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第264話 帰りたい場所
【異世界・王都外縁/保護施設・夜】
壁だった。
石を積み上げただけの、何の変哲もない壁。
扉もない。
取っ手もない。
施設の見取り図にも、その先に部屋は存在しない。
それでも。
サキのスマートフォンから伸びたreの白い線は、迷うことなく壁の向こうへ続いていた。
「ハレル!」
アデルの声が飛ぶ。
「reを信じろ!」
背後では、ジャバとヴェルニがぶつかっている。
黒い拳。
風。
炎。
衝撃のたびに廊下の石壁が震えた。
「おらぁ!」
ジャバの拳を、ヴェルニが横へ逸らす。
拳は壁へ突き刺さり、石が砕けた。
「相変わらず馬鹿力だな!」
「お前も相変わらずうるせえ!」
ヴェルニが風を叩きつける。
ジャバの身体がわずかに後ろへずれる。
その隙にアデルが〈封縛・座標杭〉を撃ち込んだ。
四本の光杭。
だがジャバは一本を腕で受け、そのまま折る。
「こんなので止まるかよ!」
「止める必要はない」
アデルが答える。
「時間を稼げれば十分だ」
ジャバの表情が変わる。
廊下の奥。
高瀬を連れて逃げるハレルたちを見る。
「逃がすと思うか!」
黒い影が足元から伸びた。
「ヴェルニ!」
「分かってる!」
炎が走る。
影と炎がぶつかり、廊下の中央で黒煙が弾けた。
◆ ◆ ◆
ハレルは高瀬の左腕を支えながら、壁の前まで来ていた。
「本当にここ?」
サキがスマートフォンを見る。
reの線は消えない。
むしろ強く光っている。
リオが壁を叩いた。
鈍い石の音。
「普通の壁だぞ」
『普通じゃない』
イヤーカフからノノの声が飛ぶ。
『今、施設の古い図面を重ねてる』
「何かある?」
『待って……』
数秒。
『あった』
ノノの声が少し上ずる。
『今の建物より前の施設』
『ここ、昔は壁じゃない』
ハレルが振り返る。
「じゃあ?」
『避難通路』
『ただし、途中で閉鎖されてる』
「開けられるのか」
『今の扉としては無理』
ノノが答える。
『でもreが示してるなら――』
その時。
サキの画面に、新しい印が浮かんだ。
《入口》
続いて。
《記録》
ハレルはそれを見た。
「扉を開けるんじゃない」
リオも気づく。
「ここに入口があったことを使うのか」
以前。
匠が残した湾岸旧研究施設でも、似たことが起きていた。
今は存在しない入口。
だが、「そこに入口があった」という記録だけは残っている。
reの白い線が、壁へ触れる。
石の表面が淡く揺れた。
何もない壁に、細い輪郭が浮かぶ。
扉。
「開いた……」
サキが呟く。
完全な扉ではない。
石壁に、過去の入口が一時的に重なっているだけ。
ノノが言う。
『長く持たない!』
ハレルが高瀬を見る。
「歩けますか」
高瀬は顔色を悪くしながらも頷いた。
「……はい」
「行きましょう」
ハレルたちは壁の中へ踏み込んだ。
◆ ◆ ◆
【保護施設・旧避難通路】
壁の向こうは、狭い階段だった。
埃。
湿った石。
何年も人が入っていない空気。
サキが先へ進む。
reの白い線が、足元を照らしている。
その後ろに高瀬。
ハレル。
リオ。
警備局員二名。
アデルとヴェルニはまだ後方に残っている。
「どこへ繋がってるんだ」
リオが聞く。
『施設の南側』
ノノが答える。
『昔は負傷者を外へ逃がす通路だったみたい』
「昔?」
『かなり前』
『今の保護施設ができる前』
セラの声も通信へ入る。
『道そのものには、強い危険は感じません』
『ですが急いでください』
高瀬が歩きながら、突然足を止めた。
「……階段」
ハレルが振り返る。
「どうしました?」
高瀬は壁を見ていた。
「違う」
「何が?」
「ここの階段じゃない」
高瀬は額を押さえる。
「駅の……階段」
呼吸が速くなる。
ハレルはすぐに言った。
「無理に思い出さなくていいです」
だが高瀬は首を振る。
「いや……」
「少しだけ」
「今、分かりそうなんです」
リオが警戒する。
「ノノ」
『見てる』
ノノの声は慎重だった。
『観測痕は少し動いてる』
『でも前みたいな強い外部反応じゃない』
セラが続ける。
『本人の記憶が動いています』
高瀬は目を閉じた。
駅。
ホーム。
仕事帰り。
電車。
スマートフォン。
人の流れ。
「次の駅で……降りる」
以前から繰り返していた言葉。
だが今回は続きがあった。
「乗り換えるんじゃない」
ハレルは黙って聞く。
「帰るために降りるんだ」
高瀬の声が少しずつ変わる。
誰かに言わされている声ではない。
自分の記憶を探している声。
「いつも……同じ駅で降りて」
「改札を出て」
「コンビニの前を通って……」
高瀬の眉間に皺が寄る。
「その先……」
黒い反応が胸元に浮かぶ。
サキのスマートフォンでreが動く。
白い線。
しかし今回は、高瀬の記憶そのものへは触れない。
黒い反応と、高瀬の間へ一本の線を引いただけだった。
《偽の声》
高瀬が息を止める。
頭の中で何かが響いたようだった。
『鍵を待て』
『鍵を持つ者が来れば帰れる』
高瀬の顔が歪む。
「違う」
ハレルが尋ねる。
「何が違うんですか」
「その声じゃない」
「俺が帰ろうと思った理由は……それじゃない」
黒い反応が揺れる。
セラの声が静かに入る。
『続けなくても構いません』
『今、本人の記憶と外から入ったものを分けています』
高瀬は目を閉じたまま首を振った。
「帰りたいんです」
その言葉は、前にも聞いた。
だが。
今度は、その先があった。
「家に」
「俺の家に帰りたい」
胸元の黒い反応が一つ剥がれる。
白い線から外へ押し出され、そのまま消えた。
ノノが息を呑む。
『本人選択、強くなった』
リオが聞く。
「家の場所は分かるか」
高瀬は少し考える。
「全部は……」
「でも」
「駅を出たら、右です」
「大きな道路を渡って」
「川があって……」
「その先に」
そこで声が震えた。
高瀬の目に涙が浮かぶ。
「待ってる人がいる」
誰なのか。
名前までは出ない。
顔もまだ曖昧なのだろう。
それでも。
「帰らなければならない」という命令ではない。
「帰りたい」という自分の選択になった。
ハレルは言った。
「なら、そこへ帰りましょう」
高瀬がハレルを見る。
「帰れるんでしょうか」
ハレルはすぐには答えなかった。
簡単に大丈夫とは言えない。
「帰れる方法を探します」
「でも」
ハレルは続けた。
「あなたが帰りたい場所は、もう分かりました」
高瀬は小さく頷いた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸旧研究施設/臨時分析点・同時刻】
日下部の端末に、高瀬の反応が届く。
《高瀬直人》
《本人一致・上昇》
《帰還意思・明確》
《帰還先記憶・一部回復》
佐伯が現実側の記録を開いた。
「高瀬直人の生活圏と照合します」
勤務先。
利用駅。
交通記録。
失踪前の移動履歴。
高瀬が口にした、
駅を出て右。
大きな道路。
川。
いくつかの要素が一致する。
村瀬が言った。
「本人の記憶と合っています」
城ヶ峰が画面を見る。
「家族への連絡は」
佐伯が首を振る。
「まだ本人確定が完全ではありません」
「それでいい」
城ヶ峰は答えた。
「帰還経路が確保される前に期待だけ持たせるな」
日下部も頷く。
本人確認。
身体。
帰還意思。
帰る場所。
条件が少しずつ揃っている。
その時。
別の警報が画面へ入った。
《保護施設・戦闘反応増大》
日下部の表情が変わる。
「ジャバが追ってきています」
◆ ◆ ◆
【異世界・保護施設/旧避難通路入口】
石壁が砕けた。
ドンッ!
黒い拳が、過去の入口ごと壁を破壊する。
「逃がすかよ!」
ジャバが瓦礫を踏み越える。
その前へヴェルニが滑り込んだ。
「だから、行かせねえって言ってんだろ!」
炎が廊下いっぱいに広がる。
ジャバは腕で顔を覆い、そのまま突っ込む。
「邪魔だ!」
拳。
炎。
衝撃。
ヴェルニの身体が壁へ叩きつけられる。
「ぐっ……!」
アデルの光杭がジャバの足元へ突き刺さる。
「〈封縛・座標杭〉!」
二本。
三本。
四本。
ジャバの足が一瞬止まる。
アデルがヴェルニへ言う。
「立てるか」
「聞くまでもないだろ」
ヴェルニは口元の血を拭う。
「前よりはマシだ」
「なら来い」
「高瀬を追わせるな」
二人はジャバの前へ立つ。
ジャバは舌打ちした。
「面倒くせえな」
そして。
黒い影が一気に膨れ上がった。
◆ ◆ ◆
【旧避難通路・中腹】
その反応を、リオが感じ取った。
右手首。
副鍵が熱を持つ。
「……来る」
ハレルが振り返る。
「ジャバ?」
「多分」
リオは腕輪を見る。
以前の戦いで入った細い亀裂。
まだ残っている。
光は出る。
だが完全ではない。
ノノから通信が入る。
『リオ、副鍵を使わないで』
「分かってる」
『本当に?』
「今回は本当に分かってる」
「今使ったら、向こうから位置を取られるんだろ」
『それもある』
ノノの声が少し低くなる。
『副鍵の出力、前より落ちてる』
『亀裂もそのまま』
『次に強い負荷をかけたら、もっと壊れる可能性がある』
リオは右腕を下ろした。
「分かった」
だが。
その直後。
通路の後方で大きな衝撃音が響いた。
ドン。
一度。
二度。
石の天井から砂が落ちる。
高瀬が振り返る。
「何か来てる……」
ハレルが言う。
「前を見てください」
reの白い線が、通路の先へ伸びている。
もう少し。
出口が近い。
だが。
白い線が突然揺れた。
サキが足を止める。
「re?」
今まで前方だけを示していた線が。
ゆっくりと。
リオの右手首へ向いた。
リオも気づく。
「俺?」
違う。
副鍵。
reは副鍵の亀裂を示している。
白い線が一度だけ強く光る。
《危険》
ノノが画面を見る。
『リオ、気をつけて』
『ジャバの狙い、高瀬だけじゃない』
背後。
黒い影が通路へ流れ込んできた。
その中から、ジャバの声が響く。
「見つけたぞ!」
ハレルたちが振り返る。
遠い通路の向こう。
黒煙の中。
ジャバが立っている。
その後方では、アデルとヴェルニも追ってきていた。
ジャバの視線は、高瀬ではなかった。
まっすぐ
リオの右手首を見ている。
「先にそっちでもいいか」
リオの目が細くなる。
「来てみろよ」
「リオ!」
ハレルが止める。
だがジャバはもう笑っていた。
「その傷」
「前より広げてやるよ」
リオの副鍵が。
小さく。
震えた。
コメント
1件
もう…すごかったです。特に高瀬さんの「帰りたい」が、命令じゃなくて本人の選択になった瞬間、胸が熱くなりました。「待ってる人がいる」って言葉に、彼の人生がちゃんと見えた気がして。あの場面、本当に良かったです。 それとリオの副鍵の亀裂にreが反応して「危険」と表示したところ、ゾッとしました。以前の戦いの傷がまだ癒えてないのに、ジャバが直接狙ってくる…。次が本当に気になります。橘さんの伏線の張り方、毎回巧みですよね。
#溺愛
桜咲かな
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#溺愛
桜咲かな
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