テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
kaede🍁
8,845
おその★
23,401
#❤️💙
みら

13,722
2
オムライスを食べ終えても。
阿部はすぐには席を立たなかった。
窓の外を眺める。
人が歩いている。
自転車が通る。
向かいの店から。
誰かの笑い声が聞こえる。
それだけで。
少し落ち着いた。
「コーヒー飲む?」
声をかけられて。
阿部は顔を上げる。
厨房にいた男が。
カップを一つ持って立っていた。
「あ、はい」
「食後のコーヒー。ランチについてるから」
「そうなんですね」
「説明してなかったね」
男は阿部の前にカップを置いた。
「俺、宮舘です」
「あ」
そういえば。
まだ名前を聞いていなかった。
阿部も頭を下げる。
「阿部です。阿部亮平」
「阿部さん」
宮舘は柔らかく笑った。
「ゆっくりしていって」
「ありがとうございます」
宮舘が厨房へ戻る。
阿部はコーヒーを一口飲んだ。
少し苦い。
でも。
嫌いではない。
向こうでは。
翔太と呼ばれていた女が。
いつの間にかカウンターに移動していた。
「涼太」
「何?」
「俺のオムライス」
「自分で作れば」
「無理」
「じゃあないよ」
「恋人に冷たくない?」
阿部の手が止まる。
恋人。
思わず二人を見る。
宮舘は。
何でもない顔でフライパンを拭いていた。
「恋人だからって毎日甘やかすと思わないで」
「昨日プリン買ってくれたじゃん」
「翔太が勝手に食べただけ」
「俺のために買ったんでしょ?」
「違うよ」
「絶対そう」
阿部は。
また少し笑った。
その声に気づいて。
翔太が振り返る。
「また笑ってる」
「すみません」
「なんで謝るの」
「いや……」
阿部はカップを持ったまま。
少し迷う。
「仲いいんだなって」
「いいよ」
翔太が即答した。
宮舘は何も言わず。
翔太の前に小さなお皿を置く。
半分くらいのオムライス。
「ほら」
「あるじゃん」
「余っただけ」
「はいはい」
翔太は嬉しそうにスプーンを持った。
阿部は。
その様子をぼんやり見る。
恋人。
自分にも。
いたのだろうか。
好きだった人。
自分を好きだった人。
そんな相手が。
いたのかもしれない。
けれど。
何も思い出せない。
胸の奥が。
少しだけ重くなった。
「ねぇ」
呼ばれて。
顔を上げる。
翔太がこっちを見ていた。
「やっぱ暗い」
「……え」
「急に暗くなった」
「翔太」
「だって」
翔太はオムライスを食べながら。
首を傾げる。
「なんか悩みある?」
「……」
阿部は困った。
初対面の人に。
記憶がないなんて言っていいのか。
そもそも。
自分でもまだ。
どう受け止めればいいのか分からない。
「別に」
そう答えると。
翔太は。
「ふーん」
とだけ言った。
追及はしなかった。
そのことに。
少し安心した。
コーヒーを飲み終える。
時計を見る。
まだ昼過ぎ。
このまま家に帰っても。
することがない。
阿部は空になったカップを見る。
もう一杯頼もうか。
でも。
長居しすぎるのも悪い。
財布を出そうとしていると。
翔太が聞いた。
「これから何すんの?」
「え?」
「今日」
「……特に何も」
「仕事は?」
阿部は。
一瞬。
答えに詰まった。
「してないです」
「学生?」
「……違うと思います」
「思います?」
「翔太」
また宮舘の声が飛ぶ。
「人のこと根掘り葉掘り聞かない」
「だって気になるじゃん」
翔太は阿部を見る。
「じゃあ暇なんだ」
「まあ……そうですね」
「毎日?」
「たぶん」
「じゃあ」
翔太は。
何でもないことのように言った。
「ここで働けば?」
「……え?」
阿部は聞き返す。
宮舘も手を止めた。
「涼太、人足りないって言ってたじゃん」
「言ったけど」
「ちょうどいいじゃん」
翔太は阿部を指す。
「暇なんでしょ?」
「暇ですけど……」
「接客できそうだし」
「今日初めて会いましたよね?」
「うん」
「俺の何を見てそう思ったんですか」
「普通に喋れる」
「それだけ?」
「あと笑える」
「条件低くないですか?」
阿部が言うと。
翔太が笑った。
「涼太が料理作って、俺は気が向いた時しか働かないから」
「それを堂々と言わない」
「人いた方が楽でしょ?」
宮舘は。
少し考えるように阿部を見る。
「阿部さん」
「はい」
「仕事、探してる?」
「……」
探しているわけではなかった。
働かなくても。
生活には困らない。
通帳にある金額を考えれば。
むしろ。
どうして働く必要があるのか分からないくらいだった。
でも。
家に帰れば。
また一人。
朝から夜まで。
誰とも話さない日もある。
それを思うと。
「探しては……ないです」
正直に答える。
「でも」
阿部は少しだけ。
店の中を見る。
窓。
テーブル。
厨房。
宮舘。
渡辺。
さっきまで。
何度も笑った。
「ちょっと興味はあります」
宮舘が笑う。
「じゃあ、やってみる?」
「そんな簡単に決めていいんですか?」
「うちは小さい店だし」
「履歴書とか」
「後でいいよ」
「面接は?」
「今してるようなものだから」
「してたんですか?」
「俺はしてた」
阿部は目を丸くする。
翔太が横から言う。
「俺は最初から採用のつもりだった」
「翔太は店長じゃないでしょ」
「店長の恋人」
「権限ないよ」
「あるでしょ」
「ない」
また。
二人のやり取り。
阿部は笑う。
その時。
宮舘が言った。
「明日」
阿部を見る。
「昼前くらいに来られる?」
「……はい」
「じゃあ、とりあえず一日やってみようか」
「一日」
「合わなかったらやめればいいし」
その言葉が。
妙にありがたかった。
何も覚えていない自分に。
いきなり何かを決めろと言われても。
怖い。
でも。
一日だけなら。
「やってみたいです」
「決まり」
翔太が言う。
阿部は。
少し笑った。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
宮舘も笑った。
店を出る。
外は。
入った時より少し明るく感じた。
気のせいだと思う。
でも。
明日。
来る場所ができた。
起きる理由ができた。
誰かと話す予定ができた。
それだけで。
足取りが少し軽かった。
アパートに戻る。
階段を上がる。
ちょうど。
隣のドアが開いた。
「あ」
目黒だった。
「おかえりなさい」
自然に言われて。
阿部は少し驚く。
「……ただいま」
言ってから。
もっと驚いた。
ただいま。
誰かに言った。
目黒は阿部の顔を見る。
「なんかいいことありました?」
「分かります?」
「朝より顔が明るい」
「そんなに暗かったですか?」
「ちょっとだけ」
また言われた。
今日だけで二人目。
自分はそんな顔をしていたらしい。
阿部は。
少し考えてから言った。
「仕事することになりました」
「仕事?」
「近所のカフェで」
「へえ」
目黒が笑う。
「よかったですね」
「はい」
答えて。
阿部も笑った。
「明日からです」
「じゃあ今日は早く寝ないと」
「子どもじゃないですよ」
「朝起きられないと困るでしょ」
「起きられます」
「本当に?」
「多分」
「多分なんだ」
目黒が笑う。
阿部も。
また笑った。
今日。
何回笑っただろう。
目が覚めてから。
一番。
たくさん笑った日だった。
部屋に入ろうとして。
目黒が言う。
「あべさん」
「はい?」
「仕事始めるなら」
少し間を置く。
「無理しないでくださいね」
「……はい」
「嫌だったらやめてもいいし」
阿部は。
少し目を瞬いた。
今日。
同じようなことを。
宮舘にも言われた。
合わなかったらやめればいい。
目黒も。
無理しなくていいと言う。
なぜか。
その言葉が。
胸の奥に残った。
「目黒さん」
「はい」
「俺って」
言いかける。
俺って。
前は。
どんな人だったんでしょう。
そう聞きそうになった。
でも。
目黒は自分の過去を知らない。
今日会ったばかりの隣人だ。
「……何でもないです」
「そう?」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
自分の部屋に入る。
鍵を閉める。
そして。
阿部は気づかなかった。
ドアが閉まったあと。
隣の前に立ったまま。
目黒がしばらく。
阿部の部屋を見ていたことに。
次の日。
阿部は昨日のカフェに来ていた。
エプロンをつけて。
カウンターの中に立つ。
「じゃあ、まずドリンクね」
渡辺が隣に立つ。
「コーヒーはこれ。アイスはこっち。カフェラテはミルク先に入れて」
「はい」
阿部は小さなメモ帳を開いて。
言われたことを一つずつ書いていく。
コーヒー。
紅茶。
カフェラテ。
ジュース。
グラスの場所。
氷の量。
レジ横に置いてあるストローの種類まで。
「えっと、ホットの紅茶は……」
「そのポット」
「これですね」
「うん」
阿部は頷きながら。
また書き足す。
渡辺はしばらくその様子を見ていた。
「……あべちゃん」
「はい?」
「真面目だね」
「え?」
阿部が顔を上げる。
渡辺は阿部のメモ帳を見る。
「そんな全部書く?」
「だって忘れたら困るじゃないですか」
「何回かやれば覚えるよ」
「覚えるまでは書いといた方が安心なので」
「へえ」
渡辺は少し笑った。
「あべちゃんっぽい」
「昨日会ったばっかりですよね?」
「なんとなく」
「なんとなくで俺っぽさ決めないでください」
言うと。
渡辺が笑った。
昨日より。
少しだけ話しやすくなった気がした。
昼が近づくと。
店の中に少しずつ客が増えてきた。
厨房から。
ケチャップの匂いがする。
今日のランチは。
ナポリタン。
大きなフライパンを振りながら。
宮舘が次々と皿を仕上げていく。
「阿部さん」
「はい」
「これ、あの席の人に運んでみて」
宮舘が一皿差し出した。
阿部は。
少し緊張しながら受け取る。
「俺が?」
「初仕事」
「落としたらどうします?」
「落とさないように持って」
「それはそうですけど」
横にいた渡辺が。
客席を見る。
「あの人なら大丈夫」
「大丈夫って?」
「何しても怒らないから」
「何してもは言いすぎ」
宮舘が笑う。
「普通に持っていけば大丈夫だよ」
「……はい」
阿部は慎重に皿を持った。
教えられた席へ向かう。
窓際。
一人で座っていた男が。
スマートフォンを見ている。
「お待たせしました。ナポリタンです」
声をかけると。
男が顔を上げた。
「おおきにー」
明るい声。
柔らかい関西弁。
阿部が皿を置こうとすると。
男が阿部の顔を見た。
「初めて見る子やな」
「今日からなんです」
「ほんま?」
男は嬉しそうに笑った。
「新人さんやん」
「はい」
「名前なんていうん?」
あまりにも自然に聞かれて。
阿部もそのまま答えていた。
「阿部です。阿部亮平」
「あべちゃん?」
「……そう呼ばれてます」
さっき。
渡辺にもそう呼ばれたばかりだった。
「じゃあ俺もあべちゃんって呼ぼ」
「どうぞ」
「俺、向井康二」
「向井さん」
「康二でええよ」
「じゃあ……康二」
「おお」
康二は嬉しそうに笑う。
「もう友達やな」
「早くないですか?」
「名前呼んだら友達やろ」
「そういうもの?」
「そういうもん」
あまりにも迷いなく言われて。
阿部は笑った。
「康二はよくここ来るんですか?」
「めっちゃ来るで」
康二はフォークを持ちながら。
店の奥を見る。
「昼も来るし、夜も来る」
「夜?」
「あれ、まだ知らん?」
「何を?」
「ここ、夜になったらバーになるねん」
阿部は目を瞬いた。
「バー?」
「そうそう」
康二は楽しそうに続ける。
「照兄とふっかさんがやってるんやで」
知らない名前。
阿部が首を傾げると。
「そのうち会うよ」
康二が笑った。
「俺も夜ここ来て、週一回ギター弾いて歌ってる」
「ギター?」
「うん」
「康二、歌う人なんですか?」
「普段はカメラマン」
「カメラマン?」
阿部は少し驚いた。
「全然違う仕事なんですね」
「せやろ?」
康二は得意そうに笑う。
「写真撮るん好きやし、ギター弾くんも好きやから。両方やってる」
「いいですね」
「今度聴きに来てや」
「俺でもいいんですか?」
「もちろん」
康二は即答した。
「むしろ来て」
「じゃあ、今度」
「絶対やで」
「はい」
話しているうちに。
いつの間にか。
阿部の緊張は消えていた。
「あべちゃん」
カウンターから声が飛ぶ。
渡辺だった。
「仕事中」
「あ」
阿部は我に返る。
康二が声を立てて笑った。
「怒られた」
「康二が話しかけるからでしょ」
「俺のせい?」
「完全に」
「新人さん捕まえて喋るのやめて」
渡辺が呆れた顔をする。
康二は悪びれる様子もなく。
「はーい」
と返した。
阿部はカウンターへ戻る。
渡辺の隣に立つと。
小さな声で聞いた。
「知り合いなんですか?」
「常連」
「すごい喋りますね」
「康二は誰とでもあんな感じ」
「そうなんだ」
「でも」
渡辺が少し笑う。
「あべちゃんも結構喋ってたじゃん」
「……確かに」
自分でも。
少し驚いた。
初めて会った人なのに。
名前を聞いて。
仕事を聞いて。
また会う約束までした。
記憶を失う前の自分も。
こんなふうに。
人と話していたのだろうか。
分からない。
でも。
悪くない。
そう思った。
阿部はまたメモ帳を開く。
「次、何覚えればいいですか?」
渡辺が笑った。
「やっぱ真面目」
午後三時。
最後の客を見送って。
ランチ営業が終わった。
「終わった……」
阿部は小さく息を吐く。
初日。
覚えることが多くて。
気づけばずっと立ちっぱなしだった。
「お疲れ」
宮舘が厨房から声をかける。
「賄い食べる?」
「食べます」
「今日はこれね」
出てきたのは。
さっきまで客に出していたナポリタンだった。
「やった」
思わず声が出る。
渡辺が隣で笑う。
「あべちゃん、食べたかったの?」
「ずっといい匂いしてたから」
「分かる」
二人でカウンターに並んで座る。
宮舘が皿を置いて。
「ゆっくり食べて」
と言って厨房の片付けに戻った。
「いただきます」
阿部はフォークでパスタを巻く。
一口。
「おいしい」
「でしょ」
なぜか渡辺が得意そうに言う。
「渡辺さんが作ったんですか?」
「作ってない」
「じゃあなんでそんな得意そうなんですか」
「涼太の料理おいしいから」
「ふふっ」
渡辺も食べ始める。
しばらく。
二人で静かにナポリタンを食べた。
忙しかった昼とは違って。
店の中は急に静かだった。
外から入る午後の日差し。
洗い物の音。
コーヒーの残った香り。
阿部は。
なんとなくこの時間が好きだと思った。
「ねえ、あべちゃん」
渡辺が言う。
「はい?」
「今日の夜、空いてる?」
「夜?」
阿部は少し考える。
予定。
そんなものは。
今の自分にはほとんどない。
「空いてます」
「じゃあさ」
渡辺はナポリタンを食べながら。
何でもないことのように言った。
「一緒に飲まない?」
「飲む?」
「ここで」
渡辺が店の中を指す。
「夜、バーになるって康二から聞いたでしょ?」
「あ、はい」
「今日もやってるから」
阿部は店内を見回した。
今は明るいカフェ。
ここが夜になると。
バーになる。
まだ少し想像がつかない。
「俺が行ってもいいんですか?」
「いいに決まってるじゃん」
渡辺はすぐ答える。
「今日からここで働いてるんだし」
「でも、知らない人ばっかりですよね?」
「すぐ知り合いになるよ」
「そんな簡単に?」
「康二ともう仲良くなってたじゃん」
「あれは康二が勝手に」
「同じようなもん」
渡辺が笑う。
それから。
少しだけ柔らかい声で言った。
「一人で帰っても寂しいでしょ?」
阿部の手が止まる。
「……まあ」
否定できない。
家に帰って。
一人で夕飯を食べて。
テレビを見て。
寝る。
それだけ。
昨日までなら。
それが普通だった。
でも。
今日一日。
誰かと話して。
笑って。
仕事をして。
今もこうして一緒にご飯を食べている。
そのあと急に一人になることを想像すると。
少し寂しかった。
「行きたいです」
阿部が言う。
渡辺が笑った。
「じゃあ決まり」
「一回帰ってから来ればいいですか?」
「そうして」
「分かりました」
阿部はまたナポリタンを食べる。
「どんなバーなんですか?」
「静か」
「静か?」
「昼とは全然違うよ」
渡辺は少し考えて。
「照とふっかがやってる」
「康二も言ってました」
「今日いるよ」
「どんな人たちですか?」
「会えば分かる」
「それ一番困る答え」
「説明めんどくさい」
「適当だなあ」
阿部が笑う。
渡辺も笑った。
「でも、大丈夫」
「何が?」
「絶対すぐ馴染むから」
渡辺はそう言って。
最後の一口を食べた。
阿部は。
その言葉を聞きながら。
少しだけ楽しみになっていた。
今夜。
また。
知らない人に会う。
昨日までなら。
怖かったかもしれない。
でも今は。
どんな人なんだろう。
そんなことを考えている。
知らないことばかりの毎日の中で。
初めて。
知らないことを楽しみにしている自分がいた。
コメント
1件
第2話、すごくよかったです!!!💕 阿部くんが初めての仕事で少しずつ人とつながっていく感じが、もう胸に沁みました…😭 康二との出会いとか「友達やな」のノリ、自然で笑っちゃったし、夜のバーの展開もめっちゃ気になる! 渡辺さんが「一人で帰っても寂しいでしょ?」って言うところ、一気に好きになりました…優しすぎる。 ラストの「知らないことを楽しみにしている自分」ってセリフ、阿部くんが変わってきてるのが伝わってきて、続きが待ちきれないです🌸✨