私には、婚約者がいた。
それは、ディクソン・バラドア伯爵令息という人物である。
彼は、少々高慢な人間であった。私のこともどこか見下していて、なんだかあまりいい印象がない人だった。
「君とは婚約破棄したいと思っている」
「……え?」
ある日私は、ディクソン様からそのようなことを言い渡される。
その言葉に、私は驚いてしまった。突然の婚約破棄、そんなことを言われて動揺しない人はいないだろう。
「ど、どういうことですか?」
「どういうこともこういうこともないさ。君との婚約を破棄したい。そう思っているんだ」
「な、何故……?」
ディクソン様のことは、別に好きではない。
ただこの婚約は、お父様に言い渡された私の使命だ。それを果たせないとなると、色々とまずい気がする。
故に私は、少し食い下がってみることにした。もちろん、婚約破棄なんて言い出すのは考えた末なのだろうが、踏み止まってもらえるならそうしてもらいたかったのだ。
「……僕の婚約者として、君は相応しくない」
「相応しくない?」
「君はつまらない人間なんだよ。君といたって、僕の心はまったくもって揺れ動かない。面白くないんだよ、君との会話は……」
ディクソン様は、私を見下しながらそのようなことを言ってきた。
基本的に、私は余計なことは言わないようにしている。それを言ったらひどい目に合うと、刷り込まれていたからだ。
私のそういった点が、ディクソン様は気に入らなかったらしい。
「そうですか……しかし、婚約破棄なんてそんなことをしたら、大変なことになるではありませんか。私達だけの問題ではないのですよ?」
「その点に関しては問題がない。宛てがあるからな」
「宛て?」
「ああ、君と婚約破棄してもまったく問題はないのさ。なぜなら、僕の新しい婚約者は君と同じエルシエット伯爵家の人間だからな」
「なっ、それはまさか……」
ディクソン様の言葉に、私は驚いた。
すると次の瞬間、部屋の奥の方から一人の女性が現れる。
彼女のことは、よく知っていた。なぜなら彼女は、私の妹であるからだ。
「お姉様、残念でしたね? ディクソン様は、私のものなのです」
「あ、あなたがディクソン様の新しい婚約者……?」
「ああ、故にまったく問題はない。エルシエット伯爵家とバラドア伯爵家との婚約は維持されるのだ」
「なっ……」
婚約者と妹は、私のことを嘲笑ってきた。
そんな二人の様子に、私は思わず困惑してしまう。
確かに一見すると、二人の理論は完璧であるように思える。だが、そうではないのだ。バラドア伯爵家の次期当主であるディクソン様と、エルシエット伯爵家を継ぐ婿を迎えるイフェリアが結ばれるということは、非常にまずいことなのである。
「ふ、二人とも正気なの?」
「はい?」
「なんだと?」
見通しの甘い二人に対して、私は思わず素直な言葉を口にしていた。
それに対して、二人は驚いている。私が強い言葉を使ってくるとは思っていなかったからだろうか。
「イフェリア、あなたは忘れているの? あなたが夫に迎える人が、エルシエット伯爵家の次期当主になるのよ?」
「ええ、ですからそれがディクソン様です」
「ディクソン様、あなたはバラドア伯爵家を継ぐはずでしょう? そちらはどうするんですか?」
「ああ……うん?」
私の言葉に、イフェリアとディクソン様は顔を見合わせた。
やはり二人は、まったくそのことに気付いていなかったらしい。
それは驚くべきことである。その矛盾には、一番最初に気付きそうなものなのだが。
「……なんだと? イフェリア、君は僕の嫁としてパラドア伯爵家に来るんじゃないのか?」
「いいえ、ディクソン様が、エルシエット伯爵家に婿入りするのでしょう?」
「何を言っているんだ。僕は僕の家を継ぐに決まっているだろう」
「そ、それなら私が嫁入りするということですか?」
そこでイフェリアの視線が、私の方を向いた。
そして彼女は、その顔を歪める。彼女が嫁入りするということは、エルシエット伯爵家を誰が継ぐことになるのかを理解したからだろう。
「つ、つまりお姉様の婿がエルシエット伯爵家を継ぐと?」
「え、ええ……あなたが嫁入りするとそうなるのではないかしら?」
「そんなの許せるはずがありません!」
私の言葉に対して、イフェリアは強い否定の言葉を返してきた。
それに対して、私は特に驚かない。ただディクソン様は、びっくりしているようだ。
「ディクソン様、知っているでしょう? お姉様は、つまらない女です。そんな女に、エルシエット伯爵家を支配するなんてあってはなりません」
「し、支配するだって?」
「彼女が好き放題するということは、きっと私達にとっても不利益です。止めなければなりません。それだけは絶対に……」
イフェリアは、私に対して怒りを露わにしていた。
彼女がそのように激昂するのは、実の所珍しい。小さく怒ることはあっても、それでも余裕を崩さないのが、いつもの彼女なのだが。
「お姉様、あなたにエルシエット伯爵家は渡しません。あの家は、私のものなのですから」
「イフェリア……」
イフェリアは、とてもエルシエット伯爵家にこだわっていた。
私にとって正直あの家はそれ程重要ではないのだが、イフェリアにとっては自分が女王になれるあの家は、それ程大切であるということだろうか。