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山月記。
1942年に発表された中島 敦の短編小説で「詩人になるという望みに破れた男が、発狂して虎になってしまう」という物騒なものだ。
詩人になるために多くを捨てたにも関わらず大成できず、最後には気が狂ってしまうというのだから、目も当てられない。
詩にかぎらず、創作に人生を捧げたことでかえって貧しくなるという現象は枚挙にいとまがない。
それでも人々は憧れ、手を伸ばす。
椅子なんて数えるほどしかないのに、そこに座れると思っているのだ。
そのためには自分の人生を蔑にすることもいとわないし、どれだけ犠牲を積み上げても飽き足らない。
平凡であることに耐えられず、何者かになろうとして。
取り返しが付かなくなってからこう言うのだ。
こんなはずじゃなかったのに、と。
さて、そろそろ本題に入ろう。
これはわたしの復讐の物語だ。
あれは中二の夏の頃。
夏休みも終わりに差し掛かった、ある日のことだ。
わたしはクーラーのきいた部屋で蝉の声を聞きながら、小説投稿サイトを見ていた。
誰でも自由に作品を投稿できるという触れ込みで、毎日何千もの小説が公開されるその場所は、当時のわたしにはひどく稚拙に見えた。
並ぶのはロビンソークルーソーの原題のような、長大なタイトルばかり。
しかも、どれも似通ったことばかり書いてある。
流行に媚びを売っているのだろうか。
いくつか読んでみると、逃避のために作られたかのような、甘ったるい展開に胸焼けがする。
大抵の筋書きはこうだ。
これまでとは違う。
別の自分へと変わり、認められる。
それだけだ。
そんなどうしようもない、変身願望を満たすための小説ばかり。
本当の自分はとても素晴らしい人間なんだ。
こんなのは本当の自分じゃない。
本当は、こんな惨めな人間じゃないんだ。
そんな思いが透けて見える。
きっと、皆。
何者かになりたいのだろう。
でも、なれないのだ。
だから、こんな甘ったるい物語で自分をごまかして生きているのだろう。
くだらない。
その上、書き手はいつだって小説投稿サイトのランキングに執心して、勝っただの負けただの、書籍化しただの、なぜあんなやつが上位にだのと言っている。
「なぜ、こんなものの為に。ふざけているのか?」
わたしはだんだんと腹が立ってきた。
こんなものの為に、と。
気がつけば何度も呟いている。
ああ、この安易でお気楽な展開しかなさそうなタイトルが出版され、国会図書館に保管されるだなんて、気が狂いそうだ。
わたしは国語のテストでも90点を切ったことはないし、読書感想文では賞を貰ったこともある。
夏休みの宿題はもう終わっているし、読書感想文だって良い出来だ。
きっと、先生だって褒めてくれる。
早速、パソコンのメモ帳を開き。
何事かを書こうとして、やめた。
「いや、まだだ。市場を調査する必要がある。」
自分はこの小説群を舐めてはいない、だからこんなことをするのだ。
そう自分に言い聞かせて、その日は一文字も書くことなく小説投稿サイトを見ていた。
当時のわたしは、どうしようもなく嫉妬に駆られていて。
そのくせ、あまりにも無自覚だった。
小説への愛憎と、父への復讐心。
それらを一緒くたにしていたのが悪かったのだろう。
人は皆、おぞましいものからは目を背けるものだ。
そして、こうした抑圧は時に夢となって現れることもある。
その晩、夢に現れたのは虎だった。
ただ一言。
「やめておけ」
と言って、闇へと去って行く。
わたしは憎悪を燻らせながら、虎が闇に融けるのを見ていた。
憎悪の理由はすぐ理解できた。
理解できたからこそ余計に憎たらしかった。
あれは李徴だ。
短編小説、山月記の主人公。詩人になるために仕事まで捨てたというのに何にもなれず、気が狂って虎になってしまった男だ。
やめておけだって?
創作に身を投じて、自分のようになるなとでも言いたいのか?
わたしに小説が書けないとでも言うのか。
あのくだらない小説たちにわたしが負けるとでも、そう言いたいのか?
ふざけるな。
わたしはお前とはちがうんだ。
憤ったわたしは小説投稿サイトを巡り、小説を読み散らしていく。
くだらない、くだらないと言いながら。
その癖、一文字も書くことなく、ひたすらに読み続ける。
自分がなぜこんなに躍起になっているのかもわからないままに。
隣の部屋から奇声が聞こえてくる。
腹違いの姉だ。何やらずっとゲームを作っているらしい。
そういえば、去年も作っていた。
ネットで募った仲間と作業しているようで、いつも通話で喧嘩ばかりしている。
あんなの現実逃避だ。
学生の本分は勉強ではないのか、大学生にもなって恥ずかしい。
わたしは片手間だけど、あの女はどうも本気のようだった。
馬鹿馬鹿しい。
姉も何かになりたいのだろうか。
そんなことを考えながら、小説を読んでいく。
「何だ、これ面白いぞ。」
くだらないと思っていた小説の中にも、面白いものがあった。
でも、なぜ面白いのかわからない。
構造を分解し、分析していく。
文学史に名が残る文豪ならば、その過去や経歴、当時起こった事件から情勢を推測し、解釈を重ねることもできるけれど、今回はそうはいかない。
純粋に小説そのものから割り出すしかない。
何日も、時間を忘れて読み込むうちに、傾向のようなものが見えてきた。
序盤はわかりやすいテンプレートな展開をさせ、読者が食いついたあたりで作者が好む流れに引き込んでいるのだ。
そんなことをしないと読まれないなんて。
これでは似たようなタイトルばかりになるわけだ。
すっと、心の芯が冷えていく。
何が自由な創作の場だ。
こんな場所で自由な創作などできるわけがない。
いや、できはする。
できはしても、それが認められる可能性は低いだろう。
そして、否応なしに数字を突きつけられるのだ。
それがどれだけ過酷なことか。
「まだだ、勝ち筋が見えなきゃ。書くだけ無駄だ。」
作品だけでなく閲覧数やその変動値、初動なども調べていく。
最初はノートにまとめていたけれど、途中から表計算ソフトに切り替えた。
執筆道具も、メモ帳から文書作成ソフトに切り替える。
作品の内容とは無関係なことに時間を取られすぎている気がするけれど、これも必要なことだと思うことにした。
それでも、焦りは募っていく。
こうしている間にも、新しい小説は次々に公開されているのだ。
そればかりか、何時間もかけて作品を公開しても、すぐに後続の小説に押し流され、人目に触れなくなる。
連続公開できる長編であれば、序盤で人気が出なくても後半で巻き返しが利くけれど、短編はそうもいかない。
つまり、短編は不利。
身の詰まった私小説や研ぎ澄まされた短編など、書くだけ無駄だろう。
長編を書くにしても、ウケなければ延々と書き続けることになる。
いつ当るかわからないものを書き続ける苦痛は、すでに何人もの作家の筆を折っていた。
ウケそうな書き出しをいくつか用意して、評価のよいものだけ書き続け、不要なものは削除することも考えたが、同じ手法をとって炎上した作家を見てやめた。
同じ轍を踏むのは馬鹿のやることだ。
勝ち筋が見えない。
勉強の方が遙かに簡単だった。
学校の問題には解答があり、その道筋を学ぶ手立ても用意されている。
でも、この問題には明確な答えがない。
道筋は曖昧で、そもそも手立てがあるかもわからない。
本屋さんで指南書も買ってきたけれど、あれに書かれているのは小説を書く方法だ。
ランキングを駆け上がる方法じゃない。
どうすればいい、どうすれば人気が出る?
何も思いつかない。
わたしは絶望的な気分になって、ベッドに倒れ込む。
そういえば、今日はいつだろう。
かなり時間を使ってしまった気がする。
夏休みが終わるまでにはいっぱしのものを書いて、ランキング上位に食い込んでおきたい。
このままじゃ、ひどく惨めだ。
歯がみしながら眠りに落ちると、またあの夢を見た。