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ルトリエとの稽古は、文字どおり凄惨を極めた。
最初の一日目で、常識的な訓練という言葉のイメージは粉々に砕かれた気がする。
腕や足が吹き飛ぶのは当たり前。骨ごと潰れ、内臓が押し出され、身体の形が分からなくなるたびに、ルトリエは当然のように言う。
「ほれ、闇で形を戻せ。指の一本まで誤差無くな」
泣き言を言う隙すらない。
私は闇を指先にまで行き渡らせて元の私の身体をなぞるように再構築する。
筋肉の流れ、骨の角度、腱の張り――少しでもズレると次の瞬間にはそこを狙って容赦のない一撃が飛んでくる。
肉体も精神も同じだけ削られていく感覚だった。
稽古という名の蹂躙は毎日のように続いた。
一度終わるたびに私は床に溶けるように崩れ、そのまま泥のように眠り込む。
魔界でカレンの父さん――バゼルと戦ったとき以上に骨の芯まで疲れ切っている気がした。
この階層には昼夜が存在しない。空は最初から最後まで真っ暗なままで時間の流れを教えてくれるものが何ひとつない。
だから、どれだけ稽古を積み、どれだけ寝て起きたのか、もう数えることを諦めてしまった。
そうして、何度目か分からない気絶に近い睡眠から目を覚ましたとき――身体がまったく動かない。
「……またか」
視線だけ動かして自分の状態を確認する。
ベッドの上。私は仰向けで、その上からルトリエが抱き枕のように全身をホールドしていた。
腕も脚も彼女の四肢でがっちりと固定されていて指先ひとつ動かせない。
寝床が一つしかない、という理由で同じベッドで寝ることになってから、これが割と頻繁に起きている。
最初こそ死を覚悟したが、今となっては「またか」の一言で済む程度には慣れてしまった。
初めてこの事態に遭遇したときは全身の骨がきしむ感覚に本気で身構えた。
呼吸のたびに肋骨が鳴り、胸郭が潰されるような圧迫感。少し力を入れれば折れるんじゃないか、という恐怖があった。
それでも、今は不快ではあっても痛みと呼べるほどのものはない。
稽古の成果が出ていることを、こんな形で実感するのは本当に不本意だけれど――間違いなく私の耐久力は上昇している。
「力が強くて解けないんだよなぁ……」
試しに足先に力を込めてみるが布団の感触すら返ってこない。
完全に固定されている。
これが抱き枕にされる側の気持ちなのかと、ぼんやり天井を見つめながら思う。……帰ったら沙耶に謝ろう。色々と。
しばらく無心でぼうっとしているとルトリエの腕がぴくりと動いた。
柔らかな黒髪が頬をくすぐり耳元で声が転がる。
「うむ……? おお、すまんすまん」
「気を付けてよね……」
「人の子は柔らかくて触れてて心地が良いのじゃ。善処しよう」
他意はないのだろう。けれどルトリエのような上位存在にそう言われると、どうしても別の意味に聞こえてしまう。
半分だけ起きた頭でそんなくだらないことを考えながら、ようやく解放された身体を起こし、ふらつきながらリビングに向かう。
椅子に腰を下ろすと寝る前にルトリエが用意したらしい食事がテーブルに並べられた。
紫色の液体に極彩色のよく分からない生き物と野菜が沈んでいるスープのような何か。
見た目だけなら完全にゲテモノだが、匂いはそこまで悪くない。
匙ですくって口に含むと意外にも塩気と旨味のバランスがよく、喉をするりと落ちていった。
スープの中に沈んだ野菜をつまみながら前から気になっていたことを口にする。
「そういえば前に本体に会ったときは神々が邪魔してきたけど、ここは大丈夫なの?」
「問題ないぞ。ここは階層自体が妾の空間じゃ。あ奴らはシステムを介して自身の信徒を助けるためのクエストを出すことしかできぬ。お主はクエストを受けたことがあるか?」
「今思えば無いね。出てきたのもこの階層来て初めてだったし」
「それが正解じゃの。クエストは受けた時点で、あ奴らから全てが見通される。ステータスからスキル、称号に庇護まで、全てじゃ」
匙の動きがぴたりと止まる。
つまり、クエストを一度も受けていない私は、位置こそ把握されても、中身までは覗かれていないということだ。
「……じゃあ、これからもクエストは受けない方がよさそうだね」
「賢明な判断じゃ」
ルトリエが肩をすくめる。
湯気を上げるスープをもう一口飲み込んでから、話題を切り替えた。
「あ奴らは、この階層では何が起きているのかも把握できん。知られずにお主を強化するには、持ってこいの環境ということじゃ」
「なるほどね……。ちなみに稽古の進捗はどのぐらい?」
「二割といったところかのう……。もっと強度を上げれば早く終わると思うが……お主が壊れてしまわぬか妾には分からん」
匙が止まる。
そこで一瞬、迷った。
だが、すぐにその迷いを飲み込む。
「上げていいよ。早くこの試練場から出たいし」
「……言ったな? 二言は認めぬぞ」
ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。
もしかしなくても今の一言で墓穴を掘った気がする。
けれど吐いた唾は飲み込めない。
どうせいつかは必要になる。なら、早い方がいい。気合と根性と今まで積み上げたものを総動員して耐えるしかない。
そうして食事が終わったあと、すぐに強度を上げた稽古が始まり、開始数分で自分の軽率な発言を心の底から後悔したのは言うまでもない。
◇
どれだけぶっ通しで稽古を続けたのか、自分でも分からない。
意識が途切れ、また戻り、気づけばベッドの上で寝かされている――それを何度も繰り返した末に、ようやく長い夢から覚めたような感覚で目を開けた。
天井。暗い木目。
身体を動かそうとして、また動かないことに気づく。相変わらず、がっちりとルトリエにホールドされていた。
ただ、今までとは違い彼女と触れ合っている部分からじわりと何かが流れ込んでくる感覚がある。
それは魔力よりもさらに密度が高く、それでいて身体は異物と認識していない何かがじわじわと私の中に滲み込んでくる。
「……気づいたのか?」
「何してるの?」
「お主に妾の力を注いでおる。どうせ本体に「分身体の力を集めろ」とか言われておろう? 本体の考えは知らぬが、何を考えておるか推測はつく」
「意識の共有とかしてるわけじゃないんだね」
「分身体を創るのに力の殆どを使ったからのう。そんなことをする余力は本体にあるはずもなかろう。それより、妾の力の感受性が上がっておるから気づくことができたのじゃぞ? もっと喜ばんか」
「わーい」
棒読みで返すとルトリエが小さく喉を鳴らして笑った。
そういえば最初にベッドの上で目を覚ましたときから、私とルトリエの距離はずっと近かった。
もしかすると稽古初日から、こうして少しずつ力を注ぎ込まれていたのかもしれない、と気づいて彼女を見る。
「ほほう、思慮深いのう。その通りじゃ」
「今まで気づいてなかっただけだったんだね……。この格好に意味があったなんて……」
「うむ? これはただ単に妾がしたいからしてるだけじゃぞ」
「私の感心を返してほしい」
やっぱり調子が狂う。
ここまで徹底的に振り回してくる相手は、今までいなかった気がする。
◇
そうしているうちに、この空間で過ごした時間は、肌感覚としてはかなりの月日に届いている気がしていた。
そう伝えるとルトリエは少し考えてから、とんでもないことをさらりと告げた。
「この階層は試練場の時間軸とは断絶しておる。いくら経っても、試練場では一秒も経っとらんぞ」
「ん……? でもクエストには二カ月って期限があったけど」
「それはこの階層の時間で二カ月じゃ。あ奴らが妾の空間に干渉して、自身の信徒を助けるために必要な時間じゃのう」
「時間が経ってないなら一安心かな。これで気にせず挑めるよ」
「うむ……? もう終わりじゃぞ? 後は妾の力の核をお主に移せば完了じゃ」
肩から力が抜ける。
あれだけの稽古と地獄みたいな毎日を気合を入れてもう少し頑張ろうと覚悟していたところに、もう終わりと言われて妙な肩透かしを食らった気分だった。
ルトリエが切り株に腰掛け、指先で土をいじりながら続ける。
「妾の分身体は妾を除いて残り二体じゃ。二百二十階層と三百二十階層……最深部に居る。二百二十階層の妾は今のお主でも何とかなるじゃろうが……最深部の妾は本体の半分の力を注いで作られた分身体じゃ。二百二十階層の妾の力を集めたとて五分、もしくは負けるかもせんな」
正直に背筋が冷えた。
今のルトリエでさえ、やっと力に抵抗できる程度だ。
そのさらに上。最深部には、それ以上の存在が待っている。
「くははっ、何じゃ。お主、嗤っておるのか?」
「……あれっ、本当だ」
頬が自然と持ち上がっていた。武者震いに似た震えが胸の奥から小さく湧き上がる。
まだ見ぬ強大な相手と戦える。その事実が、骨の中にまで突き刺さってもなお、私から溢れたのは絶望ではなく、どこか狂ったような笑みだった。
ルトリエの力に頼るだけではなく自分自身の力を磨き上げる。
そのための道が、はっきりと目の前に伸びている。
「さて、そろそろ別れの時間じゃ。久しぶりに楽しかったぞ」
「……私に力の核を移したらどうなるの?」
「妾の肉体は消滅する。じゃが、お主の中にある分身体の力と融合して、内部で他の妾を待つじゃろう」
「居なくなっちゃうわけじゃないんだね……」
「うむ。お主が最深部の妾の力を得れば、また話すこともできるであろう」
胸の奥が、きゅっと小さく痛んだ。
この空間で過ごした時間は、戦いと蹂躙の連続だったけれど、それでも確かに日常の断片があった。
軽口を叩き、どうでもいい話をして、飯を並べて一緒に食べて、同じ寝床で眠る。
そんな当たり前の時間を私はいつの間にか欲していたらしい。
頭を振って、その感傷を追い出す。
浸るのは全部終わってからでいい。
「分かった。必ず最深部まで行くよ」
「期待しておるぞ。では――」
ルトリエは自分の胸に手を突き立てて黒い球体を取り出した。心臓の代わりにそこに収まっていたかのような濃密な闇の塊。
それを私に差し出した瞬間ルトリエの体はゆっくりと崩れ始める。
「口を当てよ。そうすれば勝手に取り込まれるじゃろう」
「……うん。また、ね」
「あぁ。また、合間見えよう――」
球体にそっと口づけする。
次の瞬間、闇はずるりと形を変えて私の口の中に流れ込み、喉から胸へ、全身へと一気に広がった。
内側から焼かれるような痛みが骨の髄まで走る。血管の一本一本をなぞられるような熱。臓器が握り潰されるような圧迫。
それでも――ルトリエの付けてくれた稽古のおかげか普通に耐えられた。
痛みそのものよりも、胸の奥に残った空白の方が、よほど鋭く心を刺した。
また、これから一人で戦い続ける。
その事実が静かに重く、胸の中心に沈んでいくのを感じていた。