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「返してほしいんです。あの、バカみたいで、あり得なくて、どうしようもない私の妄想を!」
私は彼の前に立ちはだかり、肩で息をしながら叫んだ。
「今の私は、壊れた機械と同じです。仕事は早いし、ミスもしない。誰からも文句は言われない。でも、生きてる感じが全然しない! 佐伯くんを見て、胸が痛くならない私は、もう私じゃない。明日が来るのが怖い。何の期待も裏切りもない明日なんて、ただ死刑執行を待つ時間と同じじゃないですか!」
サキは悲しげに、あるいは憐れむように、その無機質な唇を歪めた。
「見てください、このバッグを。ここには東北に入ってから吸い取った数万人分の『春への執着』が凝縮されています。誰もが今の自分を否定し、ここではないどこかへ行こうと足掻いている。その重みが、私の存在を消滅させようとしているんです。私はこれを、桜前線の終着地で捨てなければならない。そうしなければ、私は菩薩としての輪廻から外れ、永遠の虚無に沈んでしまう。あなたの小さな妄想も、もうこの濁流の中に混ざってしまって、見分けることは不可能です」
彼の背後の空気が、どろりとした黒い霧みたいに揺らめいた。それは、彼が飲み込み続けてきた人々の欲望、身勝手な祈り、そして叶わないと知りながら捨てられない願いの澱だった。桜の花びらがその霧に触れると、一瞬で黒く変色し、朽ち果てていくのが見えた。
「それでも……それでも、返して! 私の重荷を返してよ!」
私の声は、風に散る数万の花びらの中に消えていった。サキは答えず、再び歩き出した。その一歩ごとに、堤防の土が悲鳴を上げていた。
桜前線は、さらに北へと加速した。私は会社に無期限の休暇届をメール一本で出した。事実上の退職勧告に近い冷たい返信が届いたけれど、今の私にはそんな「現実」なんてどうでもよかった。
私はサキを追った。新幹線を乗り継ぎ、バスに揺られ、最後はレンタカーを走らせて、青森県の弘前公園へと辿り着いた。そこは、桜の死に場所だった。
外堀を埋め尽くす「花筏」。水面が見えないほど敷き詰められた花びらたちは、美しい絨毯というより、散っていった数多の期待と絶望の墓標みたいに見えた。弘前の夜は、凛として冷たい。その冷気が、私の空っぽの胸を突き刺してくる。
公園の最奥、古い枝垂れ桜の影に、サキは座り込んでいた。彼のバックパックは、もはや一つの巨大な心臓みたいに脈動し、どす黒く波打つ肉塊へと変貌していた。サキ自身の輪郭も陽炎のように揺れ、背景の桜の木が透けて見えている。彼はもはや、自身の抱える重力そのものに食い尽くされようとしていた。
「もう、限界です……。重すぎて、一歩も動けない」
サキの声は、消え入りそうな羽音みたいだった。
「今から、このバッグを解放します。すべての煩悩は、この日本最北の地で塵となって消える。あなたの妄想も、他の誰かの醜い願いも、すべては
無に帰る。それが、あなたたちが救われる唯一の道。この世から『苦しみ』という名の重力を取り除くのです」
#お仕事
#秘密
「待って! そんなの救いじゃない! それはただの忘却よ! 人間から、人間であることを奪うだけじゃない!」
私は叫び、彼に駆け寄った。そして、その巨大な、禍々しいほどに重いバックパックに素手で触れた。触れた瞬間、脳内に数万本のナイフを突き立てられたような衝撃が走った。数万人分の意識が、決壊した濁流となって私の中に流れ込んでくる。
もっと愛されたい
あいつを見返したい
あの子を振り向かせたい
宝くじを当てて人生をやり直したい
もう一度だけ、死んだ母に会いたい
奇跡よ、一度だけでいいから起これ
それは、春という季節が人々に強制的に抱かせる、暴力的なほどの「生への執着」だった。あまりの重圧に膝が砕け、鼻の奥がツンとして、涙が止まらなくなった。なんて人間臭くて、無様で、滑稽で、それでいて愛おしい熱量なんだろう。みんな、こんなに重いものを背負いながら、平気な顔をして歩いていたのだ。