アリアは
真っ直ぐに血の匂いを追っていた。
その残滓に混じる、微かな〝意思〟に──
彼女の瞳が静かに
しかし確実に燃え上がる。
(⋯⋯彼奴、か)
言葉には出さぬまま、胸の奥で呟く。
そして
その感情を余すことなく、翼に宿した。
上空からの急滑空。
空が、炎の線で真っ二つに裂かれた。
その輝きに、男が気付くのは早かった。
まだ距離があるうちに男はふと顔を上げ
大きく見開いた瞳に光を宿す。
まるで
予想以上に早く訪れた
〝女神の鉄槌〟に歓喜するかのように──
その口元を、醜く歪めて笑った。
次の瞬間、男が片手を振り上げた。
まるで
舞台の幕が切られるように、街が動いた。
通行人が。
買い物帰りの女が。
ベビーカーを押していた母親が。
犬を連れていた老人が──
街の全てではない。
だが、通りの一帯の人々が
迷いなく男のもとへ駆け寄った。
驚きも、躊躇もない。
まるで、予め組まれた演目のごとく
アリアと男との間に〝人の壁〟が築かれた。
アリアは
その光景に、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
彼らは罪人ではない。
無辜の民。
誰かの父、母、子──
もし、ここで彼らごと焼けば。
もし、裁きを振るえば──
(時也は⋯⋯悲しむだろうか)
その一抹の躊躇い。
たった数拍の静寂。
だが、それは──
あまりに甘かった。
住人たちの身体が
静かに、滑らかに裂けていく。
まるで、生きた包帯のように剥がれ
その隙間を縫うように
ー〝それ〟は現れたー
一閃。
鋭く、まっすぐな一閃。
それはアリアの首筋に食い込み
視界がぐるりと回転する。
天地が逆転し
視界が地面に滑り落ちるように傾いた。
アリアの身体が、手を伸ばす。
自身の頸へ──
だが、その動きを封じるように
住人たちがその身を焼かれながらも
押さえ込んでいた。
喉元から迸る不死鳥の再生の高熱が
彼らの肌を爛れさせ、骨を炙る。
それでも彼らは叫ばない。
目を見開き、口を閉ざし
ただ命じられた通りに
首と胴とを引き離すための
〝拘束具〟として動き続ける。
アリアの表情は、変わらない。
だが、その深紅の瞳の奥で
確かな〝理解〟が灯る。
この男は──
ー罪の意識を、最初から他人に押し付けるー
「海老で鯛を釣るとは⋯⋯この事だねぇ?
アリア」
男の声は、芝居がかった軽やかさ。
まるで殺したのではなく
口説いたかのような響きで。
眼下で転がる〝神の頸〟に
嬉々とした目を落とす。
しかし──
彼女の瞳の炎は、消えていなかった。
さらに数人の白衣を纏った人影が
道の奥から駆けてくる。
その手には、点滴パック、注射器
金属器具、薬剤のボトル──
救急では見慣れぬほどに過剰な
異様な装備の数々。
彼らは無言だった。
声を交わすことなく、表情すらも無く。
まるで〝治療〟ではなく
〝処置〟という任務を
ただ遂行する人形のようだった。
そして
地に伏したアリアの身体へと群がった。
頸から下──
胴体のみが
焼け焦げた地面に転がるその〝神の器〟に
容赦なく器具を打ち込んでいく。
まず注射。
耐熱皮膚の下に
金属針が無理矢理差し込まれる。
一本ではない。
左右の二の腕、大腿部、足首、腹部にかけて
その数、十本以上。
針を刺すたびに
白衣の袖が焦げ
肌が赤黒く膨れ上がっていく。
アリアの傷口からは
高熱を帯びた血が滾々と溢れている。
不死鳥の再生の高熱。
その血に触れれば
一般の人間など皮膚が爛れるどころか
肉が焼ける。
だが医師たちは怯まない。
焼かれても、唇を噛み締めて
次の薬剤を準備する。
筋弛緩剤──まずは大腿部に二本。
皮膚が焼け、薬液が蒸発して泡立つ中
それでも体内に僅かでも届けば
効果があると見て、重ねて三本目。
続いて、麻酔薬。
極量。
軍用のオートインジェクターから二本
腹部と肩に突き立てられる。
薬剤が皮下で爆ぜ
組織が黒く変色していく。
点滴ラインの確保は難航した。
血管は再生と焼却の繰り返しで
形すら保たない。
それでも
焼け爛れた指で静脈を掘り出し
金属管を挿入。
痛みなど、アリアには関係がない──
だが、その光景は
まるで〝神の遺骸〟を
人の手で穢しているかのようだった。
それでも
アリアの視線に怯えは無かった。
頸だけとなったその頭部は
遠くに放り出されている。
だが、横たわる身体の双手は
なおも地面を掴み
再生の気配を僅かに宿している。
その心には──
ただ、怒りがあった。
(時也を⋯⋯傷付けた、者⋯⋯)
「ねぇ、アリア?」
男の声が、くぐもったように届く。
視線を、わずかに動かす。
頚椎の切断によって
繋がることのない頭部。
だが、その瞳が
明確に男を見据えた瞬間。
刃が、アリアの眉間を貫いた。
「おっと、ご挨拶が遅れたね」
そのまま頭部が持ち上げられる。
刃に刺さったまま
アリアの顔が宙に晒される。
男は口元を歪め
何かを舐めるように見下ろした。
「あぁ⋯⋯その目、いいねぇ。
ぞくぞくする。
さぁ、もっとボクを憎んでよ?
キミの大切な旦那様も
キミの事になると、無様な状態でも⋯⋯
いい顔でボクを睨んでたよ。
見せてあげたかったねぇ?」
その言葉を聞いた瞬間──
アリアの髪が、ふわりと逆立った。
再生しかけた頸の切断面から
炎がじわりと滲み出す。
「やはり⋯⋯お前が、時也を」
呟きにもならぬ、かすかな声。
だがそれは確かに、殺意の詠唱。
男は──狂ったように哄笑した。
焼け爛れた現場を
まるで祝祭の舞台のように
喉を震わせて笑い転げる。
不死の女神を磔にし
神の器に毒を流し込み
その心に怒りを灯す──
それこそが、彼の望みだった。
アリアの瞳が
じりじりと灼くように細められる。
深紅の双眸には、痛みも苦悶もない。
ただ──
憎しみだけが、淀みなく宿っていた。
その眼差しに射抜かれた男は
まるで快楽に酔うかのように身を震わせた。
肩がひくりと跳ね
唇が痙攣のように吊り上がる。
「ありがとう、アリア。
ボクを強く想って⋯⋯憎んでくれて⋯⋯」
ゆらりと、空気が揺れた。
憎悪という名の感情が
アリアの視線に〝認識の深度〟を加える。
それは、知らぬ者ではなく
〝敵〟としての枠組みを与えてしまう程に。
ー関係が成立してしまった瞬間だったー
「ほら⋯⋯こっちの姿なら
キミも、見覚えがあるだろう?」
男の輪郭が、滲むように変わっていく。
骨格が細くなり、髪が伸び、瞳の色が──
アースブルー。
それは
アリアが決して忘れることのなかった色。
生きていた頃
目を細めて笑っていた青年の瞳。
慈しむように名を呼び
炎に焼かれながらも
手を伸ばし続けたあの顔。
「⋯⋯お前、は⋯⋯」
声にならぬ声が、唇をかすめる。
確かに、記憶の中にある。
彼女が心の奥に葬ったはずの、あの姿。
けれど──
今、目の前にいるこの男は〝違う〟
冷たい笑み。
抑揚のない声。
眼差しに宿るのは
悲しみでも愛しさでもない。
ただ、支配と遊戯の色。
「〝初めまして〟⋯⋯
アライン・ゼーリヒカイト。
それが、今のボクだよ」
男はそう名乗った。
穏やかな笑顔の仮面を歪めながら
串刺しになったアリアの頸へと手をかざす。
その指先から、見えぬ力が脳へと届いた。
一瞬で、世界が反転する。
耳鳴りのような沈黙が全身を包み
視界が霞む。
喧騒も、熱も、重力さえも失われていく。
感覚のひとつひとつが剥がれ
思考が遠ざかり
怒りさえも輪郭を失っていく。
意識が、落ちる。
深淵へと、ひたすら──沈んでいった。
⸻
深紅の瞳を閉ざしたまま
動かなくなったアリアの頸
に手をかざしていたアラインの腕が
突然、爆ぜたように血を噴いた。
裂けた肉から血煙が舞い
滴る紅がアリアの頬を静かに濡らしていく。
「⋯⋯く、⋯⋯ふふ⋯⋯っ!」
アラインは震える肩で笑った。
血に染まった指先が痙攣し
額に滲む汗が一筋、顎を伝う。
「さすがに⋯⋯
1000年生きる人間の記憶を
正確に書き換えるのは⋯⋯困難だね」
痛みの中でも、彼の表情は崩れなかった。
むしろ、敗北にも似た苦悶の中でさえ
愉悦の色が滲んでいた。
「でも⋯⋯この情報だけ⋯⋯
それだけ植え付ければ⋯⋯っ」
紅く濡れた唇が、なおも歪む。
無意識のアリアに向けて
彼は再び手を伸ばした。
「君を、地に落とすために⋯⋯
これだけあれば、充分だ」
彼の指先が、空間をなぞるように揺れる。
その動きが描くのは、偽りの〝記憶の枠〟
アリアの心に
何かが〝挿入〟されようとしていた。
それは真実を歪めるものではない。
ただ一つの〝断片的な虚偽〟──
だがそれは、やがて彼女の感情を蝕み
神の劫火すら喰い止める枷となる。
アラインの瞳が細められた。
再び、血を流しながら──
その指は、止まらなかった。
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狂気に支配された密室。 吊るされ、薬物に侵されながらも、 アリアの心は折れない。 破壊を愉しむ男は、 冷たく威厳を纏う女王を じわじわと堕とそうと迫る── だが、沈黙の中でアリアは、 すべてを受け入れる覚悟を静かに燃やしていた。