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後半ちょっとグロめの暴力シーンがありますが、苦手な方は台詞だけ読んでも内容は分かると思います。今回のセンシティブ要素は主に暴力の方のみです。
文字数の管理が下手すぎて前半と後半の温度差がすごいことになってしまったのでそのうち調整しておきます。
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路地から抜け、それでも駅前からはいくつか離れた小道にて、飴屋と噺家は気ままに喋りつつ蕎麦屋を目指す。点々と灯っていた赤提灯は今やすんなりと息を潜め、無機質な蛍光灯の青白い明かりのみが辛うじて足元を照らし出していた。
噺家は視力の悪い飴屋を気遣ってわざわざ明るい道を選び、飴屋は長い脚をちょこちょこ動かして噺家の歩幅に揃えて歩く。この湿っぽいくせに暑いんだか寒いんだか分からない気候はどうも人肌が恋しくなり、噺家をいつも以上に饒舌にさせた。
「それにしても、きみの活躍はかねがね伺ってるよ。よくやってるねぇ……あ、嫌味とかじゃないんだけど」
「んー……俺としてはあんまり、まだまだ序の口って感じなんだけどな。お前んとこまで届くくらいやれてんならまあ、いいか……」
飴屋は照れくさそうに頬を掻き、サングラスを掛け直す。視力の矯正用でもあるそれは、厄介な相手から容貌を覚えられにくくするための道具でもあった。勝って兜のなんとやら、とはよく言うものだが、飴屋はそれに輪をかけて慎重派らしい。
「さすがにきみの仕事の面についてとやかく聞いたりしないけどさ……最近はどうなの? その、前言ってたみたいな、女性とああだこうだ的なのは……」
「え、……なに、嫉妬? かわいー」
「なっ、そんなつもりじゃ……そうやって茶化すんならこの話おしまいね。聞いた僕が馬鹿だったわ」
揶揄われた途端むくれる噺家に、飴屋は悪戯心が刺激されてやまない。しかしあまりおちょくりすぎて本格的に拗ねられても嫌な飴屋は──と思うのはやらかした前例があるからなのだが──慌てて噺家の方に擦り寄り、往年の友人同士のように豪快に肩を抱いた。
「んはは、冗談だって。なんつうか……自分が惚れた側の立場になってやっぱ色々思うところもあったけど、今更罪悪感とか持ったってどうしようもねえからさ。とりあえずお前が嫌だってことはなるべくやんないようにしてるよ」
「……そっか」
「あれ、まだ怒ってる……? 俺一応、今はちゃんとしたつもりだったんだけど」
「んん、いや……それで、商談だったり何だったりに影響は無いの? ほら、こんなふうにものすごく個人的な僻みできみの商売を邪魔するような真似はしたくないからさ……」
噺家は顔色を伺うようにこちらを覗き込む飴屋の目を見つめ返し、すぐに逸らした。
「あー……まあ、言い方悪いけどさ、ああいうやり方はこう……『手っ取り早い』っていうだけだから? もっと時間をかければ違う方法でも全然いけんの」
「……なんか……クズ男……」
「言葉選べよお前……そんなこと言ったらお前だってあれだからな、言っちゃいけないこと言ったっていいんだぞこっちは!」
「え何だろ、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎とか?」
「おいそっちからライン超えて来んなって」
正装に身を包んでいるとより一層俗世と無縁そうな噺家から放たれたとんでもない単語に飴屋はさっと顔を青くする。スラム育ちの自分でさえ口にしたことのないような下品なスラングを、どうしてこの上品そうな男が知っているんだろうか──そう考えたところで、飴屋の脳裏にひとつ嫌な予感が過ぎった。
「……それ、まさか言われたことがあるわけじゃねえだろうな」
「え? いや別に……え、なんでそんな怖い顔してんの……?」
こちらを見上げた噺家が肩を縮こめたのを見て、飴屋はぱっと口元を覆い隠す。……そんなに表情に出てしまっていたのだろうか。
「ごめん、何でもない。……お前にそんな言葉浴びせた奴がいるんなら、相応しい目に遭わせてやらねえとなって思っただけ」
「怖……急に物騒なこと言わないでよ。僕だって別にそんな箱入りで育ったわけじゃないんだから相手を罵倒する言葉の百や二百知ってるって」
「一つや二つじゃねえんだ……」
「そこら辺はほら、喧嘩するなら手持ちは多いに越したことはないだろ」
「そもそも口喧嘩で済めばの話だけどね」と何てことのないようにからからと笑う噺家。一分の隙もなく整った端正な顔立ちをくしゃりと歪め、耳馴染みの良い落ち着いた低音がひっくり返るような勢いの笑い声。街灯の薄明かりを背に浴びたその姿はいつになく、そう──『人間らしく』見えて、飴屋は呼吸を浅くした。
ずっと守ってやりたいと思っていたこの男は多分、自分が思っているよりもずっと強く、しぶとく生きている。それは言葉の端々から感じる泥臭さであったり、図太さであったり、諦観であったりにしてもそうだ。
きっと噺家という男は、自分が居なくてもいずれは表の世界に行けるのだと思う。まるで泥の中へ根ざして咲き誇る蓮の花のように、辛酸も汚濁も全て自分の糧にして日の光を浴びることができるのだろう。それが飴屋にはひどく眩しく思えて、改めてどうしようもなく噺家が欲しいと思った。
──僧を騙って蓮の花に縋りつく自分はさながら、蜘蛛の糸に群がる罪人だろうか。
「……旦那?」
「あ……ああ、何でもない。ちょっと考え事してただけ」
「ふうん? ……まぁいいや、店着いたよ」
自分を呼ぶ声にはっとして、要らぬ思考を頭を隅へ追いやる。今は余計なことなど考えず、噺家とただ平穏なひと時を過ごしていたかった。
前を歩いていた噺家は足を止め、見てみれば一つ通りから逸れた先に『蕎麦処』と書かれた看板がぼんやりと光っている。奥まった立地も含めてどこか寂れた雰囲気を漂わせるその店だが、通の好みそうな素朴な佇まいでもあった。
長く住んでいても知らないもんだな、と辺りを見渡して、飴屋もその後に続いた。
「や、大将! 客の入りはどんなもんだい?」
「やぁ噺家の旦那、見ての通り閑古鳥が鳴いてら。やってらんねぇや」
「はは、そう言うと思って今日は新しい客も連れてきたんだ。存分にもてなしてやっとくれよ!」
ばしん、と背中を叩かれて、飴屋は咄嗟に会釈をする。普段は態度で侮られないよう頭は下げないと決めているが、あまりにもあっけらかんとした軽快な空気に気圧されてしまった。
見るからに堅気ではなさそうな飴屋にも怖気づくことなく「いらっしゃい」と声をかける店主に、どう答えれば良いかわからず「どうも」と返事をする。普通の飲食店に入ってまともな接客をされることなんて滅多にないものだから、飴屋には作法が分からなかった。
「何だいあんちゃん、タッパの割に肝が小せぇなぁ!」
「だははっ! この人にそんなこと言えんの大将くらいだよ」
「知らないねぇ、俺んとこに来る奴はみんな揃ってありがてぇお客だ。みんなおんなじ、違いはねぇさ……さ、何にする?」
入り口付近のカウンター席へ着くなり暖かい蕎麦茶が出され、息をつく暇もなくそう聞かれる。
自分が知らないだけで、蕎麦屋とはそういうものなのだろうか。困って噺家の方を見てみれば、待ってましたと言わんばかりに壁に並んだメニュー表を指さした。
「せっかくだからあたしが奢ってやるよ。どれでも好きなもん頼みな、旦那」
「は!? いやお前今金無えって言ってたじゃん。俺が出すって」
「やだねェ、こんなときくらい格好つけさせてくれよ。ほら、宵越しの銭は持たねェのが粋ってよく言うだろ?」
「ええ……じゃあ、お前は何にすんの?」
「あたしかい? あたしはいつも、ここに来るときはにしんそばって決めてんだ」
「……」
厨房の方を見てみれば、噺家の言葉通りもうすでに準備が進められているようで、出汁と醤油の煮詰まる良い匂いがこちらまで漂ってくる。どうやら噺家はこの店のよほどの常連らしい。
再びメニュー表に視線を戻す。盛りそば、かけそば、おろしそば、ちからそば──飴屋は一度右から左へ目を通して、それからまた左から右へと戻ってくる。それを何度か繰り返したあとで、観念したように口を開いた。
「……あのさ、俺…………蕎麦屋来んの、初めてなんだけど……」
「は? ……え、はァ゛!? なんでそれ早く言わないの!?」
「や、なんか……ダサいかなって思って……」
「いやいやいや、そういう話じゃないからそれは。じゃ大将! こいつに天ざるひとつやって、海老天二匹乗っけてあげて!!」
「待て待て待てって、お前金無いんじゃねえの!? いやいい、いっちばんシンプルなやつでいいから!」
「それじゃこっちの気が済まないんだよ!! きみみたいな『蕎麦食ってここまでデカくなりました』みたいな顔した男が蕎麦食ったことないのありえないから。マジで」
「何なんだよその偏見……?」
飴屋は慌てて注文をキャンセルしようとしたが、厨房からは天ぷらを揚げるじゅわっと良い音が聞こえてきてしまった。
なるほど、蕎麦は茹だるのが早い上、茹でている時間で天ぷらなども調理してしまえばその分早く提供することができる。そして客側も蕎麦が伸びないうちにと急いで食べるから、蕎麦屋というのは回転率が異様に良いのか。元より急いでいる人間の多い駅前に立ち食い蕎麦なんかが乱立するのも頷ける。
飴屋は重役の付き添いで行った料亭でしか見たことがないような豪華な天ぷらが次々揚がっていくのを眺めながら、どこに活かすでもない蕎麦屋のビジネスについてそんなことを考えていた。
「──はい、お待ちどう」
「や、ありがとうね大将。今日も美味そうだ」
カウンター越しに大きなどんぶりが降りてきて、ふわりと醤油出汁の香りが広がった。にしんの甘露煮は薄い皮がぴったりと身に張り付くまで煮込まれており、琥珀色のつゆに落ちた油がキラキラと輝いている。
それにごくりと喉を鳴らしていると、次は自分の前にお盆が降りてくる。上に乗っているのは皿いっぱいに積まれた天ぷらたちと、せいろに盛られた繊細な蕎麦、褐色の蕎麦つゆと、もう一つ仄かに湯気の立っているつゆ、それから薬味が小皿に少し。
次いで隣に置かれた不思議な形の急須のようなものに困惑していると、噺家が「それは蕎麦湯といってね、蕎麦をいただいたあとのつゆを割って飲むものだよ。……そのまま飲んでも美味しいけどね」と何やら愉しげに教えてくれた。
──美味そうだな。勝手も何もかも分からない飴屋だったが、蕎麦の香りの湯気を浴びながら、ただ漠然とそう思えた。
隣で割り箸を割る音がしたので見てみれば、噺家が片側の箸を口から外しつつ無言でこちらの分の箸を差し出している。
「お前も案外行儀悪いよな」と悪態を吐きつつ飴屋も無言でそれを受け取り、同じようにぱきんと割った。
「何ぼうっとしてるんだい。ぼやぼやしてたらせっかくの蕎麦が伸びちまうだろ、ほら──いただきます」
「い、いただきます……」
噺家の手慣れた所作を横目に見様見真似で手を合わせ、飴屋はつゆを左手に持つ。
「……え、これ普通に……つけ麺みたいな感じで食っていいの?」
「? うん。一応なんか、まずは何もつけずに食べるとか、数本取って三分の一だけつゆにつけて噛まずに飲み込むのが粋とか? そういうやつはあるけど……まぁ好きに食べればいいんじゃない?」
好きにと言われても、正しい作法があるならそれに従った方が良いのではないだろうか。再度聞こうにも噺家はすでに爽快な音を立ててかけそばを啜っている。飴屋は次に厨房の方に助けを求めるが、店主はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべながらこちらを眺めているばかりで一向に助け舟を出してくれそうにない。
気を紛らわせるために蕎麦茶を飲むと、蕎麦の実の香ばしい匂いが鼻に抜け、一層食欲が刺激される。こうして躊躇っていても蕎麦が伸びるだけだ。飴屋は深く息を吐いて心を決め、せいろの上の蕎麦をひと口分、箸で掬い取った。
飴屋の取った蕎麦が恐る恐るといった感じで半分ほどつゆに浸かり、大きく開いた口へと運ばれるのを噺家はじっと見つめている。
「……どうだい?」
にやにやと様子を伺う噺家に飴屋はすぐには答えられず、噛み締めるように咀嚼し、飲み込んでからようやく口を開いた。
「うま……!」
「んふふ、お気に召したかい?」
「うん、なんか、食べたことない味と……食感? つゆも超美味いよ、これ!」
醤油ベースのつゆの中で鰹出汁の香りが味に深みを出しており、それをたっぷりと纏った麺は歯切れの良い食感で、噛めば香ばしい蕎麦の風味がする。あっという間に飲み込んでしまったためもうひと口分拾い、今度は全体をつゆに漬け、ちゅるんと口の中へと送る。
夢中になって蕎麦をかき込む飴屋を噺家は微笑ましい気持ちで見つめつつ、自分の椀へと手を伸ばした。
「そうだろう、美味いだろうこの店は! 天ぷらも食べてごらんよ、ここのは特に絶品なんだ」
「そうだ天ぷら……どれから食べりゃいい?」
「え、好きにしたらいいんじゃない……? ……まぁ強いて言うなら、せっかく2本乗ってる海老天から食べてみたら?」
温かい方のつゆは天ぷらにつけて食べるための『天つゆ』というのだと噺家に教えてもらい、さっそく2本並んだ海老天のうちの片方を浸けてひと口かじる。さく、と小気味の良い歯ざわりのあとで、熱い出汁に包まれた海老の風味が口いっぱいに広がった。
「うま……!!」
「そればっかりだねきみ」
「だって美味いんだもん! こんな美味いもん食うの生まれて初めてだよ、俺」
「うんうん、きみが気に入ってくれたみたいで何よりだよ。……だってさ、大将!」
「そんなに褒めたって何も出ねえぞぉ!?」と厨房から店主の明朗な声が返ってきて、飴屋は顔を赤くする。そういえばここは外なんだったと我に返って、そのままはたりと気がついた。
こんなふうに人前で素を晒すのは、一体いつぶりだっただろう。まだ子供の時分からきな臭い組織に目をつけられて、とにかく下に見られないよう気を緩めずに生きてきた。
元々良かった体格は更に大きく鍛え上げ、初手から相手を威嚇するための胡乱な衣服を選んで着た。幼く見られがちな相貌は男には侮蔑の目を向けられるが、女相手にはこれがよく効いた。生来の派手なオレンジとミントの髪は、より映えるよう毎朝きちんとセットしている。
よく目立つ金色のアクセサリーや、びいどろ色のサングラス、夜の闇を金継ぎで繋いだような大きな羽織り。いつもは更に、どこか潔癖さすら感じるほどの真っ白な中華風のシャツと、そこらの露店市場で買った安物の数珠やネックレス。
そのどれもが飴屋の容姿の異質さを際立てて、どこにいたって異端に仕立てる。だって、飴屋にとってそれらは、自分と混沌の境目を無くすための『衣装』なのだから。
そんな自分が今、大通りから外れた素朴な蕎麦屋にて、こんなにも無邪気に食事を楽しんでいる。この小さな店構えの中に、確かに居場所を感じている。
頭上の柔らかい照明がやけに目に沁みて、ぽつりと浮かんだ未知の感情を誤魔化すために飴屋はまたひと口蕎麦を啜った。
「おぉ、初めてにしちゃ良い啜りっぷりじゃないか……大葉の天ぷら一個ちょうだい」
「やんない」
天ぷらの山を狙う噺家を退けるように飴屋はお盆を自分の方へと引き寄せる。噺家は「けち」と口では言いつつも、にやにやと嬉しそうな笑みが堪えきれていない。
見せつけるように大葉の天ぷらを取ってつゆに浸け、そのまま口に放り込む。さくさくの衣と薄い葉の軽い食感が楽しく、飴屋は夢見心地で咀嚼しながら、羨ましそうにこちらを睨む噺家を勝ち誇ったように見下ろしてやる。
まるで子供の戯れのようだと自分でも思うが、それでも案外悪い気はしなかった。
§ § §
「はあ……美味かったあ……」
「んふふ、きみそれ何回目?」
「いやだってさあ、ほんとに初めて食ったんだもん、俺。お前の落語で物自体は知ってたけどさ……蕎麦って啜るとき、ほんとにあんな音すんだね」
「でしょ。研究してっからね」
再び小道から路地へと戻ったふたりは、緩やかな足取りで大通りへと向かう。この辺りは開発が急速に進んだため道や土地が複雑に絡み合っていて、どこへ行くにも治安の悪い裏路地を介さなくてはならない。
タクシーでも拾って帰ることができれば楽だが、生憎飴屋はこの辺りのタクシー会社から総じて出禁を食らっているため呼ぶことができない。……彼が何をしてそんなことになっているか、噺家には聞く度胸など無かった。
「……そういえばさ、今日急に呼び出しちまったけど、良かった? その格好じゃ用事かなんかあったんだろうし……」
「あぁ、言ってなかったっけ。別に大した用事じゃないよ、ただ──協会の本部に直接、文句を言いに行ってやっただけ」
噺家の言葉を聞いた飴屋はすぐさま顔を険しくする。噺家が一門から冷遇されているという話は聞いていたし、それに黙っているような男ではないことも、上層部に物言いをするためわざわざ正装に身を包む意味も、飴屋はよく知っていた。
「怖い顔しないでよ」と軽く笑って退けた噺家は、しかし平素よりは幾許か眉根に力を入れている。
「いやね、まぁ……結果としては、何の成果も得られませんでしたって感じなんだけど。……あれだよ、ついでみたいに接待とかさせられないだけマシだったかなって」
「……接待?」
飴屋の声が、ワントーン低くなる。しまったと思ったときにはもう遅く、高価そうな革靴は泥水混じりの砂利を踏んで歩みを止めた。
「お前、協会の奴以外とも相手させられてんの?」
「あ、いや……その、」
「本業もさせてもらえねえのに、お前を、そんな扱い……」
そこで噺家ははっと顔を上げる。
てっきり飴屋は、不特定多数の相手に身体を許してしまっている自分に怒り、詰め寄っているのだと思っていた。しかし今の言い分から察するに飴屋の怒りはおそらく、噺家へまともな仕事も与えずに汚れ仕事ばかりを任せている上層部へと向けられている。
きっとそれだけではない。今まで噺家が枕を共にしてきた全ての人間、噺家を見殺しにしてきた全ての人間、そしてそれをどうすることもできない無力な自分自身に対しての怒りが、ぐらぐらと煮え立つ瞳の色からありありと見て取れる。
初めて目にした獰猛な感情を剥き出しにする飴屋に、噺家は背筋が凍りつくのを感じた。
「そ、そんな、怒らないでよ。僕はもう慣れてるし、大丈夫だから……」
「……大丈夫じゃねえよ。慣れちゃ駄目だろ、そんなの。しかも『ついでに』って……そんなふうに消費されていい人間じゃないんだ、お前は、もっと──」
──ばしゃん。
道路横の深い水溜まりを踏む音がして、反射的にそちらに目を向ける。飴屋の背中側に見えたその人影はまるでぼろ雑巾でも纏っているかのような見窄らしい格好で、その癖妙に目を爛々と光らせていた。
「だ、だんなぁ、へへ、やっと見つけた……ねぇだんな、おねがいしますよ、後生ですから……」
「……俺今忙しいの。見て分かんねえ?」
「へ、へへ、わかりますよ。だんな、『やり手』ですもんねぇ。へへ、だからよ、早くきょうのぶんの飴をくれよ。ね、わかるでしょう? わかりますとも、ねぇ、えぇ……」
男が舌を伸ばしながら下品に笑ってみせるたび、公衆便所のようなひどい悪臭が鼻にまとわりつく。目は明らかに焦点が合っておらず、荒い呼吸とともに喋っている最中にも取り憑かれたように両腕を掻きむしっている。言っていることも支離滅裂で、かろうじて意味のわかることは「飴をくれ」という訴えのみで。重度の依存患者だろう、というのは、誰に教えてもらわずとも分かる。
こういった相手への対応に慣れているはずの飴屋だが精神的に余裕のない状態ではそうもいかないらしく、低い声で長くため息を吐いた。
「だから……金が無きゃやるもんもやれねえの。あと今はマジでどっか行ってくんねえ?」
「かね、金は用意します。できるんです。でもね、飴が必要なんですよ。はやく、まずはそれからでしょう。金はよういします。だからはやく、飴、飴を……」
「……うるせえなあ」
ぎぃん、と鈍い金属音がして、噺家は始め何が起きているのか分からなかった。ぱちぱち何度か瞬きをしてようやく、飴屋が男の頭を掴み、手近な配管へと思い切りぶつけた音だと気付く。
副作用で抜けてしまったのか、それとも自分でむしったのか。男の頭皮には所々血が滲んでおり、見るからに質の悪そうな髪もまばらにしか生えていない。それを片手で持ち上げている飴屋は男の足が地面を離れるほどまで掲げると、そのままぱっと手を離した。
べちゃ、と意思のない肉袋が地面を叩く。
「なあ兄ちゃん、言ったよなあ俺。あと三日は待ってやるって。待ってやるっつってんだから、約束くらい守れねえと。なあ?」
「へ、ひひ……わ、わかってるんです、でも、でも……」
「あーー……分かってねえなあ、」
痛覚が麻痺してしまっているのか、この期に及んでへらへらと笑う男の頭を飴屋は再び掴み上げる。噺家の方からはよく見えないが、飴屋が今どんな顔をしているのかは、男の表情が引き攣っていく様子から察することができた。
「こっちもさあ、商売なのよ。覚えてる? 俺がいっっちばん最初にした『お約束』。言えるよなあ、兄ちゃん」
「あ、ぅ……」
「言え」
有無を言わさず返答を促す飴屋の声は聞いたことがないほど低く、怒りと狂気に満ち満ちていた。
「ひ……い、言えるさ、あれだろ、金払いは渋るな、だんながプライベートのときは話しかけるな、あと、このことはだれにも言うな……」
「んー……ちょっと違うなあ。俺がプライベートのときは話しかけるな……それと? あとなんだっけ?」
「それと……? あと、あと……」
腰が抜けたと思しき依存患者の男はこんな目に遭ってもなお飴が欲しいのか、飴屋の近くの地面をひっきりなしに引っ掻いている。思い出せないことに苛立っているのかその頻度は徐々に高くなり、男がぶつぶつ何事かを呟く声と割れた爪が地面で削れていく音だけが、辺りを耳障りに反響していた。
「わかってる、わかってるんですよ、あとひとつ……ああだめだ、あの飴がねえと頭がうまく働かねえ……だんな、お願いですから、飴を──、」
「──時間切れ」
言い終えるが早いか、飴屋は掴んだままの男の頭を勢いよく地面へ叩きつけた。まるで腐った果実が落ちたときのような重たい音がして、男は声にならない悲鳴を上げる。どうやら爪が目に入ったらしく、飴屋が抑えつけている頭の代わりに激しく痙攣する背中を見て、噺家は思わず吐き気を催した。
それでも飴屋は手を緩めることはなくむしろより一層力を込めて地面へ押し付けるので、ミチミチと筋繊維のちぎれる音がたるんだ薄い皮膚の下から聞こえる。それに上げた悲鳴でさえもすぐに声にならない呻き声へと変えられて、被せるように飴屋が口を開いた。
「……俺がプライベートのときは話しかけるな。それと?」
「そ、ぇ゛と……」
「寄って来て良いんだっけ? なあ、俺がお前みたいな奴から金巻き上げてるところをさ、見せていいの? 俺の大事なお友達にさあ……」
「あっ゛、痛だ、いだいぃ……!」
「痛いじゃなくて。近づいていいの? どうなんだっけ」
「だめ、だめです! 近づきもするな、だんなの『ご友人』には、近づかな──」
「絶対に〜?」
「ア゛ッ、ぎィッ……!! ……ぜ、ぜったいに゛っ、近づかない゛ッ!!」
男は口の端に黄色い泡を溜めながら、死に物狂いで絶叫した。妙な臭いがすると思えば男は恐怖のあまり失禁したらしい。
飴屋は薄く笑みを浮かべたまま手を離し、抜けた毛髪とフケと血のついた手のひらをまるで湯呑みに浮いた蝿でも見るような目で見つめ、男の服で雑に拭った。そしてすっと立ち上がったかと思えば、今度は地面と挟むようにして男の顎に足を乗せる。
「なんで分かってるのに破るかなあ。それって契約違反っつの。約束破ったら針千本飲まなきゃいけねえんだって、知ってた?」
「ア゛、がッ……」
「黙ってちゃ分かんねえよ、なあ。じゃあ針千本と同じくらいのお仕置きが必要だよな? なあ、兄ちゃん」
当然男は顎を固定されているのだから喋ることができるはずもなく、ただその場で見悶えすることしかできない。飴屋は徐々に足に込める力を強くしていき、やがて小枝でも手折るような音がして、顔周りのどこかの骨が折れたようだ。
それを飴屋は、無表情で見つめている。
「金が無きゃあ飴はやれない。約束を破れば罰が下る。考えれば分かることだろ? なんで守れねえの? ええ?」
「……ゥ゛、」
男は今更噺家の存在に気付いたらしく、助けを求めるように手を伸ばす。それを男の頭上から、金色の瞳が追いかけていた。
「──どこ見てんだ?」
「あ゛、」
そうして、ペキ、とあまりに軽い音と共に男の顎は二度と閉じなくなった。顎が砕かれようと片目が使えなくなろうと人というのはそう簡単に死ねないらしく、男は地面に嘔吐しながらも泡混じりの喘鳴を上げている。
飴屋は男の身体を蹴り払い、更に重い一撃を喰らわせようとし──その体勢でぴたりと動きをやめる。
「リトくん」
「……テツ、」
「きみは僕とのおしゃべりより、そいつと遊んでる方が楽しいの?」
「……ううん」
「そっか。……じゃあ、もう帰ろうよ」
飴屋の腕を後ろから引いていた噺家は血のついた拳をほどき、きゅっと上から握ってやる。飴屋はそれをどこかぼうっとした目で眺め、連れられるまま足を踏み出す。獰猛な殺意などすっかり消え失せ、瞳孔が開きっぱなしだったびいどろ色の奥の瞳はいつも通りの橙色へと戻っていた。
後ろで男が悶える声が聞こえていたがふたりは一切気にすることなく、じんじんと熱を持った手を繋ぎ目としながら、大通りを目指して歩き続けた。
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コメント
3件
めっちゃすきです、、
お疲れ様でした、第37話読み終えたよ! 蕎麦屋デート、めちゃくちゃ良かった……。初めての蕎麦に無邪気にはしゃぐ飴屋が可愛すぎて、思わずこっちまでにやけちゃった。噺家が奢るって言い張るところとか、天ぷら奪い合うところとか、ほんと微笑ましい。 でも後半の急転直下、やっぱりこわい。依存患者への制裁シーン、飴屋の「どこ見てんだ?」の冷徹さがエグくて、背筋が凍ったよ。そんな中で噺家が「リトくん」って名前呼びで止めるの、ちゃんと飴屋を飼いならせてるのが分かるし、2人の関係性の深さが伝わってきた。 次も楽しみにしてる!