伊藤達が居なくなって、仕切りの中。
律顕と二人取り残された美千花は、改めて夫を仰ぎ見て口を開いた。
「ねぇ律顕。今のって……どういう、意味?」
美千花が恐る恐る問い掛けたら、律顕は医者の診察に際して畳んで横に避けていたパイプ椅子を再度引っ張り出してベッド横に置いて。
そこに腰掛けて美千花と視線を合わせると、「ストーカーみたいで気持ち悪いって思われそうで言えなかったんだ……」
そう前置きをして口を開いた。
「美千花、前回の健診の時、僕が付き添ったの、余り好ましく思ってなかっただろう?」
「え、あ、あのっ、あれは……」
あの日、美千花は明白に夫を拒否したのだ。
勿論その気持ちを隠せていたとは思っていない美千花だったけれど、面と向かって問われたら素直に肯定出来なくて……口籠るようにオロつきながら謝った。
「……その通りです、ごめんなさい」
「別に責めてるわけじゃないから大丈夫。つわりのせいだったって今はちゃんと理解してるし、美千花にとっては仕方のない事だったって解ってもいるつもり。だからお願い、顔あげて?」
なのに律顕はどこまでも優しくて。その事が美千花には堪らなく申し訳なかった。
「でも……私がきちんと気持ちを伝えられていたら、律顕を変に傷付けなかったと思う。……本当にごめんなさい。あの時は私、自分の事で一杯一杯で……律顕に優しくなかった」
「有難う、美千花。僕はその言葉だけで十分だよ」
律顕は極々自然に美千花の方に手を伸ばすと、
「僕も妊娠中の女性の事、ちゃんと勉強してなくて悪かったって反省してる。過去に関してはお互い様だからそこはもう今後に活かす教訓にしよう?」
そのままふんわり美千花の頭を撫でて微笑んで。
美千花はそんな律顕に、コクッと頷いた。
「――あれがあったからさ、僕は今日、美千花に嫌な思いをさせたくなくて一緒に健診に行くのは止そうって思ったんだ」
「そんな……。でも、私、今日は……」
「うん。前回と今回じゃ君の体調や心持ちに変化があった。なのに僕は西園の話を真に受けて、勝手に美千花の気持ちを決め付けていたんだ。君自身にどうして欲しいか聞かなくて……本当にごめん」
申し訳なさそうに眉根を寄せた律顕が、
「今朝までの僕は本当に愚かで浅はかな夫だったね」
言って小さく吐息を落とすと、
「僕はね、今日は有給を取って君に気付かれないようここで待ってたんだ」
美千花にとって、信じられない言葉を口にした。
「ここって……病院?」
恐る恐る問いかけた美千花に、律顕がコクッと頷いて。
「ここに来たらまず、一階ロビーの再来受付機に寄るだろう?」
確かにこの総合病院は、ロビー片隅にある再来受付機に診察券を挿入して、その日の「診察案内」と「受付整理番号」の発行をしてもらってからでないと、各外来には行けないシステムだ。
患者はその案内を見て、目当ての科へ行く前に検査センターで血液検査や尿検査等を済ませておかなければならないのか、それともそのまま診察を受ける科へ直行すればいいのかを判断する。
加えて、この病院では受付から会計に至るまで、名前の代わりに当日発行された整理番号で呼ばれるから。
「うん」
美千花が首肯したのを確認した律顕が、「だから僕は再来機が見える位置でずっと君の事を待ってたんだ」と言って美千花を驚かせる。
「そこからは君に見付からないよう気を付けながら、ずっと付かず離れず美千花の事を見守ってた」
「嘘っ」
思わずつぶやいた美千花に、「ごめん。やっぱりストーカーみたいで気持ち悪いよね」と、律顕がしゅんとする。
美千花は、「だから言いたくなかったんだ……」と小声で付け加えて項垂れる律顕をじっと見詰めて。
「確かに驚いたし……普通に付いて来てくれたら良かったのにって思ったよ?」
そう告げて、律顕を更に縮こまらせる。
「でもね、気持ち悪いだなんて微塵も感じなかった! だって律顕。私の事を心配してくれての事だったんでしょう?」
知らない人にされたなら、確かに怖いし気持ち悪い。でも、相手は愛する夫だったから。
ニコッと笑ってそっと彼の手に触れたら、律顕がハッとしたように顔を上げて美千花を見た。
「美千花、ここ最近ずっと調子悪そうだったから……」
診察が終わってからも、美千花の事が心配でそばを離れられなかったらしい。
だからなのだ。
美千花が失神した時、伊藤医師が言ったように、律顕がすぐさま手を差し伸べられたのは。
「律顕。私と赤ちゃんを守ってくれて有難う」
美千花の言葉に、律顕が泣きそうな顔をして「君が倒れた時、僕は本当に怖かった」とつぶやいて、美千花の枕元にポスッと額を押し付ける。
まるで情けない顔を見られたくないみたいに顔を伏せたまま動かない律顕の柔らかな髪をそっと撫でながら、
「心配掛けてごめんね」
美千花が言ったら「……うん」と小さな声が返った。
「美千花、迷惑かも知れないけど僕、向こう五日間程有給取ったから」
ややしてポツンとつぶやかれた声に、美千花はさっき稀更が言っていたやつかな?と思って。
「しばらくの間、君はベッドから動けないって先生から聞いたんだ。――だから、何かして欲しい事や食べたい物があったら遠慮なく何でも言って? 美千花のためなら僕、何だって出来るから」
ふわふわと手にまとわり付く律顕の髪に触れながら、美千花はこの人とならお腹の子供をきっと大切に大切に育てていける。
そう思って。
いつの間にか、あんなに痛かったはずのお腹の痛みもスッカリ消えていて、美千花は律顕の言葉が何よりの薬だったんだと身をもって実感する。
美千花の事ばかり考えて、馬鹿みたいに優しくて愚かな嘘をつく律顕のことを、美千花は心の底から愛しいと思った――。
END(2022/05/03〜05/24)
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