私
の娘は生まれつき足が悪い。
娘が生まれた時、医師からは絶望的な宣告を受けた。もう二度と歩けないだろうと……。
それでも私は諦めなかった。いつか必ず治してみせると心に誓ったのだ。だがその決意とは裏腹に、娘の身体は次第に悪化していった。今では一人で歩くことも出来ない。このままではいずれ命すら危ぶまれるだろう。医者にも手の施しようがないらしい。この先一体どうすれば良いのか。もはや打つ手はないのだろうか。絶望に打ちひしがれながら、私は娘を見つめることしか出来なかった。
そんなある日のことだった。いつものように病院へと行く途中、私は奇妙なものを見つけた。それは一枚の写真だった。
そこに写っていたものはなんとも奇怪なもので、私は最初それを見て目を疑った。まるで映画に出てくるエイリアンのようなものが、そこにあったのだから無理もない。しかもそれは一匹ではなく複数いた。よく見るとそれらは親子なのか、皆同じ姿をしているようだ。私は恐る恐る近づき、その写真をじっと見据えた。
どう見ても普通の写真ではない。恐らく合成されたものであろう。
しかし、なぜこんな写真を撮ったのか、理由は分からない。
ただ言えるのは、この一枚の写真が今現在の自分を形作る大きな要因となっているということだけだ。
さて、ここからは俺の話になるわけだが、 俺は物心ついた時から、なぜかカメラが好きだった。
幼稚園の頃、お遊戯会の練習中。カメラマン役の先生の指示のもと、「はいチーズ!」の掛け声と共にシャッターを押していたのだが、その時撮った写真を見て驚いたことがある。そこに写っていたのは紛れもなく自分自身なのだが、顔がまったく別人のように変わっていたのだ! あれだけ長いこと一緒にいて、しかも毎日顔を合わせているはずなのに、なぜ気付かなかったのか不思議でしょうがない。
その瞬間、僕は自分が自分でなくなってしまったような気がして愕然とした。まるで自分の中にもうひとり別の人間がいるみたいだった。今思うと多重人格障害の一種なんじゃないかと思うんだけどね。
ちなみにもう一人の自分はいつも眠そうでやる気のない奴で、よく授業中でも居眠りをしていた記憶がある。
僕にとって、あの日の出来事はまさに青天のへきれきだったよ。
さて、話を戻そう。
この世の中にはいろんな人がいるけど、他人に対して優しく接することのできる人とできない人がいますよね。それと同じように、優しい人と冷たい人もいて当然だと思うんです。
それはなぜなのか、僕なりの考えを述べてみたいと思います。
まず、「優しさとは何か?」という問題を考えることから始めたいと思うのですが、これはなかなか難しい問題ですね。
例えば、僕はよくお年寄りの方が買い物をしているときに重い荷物を持ってあげることがあります。そういうとき、たいていの方は感謝の言葉をかけてくれますね。また、子供連れの家族が歩いているところを見かけたときなんかにもついつい声をかけてしまいます。これも一種の親切というものでしょう。
さて、ここで一つ疑問が生じてきます。果たしてこれが本当に”優しさ”と呼べるものでしょうか? 確かにその人の役に立ったかもしれませんが、結局はその人を助けたのではなく自分の欲求を満たしているだけなのではないでしょうか? そう考えると、自分が損をするわけでもないのに他人の手助けをしてあげようなんていう気持ちになるはずがないんですよ。
つまり、夢を追いかける者よ! 熱中することをやめてしまえば、それはもう、死んでいるのと同じことなのだ。
たとえ、どれほど大きな壁が立ち塞がろうとも、決して諦めてはいけない。その先にこそ、本当の意味での成功があるのだ。
夢を追い求める者たちへ。
君たちは決して一人ではない。
なぜなら、我々もまた同じ道を進んでいるのだから。
我々は常に共に在る。
さぁ、共に行こうではないか。
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