(5)正しき普遍性と本能と荒療治と天国の草案
悪しき欲とは本来は礼儀を軽んじてしまった為に、荒れた荒療治の狂ってしまう様な正しき治療法の末路である。本来なら荒療治とは本当に心が傷付いたもの、生死の恐怖の境を彷徨っている時に克復する信念の治療法だ。悪しき昔ながらの風習とは本来、治療法に欲を重んじてしまった結果それにたえられないものは置き去りにされてしまう事を考えなかった事である。だから個人の価値観と時間は荒療治の修了した後は認め大事にしなくてはならない。私が言うのも何だが物事は爽やかに良い見方をしなけばならないし、正しい見方を大好きになる事が一番である。自由度を保ちつつも、一番は生きる上で、もしくは亡くなった後でさえも、意識があるならば、と仮定するような突飛した気持ちは、本来ならその病的な発想の常態から正しさを取り戻す事である。そう言った正しい行いが心の普遍性あるものに進歩していく、心や身体を健康的に促すのである気がする。その一時的に病的な発想を改めて健常者に提唱し、そこからの指針で企業やスポンサー方々に草案の在り方を改めて構成していただき、天国とは建設的であり、広い判断力でもあれば、突飛だがそれ相応の天国などの草案も健全なのである。
仮説と想定案だが、生命本来の生きている新鮮さを感じられる事は天国の凛界都市を中心にしての都市建設の重要性を指し示している。律する事を重んじた天国という街の中心の都市では天国の区々やその風土らしい建築物、神のいそうな塔があって、そこは死んだものの憩いの草花の生える小川の流れる世界でもあれば穏やかな世界だろう。ドーム型やドームレンズ型のタウンパークが世界に誕生するならば、一番には大地に根ざした物理的に建築物でなければならないかもしれない。 天国や世界の建設物の設計者は生きているものが死んでいるものへの証であるから、死後は見たり感じたりは、ほぼ想像でしか出来ないかな、といった場合もある。それはなぜ想像でしか見られない事が多いのかというと、死者は霊感といった能力が高い為である。即ち成長させる人間を進歩と捉えても、それに属した霊感を退化の類いとして健康的に進歩する退化と見なさなくてはならないから。