
「与太、お前今夜は空いてるかい?」
「だから、これからあたしは野暮用があって──」
「──なァ、与太……」
する、と黒ずんだ指が肩を撫で、そのまま二の腕、背中、腰へと降りていく。耳元にかかる酒臭い息と相まってぞわりと鳥肌が立ち、口角が引き攣る。
すっとぼけようとしたって無駄だ。この男は最初からこちらに拒否権なんて無いことを承知で誘っている。意見なんて聞いていない。こいつはただ、こちらが「はい」と答えるのを待っているだけなのだ。
気持ち悪い。今隣を見れば、性欲に支配された男の目がべっとりと自分を見つめているのだろう。想像するだけで胸焼けがする。
──あぁ、どうしてこうも、何もかもが『彼』と違うのだろう。
噺家は胃から何かがせぐり上げてくるのをどうにか飲み込んで、男の手を上からするりと撫で上げた。
男の目が、にたりと歪む。
「……東町繁華街の、飴屋の男──」
「……!」
噺家がぽつりと呟いた瞬間、男の表情から笑みが消えた。
「おや、兄さんもご存知で? 何の因果かね、最近妙な連中に目ェつけられちまって……」
「……お前、あの飴売りと繋がってんのか?」
「繋がりっつったって、あたしは一方的に気に入られてるだけでさァ。ただ……それってのはつまり、あの旦那の『お気に入り』になったってことでね。今日も今さっき、いきなり呼び出されちまったところなんですよ」
「……」
男は岩のように固まって動かなくなり、噺家の腰へと回していた手を下ろした。横目で見てみればその額にはびっしりと冷や汗が浮かび、奥歯がかちかちと鳴っている。
……効果は覿面、といったところか。噺家はひとまず息をつき、汗を拭う。彼からはどうにも面倒になりそうなとき一定の相手にだけ通用する『魔法の言葉』だと聞いていたが、それにしてもこんなに簡単に引いてくれるとは思わなかった。
怯えっぷりを見るに、どうやら男も『飴売り』の世話になったことがあるらしい。といってもあちらも最近は色々と手広くやっていると聞くので、彼とこいつが一体どういう関係で、何を恐れているのかは知らないが。
噺家はくるりとコートの裾を翻し、男に向かって笑いかける。
「──てなわけなんですよ、兄さん。残念だけどね、今日は堪忍してくれるかい?」
「あ、ああ……お前、そうか……気をつけろよ、あいつは……あの人は、俺たちの常識が通じる相手じゃねえんだ。口答えなんてしようものなんざ……」
「あたしを心配してくれるんですか? ありがたいけどね、その辺はもう身に染みて分かってるんです。……じゃ、あたしはここいらで」
今度は噺家がひらりと手を振って、駅前の商店街へと吸い込まれていった。すっかり酔いも醒めたらしく、男は真っ青な顔で噺家を見送っている。
あれだけ噺家を気に入っていた相手だ。これで出番がひとつ減る、なんてことがあってはたまらないが、どうせあんな兄弟子ひとり失ったところでそう変わりはないだろう。
苦境に立たされている自分と違ってみるみるうちに名を馳せていく飴屋に思うところがないわけではないが、今はとりあえず感謝の気持ちでいっぱいだ。
宵も深まって藍色の空を赤提灯の暖かい明かりが照らしている。
もうじきこの明かりも消えて、この街の本当の夜が始まる。視界の全ては星ひとつない真っ暗な空にとっぷりと浸かり、前後も分からなくなってしまうだろう。
そうなる前に間に合えば良いが。噺家は気合いを入れるため落ちてきた前髪をぐいと掻き上げ、点々とシャッターの降りた道を早足で通り過ぎてゆく。
──すると。
「だァから、──で、──なんだって。──なのにさあ……」
大通りから少し離れた路地の方から聞き覚えのある声が微かに聞こえる。深く鼓膜を揺らすテノールの声は、まさに今探していた張本人のものに違いなかった。内容までは聞き取れないが、口調から察するにどうやら電話越しに相手を説得しているらしい。
金刺繍の入った羽織りは元々鍛えられている飴屋の体格をとりわけ大きく見せ、荒れ狂う雷雨をあしらった派手な柄入りのシャツは、鮮やかな橙色の髪を更に際立たせている。
それにしたってよく通る声だ。噺家は吸い寄せられるように路地裏へと足を向け、宵闇よりもまだ暗いビルの隙間を縫うようにして進んでいく。
「なあ。大人んなろうぜ、兄ちゃん。俺だって受け取ってねえもんは出せねえのよ……」
聞き耳を立てていた噺家は、そこで「ははぁ」と感嘆する。
あの様子だとおそらく、また客に支払いを渋られているんだろう。最近はどうも減ってきてはいたが、それでも『客』からの電話の対応をしている飴屋を見るのは珍しいことではなかった。
それはこの街に貧乏人が溢れているからなのか、それとも、どれだけ潤沢な金があったとしても足らなくなるほどに恐ろしい値段の『商品』を扱っているからなのか──噺家は知る由など無いし、これから聞こうとも思わなかった。
兎にも角にも、彼の商売の邪魔になってはいけない。噺家はなるべく足音を立てないように声の主の方を目指していく。
「今から? 無理だね、こっちにも予定ってもんがあんの。あんただって社会人なら分かるだろ? ……そう焦んなって。あと二日……いや、三日くらいなら待ってやるから──、」
そこで、金色の瞳が噺家を捉える。
冷酷にただ淡々と『商談』をしていた飴屋は、とろけるように目元の力を緩めた。
「……じゃ、そういうこった。またな、兄ちゃん」
電話越しに騒ぎ立てる相手を無理矢理に言いくるめたあとで、飴屋はこちらにひらりと手を振った。噺家もそれに応えるように手を振って、双方駆け足で合流する。
「──遅かったじゃねえか、テツ。あんまり遅いから俺、お前に何かあったんじゃないかって心配でさ……」
「あはは、ごめんね……ちょっと、ここに来る途中で知り合いに捕まっちゃって。……電話、良かったの?」
「ん? ああ……どうってことねえよ。お前より優先することなんざ俺にはあんまり無いからな」
「ちょっとはあるんだ?」
「ふは、まあ今はな。……でも、すぐにお前がいちばんになるよ」
そう言って流れるように自然な動作で腰を抱かれ、噺家は少し唇を噛む。こういうときの飴屋は、言動の端々から女をあやすことに慣れているのが伝わってくる。それが噺家にはやはり少々複雑だった。
こちらがどれだけ疑心を持っていたとしても飴屋の甘い声で囁かれ、たくましい腕に抱かれてしまえば、全ては些末なことに思えてしまう。いっそのこと『そういう』やり方を本職にしてしまえばまた違った稼ぎ方ができるのだろうが、飴屋は何故かそうしない。
その理由は、まぁ──自分が関係しているのだろうが、と噺家は内心で口角を上げた。
「はあ、ああ……また痩せたんじゃねえの、お前。ちゃんと飯食ってる?」
「食べてるよ……そうじゃなくて、きみが大きくなりすぎてるんじゃない?」
「……それはあるかも」
飴屋は起きがけの子供が毛布を手繰り寄せるような動作で噺家を抱き寄せて、張り詰めきった神経を弛緩させた。きっちりとセットされた髪を乱さないよう丁寧に撫でつけ、仄かに香る整髪料と煙草の匂いを肺いっぱいに吸い込んで、触れれば折れてしまいそうな痩躯をぎゅう、と愛おしげに抱きしめる。
噺家は視界の端に入った墨の色を捉えたまま、飴屋の背中へと腕を回す。前に会ったときよりいくらか膨らんでいるように感じる筋肉は、飴屋の日々の鍛錬による賜物だろうか。それとも、その筋肉を『行使するような仕事──でも終えた後なんだろうか。
飴屋の纏う甘ったるい匂いに要らぬ思考が過ぎるのを振り払うように、噺家は分厚い胸板に頬を寄せた。
「──ごめんな、ありがとう。……もう、大丈夫だから」
「ちょっと、ごめんは余計だよ。感謝ならいっくらでも受け取るけどね」
「は、そうかあ……うん、ありがとな」
そうしてするりと腕を抜いた飴屋はもうあの鋭い金色を宿してはおらず、暖かな橙色と、すっとするような薄荷色の眼差しでこちらを見つめている。
──贅沢を言うと、それを縁取る色付き眼鏡も邪魔だけど。噺家はとりあえず胸を撫で下ろし、落ちかけたコートを脱いで片腕にかけてしまう。元よりこういった堅苦しい衣服を好む方でもなし、飴屋の前でならどれだけ着崩したって嗜められはしないだろう。
それを視線だけで追った飴屋はすん、と鼻を鳴らし、考えを巡らせるようにぐるりと上を向いた。
「どっかで嗅いだことある気がするんだよな、それ。……白檀か?」
「まさか。それに似せて作っただけの、ただの安物さ……ていうか虫除けね、箪笥の」
道理で、と飴屋は笑う。白檀の香と仏教には切っても切れない縁があると聞くが、きっと彼のいた寺で使われていたのも偽物の香なのだろう。もしも本物であれば、こんな安っぽい香りを白檀だなんて思わないはずだ。
ひとしきり談笑に花を咲かせたあとで、ふたりはふと顔を見合わせた。考えることは同じようで、目が合った瞬間に思わず吹き出してしまう。
「ねぇ、きみめちゃくちゃお腹減ってるでしょ。分かりやすすぎ」
「お前だって朝から何も食べてません、みたいな顔してるじゃねえか」
「あ、残念でした、朝は徹夜で文書作ってたんで食べてます〜!」
「は? お前今日徹夜してんの? そっちのが心配なんだけど」
「あ。…………そういやきみ蕎麦食える? アレルギーとかじゃなければおすすめの店があるんだよね」
「話の逸らし方露骨すぎるだろ」
あからさまに目を逸らして手元を弄る噺家にまたもやツボを刺激され、飴屋は薄暗い路地裏にそぐわない快活な声で笑い飛ばす。もしもここを偶然彼の『顧客』が通りがかったとしたら、威圧することも牽制することもなく穏やかな笑みを浮かべる飴屋を見て、よく似た他人の空似だと思うだろう。それほどまでに今の飴屋は先ほどとは全く別の様相を見せていた。
結局、あまり表立って飲み食いのできない飴屋は噺家の言う蕎麦屋に案内されることになり、ふたりは揃って空きテナントと黒ずんだ室外機ばかりの道を歩き始めた。そのうちまばらな街灯が、ちかちかと大小ふたつの黒い背中を照らし出していく。
§ § §
路地から抜け、それでも駅前からはいくつか離れた小道にて、飴屋と噺家は気ままに喋りつつ蕎麦屋を目指す。点々と灯っていた赤提灯は今やすんなりと息を潜め、無機質な蛍光灯の青白い明かりのみが辛うじて足元を照らし出していた。
噺家は視力の悪い飴屋を気遣ってわざわざ明るい道を選び、飴屋は長い脚をちょこちょこ動かして噺家の歩幅に揃えて歩く。この湿っぽいくせに暑いんだか寒いんだか分からない気候はどうも人肌が恋しくなり、噺家をいつも以上に饒舌にさせた。
「それにしても、きみの活躍はかねがね伺ってるよ。よくやってるねぇ……あ、嫌味とかじゃないんだけど」
「んー……俺としてはあんまり、まだまだ序の口って感じなんだけどな。お前んとこまで届くくらいやれてんならまあ、いいか……」
飴屋は照れくさそうに頬を掻き、サングラスを掛け直す。視力の矯正用でもあるそれは、厄介な相手から容貌を覚えられにくくするための道具でもあった。勝って兜のなんとやら、とはよく言うものだが、飴屋はそれに輪をかけて慎重派らしい。
「さすがにきみの仕事の面についてとやかく聞いたりしないけどさ……最近はどうなの? その、前言ってたみたいな、女性とああだこうだ的なのは……」
「え、……なに、嫉妬? かわいー」
「なっ、そんなつもりじゃ……そうやって茶化すんならこの話おしまいね。聞いた僕が馬鹿だったわ」
揶揄われた途端むくれる噺家に、飴屋は悪戯心が刺激されてやまない。しかしあまりおちょくりすぎて本格的に拗ねられても嫌な飴屋は──と思うのはやらかした前例があるからなのだが──慌てて噺家の方に擦り寄り、往年の友人同士のように豪快に肩を抱いた。
「んはは、冗談だって。なんつうか……自分が惚れた側の立場になってやっぱ色々思うところもあったけど、今更罪悪感とか持ったってどうしようもねえからさ。とりあえずお前が嫌だってことはなるべくやんないようにしてるよ」
「……そっか」
「あれ、まだ怒ってる……? 俺一応、今はちゃんとしたつもりだったんだけど」
「んん、いや……それで、商談だったり何だったりに影響は無いの? ほら、こんなふうにものすごく個人的な僻みできみの商売を邪魔するような真似はしたくないからさ……」
噺家は顔色を伺うようにこちらを覗き込む飴屋の目を見つめ返し、すぐに逸らした。
「あー……まあ、言い方悪いけどさ、ああいうやり方はこう……『手っ取り早い』っていうだけだから? もっと時間をかければ違う方法でも全然いけんの」
「……なんか……クズ男……」
「言葉選べよお前……そんなこと言ったらお前だってあれだからな、言っちゃいけないこと言ったっていいんだぞこっちは!」
「え何だろ、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎とか?」
「おいそっちからライン超えて来んなって」
正装に身を包んでいるとより一層俗世と無縁そうな噺家から放たれたとんでもない単語に飴屋はさっと顔を青くする。スラム育ちの自分でさえ口にしたことのないような下品なスラングを、どうしてこの上品そうな男が知っているんだろうか──そう考えたところで、飴屋の脳裏にひとつ嫌な予感が過ぎった。
「……それ、まさか言われたことがあるわけじゃねえだろうな」
「え? いや別に……え、なんでそんな怖い顔してんの……?」
こちらを見上げた噺家が肩を縮こめたのを見て、飴屋はぱっと口元を覆い隠す。……そんなに表情に出てしまっていたのだろうか。
「ごめん、何でもない。……お前にそんな言葉浴びせた奴がいるんなら、相応しい目に遭わせてやらねえとなって思っただけ」
「怖……急に物騒なこと言わないでよ。僕だって別にそんな箱入りで育ったわけじゃないんだから相手を罵倒する言葉の百や二百知ってるって」
「一つや二つじゃねえんだ……」
「そこら辺はほら、喧嘩するなら手持ちは多いに越したことはないだろ」
「そもそも口喧嘩で済めばの話だけどね」と何てことのないようにからからと笑う噺家。一分の隙もなく整った端正な顔立ちをくしゃりと歪め、耳馴染みの良い落ち着いた低音がひっくり返るような勢いの笑い声。街灯の薄明かりを背に浴びたその姿はいつになく、そう──『人間らしく』見えて、飴屋は呼吸を浅くした。
ずっと守ってやりたいと思っていたこの男は多分、自分が思っているよりもずっと強く、しぶとく生きている。それは言葉の端々から感じる泥臭さであったり、図太さであったり、諦観であったりにしてもそうだ。
きっと噺家という男は、自分が居なくてもいずれは表の世界に行けるのだと思う。まるで泥の中へ根ざして咲き誇る蓮の花のように、辛酸も汚濁も全て自分の糧にして日の光を浴びることができるのだろう。それが飴屋にはひどく眩しく思えて、改めてどうしようもなく噺家が欲しいと思った。
──僧を騙って蓮の花に縋りつく自分はさながら、蜘蛛の糸に群がる罪人だろうか。
「……旦那?」
「あ……ああ、何でもない。ちょっと考え事してただけ」
「ふうん? ……まぁいいや、店着いたよ」
自分を呼ぶ声にはっとして、要らぬ思考を頭を隅へ追いやる。今は余計なことなど考えず、噺家とただ平穏なひと時を過ごしていたかった。
前を歩いていた噺家は足を止め、見てみれば一つ通りから逸れた先に『蕎麦処』と書かれた看板がぼんやりと光っている。奥まった立地も含めてどこか寂れた雰囲気を漂わせるその店だが、通の好みそうな素朴な佇まいでもあった。
長く住んでいても知らないもんだな、と辺りを見渡して、飴屋もその後に続いた。
「や、大将! 客の入りはどんなもんだい?」
「やぁ噺家の旦那、見ての通り閑古鳥が鳴いてら。やってらんねぇや」
「はは、そう言うと思って今日は新しい客も連れてきたんだ。存分にもてなしてやっとくれよ!」
ばしん、と背中を叩かれて、飴屋は咄嗟に会釈をする。普段は態度で侮られないよう頭は下げないと決めているが、あまりにもあっけらかんとした軽快な空気に気圧されてしまった。
見るからに堅気ではなさそうな飴屋にも怖気づくことなく「いらっしゃい」と声をかける店主に、どう答えれば良いかわからず「どうも」と返事をする。普通の飲食店に入ってまともな接客をされることなんて滅多にないものだから、飴屋には作法が分からなかった。
「何だいあんちゃん、タッパの割に肝が小せぇなぁ!」
「だははっ! この人にそんなこと言えんの大将くらいだよ」
「知らないねぇ、俺んとこに来る奴はみんな揃ってありがてぇお客だ。みんなおんなじ、違いはねぇさ……さ、何にする?」
入り口付近のカウンター席へ着くなり暖かい蕎麦茶が出され、息をつく暇もなくそう聞かれる。
自分が知らないだけで、蕎麦屋とはそういうものなのだろうか。困って噺家の方を見てみれば、待ってましたと言わんばかりに壁に並んだメニュー表を指さした。
「せっかくだからあたしが奢ってやるよ。どれでも好きなもん頼みな、旦那」
「は!? いやお前今金無えって言ってたじゃん。俺が出すって」
「やだねェ、こんなときくらい格好つけさせてくれよ。ほら、宵越しの銭は持たねェのが粋ってよく言うだろ?」
「ええ……じゃあ、お前は何にすんの?」
「あたしかい? あたしはいつも、ここに来るときはにしんそばって決めてんだ」
「……」
厨房の方を見てみれば、噺家の言葉通りもうすでに準備が進められているようで、出汁と醤油の煮詰まる良い匂いがこちらまで漂ってくる。どうやら噺家はこの店のよほどの常連らしい。
再びメニュー表に視線を戻す。盛りそば、かけそば、おろしそば、ちからそば──飴屋は一度右から左へ目を通して、それからまた左から右へと戻ってくる。それを何度か繰り返したあとで、観念したように口を開いた。
「……あのさ、俺…………蕎麦屋来んの、初めてなんだけど……」
「は? ……え、はァ゛!? なんでそれ早く言わないの!?」
「や、なんか……ダサいかなって思って……」
「いやいやいや、そういう話じゃないからそれは。じゃ大将! こいつに天ざるひとつやって、海老天二匹乗っけてあげて!!」
「待て待て待てって、お前金無いんじゃねえの!? いやいい、いっちばんシンプルなやつでいいから!」
「それじゃこっちの気が済まないんだよ!! きみみたいな『蕎麦食ってここまでデカくなりました』みたいな顔した男が蕎麦食ったことないのありえないから。マジで」
「何なんだよその偏見……?」
飴屋は慌てて注文をキャンセルしようとしたが、厨房からは天ぷらを揚げるじゅわっと良い音が聞こえてきてしまった。
なるほど、蕎麦は茹だるのが早い上、茹でている時間で天ぷらなども調理してしまえばその分早く提供することができる。そして客側も蕎麦が伸びないうちにと急いで食べるから、蕎麦屋というのは回転率が異様に良いのか。元より急いでいる人間の多い駅前に立ち食い蕎麦なんかが乱立するのも頷ける。
飴屋は重役の付き添いで行った料亭でしか見たことがないような豪華な天ぷらが次々揚がっていくのを眺めながら、どこに活かすでもない蕎麦屋のビジネスについてそんなことを考えていた。
「──はい、お待ちどう」
「や、ありがとうね大将。今日も美味そうだ」
カウンター越しに大きなどんぶりが降りてきて、ふわりと醤油出汁の香りが広がった。にしんの甘露煮は薄い皮がぴったりと身に張り付くまで煮込まれており、琥珀色のつゆに落ちた油がキラキラと輝いている。
それにごくりと喉を鳴らしていると、次は自分の前にお盆が降りてくる。上に乗っているのは皿いっぱいに積まれた天ぷらたちと、せいろに盛られた繊細な蕎麦、褐色の蕎麦つゆと、もう一つ仄かに湯気の立っているつゆ、それから薬味が小皿に少し。
次いで隣に置かれた不思議な形の急須のようなものに困惑していると、噺家が「それは蕎麦湯といってね、蕎麦をいただいたあとのつゆを割って飲むものだよ。……そのまま飲んでも美味しいけどね」と何やら愉しげに教えてくれた。
──美味そうだな。勝手も何もかも分からない飴屋だったが、蕎麦の香りの湯気を浴びながら、ただ漠然とそう思えた。
隣で割り箸を割る音がしたので見てみれば、噺家が片側の箸を口から外しつつ無言でこちらの分の箸を差し出している。
「お前も案外行儀悪いよな」と悪態を吐きつつ飴屋も無言でそれを受け取り、同じようにぱきんと割った。
「何ぼうっとしてるんだい。ぼやぼやしてたらせっかくの蕎麦が伸びちまうだろ、ほら──いただきます」
「い、いただきます……」
噺家の手慣れた所作を横目に見様見真似で手を合わせ、飴屋はつゆを左手に持つ。
「……え、これ普通に……つけ麺みたいな感じで食っていいの?」
「? うん。一応なんか、まずは何もつけずに食べるとか、数本取って三分の一だけつゆにつけて噛まずに飲み込むのが粋とか? そういうやつはあるけど……まぁ好きに食べればいいんじゃない?」
好きにと言われても、正しい作法があるならそれに従った方が良いのではないだろうか。再度聞こうにも噺家はすでに爽快な音を立ててかけそばを啜っている。飴屋は次に厨房の方に助けを求めるが、店主はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべながらこちらを眺めているばかりで一向に助け舟を出してくれそうにない。
気を紛らわせるために蕎麦茶を飲むと、蕎麦の実の香ばしい匂いが鼻に抜け、一層食欲が刺激される。こうして躊躇っていても蕎麦が伸びるだけだ。飴屋は深く息を吐いて心を決め、せいろの上の蕎麦をひと口分、箸で掬い取った。
飴屋の取った蕎麦が恐る恐るといった感じで半分ほどつゆに浸かり、大きく開いた口へと運ばれるのを噺家はじっと見つめている。
「……どうだい?」
にやにやと様子を伺う噺家に飴屋はすぐには答えられず、噛み締めるように咀嚼し、飲み込んでからようやく口を開いた。
「うま……!」
「んふふ、お気に召したかい?」
「うん、なんか、食べたことない味と……食感? つゆも超美味いよ、これ!」
醤油ベースのつゆの中で鰹出汁の香りが味に深みを出しており、それをたっぷりと纏った麺は歯切れの良い食感で、噛めば香ばしい蕎麦の風味がする。あっという間に飲み込んでしまったためもうひと口分拾い、今度は全体をつゆに漬け、ちゅるんと口の中へと送る。
夢中になって蕎麦をかき込む飴屋を噺家は微笑ましい気持ちで見つめつつ、自分の椀へと手を伸ばした。
「そうだろう、美味いだろうこの店は! 天ぷらも食べてごらんよ、ここのは特に絶品なんだ」
「そうだ天ぷら……どれから食べりゃいい?」
「え、好きにしたらいいんじゃない……? ……まぁ強いて言うなら、せっかく2本乗ってる海老天から食べてみたら?」
温かい方のつゆは天ぷらにつけて食べるための『天つゆ』というのだと噺家に教えてもらい、さっそく2本並んだ海老天のうちの片方を浸けてひと口かじる。さく、と小気味の良い歯ざわりのあとで、熱い出汁に包まれた海老の風味が口いっぱいに広がった。
「うま……!!」
「そればっかりだねきみ」
「だって美味いんだもん! こんな美味いもん食うの生まれて初めてだよ、俺」
「うんうん、きみが気に入ってくれたみたいで何よりだよ。……だってさ、大将!」
「そんなに褒めたって何も出ねえぞぉ!?」と厨房から店主の明朗な声が返ってきて、飴屋は顔を赤くする。そういえばここは外なんだったと我に返って、そのままはたりと気がついた。
こんなふうに人前で素を晒すのは、一体いつぶりだっただろう。まだ子供の時分からきな臭い組織に目をつけられて、とにかく下に見られないよう気を緩めずに生きてきた。
元々良かった体格は更に大きく鍛え上げ、初手から相手を威嚇するための胡乱な衣服を選んで着た。幼く見られがちな相貌は男には侮蔑の目を向けられるが、女相手にはこれがよく効いた。生来の派手なオレンジとミントの髪は、より映えるよう毎朝きちんとセットしている。
よく目立つ金色のアクセサリーや、びいどろ色のサングラス、夜の闇を金継ぎで繋いだような大きな羽織り。いつもは更に、どこか潔癖さすら感じるほどの真っ白な中華風のシャツと、そこらの露店市場で買った安物の数珠やネックレス。
そのどれもが飴屋の容姿の異質さを際立てて、どこにいたって異端に仕立てる。だって、飴屋にとってそれらは、自分と混沌の境目を無くすための『衣装』なのだから。
そんな自分が今、大通りから外れた素朴な蕎麦屋にて、こんなにも無邪気に食事を楽しんでいる。この小さな店構えの中に、確かに居場所を感じている。
頭上の柔らかい照明がやけに目に沁みて、ぽつりと浮かんだ未知の感情を誤魔化すために飴屋はまたひと口蕎麦を啜った。
「おぉ、初めてにしちゃ良い啜りっぷりじゃないか……大葉の天ぷら一個ちょうだい」
「やんない」
天ぷらの山を狙う噺家を退けるように飴屋はお盆を自分の方へと引き寄せる。噺家は「けち」と口では言いつつも、にやにやと嬉しそうな笑みが堪えきれていない。
見せつけるように大葉の天ぷらを取ってつゆに浸け、そのまま口に放り込む。さくさくの衣と薄い葉の軽い食感が楽しく、飴屋は夢見心地で咀嚼しながら、羨ましそうにこちらを睨む噺家を勝ち誇ったように見下ろしてやる。
まるで子供の戯れのようだと自分でも思うが、それでも案外悪い気はしなかった。
コメント
1件
ああ、もうもうもう…! 噺家さんの「彼が生きている間に過ごせる時間は案外短すぎる」という一文に、胸がぎゅうっとなりました。種族が違う者同士の恋の切なさが一瞬で滲む……。飴屋の名前を出したときの兄弟子の怯えっぷりと、それからの再会シーンのあたたかさの対比がたまらなかったです。ふたりで蕎麦屋に行く背中、優しい夜だなあ🌙
929
77,185
四月一日 璃
870
#宇佐美リト
Kojigyu
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