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春の風が、校門前の桜を揺らしていた。
「素の高校」。
生徒の個性を尊重し、自由な校風を大切にしている進学校。
穏やかだけど、どこか不思議な雰囲気を持つその場所に、俺は今日から赴任することになった。
「新任の担任、阿部亮平です。理系科目を担当します。よろしくお願いします」
そう自己紹介したとき、教室の空気が一瞬、ピンと張った気がした。
教壇の上から見る風景に、まだ慣れない。
名前と顔が一致しない生徒たち、騒がしいけどどこか楽しそうな空気。
高校3年生という、受験や進路に悩む大事な時期のクラス。
その担任として任されるプレッシャーが、肩に重くのしかかっていた。
とはいえ、緊張してばかりはいられない。
今日から1年間、このクラスの空気を作っていくのは俺だ。
そう思いながら、教卓に置いた出席簿に視線を落とす。
「佐久間…大介くん、ね」
見た目のインパクトだけは、初日から忘れそうにない。
ちらっと見たら、前の席でにこにこしてピンク髪の生徒。
明るい雰囲気で、クラスでも目立っていた。いかにもクラスの中心人物でムードメーカーって感じ。
でも、それだけじゃない。
なんというか…その笑顔に、妙な懐っこさを感じるというか。
まるで、俺のことを前から知っていたかのような、そんな目をしていた。
気のせいかもしれないけど——。
その隣では、「翔太」と呼ばれている黒髪の男子が、コソコソと何かを話しかけている。
さらにその後ろから、「ふっか〜、ノート貸して〜」なんて声も聞こえてきて、教室はすでにカオス寸前だった。
自由でのびのびしてるのは良いこと。
だけどこの空気をまとめるのが、俺の最初の仕事だ。
「おーい、そこの3人。静かに。初日から注意させないでよね」
冗談めかして言ったら、佐久間くんがこちらを見て、にっこりと笑った。
その笑顔が、やたらと印象に残る。
……うん。悪い子じゃない。
でも、なんか…距離が近いような?
いやいや、気のせいだ。
多分、俺がまだ先生って立場に慣れてないだけ。
と、自分に言い聞かせながら、俺は教室の窓の外を見た。
桜が、まだひらひらと舞っている。
俺の新しい1年が、こうして始まった。
数日が経って、少しずつクラスの顔ぶれもわかってきた。
佐久間くんは、やっぱりというか、誰とでも仲が良くて明るいムードメーカーだった。
でも、俺に対しては、なんというか…少し特別な感じがする。
たとえば、授業が終わった後。
「阿部ちゃん先生〜、これ、ノート取っておいた!黒板のまとめ見えにくかったでしょ?」
と、自分のノートを持ってきてくれた。
見た目以上に意外と
「ありがとう。でも、“阿部ちゃん先生”って……そんな呼び方するの君だけなんだけど」
そう言うと、佐久間くんはいたずらっぽく笑った。
「だって、普通に“阿部先生”って、なんか距離ある感じするじゃん? 近い方が楽しいでしょ?」
……近い方が?
「そ、そうかな……?」
ただのフレンドリーな性格だってわかってる。
でも、ふとしたタイミングで目が合うと、向こうはにっこり笑って手を振ってくるし。
廊下ですれ違うときにも、「あっ!阿部ちゃん先生〜!」って、遠くからでも全力で話しかけてくる。
生徒と先生の距離感って、こんなに近くてよかったっけ?
しかも、たまに黒板にチョークで何か書いていると、後ろからひょいっと覗き込まれることもある。
その距離、ほんの数十センチ。
「え〜、それって試験に出すやつ?」
「いや、まだ出すとは……言ってないけど……」
「ふ〜ん。じゃあ、出るね。メモしよ〜っと」
軽い調子で返されて、こっちは動揺するだけだ。
不自然に距離が近いのは、俺だけがそう感じてるんだろうか?
そんなある日、放課後の職員室で、俺は思わずぽつりと呟いていた。
「……あの佐久間くんって子、俺のこと、もしかして……?」
「ん?」
声をかけてきたのは、隣の席の岩本先生。
体育担当で、俺がここに来てから一番話しやすかった先生だ。
無口だけど、話せばちゃんと聞いてくれるし、相談にも乗ってくれる。
「なんかね、距離がやたら近くて。授業後とか、ちょっとしたことで絡んでくるんだけど……」
「……惚れられてるとか思った?」
図星を突かれて、思わず椅子からずり落ちそうになった。
「い、いやいや!そんなわけ、ないと思うけど……でもちょっと、いやだいぶ、勘違いしそうになるっていうか……!」
岩本先生は、小さく笑った。
「まぁ……あいつは誰にでもそうだから。特別なわけじゃないと思うよ」
「……そう、だよね……」
でもその日の帰り際。
「阿部ちゃん先生、今日もお疲れ様〜!」
って、満面の笑みで教室のドアから手を振ってきた佐久間くんを見て、やっぱりちょっとだけ思ってしまう。
——俺、なんか勘違いしそうなんだけど。
いや、もうしてるのかもしれない……。
―――――
翌週の昼休み。
俺は職員室を出て、久しぶりに外の空気を吸おうと中庭に向かった。
素の高校には、生徒たちが自由に過ごせる開放的なスペースがいくつかあって、中庭もそのひとつだ。
ベンチにはパンを食べたり寝転んだりする生徒の姿がちらほら。
そこで見つけたのは、見慣れた3人組だった。
「……佐久間くんと、渡辺くんに……深澤くん?」
ベンチに寝転んでいるのが佐久間くん、その隣でスマホをいじってるのが渡辺くん、さらにその隣でアイスを食べてるのが深澤くんだった。
「ん? あ、阿部ちゃん先生〜」
佐久間くんが手をひらひらさせて、俺に気づく。
どうやらまた“阿部ちゃん先生”のターンらしい。
「お疲れ〜先生!いい天気っすね!」
と、渡辺くんがにこっと笑ってくる。こういうときの翔太くんの笑顔は、何か企んでいる証拠だ。
「せんせーさぁ、もしかして……気づいてない?」
深澤くんが、わざとらしくニヤニヤして言う。
その一言で、俺の心拍数が跳ね上がった。
「……何を?」
「いや〜、佐久間のことなんだけどさ」
「ちょ、ふっか!やめろって〜!」
慌てて佐久間くんが深澤くんを止めようとする。
だけど、翔太くんまで口を挟んできた。
「いやだってさ、先生のこと、やけに気にしてるじゃん。昨日も、“阿部ちゃん先生今日もネクタイ赤だった”とか言ってたし」
「し、翔太!!マジで言うなって〜〜っ!!」
「……えっ」
固まる俺。
あの笑顔、あの距離感、そして昨日、俺が選んだネクタイの色——
思わず自分の胸元を見下ろす。今日のネクタイも、赤だった。
「……毎日、見てるの……?」
「いやいやいやいや!ちがうちがう!たまたま!たまたま目に入っただけだからっ!!」
佐久間くんが両手を振って必死に否定してくる。
でも、その顔がちょっとだけ赤くなってる気がして、余計に真実味がある。
「お〜い佐久間〜、顔赤いぞ〜?やっぱそういうこと?」
「ちがっ、ちがうってばあああ!!」
翔太くんと深澤くんが悪ノリして、佐久間くんは完全にテンパってる。
その様子を前に、俺の脳内はフル回転だった。
え?やっぱり本当に……?
いや、でもそんなわけないし……
でも、昨日のネクタイの色を覚えてるって……
もしかして、ほんとに……?
「阿部ちゃん先生〜……」
佐久間くんが、おずおずとこっちを見てきた。
「……ホントに、ちがうからね?」
その目が、なんというか……やたら真剣だった。
だけど、その「ちがう」って、どっちの「ちがう」なんだろう。
あぁもう、わからない。
いやでもこれ、完全に俺だけが空回ってるやつ……?
中庭の桜はすっかり散って、緑が顔を出していた。
春のはじまりと一緒に、俺の混乱も始まったらしい。
——佐久間くん、君は一体、俺に何を思ってるんだい?
いや、それよりも。
——俺は一体、君のことをどう思ってるんだ?
そんな問いが、ふわりと胸の奥に芽生えていた。
―――――
新学期が始まって、一週間。
少しずつクラスの空気にも慣れてきた頃、生徒たちから提案があった。
「ねぇ先生〜、新学期っていったら、レクでしょレク!」
「ほらほら、クラスの親睦深める的なやつ〜」
提案者は佐久間くん。そしてその横で腕を組んでうなずいてるのが渡辺くん。
どちらも、やる気は満々。というか、妙にテンションが高い。
「たしかに、最初に仲良くなっておくのは大事かもね。内容は何か考えてるの?」
「あるあるある!“ジェスチャー伝言ゲーム”とかどう?」
「いいじゃん!あと借り人競争もやりた〜い」
「……借り人競争?」
「“〇〇っぽい人”を連れてくるやつだよ。“今日ネクタイが派手な人”とか、“笑い方が変な人”とか!」
「あー、なるほど……って、俺を狙ってるのかい?」
「へへっ、バレた?」
——悪い子じゃないんだけど、ほんと油断ならない。
とはいえ、クラスのみんなも乗り気で、すぐにイベントの日程が決まった。
***
イベント当日。
体育館に集まった生徒たちは、それぞれ思い思いに笑いながらゲームに取り組んでいた。
想像以上に盛り上がっていて、俺も思わず笑顔になる。
「先生、次の借り人競争、一緒に走りません?」
「え、俺も?」
「もちろん!担任なんだからさ〜!思い出作らなきゃ!」
そう言いながら、佐久間くんは俺の腕をぐいっと引っ張ってスタートラインへ。
……その距離感、やっぱり近い。
「よーい、スタート!」
一斉にスタートした生徒たちの中で、佐久間くんはぴょんぴょん跳ねながら紙を引く。
その場で紙を見て、くるっとこちらを向いた。
「……よしっ」
「え、なになに?」
「借りるよ、先生!」
「え?いや、ちょっと待っ——」
佐久間くんは俺の手を取って、体育館のど真ん中まで引っ張っていく。
周囲からは「先生ー!」「阿部先生捕まったー!」と歓声があがる。
ゴールの前でようやく止まった佐久間くんが、紙を掲げて読んだ。
「“今日、一番素敵な笑顔の人”」
…………
……え。
「はい、阿部ちゃん先生、ゴール〜♡」
どよめく体育館。どこからか湧き起こる拍手と笑い声。
でも俺は、顔が熱くなりすぎて、まともに周りが見られなかった。
「ちょっ、え、待って、それって……」
「事実だから?ダメ?俺、けっこう本気で選んだよ?」
ふざけたような笑顔なのに、その目だけはやけにまっすぐで。
何気ない言葉なのに、どうしてこんなにドキッとするんだろう。
「……あ、ありがとう……」
こんなふうに、“ありがとう”を言うのが、なんだか恥ずかしい。
「ね、先生ってさ、顔に出やすいタイプだよね?」
「出てない!」
「うそ〜。めっちゃ赤いよ?」
「それは……運動したからで!」
——これ、やっぱり俺、完全に勘違いするやつじゃない?
なのに、佐久間くんは無邪気な顔で、ニコッと笑ってくる。
俺の混乱なんて知ってか知らずか、まるで「また仕掛けるからよろしくね」って言ってるような、そんな顔で。
春のレクリエーション。
クラスの仲は深まったけど、それ以上に俺の動揺も深まった気がする。
——これは“生徒との距離感”の問題じゃない。
なんだろう……これはもう、“恋”の領域に片足突っ込んでる気がする。
違う、気がするだけ……のはずなんだけど。
―――――――
イベント翌日の放課後。
いつもより少し遅れて職員室に戻った俺は、自分のデスクに座るなり深くため息をついた。
「……はぁぁ……」
「どうした、阿部先生」
落ち着いた低い声。隣を見ると、いつの間にか岩本先生が戻ってきていた。
部活指導の帰りらしく、まだジャージ姿だ。
「……岩本先生、昨日のレク……見てました?」
「見てたよ。盛り上がってたな。いいクラスになりそうじゃん」
「そうなんですけど……」
言いよどむ俺を、岩本先生はちらりと横目で見る。
「……佐久間くん?」
「……やっぱわかります?」
「わかる。昨日の“笑顔が素敵な人”ってやつ。あれ、完全に指名だったろ」
「え!?やっぱりそう見えました!?ていうか、やっぱ“完全に”ですか!?」
俺はガタッと椅子から立ち上がってしまい、周囲の先生たちの視線を集めてしまった。
慌てて小声で座り直し、机に肘をついて頭を抱える。
「……もう、あれ絶対からかわれてる気がしてきて……」
「そうか?」
「えっ」
「俺には、からかってるっていうより……素直だったように見えたけど」
「……いやいやいや、そんな、まさか」
「じゃあ逆に聞くけど——」
岩本先生が、真っ直ぐに俺を見てきた。
「阿部先生は、どう思ってるの?」
「……え?」
「佐久間くんのこと。からかわれてるって思ってるだけなら、そんなに動揺しないでしょ」
その言葉に、胸の奥がズキンとした。
——俺は、どう思ってるんだろう。
「あの子、確かに明るくて、誰にでも懐くけど……でも俺にだけちょっと、なんていうか……距離が近い気がして」
「それは、ちゃんと“好き”って気持ちがあるか、あるいは、阿部先生がそう見えてしまうくらい、その子のこと気にしてるか——どっちかだよ」
「……どっちか、かぁ……」
「で、どっち?」
問いかけられたその瞬間、昨日の佐久間くんの笑顔が、頭に鮮やかによみがえる。
紙を掲げて「“今日、一番素敵な笑顔の人”」って言ったあの無邪気な顔。
そのあと照れたように笑ったのも、すごく、可愛かった。
……って、可愛いって、何言ってるんだ俺は!!
「うわ、ダメだ!考えちゃダメなやつだこれ!!」
また声を上げてしまって、職員室内がざわっとする。
俺は思わず机に突っ伏した。
「……岩本先生、俺、どうしたらいいですか……」
「まぁ、とりあえず落ち着け。あと声小さくな」
岩本先生はいつも通りの落ち着いたトーンで、ペットボトルのお茶を差し出してきた。
「何かあったら、俺が相談に乗るよ。先生が先生のことで悩んでるって、悪いことじゃないからさ」
「……ありがとうございます……」
頭を上げると、岩本先生は静かに笑っていた。
その笑顔に、ちょっとだけ救われた気がした。
でも、その笑顔の直後に言ったひと言は、俺の心を再びざわつかせる。
「……でさ、たぶん佐久間くん、明日も何か仕掛けてくると思うよ?」
「えっ、なんでわかるんですか!?」
「今日、渡辺くんとこそこそ何か話してた。たぶん打ち合わせ」
「マジかよ……!」
俺の“担任としての日々”は、どうやらまだまだ落ち着けそうにない。
——そして、俺の“感情”も。
――――――――――
そして、放課後。
教室に戻ると、佐久間くんは自分の席ではなく、先生用の机のすぐ近くで俺を待っていた。
「わ、先生、来た来た〜。はい、これ飲んで」
「え、これ……お茶?」
「渡辺くんが、“先生またテンパると思うから、冷たいの持ってけ”って。優しいでしょ?」
「……いや、そこまで読まれてたの……?」
「さあ?俺はただ、先生が汗かいてたら嫌だなって思っただけだけど?」
「…………」
完全にペースを乱されている。
そして、さりげなく“気遣い”の形で近づいてくる感じが、もうほんとにズルい。
「で、進路の話って?」
「うん。ちょっと真面目な話するけど、怒んないでね?」
「怒るわけないよ、何?」
「……先生が担任で、俺、よかったなって思ってる」
「え……」
「なんか、俺のことちゃんと見てくれてるっていうか。騒がしいだけじゃない、って思えるっていうか。……ちゃんと、俺を“ひとりの人間”として見てくれてるなって思ったから」
「……佐久間くん」
「だから、俺も、先生のこと……“ひとりの人”として見てる。教師とか生徒とか関係なく」
それ、完全に——
「なーんてね。進路相談っていうか、人生相談?的な?ほら、深く考えないで?」
「いや考えるよ!!考えざるを得ないでしょ!!」
「ふふっ。やっぱ先生って、そういうとこ真面目だよね」
「もう……ほんと……やめてくれ……」
頭を抱える俺を見て、佐久間くんはくすくすと笑っていた。
でもその笑い方は、決してふざけてるだけじゃない。
俺の反応を、ちゃんと見て、心の距離を測ってる。
そんな気がしてならなかった。
そして今日も、俺はひとつ確信した。
——この子は、俺のことを揺さぶってくる。
意図的か、無意識か、それはわからない。
でも俺は今、間違いなく佐久間くんに「翻弄されている」側の人間だ。
それが、教師としてよくないことだとわかっていながらも、心のどこかで——
その揺さぶりに、抗いたくない自分がいるのも、また事実だった。
――――――――――
その日、昼休みに職員室前の廊下で声をかけられた。
「阿部先生〜!」
元気いっぱいの声に振り返ると、そこには1年生のラウールくんがいた。
制服の着こなしはちょっとラフだけど、身長が高くて目立つ生徒だ。
「お、ラウール。どうした?」
「先生に会いに来ました!」
「また大げさなこと言って」
「いや、ほんと。高校入って先生がいるって知って、テンション上がったんだから」
俺は思わず笑ってしまった。
ラウールは中学のときにちょっとした外部活動で顔を合わせたことがあって、そこで何度か進路相談にも乗っていた。
あの時の小さかったラウールが、もう高校生かと思うと感慨深い。
「元気そうでよかったよ。新しい環境、慣れた?」
「まあまあ。でも、阿部先生がいるから安心しました。俺、頑張れます」
「そっか。困ったことあったらいつでも来てよ」
「はいっ!」
そんなやり取りをしていた、その瞬間。
「……ふーん、めっちゃ仲良さそうじゃん」
背後から聞こえたその声に、俺はぴたりと動きを止めた。
「佐久間くん……?」
「どうも〜、同じクラスの佐久間です〜」
ラウールに向けて、笑顔だけどどこか棘のあるトーン。
ラウールも少し戸惑いながらも笑い返す。
「あ、どうも……僕、1年の——」
「知ってる。ラウールくんでしょ?先生と“昔からの知り合い”なんだよね」
「う、うん。まぁ、ちょっとだけ……」
「ふーん、そっかぁ〜。いいなぁ〜、先生と仲良くて。羨ましいなぁ〜」
そのセリフに、俺はつい間に入ってしまう。
「ちょ、佐久間くん。そんな言い方——」
「え、俺なんも変なこと言ってないですよ?ね?ラウールくん」
「えっと、はい……」
ラウールの表情が引きつっていた。
俺も思わず苦笑いしてしまう。
「ラウール、ごめん、またゆっくり話そうか。ちょっと担任業で忙しいからさ」
「あ、はい!また来ますね!」
ラウールが去っていったあと。
「……佐久間くん、さっきの、ちょっと大人げなかったよ」
「そーですかぁ?」
「“そーですかぁ”じゃないよ。ラウールくん、困ってたじゃん」
「……でも先生、あんなに笑顔で話してたじゃん。俺の時より楽しそうだったし」
「えっ……そ、そんなつもりは——」
「別に、怒ってるとかじゃないけどさ」
佐久間くんが、ふいっと目を逸らす。
「なんか、やだなって思っただけ。先生が他の人と楽しそうにしてるの」
その言葉に、俺の心臓が跳ねた。
——“やだなって思った”って。
なんでそんなこと、そんな普通のテンションで言えるんだ。
「……佐久間くん、それ、ちょっとずるいよ」
「え?何が?」
「そうやって、軽く言ってるようで、俺の気持ちかき乱すの。ほんと、ずるい」
「え、そう?俺、素直に言ってるだけなんだけどな」
にこっと笑うその顔は、いつもの無邪気な佐久間くん。
でもその目だけは、真っ直ぐ俺を見ていた。
——なんでこの子、こんなに簡単に俺の心を揺さぶってくるんだろう。
俺は、またしても“教師”としての立場を忘れそうになる。
それくらい、佐久間くんの言葉とまなざしは、ずるかった。
――――――――――――
Side佐久間
最初は、ほんの少しだけ。
あの春、新しい担任が来るって聞いて、生徒の間ではわりとざわついた。
「若いらしいよ」とか、「優しそうだって」とか。
で、初日の朝。教室に現れた阿部ちゃん先生は、見た目通りの“優しそうな新任教師”だった。
でも——
「おはようございます。今日からこのクラスの担任になります、阿部です。……ちょっと緊張してますが、皆さんと一緒に頑張りたいと思ってます」
なんて言ってるわりに、ちゃんと俺たちの名前覚えてて、しかも生徒の話もちゃんと目を見て聞いてくれて。
そのギャップが、なんかおもしろかった。
……だから、ほんのちょっとだけ、からかってみようと思った。
ほんのちょっとだけ。
でも。
——気づいたら、俺、毎日先生の反応を見てる。
ちょっと意地悪な言い方をしても、ちゃんと真面目に返してくれるところとか。
俺がふざけても、否定せずに笑ってくれるところとか。
なんなら、困った顔すら可愛く見えてきて。
気づいたら、話しかけるのが日課になってた。
そんなとき——
「阿部先生〜!」
聞き慣れない声。
ちょっと高めで、ハキハキしてる。
なんだ?って思って近づいてみたら、先生が知らない1年と楽しそうに話してた。
あいつ、背高いな。顔も整ってるし、なんか……先生と距離近くない?
え、なに、先生笑ってるじゃん。俺といる時より、自然に笑ってない?
なんかさ、その顔、俺、見たことないんだけど。
——なんでそんな顔、あいつに見せてんの。
「……ふーん、めっちゃ仲良さそうじゃん」
気づいたら、俺の口から出てた。
自分でもちょっと驚いた。
でも止まんなかった。
止めたくなかった。
阿部ちゃん先生が、あいつに気を許してるように見えたのが、なんか、無性に……イヤだった。
ラウールって言うらしい。
先生の昔の知り合いらしい。
優秀で、礼儀正しくて、かわいげもあって——
……全部、俺にはないやつじゃん。
「……でも先生、あんなに笑顔で話してたじゃん。俺の時より楽しそうだったし」
そんなこと、言うつもりなかった。
でも言っちゃった。
そしたら、先生が言った。
「……佐久間くん、それ、ちょっとずるいよ」
その言葉が、ずしっと胸に残った。
ずるい。俺が。
じゃあなんで、こんな気持ちになるんだろう。
俺、ただふざけてただけなのに。
ただ先生をからかってただけなのに。
……でも、あいつと話してるのを見た時、心臓がぎゅってなった。
その顔、俺が見たことない表情なのが悔しかった。
俺の知らない先生がいるのが、なんか、嫌だった。
——ああ、これ、もしかして。
俺、先生のこと——
「好きになってんのかな、俺……」
ぽつりと自分の胸に呟いた声に、自分でびっくりした。
でも、それがやけにしっくりきて。
今までの全部に、答えが出た気がした。
ふざけてただけじゃない。
軽い気持ちじゃない。
俺、たぶん——ほんとに、先生のことが好きになってる。
それに気づいた瞬間、世界が少しだけ変わった気がした。
そして次に浮かんだのは——
「……絶対、ラウールには負けないから」
そんな言葉だった。
――――――――――
Side阿部
その日、教室に入った瞬間、なんとなく違和感を覚えた。
朝のホームルーム前、まだ全員が揃っていない時間。
いつもなら誰よりも騒がしくて、教室の中心にいるはずの佐久間くんが——
「……おはようございます、先生」
妙に丁寧な挨拶で、俺の席のすぐそばに立っていた。
「お、おはよう、佐久間くん……?」
「先生、今日もネクタイの色、似合ってますね。春っぽい!」
「え、あ、うん……ありがとう」
「それに今日、ちょっと髪型いつもと違いません?セット変えました?」
「いや……寝癖直しただけだけど……?」
「へぇ〜、でもイイ感じです。爽やかって感じ?」
……なんだこの子。
朝からテンションおかしい。褒めすぎ。
っていうか、そんなじっと見られると恥ずかしいんだけど。
「……なんか、今日はやけに機嫌いいね?」
「え?いつも通りですよぉ〜?ね、ふっか」
「……いや、今日は明らかにおかしいだろ」
深澤くんが苦笑いしながらツッコミを入れる。
隣にいた渡辺くんも、ため息まじりにぼそっと呟く。
「……朝から“作戦実行中”ってうるさかったからな……」
「え、ちょ翔……!」
「えっ?作戦……?」
俺が思わず聞き返すと、佐久間くんがあわてて渡辺くんの口を塞ぐ。
「な、なんでもないです!ただのイメチェンですイメチェン!」
「いや、先生への“好感度爆上げ作戦”だろ」
「ふっかぁぁぁぁぁあ!」
深澤くんの口は押えられなかったらしく、佐久間くんの顔が真っ赤になる。
……なにそれ。
好感度……って、俺に対して……?
「さ、佐久間くん……それって、どういう意味?」
「え、え、えーっと……」
ごまかすように、くるくる手を回してから、彼は小さく笑った。
「先生に……もっと見てもらいたいな〜って。俺、今日、頑張ってるから」
「……」
その言葉に、思わず言葉が出なかった。
軽いようで、ちょっと真剣な顔。
ふざけてるようで、どこか照れたようなまなざし。
……ずるいよ、本当に。
俺は教師で、生徒にそんな気持ち持っちゃいけないのに。
けど、そんな佐久間くんの言葉に、またしても心を揺さぶられてしまう。
「……そ、そういうのは、からかいでもやめてよね。先生、真に受けるよ?」
「……じゃあ、真に受けていいように、もっと頑張ります」
いつもは軽口ばかりの佐久間くんの、その一言は。
たぶん今まででいちばん、まっすぐだった。
俺の心臓は、またしても忙しく鼓動を打ち始めた。
―――――――――――
最近、佐久間くんが変わった。
いや、正確に言えば「変わろうとしている」のかもしれない。
いつものふざけた笑顔も、軽口も、変わらずそこにある。
でもその奥に、妙にまっすぐで、真剣なまなざしが隠れていて。
まるで「俺を見て」って言ってるみたいで。
そして——
あの朝の、ちょっと恥ずかしい“好感度爆上げ作戦”発言。
冗談だろう、と思ったけど、あの時の顔は……ほんの少しだけ、真剣だった。
あれ以来、彼を見るたびに、心がざわつく。
授業中、何気なく黒板の方から視線を感じることがある。
そっと見返すと、佐久間くんと目が合って、彼はにこっと笑う。
なんてことない、いたずらっぽい笑顔。
——なのに、どうしてこんなに、心臓が跳ねるんだろう。
放課後。職員室で一息ついていた時、ふいにそんな自分に気づいてしまった。
「……俺、なに考えてるんだろう」
教師だ。
しかも担任だ。
生徒に、しかもまだ子どものような高校生に、そんな気持ちを向けるなんて——
いや、違う。
俺は別に、佐久間くんのことをそういう目で見てるわけじゃ……
たぶん……きっと……
……でも。
……あの子に、少しだけ、期待してしまってる自分がいる
それが一番怖かった。
職員室の窓から見えるグラウンドでは、部活帰りの生徒たちが楽しそうに走っている。
そんな日常の風景の中に、彼の笑い声が紛れている。
あの笑い声を聞くと、なんだかほっとする。
それが、俺の一日をちょっとだけ明るくしてくれる。
そんな存在になってしまっていることに——
俺は今さら、気づいてしまった。
「……ほんと、ずるいよ、佐久間くんは」
小さく呟いて、深いため息をついた。
心に芽生えた感情に、まだ名前はつけられない。
でも、その存在は確かにあって、日々、少しずつ大きくなっている気がする。
——これは、絶対に気づかれてはいけない。
でも、気づかれてしまったら——どうなるんだろう。
そんなことを考えている時点で、もうだめなのかもしれない。
それでも俺は、明日もまた担任として、教室に立たなきゃいけない。
佐久間くんの、まっすぐな目を正面から受け止める覚悟なんて——
まだ、きっとできないまま。
――――――――――
「先生、今日のプリント、これで合ってますか?」
「うん、ラウールくん、それで合ってるよ。さすが、早いね」
「えへへ、先生の授業、わかりやすいからですよ」
そんな会話は、最近ではもう日常の一部になっていた。
休み時間も、放課後も、何かと理由をつけて職員室にやってきては、俺の席のそばに立ってにこにこしているラウールくん。
成長してもこうして懐いてくれるのは嬉しいけど……。
『……ラウール、今日も阿部先生のとこかよ』
『え、もしかして、あれって……付き合ってんじゃないの?』
——そんな噂が、いつの間にか、生徒の間に広がっていた。
職員室でも、年配の先生が冗談めかして言ってくることもあって、俺としては本気で焦っている。
「違います! そんなこと、あるわけないじゃないですか!」
って、何度言っても、
「でもあの距離感はどう見ても……」「先生、結構顔赤かったしな〜」
なんて言われる始末。
もちろん、教師としてそんな誤解を生むのは問題だ。
だから最近は、少しずつラウールくんとの距離を取るようにしている。
けれど——
「先生、最近なんか、よそよそしくないですか?」
ラウールくんのその一言が、ちょっと胸に刺さる。
「ごめんね。あんまり生徒に勘違いされると困るから、少し気をつけようと思って」
「……じゃあ、やっぱり噂、気にしてるんだ」
ラウールくんは、少し寂しそうに微笑んだ。
その日の放課後。
「……なに、見てんの?」
ふいに教室のドアから声がして振り返ると、そこにいたのは佐久間くんだった。
「さっきの……ラウールのこと?」
「……あ、うん。ちょっとね」
「また、仲良くしてたなぁ〜って思ってさ」
その言葉は、いつものふざけた調子に聞こえたけど——
なんとなく目が笑っていなかった。
「……あの噂、佐久間くんも聞いた?」
「うん、まぁ。知ってる。ていうか、誰だって気づくっしょ、あの感じ」
「……ほんと、困ってるんだよ。ラウールくんに悪気はないんだけど……」
「あー、悪気ないのが一番タチ悪いやつじゃん」
佐久間くんがぽつりと呟いた。
その言い方が、なんだか刺さる。
「……もしかして、気にしてる?」
俺がそう尋ねると、彼はちょっと目をそらして、腕を組んだ。
「……別に。どうでもいいけど」
「そう?」
「うん、どうでもいいよ。先生が誰と仲良くしようが自由だし」
「……」
「……でも、先生が“あの噂”を完全に否定しないと、俺は……なんか、ずっと落ち着かないかもな」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「な、なんで?」
「……さぁ?なんでだろうねぇ〜?」
そう言って、ふいに笑った佐久間くんは、どこか寂しげで——
けれど、どこか怒っているようでもあった。
それが、自分のせいだと思うと、どうしようもなく胸が締め付けられた。
ラウールとの距離も、佐久間くんのまなざしも。
どちらも教師として受け止めるには、少し重すぎて、苦しくて。
でも——
「……ちゃんと、否定するから」
「ん?」
「変な噂が立たないように、ちゃんと話しておく。俺は、生徒とそういうのは……」
そこまで言って、喉がつかえた。
“絶対にない”って、言い切れない自分がいた。
その“迷い”を、佐久間くんに悟られた気がして——
視線を外すと、彼がふっと笑った。
「……じゃあ、俺も……もっと頑張んなきゃだね」
「……え?」
「だって先生、“生徒とはそういうのない”って言い切らなかったじゃん」
「さ、佐久間くんっ……!」
からかうように笑いながらも、彼の目は、どこまでもまっすぐだった。
本気なのか冗談なのか、もう、わからない。
でも、そんな彼のまなざしから目を逸らせない自分がいる。
——やっぱり俺は、ずるい大人だ。
―――――――――
Side佐久間
(なんなんだよ、俺)
夜のベッドの中、天井を見上げたまま、何度目かわからないため息をつく。
昼間のことが、頭から離れない。
——「先生が“あの噂”を完全に否定しないと、俺は……なんか、ずっと落ち着かないかもな」
あんなこと、よく言えたよな。
しかも「どうでもいい」なんて、嘘ついて。
全然どうでもよくなんかねぇし、むしろ、気になって気になって、授業どころじゃなかった。
休み時間、ラウールがまた阿部先生のところに来てるの見て、
俺、知らんうちにボールペンめっちゃ折り曲げてたし。
(……マジで、なんなんだよ)
最初はほんとに、ちょっと面白そうだなって思っただけだった。
新任の先生ってなんかピリピリしてて、生真面目で、それがまたからかい甲斐ありそうで。
それに、顔も整ってて、ちょっといじったらすぐ照れるとことか、反応かわいくて。
でも——
そのうち、どんどん目で追うようになって。
ふとした時に視線が合うと、俺のほうが目逸らすようになって。
今日だって、本当は「気にしてない」わけじゃなかった。
ラウールのことも、あいつが先生にべったりなのも、前から気づいてた。
だけど、噂になるって聞いた瞬間——
なんか、自分でもびっくりするくらい、胸がズキッとした。
……あんな顔、してほしくなかった。
自分じゃない誰かに、あの先生の笑顔を向けてほしくなかった。
(そっか……俺、先生のこと……)
なんとなくは分かってた。
でも、ちゃんと認めたのは、今日が初めてだったかもしれない。
俺は今、阿部先生のことが、好きだ。
もちろん、生徒と教師って立場なんか、わかってる。
冗談で済ませてくれるうちは、きっと先生も笑ってくれる。
でも——
(俺、あの人の隣にいたいって、思ってんだ)
冗談じゃなくて。
ふざけてなんかなくて。
好きな人が他の誰かに取られるって思ったとき、
こんなに苦しくなるんだって、今日初めて知った。
……次は、ちゃんと伝えよう。
笑ってごまかしたりしないで。
「どうでもいい」なんて、言わないで。
俺のこの気持ちが、本物だってこと、ちゃんと伝えよう。
そう思ったら、少しだけ、心が軽くなった。
——でも。
(……その前に、先生の気持ち、俺の方、向いてくれるかな)
天井を見上げたまま、そっとまぶたを閉じた。
―――――――――
(……別に、ラウールのことなんか気にしてない)
今日も、廊下の角を曲がった先で、ラウールが先生と話してるのを見かけたけど。
俺は気にしてない。気にしてないし、嫉妬なんてしてない。
だって、今日は——
「先生、ちょっといいですか~?」
夕方、職員室。あえて人の少ない時間帯を狙って、声をかけた。
阿部先生が、顔を上げて笑った。
「おっ、佐久間くん。どうしたの?」
「いや、実は……勉強のことでちょっと相談があって」
「……え、勉強?」
明らかに意外そうな顔をされて、ちょっとムッとする。
「なんだよその顔、俺だってたまには真面目にやろうと思うんだからな」
「いやいや、ごめんごめん。そうだよね、うん、偉い偉い!」
にこにこ笑うその顔を見て、つられてこっちも笑っちまいそうになる。
(ずるいよな、あの笑い方)
「……で、実は、次の模試でちょっと目標あるんすよ」
「おっ、それはまた前向きな発言だね。どの科目?」
「英語。阿部ちゃん先生の得意分野っしょ?」
「まぁね〜、任せなさい!」
そう言って、阿部先生はノートと資料を引き寄せて、机の横のスペースをポンポンと叩く。
「ほら、ここ座って。じゃ、今日は長文読解からいこっか」
(……よし、作戦成功)
勉強って名目があるだけで、堂々と隣にいられる。
顔近づけても、「先生、ここわかんないで~す」って甘えても、不自然じゃない。
本当にちょっとは勉強するつもりだけど、それ以上に、こうして先生と一緒にいる時間が、何よりの目的。
「ここはね、“however”ってあるから、その前と後ろが逆の意味になるの。見て?」
「ふむふむ……なるほどなるほど〜」
「うそでしょ、絶対今“ふむふむ”って流したでしょ」
「ばれた? でもちゃんと聞いてるってば」
「じゃあ問題出すよ、“nevertheless”の意味は?」
「……えーと、“ねばねばしてるやつ”?」
「もー!」
そうやって笑ってくれる先生が、好きだ。
こうしてふたりでいる時間が、もっと増えたらいいのにって、思う。
ふと、先生の机に置かれてたジュースの缶が目に入る。
さっきラウールからもらってたのを俺は目撃してしまった。
でも、口には出さない。
だって今日は、俺が先生の隣にいる時間だから。
俺は俺のやり方で、ちゃんと近づくから。
ふざけながらでもいい。
笑い合いながらでもいい。
少しずつ、先生の“特別”になっていくんだ。
今日の俺は、ちょっと真面目モードだからな。
――――――――
放課後、職員室。
今日、模試の結果が返ってきた。
英語の成績表を手にした瞬間、正直、自分でもちょっと驚いた。
(……え、偏差値、上がってんじゃん)
しかも、10以上。
何かの間違いかと思って二度見したけど、ちゃんと俺の名前が書いてある。
たぶん、あの日からだ。
阿部先生と勉強するようになって、最初は“会う口実”みたいなもんだったけど——
気づいたら、先生が褒めてくれるのが嬉しくて、
「次も頑張ろう」って、自然と思うようになってた。
(……ま、先生に見せたらちょっと驚くかな)
「先生〜、俺の成績、見てみ?」
いつもの調子で声をかけて、英語の模試結果をヒラヒラと振ってみせた。
「ん? 見せてみ……えっ!?」
明らかに、阿部先生の目がまん丸になる。
「……これ、佐久間くんの?」
「そーですけど」
「えっ、すごくない!? 偏差値、こんなに伸びてるじゃん! 何があったの!?」
「そりゃ〜……まぁ、先生のおかげっすよ」
「……え?」
「だってさ、先生が教えてくれたから、ちょっとやってみるかって思って。
なんか、ちゃんと向き合ってくれたじゃん、俺のこと」
俺はなるべく、ふざけすぎないように。
でも、照れ隠しの笑顔は崩さずに。
「だから俺も、ちゃんとやってみようって思ったんだよ」
しばらく無言になった先生が、ふっと目を細めて笑った。
「……嬉しいな、それ。ほんとに、嬉しいよ」
その声が、なんかいつもより優しくて、
思わずこっちの胸がドキッとした。
「俺、今まで教師やってきて、“ちゃんと向き合ってくれた”なんて言われたの初めてかも」
「え? マジで? あんなに丁寧に教えてくれるのに?」
「いや〜……佐久間くんが、そう言ってくれるのが、特別なんだと思う」
「……特別?」
先生のその言葉に、思わず息を呑んだ。
阿部先生も、自分で言ってからちょっと照れたように目を逸らした。
「……あっ、ご、ごめん。変な意味じゃなくて」
「変な意味じゃなくても、俺は嬉しいけどね」
「……もー、そういうとこだよ」
でも、なんとなく——
今日の先生の笑顔は、いつもより少しだけ近くて、柔らかくて。
それだけで、俺はまた次の模試も頑張れそうだなって思った。
(……ねぇ先生、そろそろ、気づいてよ)
俺がふざけてるように見せながら、ずっと、
先生だけを見てるってこと。
——“好き”って気持ち、もう隠すの、けっこう限界なんだけど。
――――――――
Side阿部
職員室の窓から見えるグラウンドでは、まだ部活の掛け声が響いていた。
俺はというと、模試の成績一覧に目を落としたまま、さっきの出来事を思い返していた。
——佐久間くんの、あの言葉。
「先生が教えてくれたから、ちょっとやってみるかって思った」
「ちゃんと向き合ってくれたじゃん、俺のこと」
ふざけたような言い方だったけど、
どこかまっすぐで、真剣で。
不意打ちのように、心に残っていた。
「……特別なんだと思う」
——あのとき、自分でそう言っておきながら、慌てて打ち消した。
(変な意味じゃない)
そう言いながら、俺の中の“何か”がざわめいていた。
彼は生徒で、俺は教師。
それは絶対に揺るがない立場で——
だからこそ、“特別”だなんて、思っちゃいけない。
……はずなのに。
その日の帰り、教室に荷物を取りに行ったら、佐久間くんがまだ残っていた。
「あれ、佐久間くん。まだいたんだ」
「あー、阿部ちゃん先生!どもども〜。今プリント探してたとこ〜」
「忘れ物?」
「そう、たぶんあのへん……お、あったあった。あざっす、阿部ちゃん先生の声で気配察知できたわ」
「超能力者か」
「つか先生、今日ちょっと顔赤くなかった? 風邪? オレのせい? どっち?」
「どっちでもないよ」
「そっか〜。……じゃあさ、どっちかって言ったら“オレのせい”であってほしいなって思ってたんだけどな〜?」
冗談まじりの声。
いつもの佐久間くん。
でも、その目だけが、まっすぐだった。
ふざけてるようで、ふざけきれない言葉を放ってくる。
先生と生徒。
それ以上でもそれ以下でもない関係のはずなのに、
心が、少しだけ——ざわついた。
「先生」
佐久間くんがふいに近づいてきて、少し覗き込むように顔を寄せた。
「ちゃんと見ててね? オレ、けっこー頑張るからさ」
「……うん」
「でも、頑張る理由は、“受験”だけじゃないから」
にやっと笑って、佐久間くんはドアに向かって歩いていった。
最後にこちらを振り返って、軽く手を振る。
「じゃ、また明日〜!」
その背中を見送ったあと、俺は静かに席に戻る。
心臓が、まだ少しだけ速く打っていた。
(……これって、ただの“教師として”の気持ち、だよね?)
いや、違う。
どこかで、もうわかってる。
彼の言葉が、表情が、距離が。
生徒としてじゃなく、“ひとりの人”として胸を打っていることを。
……自分が今、少しずつ、踏み込んではいけない線を越え始めていることを。
でも。
——それでも、彼の言葉を“嬉しい”と感じてしまう自分を、止められなかった。
――――――――――――
職員室の隅、窓際の席。
午後の陽が差し込むその場所に、岩本先生は今日も静かに書類に目を通していた。
俺は手にした成績表を見つめたまま、ふと、話しかけてみる。
「岩本先生、ちょっといいですか?」
「ん? どうした?」
「これ……佐久間くんの模試の結果なんですけど」
そう言って、彼の前に英語の成績表をそっと差し出す。
「……お?」
受け取った岩本先生の目が、珍しく少しだけ見開かれた。
「すごいな。こいつ、こんなに伸びるとは思わなかった」
「ですよね。僕もびっくりしました。
少し前から放課後に自習に付き合ってたんですけど……真面目に取り組んでて」
「……あいつのこと、ずっと“やればできる子”って思ってたけど、まさか本当にやるとはな」
「やればできる子、だったみたいです」
思わず笑ってしまったけど、心のどこかで誇らしかった。
ふざけているようで、でも本気の眼差しで勉強に取り組む姿を、俺は知っている。
そんな佐久間くんを、もっと伸ばしてあげたいと自然に思った。
「なあ、阿部」
「はい?」
「……お前が通ってたとこ。あの大学」
「えっ」
「今の伸び方見てると、目指せるかもなって思ってさ。もちろん本人次第だけど、指導次第でもある」
「……まさか、そんな」
一瞬、現実味がなかった。
でも次の瞬間には、佐久間くんが頑張って英単語帳を開いていた顔や、
模試の結果を照れながら見せてくれた姿が浮かんできた。
(——本当に、行けるかもしれない)
彼の努力が、ちゃんと続いていけば。
この先も、サポートし続けることができれば。
「……僕、もう少ししっかり見てあげようと思います」
「それがいい。阿部なら、あいつもうまくついてくるだろ」
小さく頷きながら、手の中にある成績表を見つめる。
佐久間くんの名前の横に並んだ、予想以上の数字。
その先にあるかもしれない未来に、
彼が手を伸ばすなら——俺は、その手を引く覚悟を持たなければならない。
“教師として”の責任と、
それ以外の気持ちの間で揺れる心を、静かに抑えながら。
――――――――――
放課後の教室。
夕陽が差し込む窓際に、佐久間くんの姿があった。
彼は今日も、少しだけ遅れて残っていた。
机の上に広げた英語のプリントを、何やら悩んだ顔で見つめている。
「佐久間くん、集中力切れた?」
「ん〜……先生に見とれてただけ」
「……はいはい、集中戻して」
いつもなら軽く受け流せるようなその言葉に、
今日はなぜか少しだけ、胸がざわついた。
思い浮かべるのは、昨日の岩本先生との会話。
——あいつ、阿部が行ってた大学も目指せるかもな。
その言葉がずっと頭に残っていた。
だから俺は、机に腰かけながら静かに切り出す。
「……佐久間くん、ちょっと真面目な話してもいい?」
「え、先生が真面目な話……やべーやつ?」
「違うよ」
少し笑いながらも、真剣な目で彼を見る。
「この前の模試、すごく良かった。……頑張ったよね」
「まーね。先生が見てくれてたから、ちょっとやってみようかなって」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
けれど今は、“教師として”の立場を忘れずに話さなきゃいけない。
「実はね……その成績を見て、岩本先生が言ってたんだ」
「ん?」
「僕が通ってた大学も、目指せるかもしれないって」
「…………えっ?」
佐久間くんの目が、ぱちんと開かれる。
まるで冗談みたいに笑うのかと思いきや、彼は真顔のまま、言葉を探すように口を開いた。
「……それって、もし俺がその大学行けたら——」
「うん?」
「先生と、ずっと一緒にいられるってこと?」
「……え?」
思わず、返事が遅れた。
彼の言葉は、あまりにまっすぐで、あまりに——危うかった。
「だってさ、大学って先生が通ってたとこなんでしょ?
なんか、それってさ、“ゴール”が先生とこにあるって感じして、よくない?」
ふざけてるようで、どこか真剣。
その目が、何を考えているのか測れなくて、心が揺れる。
「……それは、ちょっと違うかな」
そう答えるのがやっとだった。
けれど佐久間くんは、ふっと微笑んだ。
「ま、違ってても、オレはそう思って頑張れるから。……あっそうだ!先生!」
「じゃあさ」
教室に静けさが戻ったかと思った瞬間、佐久間くんが、まるで雑談の続きをするように口を開いた。
「もし受かったら——俺の言うこと、なんでも聞くっていうのは?」
「………………」
俺は固まってしまった。
時間が止まったような感覚。
「な、んてね?冗談冗談〜〜。……って思ったでしょ、今」
「いや、あの、えっ……いや、え?」
「え、ってなってる先生の顔、見たくて言っただけ。でもさ、ちょっと本気だったらどうする?」
にこにこと笑ってるその顔に、悪意はない。
けど、無邪気さと裏腹に、その言葉には“明確な狙い”があるように思えた。
(……この子は、どこまでわかってて、こういうことを言ってるんだろう)
「……佐久間くん」
声が少しだけ低くなってしまった。
けど、それでも彼は俺の目をしっかり見ていた。
「何でもって、たとえば?」
「んー、そうだな〜。
“先生、今日一緒に帰ろう”とか?」
「……放課後に一緒に帰るのは、ちょっと問題あるかもしれないよ」
「そっかー……じゃあ、“勉強ってことで一緒にカフェ行こう”とか?」
「それもだめ」
「え〜〜〜。じゃあ“俺のことだけ見てて”とか?」
「それは……」
言葉が詰まる。
(そんなの……今だってもう、十分すぎるくらい——)
「ねぇ先生」
佐久間くんが、ぐっと身を乗り出す。
「受験、がんばる。だから……ご褒美、考えといてよ?」
「ご褒美って……」
「俺が本気でやったら、先生だって本気で返してくれるでしょ?」
「……教師と生徒の関係だよ」
「うん。でも、来年には卒業するじゃん?」
「……っ」
その笑顔には、どこか寂しさも混じっていた。
(冗談のように聞こえるけど——本当は、どれも“本気”なんだろうな)
ふざけて見える態度の中に、彼のまっすぐな気持ちが混じっている。
それが、怖かった。
もしも、彼の期待に“教師として”の対応しかできなかったら。
もしも、俺の中のこの気持ちが“教師”ではいられなくなったら——。
「……じゃあ、ひとつだけ」
「ん?」
「受かったら、そのときにもう一度、話そう。
……“ご褒美”のこと」
彼は一瞬、目を丸くして——すぐに、いたずらっぽく笑った。
「やっば、先生、今の録音しときゃよかったな〜〜」
「……もうっ、からかわないの!」
「え、からかってないけど?」
その悪びれない笑顔が、また俺の心を揺らす。
……こんなに心をかき乱す生徒、他にいるわけない。
けどそれでも——この距離を保たなきゃいけないのが、教師って仕事なんだ。
(……卒業まで、あとどれくらいだっけ)
カレンダーを思い浮かべながら、俺は小さく、ため息をついた。
——それまでに、この気持ちがどこへ行くのか。
俺にも、わからない。
――――――――――――――
Side佐久間
放課後の教室。
ガラガラと周りの席が片づいて、だんだん人が減っていく時間。
俺はまだ、机にプリントを広げたまま、赤ペン片手に英文と格闘してた。
(マジでムズいんだよな、関係代名詞って……“who”だっけ?“that”?)
ぶつぶつ独り言を言いながら、眉間にしわを寄せる。
たぶん今の俺、めちゃくちゃ真剣な顔してる。らしくないくらいに。
でも、別に誰に見せるつもりもなく、ただ集中してた——そのとき。
「えっ、佐久間が勉強してる……!?」
思わず、ビクッと肩が跳ねた。
聞き慣れた声に振り向けば、教室の入り口に渡辺とふっか。
「え、なに、ドッキリ?カメラある?」
「ふっか、あの机の下見て。爆弾とかあるかも」
「おい、殺すな俺を」
ノリノリで驚いてくる二人に、ちょっとムカついて、赤ペンでプリント叩いた。
「うるせーな、たまには真面目にやることもあんの!」
「たまにはってか、初めてじゃない?」
「オレ、最初に見た気がする。佐久間が“プリントに字書いてる”の」
「それは言いすぎだろ!? てか、見んなよ!」
思わずプリントを抱きかかえて隠す。
その動きが余計に怪しかったのか、ふっかがにやっと笑った。
「……さては、お前……先生目当て?」
「っ……!」
図星すぎて声が詰まった。
「おっ、図星〜? あっぶな、マジで赤ペン落としかけたわ〜」
「渡辺、こいつさ、この前“阿部先生の言うことなら何でも聞く”って言ってた」
「マジ!? ちょっと、聞いてないんだけどそれ〜〜!爆笑なんだけど!」
「言ってねーし!!ちょっと脚色すんな!!」
言い返しながら、顔が少し熱くなるのがわかった。
やべー。こいつらの前じゃ、いつも余裕ぶってたのに。
でも、今さら誤魔化すのも無理で。
俺はふっと目をそらして、窓の外を見ながらぼそっと言った。
「……別に、ちょっとだけだよ。頑張ってみようかなって思っただけ」
「へ〜〜〜〜〜〜〜〜」
「うっわ〜、きた〜〜、“ちょっとだけ”って言って一番本気なやつ〜〜!」
「うるせーな!!マジで、二人とも帰れ!」
「はいはい、愛の邪魔はしませんよ〜〜」
「がんばれよ〜、“センセイと同じ大学”」
からかいながら、あいつらは笑って手を振って出ていった。
ほんと、遠慮ってもんがない。
でも——なんか、悪くなかった。
“誰かに見られる”ことで、少し自分の気持ちを認めざるを得ないっていうか。
“好き”って言葉はまだ言わないけど、たぶん俺の中で、もう戻れないとこにはいる。
だから今は、笑われたっていい。
(先生、オレ、ちゃんと頑張ってるよ)
プリントを見つめながら、誰にも聞こえない心の中で、そうつぶやいた。
―――――――――――
もうすぐ日が落ちる時間。
校舎の廊下には夕焼けが差し込んで、床にオレンジの線を描いてた。
俺は今日も、教室で一人、プリントとにらめっこしてた。
ちょっとだけ難しい問題も、なんか今は解いてて楽しい。
(……先生、見ててくれるかなって思うと、やっぱ頑張れんだよな)
そんなふうに、少しずつ思えるようになってきた。
そう思って、飲み物でも買って休憩しようと廊下に出たときだった。
……見てしまった。
廊下の先、人気のない空き教室。
中で、阿部先生がラウールと向かい合って話していた。
距離はそこそこあるのに、ラウールの表情がよく見えた。
にこにこと、いつも通りのあいつ。
でも、先生の方は少しだけ困ったように、でもやさしく笑ってる。
……俺が、見たことない顔だった。
(……え、なに、ふたりきりで?こんな時間に?)
胸の奥に、嫌な予感が渦巻く。
喉が詰まるような感覚。
いつも明るくて、俺のことからかってくるあの先生が、
誰かにあんな顔してるの、なんか、ずるいって思った。
ラウールの声は聞こえない。
でも、楽しそうに話してる空気だけは、はっきり伝わってきた。
「……なんだよ、それ」
気づいたら、俺は踵を返して歩き出してた。
(オレ、なにやってんだろ。……勘違いだった?)
走るつもりもないのに、足が勝手に速くなる。
ああもう、ちくしょう。バカみたいだ。
「——佐久間くん!!」
背後から、呼ばれた。
「っ!」
思わず立ち止まる。
振り返ると、息を切らせた阿部先生が、急いで追ってきた。
「……待って。ごめん、見られてた?」
「……べつに。オレ、ただの生徒っすよ。何見ても勝手っしょ」
「違うの。ラウールのこと……誤解してるでしょ?」
「誤解って、何がですか」
つい、冷たく言ってしまったけど。
でも先生は、怒らなかった。
「ラウールくん、相談してたの。恋愛のこと」
「……は?」
「好きな子ができたけど、どうアプローチしていいかわからないって。
“先生、大人っぽいから頼れるかなって思って”って言ってて……」
「………………」
「相手はね、ラウールくんと同じクラスの子だったよ。
ほら、前に文化祭でちょっと話してたって言ってた、めぐ……」
俺は、言葉を失った。
先生の声は途中から聞こえなくなっていた。
(……そういうこと?マジで?)
何やってんの俺、勝手に落ち込んで、逃げて……
恥ずかしくて、情けなくて、でもちょっと安心して、なんかもう複雑すぎて。
気づけば俯いて、唇を噛んでた。
「……あー……っつーか、なんだよ、びびった……」
「ごめんね、不安にさせて。追いかけてでもちゃんと話したかったから」
「……俺、ちょっと本気で落ち込んでたんすけど」
「うん、見てわかった」
「うっわ、まじ恥ずかし」
「ふふ、かわいい」
「は!?かわいくねーし!」
そう言ったくせに、内心はちょっとだけ嬉しくて。
顔を見られたくなくて、窓の外を見ながら、つぶやいた。
「……ちゃんと、オレのこと、見ててよ」
「うん。ちゃんと見てるよ」
その声が、すぐそばから聞こえて。
もう少しで、泣きそうになるのをぐっとこらえた。
——やっぱ、俺はこの先生が好きなんだって。
あらためて、そう思った。
気になる二人の恋の続きは、ぜひこちらから。
笑って、キュンとして、時々じれったい──
あなたのお気に入りのカップリングが、ここにきっとある
続きはnote限定で公開中。
https://note.com/clean_ferret829/n/n3839f46782e7
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