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虎だ。虎がいる。
「どうやら、血は争えないらしい。」
暗がりの中の虎は、残念そうに見えて、どこか嬉しそうだった。
芥川がどうとか、太宰がどうのとか、そんなことを言っている。
やめろ。
書きたくなんかない、ただ何もかも気に食わないだけだ。
お前なんか嫌いだ。
あの小説投稿サイトも。
変身願望に取り憑かれた読者も。
それに合わせて書くやつらも、嫌いだ。
特にお前は、嫌いだ。
父親みたいで、嫌いなんだ。
「そうか」
虎がわたしを見る。
「学校には行けよ」
おぞましいことに気づいて、わたしは目覚めた。
時刻は午前11時。
今日は始業式だった。
ラインの通知が溜まっている、クラスメイトのKからだった。
友人が始業式に現れなかったのだ、心配もするだろう。
こんなことは初めてだ。
どうしたらいい、今から学校に行くべきだろうか?
遅刻なんて恥ずかしい。
こんなの一生の汚点だ。
いっそ体調不良で休んだ方がまだマシだ。
どうせ今日は始業式だし、大した授業もないだろう。
わたしは学校を休むことにした。
妙な焦りがあるけれど、気にしない。
せっかく時間ができたのだ、今のうちに小説投稿サイトを研究しよう。
中学二年生の語彙じゃないとまで言われたわたしが、舐められたままではいられない。
絶対にランキングを駆け上がってみせる。
そして、更に一週間が経過した。
スマートフォンは通知がやかましいので電源を切った。
姉はゲームが完成したのか、最近は嬉しそうにどこかに出かけている。
義母はいつもどおりだ。
わたしに気づいても、不干渉を貫いている。
テーブルの上に今月の食費が載っていた。
わたしの分だ、とりあえずこれで飢えることはない。
ふと、思った。
別に学校に行かなくてもいいのではないだろうか。
幸い、わたしが通っているのは中高一貫校だ。
多少、出席日数が減っても高校卒業まではエスカレーターだし。あんな退屈な授業なんて受けなくても支障は無い。
すでにクラス一位なのだ。
あいつらにはちょうどいいハンデだろう。
そんなことより、この小説を読み切るほうが先決だ。
『メイドオブオールワーク』
トレンドを無視したタイトルでありながら、ランキングを駆け上がり、先日書籍化が決定した作品。
メイドに身をやつした元ご令嬢が、雇い先の屋敷で起こる難事件を解決していくというミステリーものだ。
高貴な身の上の少女がメイドに身をやつすという展開は小公女セーラから続く鉄板だし、読者の変身願望も叶えられる。
その上、きちんとミステリーとして成立していて、探偵役のメイドとワトソン役の坊っちゃんのコンビが実にすばらしい。
当初は不仲なのだけど、回を重ねるごとに関係が改善され、友情が芽生えていくバディものとしても読める。ミステリーに不慣れでも二人の掛け合いだけで十分に楽しめる構成だ。
その上、メイドや当時の貴族事情にも詳しく、大した財産もない貴族が見栄を張ってメイドを雇った際に発生する社会問題が、現代にも通じている。
そして、選択を前にして怯まず。現実を凝視するような、何か。
この何かが、胸を熱くするのだ。
疑いの余地もない、この作者は本物だ。
勝てるのか、この小説に。
そんなことを考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
呼び鈴の音はけたたましく、おさまる気配がない。
仕方なくドアを開けると、クラスメイトのKがいた。
連絡が付かないことを心配してやってきたらしい。
わたしのスマートフォンは電源を切ったままだし、先生が義母に電話しても無言で着信拒否されるのがオチだろう。あれはそういう女だ。
「Kを嫌いになったわけじゃないよ、今は忙しいからじゃあね。」
そう言ってドアを閉めようとすると、烈火の如く怒られた。
言っていることは要領を得ないけれど、わたしを心配しているのはわかる。
近所迷惑なのでこのままお帰り願いたいけれど、言うことを聞いてくれるとは思えない。普段は大人しい子なのに、たまにこうなるのだ。
家に招いたものの、どの部屋に入るか迷う。
少し迷ってから、自室に入った。
最近はパソコンを使う都合上、失踪した父の部屋に入り浸っているから、自分の部屋は久しぶりだ。Kには適当な場所に座ってもらう。
「よかった。酷い目にあってるかと思ったよ。」
「酷い目って何さ。」
虐待とか? とKが言う。
黒い瞳がわたしを見ていた。
「ないない、そんなのないよ。」
そんなこと、あるわけがない。
虐待されるほど、深い関係なんて築けていないのだから。
Kを自室において、わたしはキッチンにお茶を取りに行く。
冷蔵庫の食べ物やペットボトルには油性ペンで名前が書かれている。調味料も同様で醤油が三本、ソースも三本、その他諸々の調味料も名前つきだ。
中身は圧迫されるが仕方ない、食べ物を共有する不快さを考えれば、不便にも耐えられるというものだ。
自分の緑茶を取り出して、グラスに注ぎ、Kの居る自室へと戻る。