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この作品には以下の要素が含まれています
・水緑(緑水)
・BL要素
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ご理解の上、先にお進みください
雨の匂いが、まだ部屋の隅に残っていた。
病室の窓を叩く雫の音だけが、やけに大きく聞こえる。白いシーツの上で眠っていた彼。
すちがゆっくりとまぶたを開いた瞬間、こさめは息をすることすら忘れた。
「……すっちー、」
こさめが震える声で名前を呼ぶと、すちはぼんやりとこちらを見る。焦点の合わない瞳が、数秒かけて緑を捉えた。
けれど次の瞬間、すちは困ったように眉を下げた。
「……えっと」
その一言だけで、胸の奥が冷たくなる。
「あなたは、誰ですか……?」
世界が止まった気がした。
医者から説明は受けていた。事故の衝撃で、一時的な記憶障害が起きている可能性があると。家族やのことも、思い出せないかもしれないと。
覚悟していた、はずだった。
それなのに、いざ本人の口からそう告げられると、足元が崩れていくみたいだった。
すちは口を開く。名前を言おうとした。幼なじみだと。ずっと隣にいた友人だと。
けれど喉の奥から零れた言葉は、まったく別のものだった。
「……俺は」
黄の不安そうな瞳が、まっすぐこちらを見る。
その視線に射抜かれて、もう引き返せなかった。
「すっちーの恋人、だよ」
言ってしまった。
静かな病室に、こさめの声だけがやけに鮮明に響く。
数年分の片思いを、たった一瞬の衝動で踏み越えてしまった。
終わった。人として。
こさめの背中を冷や汗が伝う。
けれどすちは、疑うこともなく恋人、と小さく繰り返し、それからほっとしたように笑った。
「そうなんですね……よかったです。知らない人じゃなくて」
その笑顔に、こさめは罪悪感が更に広がった。
「こさめくんって、優しいね」
退院して数日。すちは記憶をなくしたまま、こさめの家で世話になることになった。回復をしたからと言って、まだ日常生活には不安があるとすちが言ったからだ。
本当は家族の元へ戻るのが一番いいはずなのに。すち自身が、緑の袖を掴んで言ったのだ。
『恋人なんでしょ?なら一緒にいたい』
その時のこさめは、嬉しさと自己嫌悪で気が狂いそうだった。
「ねぇ、恋人ってどこまでしていいの?」
ソファに並んで座っていたすちが、無邪気にそんなことを言う。
「ど、どこまでって、?」
「手、繋いだり?」
「……する、んじゃない?」
「じゃあ、こう?」
そっと伸びてきた手が、こさめの指に触れる。絡められた指先が熱い。
こさめは固まった。
「ふふ、なんか照れちゃうね」
照れているのはこさめだ。何年願っても叶わなかったことを、記憶喪失のどさくさで手に入れてしまっている。
最低だと思う。だけれど、振り払えなかった。
そんな気持ちも知らずに、すちは楽しそうに笑っていた。
夜中、すちが眠ったあと。こさめは一人、ソファーで寝転がって頭を抱えていた。
「……明日、言おう」
本当は恋人じゃないって。
俺はただ、ずっとすちのことが好きだっただけの、卑怯なやつだって。
そう決めていたのに。
翌朝、目を覚ましたすちが、真っ先にこさめを探して泣きそうな顔をした。
「こさめちゃんが、いなくなったかと思った……」
胸が痛んだ。
「……ここにいるよ」
抱きしめたい衝動を堪えて頭を撫でると、すちは安心したように目を細める。
「よかった。俺、こさめちゃんがいないと不安になるし……寂しくなっちゃう」
「居てくれてよかった」
そんな顔で、そんな声で言わないで。
これ以上、期待させないで……。
数週間後。
「……少し思い出してきました」
病院でそう話した帰り道、こさめの心臓は嫌な音を立てた。
終わる。
この日々が、全部。
公園のベンチに座り、こさめは震える声で言った。
「すっちー、俺、言わなきゃいけないことがある」
「うん?なに〜」
「こさ、こさめたち、恋人じゃないの」
「最初に、すちが俺のこと分からないって言った時……咄嗟に、嘘ついた」
喉が焼けるように痛い。
「ごめん。俺、最低だよ。好きだったんだ、
ずっと。だから、夢、見たくなって」
段々と涙で視界が滲む。
長い沈黙のあと、すちが小さく息を吐いた。
「知ってたよ」
「……え?」
「だから、知ってたよ」
「……な、なんで…………」
「途中で、なんとなく変だなって思った。写真も少ないし、こさめちゃんすぐ赤くなるしね」
すちはくすっと笑った。
「でも、嫌じゃなかったよ」
こさめは言葉を失う。
すちはまっすぐこさめを見る。事故の日より、ずっとはっきりした瞳で。
「記憶なくても分かったよ。俺さ、きっと
こさめちゃんのこと好きなんだって」
「……すっちー」
頬が熱い。涙で視界が歪む。
すちが少し照れたように笑う。
「君は、誰?」
こさめは泣きながら笑った。
そして今度こそ、胸を張って答える。
「……すっちーの恋人になりたい人!」
すちは吹き出して、それから優しくこさめの手を握った。
「じゃあ、採用です」